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いちご†盗人  作者: 斉河
<第二部>
26/42

6、Because you are liar.(c)

 

 卒業式の日のことだ。

 家族を想い号泣し、腫れた目で校門を出た私を、一台の車が待ち構えていた。肖衛の車だ。

 あの日、私はそうして彼の自宅まで連れて行かれた。

 春なのに雪の予感を漂わせる、厳しい寒さの午後だった。


 途中、市役所に寄ったことを覚えている。もちろん婚姻届を出すためだ。

 一般的なカップルであれば晴れの門出、連れ添って窓口まで行くのだろうが、私は車の中にいた。

 肖衛が待っていていいと言ったし、私にとってもとくに思い入れのある出来事ではなかったから。

 運搬される家畜のように、後部座席におとなしく座っていた。そうして、白く重い空を抜け殻みたいにぼんやり眺めていた。


 あのとき、肖衛は何を想い何故婚姻届を提出しなかったのか。

 考えようとすると、悲しみと憤りがいっぺんに押し寄せてきて泣きそうになる。


――私が嫌がっていたから? 私の戸籍に傷をつけないため?


 だったらそう、最初から教えてくれたら良かったのに。私、ずっと肖衛と夫婦だと思ってたのに。

 どうして、私を奥さん扱いしたの。どうして好きになれなんて言ったの。


……もう、手遅れだよ……。


 掌をぎゅっと握ったら、ふと、あることを思い出した。


“本当は……すぐにでも打ち明けるつもりだったよ。君があのときの子だと、気付きさえしなければ”


 ツアーから帰った夜、洗面所で彼が口にした台詞。

 あのとき、というのは十三年前で間違いない。では、肖衛が私に打ち明けるつもりだったことというのは……。

 このことだったのだろうか。

 肖衛は、十三年前の私の身に起こったことを知っていて、それで籍を入れなかったとでもいうのだろうか。

 そんなはず。だけどそうとしか。ううん――。


(わからない……)

 

