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いちご†盗人  作者: 斉河
<第二部>
24/42

4、Because you are liar.(a)

   

“悪法もまた法なり”とかなんとか言ったのは誰だった?


 海へと向かう車中、肖衛にそう尋ねたら「ソクラテスだよ」即答だった。

 流石は、董胡をしてガリ勉と言わしめただけのことはある。

 ついでに例の一糸乱れぬラインマーカーの線を思い出したら、私は感心するというよりちょっと嫌味だなあと思ってしまった。

 あれくらい整然としてるんだろうな、頭の中も。


「どうしたの急に。ガラにもなく難しい話」

「うん、世界史の時間に先生がそんなこと言ってたなぁって」

「ふうん。それはまた穏やかじゃないね」

「穏やかじゃない?」

「うん。だってそれ、ソクラテスが死刑になって毒杯をあおるときに言った、とかいう台詞じゃない」

「……そこまでは知らなかった」


 もっと静かに物事を悟ったときの台詞かと。いや、そもそもソクラテスさんって何をした人?

 なんて言ったら呆れられるかな、やっぱり。

 私は半笑いで、持参した水筒から、麦茶をコップに注ぎ入れた。


――今日は待ちに待った海デート当日。


 フロントガラスに広がるのは期待を上回る晴天。日差しもじゅうぶんで、行楽にはもってこいの気候だ。

 ただ、海水浴となると若干肌寒い。それで、肖衛は出掛けにホテルの室内プールを予約してくれた。貸し切りだそうだ。

 もちろん海辺にも散歩程度に立ち寄る予定で、そのためにお弁当も用意してきたのだけれど。


「で、なんだってソクラテスの話?」


 ハンドル片手に麦茶のコップを受け取り、肖衛は不思議顔。


「ええと、別にソクラテスさんの話でも、法の話でもないんだけど」


 最近、その台詞を初めて聞いた時と同じような気分になったというか――。


「シヴィールの皆……もちろん肖衛もなんだけど、いろいろ抱えてるじゃない。それで、なんだかちょっと、考えたりしたんだ」


 疑問に思えど従うしかないことが、この世にはたくさんあるんだなあって。


「うん? つまりどういうこと」

「私、もっと皆にしてあげられたらいいのになって。もっともっと、皆の役に立つこと」


 彼らの状況を変えてやれる、なんて過剰な自意識は持っちゃいないけど。

 なんというか、歯痒い。皆が揃っていい人だから、余計に歯痒いんだ。

 すると「……そう」肖衛の返答は沈んだ声だったから、失敗したなぁ、と思った。

 デートなのに、暗い話題をふってどうするよ私。


「もうすぐかな、海。楽しみ」


 慌てて軌道修正をして、空のコップを回収した。

 いくつめかのトンネルを抜けると、気のせいか潮の香りが鼻をかすめた。

 海沿い独特の錆の浮いた景色、何故だか懐かしくて好きだ。

 と、松林の向こうに海面が見えてきて、私は助手席に座ったまま、思わず背伸びをした。


***


「さて、行こうか」


 シーズンオフですっかり空いた駐車場。大胆にもど真ん中に車を止め、砂浜まで足早に向かう。


「うわーっ、広いよ! 水平線が見えるよ、きれいだよ肖衛っ」


 夏の間中賑わっただろう海水浴場は、虚しいくらいひとけもまばらだ。

 密度の濃い潮風が吹き付けてきて、あっという間に唇が塩辛くなる。

 砂を蹴り上げるビーチサンダルは新品。

 指の間に入り込んでくる砂粒の、生温い感触が久々すぎて愛しい。

 臨海学校以来なんじゃなかろうか、海に来たの。


「セリがそんなにはしゃいだところを見るの、初めてだなあ」


 お弁当が入ったカゴを片手に、肖衛は目を細める。

 デニムにタンクトップという、ラフな格好が良く似合う。

 二の腕の筋肉が見事で、どきっとしてしまった。


「う、海って特別だもん。凄い解放感というか」

「そうだね。でも泳げないのは残念だったな。来年はシーズン中に来られるといいなあ」

「いや、私、これで充分だよ」


 何が厄介かって、隣りに並ぶにしては彼の体型がスレンダーすぎるってこと。

 彼がツアー中の体力維持のため、スポーツジムで鍛えていると知ったのは最近。

 貸し切りのプールならいいけど、人前で水着姿になってカップル面をするのは勇気がいる。


「チェックインしたら、すぐにプールへ行こうか。この気分のまま」

「うん。そうだ、先に言っておくけど私、実は浮輪必須の人種なんだよね……」


 はは、と肖衛は軽く笑う。

 海面が穏やかに揺れている。日光を反射して、鱗みたいにキラキラと。


