5、Because you are liar.(b)*
海を真正面に臨むリゾートホテル ――それだけで私にとっては身震いするほど贅沢だというのに、通された部屋が最上階のスイートときたものだから、喜ぶ前に腰が引けた。
セリのためだよ、と言ってくれるのは有難いような勘弁してほしいような、複雑な気分だ。肖衛の好みだと言われた方がまだ気が楽だったかもしれない。
一泊の料金、聞きたいけど聞かないほうが身のためかな。密かに苦笑う。
で。
部屋にふたりきりになって肖衛が最初にしたことといえば……
「――っくしゅ!」
クシャミだった。それも、ちょっと猫っぽいやつ。
流石に濡れた服でチェックインするわけにいかないと、車の中でさっと着替えはしたけれど、駐車場に辿り着くまでが少し寒かったから冷えたのかもしれない。
私は慌てて彼の額に手をあてる。熱はなさそうだ。とはいえ。
「大丈夫? プール、やめておいたほうがいいかな」
「それじゃ来た意味がないじゃない」
肖衛は眉間に不本意さを滲ませる。
「せっかく水着まで買ったのに」
「それはそうだけど、風邪を引いたら後が大変だよ。来週、歌の録音があるんでしょ」
「まあね。あ、一応うがいだけはしておこうかな」
手持ちのバッグから医師処方のうがい薬が出てくるあたり、やはりヴォーカリストだなと思う。
肖衛はシヴィールのメンバーのなかでも一番きちんと自己管理が出来ている気がする。
初穂はしょっちゅう昼と夜が逆転しているし、叶はシェイクばかりの食生活だし、董胡は徹夜の飲み会に柳さんを連れ回すし、私から見たら全員揃って生活習慣病の疑いありだ。
や、今日は彼らのことは忘れていよう。怒られそうだ。
肖衛が洗面所へ行っている間、私は客室内をぐるり眺めた。
二十畳はあるかなあ。坂口家のリビングより断然広くて、調度品もシンプルなのに高価そうでうっかり触れられない感じがする。私には恐れ多い空間だ。
部屋の半分は吹き抜けになっていて、半分にはロフトがついていた。あの上が寝室だ、と案内役のホテルマンさんが言っていたっけ。
ベッドはダブルだろうか、ツインだろうか、そこが問題だ。
「セリ、なにしてるの。行こう」
呼ぶ声に振り返れば、部屋を出ようとする肖衛の姿があった。思わず顎を突き出してしまった。
右手に持っているのがスパ用のバッグだったからだ。
「え、本当に行くの」
「ここ、プールだけじゃなくて温泉もあるから。海を眺めつつジャグジーでゆっくりするっていうのはどう?」
「……温泉」
その二文字に弱い私は、精神年齢だけでいったら彼とちょうどつり合うのかもしれない。
遊園地か温泉を選べって言われたら絶対に温泉を選ぶ。だって精神的に休まるもの。……要するに私、疲れてるのかな。
こうしてしぶしぶプールへ向かった私は、ジャグジーにこそ浸かったもののゆっくりなんてさせてもらえなかった。
「セーリ、せっかくふたりきりなんだからもっと側においで」
肩越しに伸びてきた手が、水着の上から右胸を掴む。なんてことを。でも、水の中にいるせいで、動きが鈍くて逃げられない。
「ちょ、まっ、せっかくの貸し切りなんだから広々と贅沢に使ったほうが!」
「セリに触ってるほうが贅沢だよ」
「私はちっとも贅沢じゃないっ」
その手はやがて、胸元から滑り込んできて直接素肌に触れた。ぎゅっ、ぎゅっ、と感触を楽しむように握られて、反射的に肩がはねる。
「や……やだ、や、だ、っ」
信じられない。監視カメラがあったらどうするの。いや、あるだろうけど、当然。
と、後ろから抱き寄せられて、首筋に唇を押し当てられる。つつくように動く舌先がくすぐったくて、鳥肌が立ってしまう。
「肖、衛……!」
「かわい。もうのぼせたの? 肌、いつもよりピンク色」
くるりと振り返らされ、抵抗する間もなく、胸の少し上を甘噛みされて背筋が反った。痛かったわけじゃない。ぞくぞくと、下腹部のあたりから昇ってくるものに堪えられなかっただけ。
どうしよう、足に力が入らない。ぼうっとする。
「……は、なしてぇ……っ」本当は、もう、放して欲しくなんてなかった。