 頭の中が混乱しすぎていて、歩く速度も定まらない。

 それでも私は歩いた。市役所から、未知の実家まで。

 電車を使わなかったのは、単なる強がりだ。

 妻でも何でもない自分に、彼の稼いだお金を使う理由なんてないと思ったから。

 仕事から帰った未知は目を剥いて驚いたけれど、何も聞かず、快く自室に迎え入れてくれた。

 だから、事情はこちらから話した。

 肖衛との婚姻関係の事実がなかったこと、真人と叶のこと、お母さんのこと、彼らが何かを隠していること、そして十三年前という妙な符合のことも。

 全てを聞き終えて、未知は唸った。


「うーん、……そりゃ、なんつうか、うーん……大変だったなあ、芹生」


 頭を撫でられて、止まったはずの涙がまたこぼれる。鼻水をすすったら、


「で、あんたはこれからどうしたい?」

「え……」

「何事もなかったように、肖衛さんと暮らすってのは無理だろ。なら、ちゃんと話し合って結婚をやり直すか、もしくは実家に戻るかしかない」

「実家に?」


 戻る? そんなの――。


「今更だよ……」

「なら、肖衛さんと正面切って話し合いな。で、ちゃんとした奥さんになりたいって正直に言うんだ」

「奥さん、に」

「そう。惚れてるんだろ。夫婦でいたかったんだろ。だからそんなに泣いてるんじゃないのかよ」


 核心を突いた問いに、私は数秒ためらって、けれど、小さく頷いた。わずかな間に、彼と過ごした日々のことが頭をよぎった。


 そうだ。

 私、肖衛のこと。


「なら、やることはひとつだ。いいか、これから肖衛さんを呼び出す。気になることは尋ねて、言いたいことも全部言いな」

「……で、でも、今まで話してくれなかったのに、そんな急に明かしてくれるとは思えな…」

「大丈夫。あたしもついてってやる。口を割らない気なら強硬手段もとらせてもらうし」


 イザと言うときはまかせな、と未知は私の肩を強く抱いた。


 ***



「今だけは部下としてじゃなく、芹生の親友として話をさせてもらいます」



 未知は肖衛にお茶を差し出しながらそう言った。

 桂木家の離れは敷地の隅にあって、樹々に囲まれているせいかやけに静かだ。

 彼女の両親は飲食店を経営していて、今も店舗のほうにいるから、肖衛が訪問したことには気付いていないと思う。


「なんで芹生と籍を入れてないんですか。芹生の気持ちを考えて……ってことはまずないでしょうね。だったらヴァージンなんて無理矢理奪わないだろうし」


 鋭いねえ、と答えて湯飲みに口をつける肖衛は、何故か穏やかで他人事みたいだ。


「さも本物の夫婦みたいに振る舞って、芹生に好き勝手して、卑怯だと思わなかったんですか」

「いいんじゃないかな、そんな捻くれた愛情があっても」

「いいわけがないし。そもそも愛情だって言うなら隠し事なんてしないんじゃないっすか」

「包み隠さず伝えることが良好な関係を築くとは限らないよ。君も学生じゃないんだからわかるだろ?」

「……話、逸らさないでもらえますか。やっぱりおかしい。そもそも、独占欲の塊みたいなアンタが、よりによって戸籍だけ宙ぶらりんにしてたなんて絶対おかしいんだ」

「そうかなあ」


 のんびりした対応にかっとなった様子で、ソファーから身を乗り出し、未知は声を荒げる。


「もう全部話すべきだ。何も知らなかったことで芹生はショックを受けてる。あんたには説明責任がある。そうだろッ」


 勢い余って肖衛の襟首を掴もうとした彼女の腕を、私は咄嗟に引っ張った。


「お、落ち着いて未知」

「芹生は落ち着きすぎなんだよ。ほら、あんたからも言ってやんな!」


 そんなつもりじゃなかったのに。背中をぐっと押されて、戸惑いながらも私は口をひらく。


「わ、私……」


 何を言えばいい? ううん、言うべきことはひとつだ。

 なのに、いや、だからかもしれない。喉につっかえて出て来ない。


「私、肖衛、と」


 ずっと一緒にいたい。だから今からでも籍を入れて欲しい。言おうとして、躊躇った。

 そういえばこの間、苦痛だと言ってなかっただろうか。

 私と一緒にいるの。


「……肖衛と……」


 もしかして、それで籍をいれなかったの?