「笑いごとじゃないよ。足がつかないところへ行くの、死地に赴くような気分なんだから」

「それは大変だ。泳ぎ、俺が教えようか。手取り足取り、腰取り」

「……遠慮しとく。あまりいい予感がしない」

「言えてる。賢明だ」


 潮風で舞い上がった髪を押さえたら、その手をさりげなく持って行かれた。


「そのへんでお弁当にしよう」

「う、うん」


 未だに慣れない。肖衛と、手を繋ぐの。

 リアルな体温。なのにそれは、不思議とキスより非現実的な温もりで。

 思えば――。

 ステージ上の彼に憧れていたころ、握手ひとつで夜も眠れないくらい興奮したっけ。その名残かも。


「さっきの話の続き、いいかな」


 全長三メートルはあろうかという立派な流木に並んで腰掛けたら、肖衛が唐突にそう切り出した。


「ん? プールの話?」

「ううん。ソクラテスの話」

「随分遡るね。――はい、おにぎり。おかずはこっちね」

「ありがとう。セリは本当にいつもマメだよね」


 海苔がしっとりしたおにぎり。これが何故か、海岸で食べると三割増美味しいんだ。不思議。


「ツアー中も、メンバー全員の健康を気遣ってくれてありがとう。感謝してる」

「どういたしまして。けど、それ、もう十回は聞いた気がするよ」


 それだけ感謝してくれているとわかるから、内心、凄く嬉しいけど。

 でも、途中で戦線離脱してしまったことを思うと身に余るというか、逆に申し訳なくなる。

 そうだっけ、と肖衛はちょっと笑う。


「君は優しいね。他人に対してだけは」

「他人に?」

「そう、他人にだけ」


 どういう意味だろう。返答しかねていると、


「風邪で寝込んでるってこと、俺、桂木さんに教えてもらうまで知らなかったよ。董胡には口止めしてたんだって?」


 ふいをつかれて、完全に返す言葉をなくした。ああ、その話か。

 ツアー中の皆に心配をかけさせたくなかったから、黙っておいてと頼んだのに――まったくあの親友の口は紙より軽くて困る。

 どうしてああもいちいちおせっかいなのだろう。


「家族にも看病させなかったらしいね。うつさないように気を遣って、ひとりであの家に戻ったとか。どうしてそんなにストイックかな」

「い、いや、そのぶん未知がしつこいくらいついててくれたし」

「そういう問題じゃないだろ」


 そういう問題だ。とは思ったけど黙っておいた。

 幼子のいる家庭に風邪の菌が蔓延するというのは、それはそれはオオゴトなのだ。

 下手すれば、母親は看病の末に再び同じ風邪を引き込むことになる。

 だからあれは妥当な判断だったと思うのだけど。


「ねえセリ、君はかならずといっていいほど自分より他人を優先するけど、そのたび俺はちょっと苦しい」


 これまでにない物言いだったから、私はちょっとだけ驚いて彼をみた。


「苦しい?」

「うん。役に立ちたい、って言ってくれるのは有り難い。だけど」


 真顔で見つめ返されて、目がそらせなくなる。


「俺を頼ってくれないのは、どうして?」

「え……」


 肖衛の声以外に、聞こえるのは潮騒と海風の音だけだ。中でも、一番、彼の声をやさしく感じる。


「セリはもう充分頑張ってる。役に立ってるよ。そんなに無理をしなくていい。もっと俺に甘えていいんだよ」


 どきっとして、喉の手前でつかえたご飯粒を、私はやっとのことで飲み下す。


「な、何、急に。私、ずっとこうだし。べ、別に無理とかじゃ」


 ないし。絶対。

 軽く笑ってみせたけれど、取り繕えていないことは自覚していた。卑怯だ。不意をつくなんて。

 見ないようにしてきたものに焦点があってしまった気がして、逃げ出したい衝動に駆られる。

 すると彼は会話を翻して、


「――俺の知り合いにもさ、いるよ。君にそっくりなのが。だから、重なってしまうのかもしれないけど」


 たまごやきをつまむと、口元まで持って行った。


「そいつは――いつだって家族のために必死で、兄弟の犠牲になって、自分のことなんか二の次で」


 ピンときてしまった。

 知り合い、なんて言ってるけど、それって。



「まるで、自分を磨り減らすことだけが存在意義、とでもいいたげな生き方をしてた」



 それって、肖衛自身のことだよね……?


「俺がもしそいつだったとしたら、何が望みだろうってよく考える。だけどいつまでたっても答えは見つからなくて、途方に暮れるんだ」

「肖衛……」


 突然、この人は迷っているのかもしれない、という考えが浮かんだ。自分で自分の望みを見失いかけているのかもしれないと。

 いつかの未知の言葉が、耳に蘇ってくる。


“無期限で自分の人生を棒にふれるかね、人間”