「だーめ。あまり抵抗すると、これ、ほどけるかもしれないよ」
ホルターネックのリボンをくわえて引っ張る、肖衛のいたずらな微笑みから目を逸らす。クラクラする。
「……ばか……」
ふてくされたように言いながらも、本当は嬉しかった。
強引なのも、意地悪なのも、本当は嬉しい。もっと、もっと翻弄されていたい。言うかわりに、彼の首にぎゅっとしがみつく。
連れてって。このまま、二人きりになれるところ。口にして言いはしなかったけれど、態度で伝わったようだった。
いい子だ、とやさしく頭を撫でてくれる掌の温かさにさえ、震えた。
「そのまま大人しくしていて――」
ジャグジーからロフトへは直行だった。というのも、プールにはスイート宿泊者専用の直通エレベーターがあって、他の階の宿泊者に見られることなく部屋からプールへ辿り着けたからだ。エレベーターに乗ってボタンを押して、一分足らずという便利さだった。
夕食までの時間は、まるまる彼の腕の中で過ごした。
せっかくなら、ホテルの中、ぶらぶらしたりしたかったのに、と思わないこともないけれど、望んだのは私だ。離れそうになるたび、まだやめないで、と。
ちなみにベッドはダブルだった。それも、ものすごくクッション性のいいやつ。
――異変が起きたのは、翌朝のことだ。
「肖衛、朝だよ」
いつまでも起きようとしない彼を、ベッドごと揺らす。
私のほうは贅沢にも朝から熱いシャワーを浴びて、さて朝食だと意気込んだところだったのだけれど。
「朝食の時間、十時までだよ。あと二時間だよ」
「んー……」
あれ? と思った。彼の声が、鼻にかかって聞こえたから。
「肖衛?」
慌ててその額に触れれば、ゆたんぽかと思うような温かさだった。計るまでもない、あきらかに発熱している。
言わんこっちゃない――。
急いでベッドサイドの受話器を取り、ベルデスクに内線をつなぐと、近場の内科の場所を尋ねた。
と、ホテルの裏手に総合病院があって、本日も救急外来が開いているという。私は車の運転が出来ないから好都合だ。
「肖衛、保険証って持ってきてる?」
「……ん……財布の、中」
布団の中から聞こえてくるのは気怠い声。病院の前に、起きられるのかが不安だ。
「私、出すけどいい? お財布、ひらいても」
返答はなかった。きっと意識が朦朧としているのだろう。
私は心の中で失礼しますと断ってから、彼の財布を開いた。
何年か前の誕生日に董胡から貰ったという、皮の長財布には全体的に使い古した風合いがあって、物持ちの良さがうかがえる。
お札のほうを覗くのは気が引けたから(だって給料明細すら見せてもらったこと無いし)、カードケースだけを意識的に見る。
その中ほどから保険証を抜き取って、再び閉じようとしたときだった。
あまりにも意外なものと、目が合ったのは。
“小此木 芹生”
私の、旧姓の保険証だ。どうしてここに。
新しい名字になる時、返還したんじゃなかったっけ――と、不思議に思いながら首を傾げる。
すると、横になっていたはずの肖衛が突如飛び起きて財布を奪った。
寸前まで朦朧としていたとは思えないほど、俊敏な動きで。
「……病院、行くなら急ごう」
「え、あ、うん」
あきらかに不自然だった。
何故だろう、ものすごく嫌な予感がした。
それは例えば虫歯を放置するような感覚で、日を追うごとにもやもやが増した。
ついにその重さに堪えきれなくなったのが、旅行から五日目の朝だった。
私はあらかじめ肖衛の財布から保険証を抜き取っておき、彼が出勤してから市役所へ向かった。
窓口で戸籍を一通お願いし、ほどなく受け取った。
結果は予想通りのものだった。
私は『坂口』になんてなっていなかった。『小此木芹生』のまま、両親の籍にはいっていた。
結婚した事実も、もちろん離婚したあともなく、それはそれは綺麗だった。
(そうか。肖衛が結婚の事実を頑なに公表したがらなかったのは――)
このせいだったんだ。
本当に、結婚なんてしていないから。
(だけど、どうして)
どうしてそれを、私に黙っていたの?
お見合い相手が肖衛だと知った時より、ずっと大きなショックを受けている自分が、滑稽だった。