 尻すぼみになった語尾を、掻き消すように未知はため息をはく。


「ちゃんと、言いたいこと言いな。このまま、これっきりになったらどうすんの」


 右手を握られて、私はのろりと顔をあげた。


「こ、これっきり?」

「そう。肖衛さんとあんたは現時点で夫婦でも恋人でも友達でもない。単なる知り合いじゃん。今日さよならって言って、二度と逢わなくても不思議じゃない」

「そんな」


 確かにその通りかもしれないけど。そんなの。


「い……嫌だ。私、」


 奥さんじゃなくてもいいから側にいたい、と、言ってしまいたい衝動に駆られた。

 これまで通り、肖衛といっしょにやっていけるならどんな形でもかまわないと。

 だけど。

 実際にそれを想像すると、胸の辺りがごろごろして、やっぱりだめだと思う。

 これまでと同じだなんて無理だ。だって私、自覚してしまったもの。自分の気持ち。



「……離れたくないよ。肖衛の考えてること、隠してること、全部知りたい。それで、ちゃんとした奥さんになりたい。坂口に、なりたい……」



 それが、このときに出来る私の精一杯の告白だった。

 だけど肖衛は悲しそうな表情で、


「ごめんね」


 首を左右に振る。見間違いなんじゃないかと思った。


「な、んで」

「それじゃ、俺がここまで籍のことを伏せてきた意味がない」

「意味……?」

「そう。最初は明かすつもりだったよ。でも、セリがあのときの子だとわかったから、俺は口をつぐんだんだ」

「なんだよそれ。アンタ、最初から芹生を嫁にする気がなかったんだな!?」

「――理解度が高くて有難いよ、桂木さん」


 暗号みたいに聞こえた。あるいは、遠い異国の言葉のようにも。

 結婚、する気がなかった? 最初から? どうして。


「ならどうして惚れろなんて言ったんだよ」

「好きだからに決まってるじゃない」

「ばかにすんなよッ!」


 涙は、必死でこらえた。泣いたら、現実を認めてしまうようで怖くて。


「十三年前の出来事って、そんなに重要かよ。それ、隠すためには好きな女を不幸にしてもいいのかよッ」

「……そうじゃない。知らないほうが、セリにとっては幸せなんだ」

「どこがだよ!」

「どこって、……君はもっと想像力を働かせるべきなんじゃないのかな」


 刺のある言葉。すこし、苛立っているみたいだ。

 対し未知は完全に頭に血がのぼってしまった様子で、テーブルに両手をつくと、勢い良く立ち上がった。


「この子は、芹生はなッ、もう充分苦労だらけの人生送ってきてんだよ!」

「未知っ」

「アンタがナツだって知ってあたしがどれだけ安心したかわかる? やっと、やっと幸せになってくれるって、それなのにッ――」

「未知、もういいよ!」


 もういい。そうやって、シャットダウンするしかなかった。

 憤りも淋しさも、やっと自覚した恋心も。


「ありがとね、未知。それから、肖衛も……」


 言って、頭を下げた。


「いままでありがとう。家族にも親切にしてくれて、嬉しかった。一緒にいられて、……しあわせだった」

「セリ」


 肖衛が何かを言いかけたことに気付きながらも、わざと強引に言葉を繋げた。


「二千万円、働いて、ちゃんと返す。もし、家事が必要ならその間だけ坂口家に行くよ。だから」


 いま離れなければ、私はきっともっとつらくなる。

 他人のままでいること、堪えきれなくなる。だから。



「もう、夫婦として暮らすの、やめてもいいかな……」



 さよならするんだ。それが一番いいんだ。

 せっかく腹を括ったのに、「芹生」意外にも待ったをかけたのは未知だった。


「それじゃ本末転倒じゃん。ちゃんと言いたいこと言って、本当のこと聞き出さないとあたしも納得がいかないよ」


 腰に手を当てて、肖衛に再び向き合う。


「ねえ肖衛さん。どうしても話せないって言うなら――この子を不幸にする気なら――最終手段をとらせてもらいますけど」

「最終手段?」

「ええ」


 そうして取り出したのは、紫色のガラスビーズのストラップがついた携帯電話だった。

 彼女は慣れた手つきでアドレス帳をひらくと、すぐさま電話をかけだした。


「――あ、もしもし叶くん?」


 相手は叶みたいだ。咄嗟に肖衛を見ると、ピクリと眉が動いた。


「うん、そう、今、芹生うちに来てるんだけどさ、なんか、肖衛さんと離婚したいって言っててね」


 離婚って。未知、一体何を。


「それがさ、十三年前の出来事について知るまでは信用出来ないとかで」


 そこでやっと気付いた。彼女が矛先を変え、叶に口を割らせようとしていることに。


「で、叶くん、何か知ってるなら肖衛さんのためにも、芹生に教えてやって――」


 会話はそこまでで途切れた。肖衛が、未知の携帯電話を取り上げたからだ。

 ごめん、なんでもないよ、と肖衛はマイクに向かって言ったあと、それを閉じ、テーブルのうえに置きつつ深く息を吐く。



「……わかった。他人に明かされるくらいなら、俺の口から言う」



 覚悟を決めたのだ。そうとわかったから、私は未知を見た。彼女はひとつ頷いて、ソファーに深く腰掛け直す。

 肖衛が視線を上げる。私達は同時に息をのむ。


「出来ることならセリにはもっと長く、平穏のなかで過ごしてもらいたかったけど」

「肖衛……」

「これを話したら、俺はセリに審判を下してもらわなければならない」

「審判、って、私が?」

「そう。赦すか、一生赦さないか、きちんと考えて答えを出して欲しい。そのために俺は、“あいつ”にこうして生かされてるんだろうから」


 あいつ、って。

 疑問と同時に浮かんだのは真人の顔。根拠なんて、もちろんないけれど。


「……十三年前の記憶、君が綺麗に補正して覚えていてくれて、俺は心から安堵したよ」


 肖衛は少し笑う。自嘲しているのかもしれない。


「君は言ったね。ガラスでその太ももを切って、瀕死の重体に陥って、救ってくれた男の子がいた。その子と結婚の約束をしたって」


 彼と目を合わせたまま、頷いた。


「それが、逆だったとしたらどうする?」

「逆、って」

「怪我と約束の順番が、だよ」


 どういうこと。


「君はある男の子と――真人と結婚の約束をした。いや、正確にはちがう。真人はこう言ったんだ。『僕のお嫁さんになる?』って」


 その通りだ。だけどどうしてそれを肖衛が。


「そして彼は、君をその場で無理矢理『お嫁さん』にしようとした。言ってること、わかるね?」


 まさか、と未知が目を見開いて口元を覆う。嫌な汗が額に滲んでくるのがわかった。



「……私、“彼”に……真人に、乱暴、されたってこと?」



 肖衛は目を伏せて頷く。「柔らかく言えばそうだね」沈痛な表情だった。

 そうか。だから肖衛は、このこと、必死で隠して――。


「真人は公園でたびたび見かける君を、妹のように思っていたらしい。最初は、叶の友達になってほしくて声をかけたみたいだよ。あのころ、叶はもらわれてきたばかりで周囲に友達がいなかったから」

「なら、なんで」

「あの日は魔が差したのだと言っていた。悔やんでいたよ」

「ま……魔が差したで済むことかよッ」

「済まないことは彼が一番わかっているんじゃないかな。ライブのときもいつも怯えてた。客席に、少女の姿が見えるって」


 それがセリのことだとは思わなかったけど、と肖衛はまた少し息を吐く。

 そうだ。叶も言っていたっけ、真人が私を怖がっていたと。


「で――、乱暴されそうになっている君を見かけて、止めに入ったのが坂口肖衛って男」

「え」


 肖衛が?


「その日は弟のかわりに、ある場所へ行った帰りだった」

「かわりに、って……もしかして、やまだ屋?」

「うん。知ってたんだね」


 ああ、今思い出した。

 十三年前、って他にも聞いたことがあると思ったけれど、監督が言っていたんだ。


「無我夢中で真人を君から引き剥がしたよ。だから真人の行為は、未遂だった。……怖い思いをした以上、同じことだろうけど」


 未知の眉間に皺が刻まれる。


「じゃあ、肖衛さんは芹生の恩人ってわけ?」

「いや」


 はっきり否定して、肖衛は私を見た。


「揉み合ったときに、手元にあった瓶が割れた。その破片で、セリは太ももに傷を負った。そして、ふたりはその場を去った」


 私はまだ、気付いていなかった。


「つまり、見殺しにした、というのが正しいんだよ」

「見殺し? 救急車、呼ばなかったってことかよ」

「セリの命を救ったのは、また、別の男」


 この人が、嘘つきという立場の上でこの話をしていたこと。そして。




「ねえセリ、君は俺を赦せる?」




 “せいなちゃん、大丈夫?”

 そう言って、私を覗き込んだのは誰だったのか――。


 

 

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