 きっと、その自覚はあるのだろう。自分の人生を、棒に振っているという自覚は。

 だけど、それでも夏肖さんのためにナツとしての役割を果たさなければならないのだ。

 自分を削り続けなければならないのだ――と、このときの私は思っていた。



「せめて、君には甘えて欲しい。無理はしなくていい。わかったね?」



 それが彼自身の苦悩に直結しているのだと思ったら、先程と同じように否定しようという気にはなれなくなってしまった。

 ためらいながらも、私はひとつ、頷く。


「……う、ん」


 それから立ち上がって、おにぎりを持ったまま波打ち際まで向かった。どんな顔をして隣にいたらいいのか、わからなかった。

 風が、先程より強く吹いている。鼻に、刺さるみたいにツンとくる。


 甘えて欲しいと言われたのは今回が初めてじゃない。

 実家に帰省していたときも母に同じようなことをぼやかれたし、それこそ未知からはしょっちゅう『素直に頼れ』と言われている。


 その都度、平気な顔をしてきた。いや、実際、自分は平気なのだと思っていた。けれど。


「セリ、おかず」


 お弁当箱を手に、肖衛が追いかけてくる。来ないでよ、と思った。

 咄嗟にしゃがみこんで、夢中でおにぎりを頬張る。他に、この動揺をごまかす方法は思いつかなかった。

 塩加減は完璧だったはずなのに、塩辛くて喉にしみて、たまらない。


「……どうしたの、お腹でもいたいの?」

「なんでもない」

「ならこっちへおいで。濡れるよ」

「平気だもん」


 何故だろう。語尾は涙声。


「平気じゃないだろ」

「平気だってば……っ」


 平気だったはずなんだ、身を削るような生活。長女だし、慣れてたし、家族のためだし。

 だけどどうして。肖衛が同じような立場にいたと思うと、やりきれなくて胸がつまる。

 肖衛がさっき苦しいと言ったのはこういう意味?

 となると、私、本当は辛かったんじゃないだろうか。いや、そんなはずは。だけど――。

 考えはじめたら、ますます胸の中がグチャグチャになって、視界がじわっと滲んだ。


 いやだ、もう。

 こんなの私らしくない。


「――セリ」


 すると、ふいに背中が温かくなった。肖衛が覆い被さってきたのだ。私をまるごと包み込むように。

 その温かさにやられたのか、両目からはついに涙があふれだした。一粒零れたら、あとは堰を切ったように流れてきて、止まらなくなった。

 認めたくない。甘えていいよと言われて、どこかほっとしている自分を。

 この期に及んで泣き顔をごまかそうと、私は顔を伏せる。

 しかし「セーリ」すべてお見通し、とでもいいたげに、彼が笑った気配がした。


「小さいなぁ、セリは。小鳥みたいだ」

「……肖衛が大きいだけだもん」

「小さいけどいつも一生懸命で、そういうところ、凄く可愛いと思う」

「っ……、も、あっち行ってよぉ……」

「嫌だ。そしたらセリの涙、見逃すだろ」

「この、ヘンタ――」


 油断した瞬間、ざん、と大きな波が足もとまで打ち寄せてきた。一瞬にしてくるぶしまで海水に浸る。「わ!」

 私はびっくりして背後に飛び退こうとして――「うっ」「きゃあっ」そこにいた肖衛を、仰向けに押し倒してしまった。

 彼が手にしていたお弁当箱は宙を舞い、砂の上へと逆さに落下する。


「ご、ごめんっ」


 慌てて体を起こすも、追い討ちをかけるように先程より大きな波が打ち寄せてきて、あっという間にのみこまれてしまった。

 背中どころか髪までびしょ濡れになってしまって、彼は天を見上げたまま目を丸くする。


「肖衛っ」


 まずい、風邪でもひかせたら大変だ。焦る私を強引に自分のうえにとどまらせ、


「……ク、……っ、あはは!」


 肖衛は寝転んだまま笑った。これまで聞いたことのないような、気持ちのいい笑い声だった。


「ちょ、笑ってる場合じゃないから、は、はなして」

「だ、だって、俺、背中から海に入ったの初めてで、あ、あはは、なんだよこれっ……」

「起きないと風邪引くよ!」

「このくらい平気だよ」

「平気じゃないでしょ」


 と、私の台詞を聞いた途端、肖衛はまたも豪快にふきだして、笑ってくれた。



「あは、あはは! さっきと逆のこと言ってるよ、俺達」



――本当だ……。


 ワンテンポ遅れて、私もふきだしてしまった。笑い出したらとまらなくなって、おなかがよじれるほど笑った。

 何度か大きな波も来て、私は膝まで濡れたけれど、途中からまったく気にならなくなった。

 そんなことより、肖衛と離れるほうが嫌だった。


 眼鏡の向こう、砂にまみれた目尻の笑い皺に、胸がきゅうっとする。

 どちらともなく――ううん、どちらかといえば私のほうから、唇を重ねた。


 塩辛くて、ちょっぴり砂が混じった、ざらざらするキス。

 一度では物足りなくて、何度も、何度も、繰り返しねだった。何度繰り返しても、足りない気がした。


 そうして思った。

 もう、否定は出来ないなあって。


 自分が、この人に、惹かれはじめていること。

 

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