2、Keep the truth a secret. (b)*
私は廊下を滑るようにして肖衛のもとへ急いだ。
スリッパを脱いで両手にぶら下げたのは、足音で皆を起こしてしまわないようにだ。
あの様子なら耳元でフライパンを叩いたって容易には目覚めないだろうけど、それでもやはり、念には念を入れなければと思う。
短いオフを抜けたらまた慌ただしい日々がやってくる。まさに文字通り束の間の休息なのだから。
「どうしたの?」
「うん、それがさ――」
気怠そうに壁にもたれた格好で、肖衛は脱衣所の先、バスルームを指差す。
バスローブの襟がみぞおちまでざっくり開いていて、覗く胸元がやけに色っぽい。
ボディシャンプーの香りが鼻をかすめたら、何故だか緊張感が押し寄せてきた。
「シャンプーが切れてて。詰め替え用のやつ、どこに入ってるかな」
「あ、ご、ごめん! 今出すね」
そうだった。すっかり忘れてた。
慌てて洗面台の下の扉に手をかける。息苦しいのは、走ったせいだけではない。
何故だろう。私、逃げ出したいくらいどきどきしてる。
しかし開いた収納庫はすっきりしたもので、ドライヤーを納めたカゴしか見当たらないときたから、当然焦った。
「そこ、俺も探したんだ。でも、なかったから」
「あ、う、うん、ごめ……」
そういえば実家へ帰る少し前、場所を移動したんだっけ。どうして忘れていたのだろう。
なんだか自分の動揺を客観的に見せつけられたみたいな気分で、私は冷や汗を拭く。
「そ、そうだ、一ヵ所にまとめたんだよね」
まずい、語尾が震えた。
「えーと、ここ……」開きかけた棚を、すぐさま閉める。その隣を開ける。タオルしか入っていない。また閉める。「じゃなかった」
こんなの、まるでサイレント映画に観る喜劇だ。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。穴があったら飛び込みたい。飛び込んで埋めてもらいたい。
「……セリ、大丈夫?」
と、訝し気な顔をして肖衛が右腕を持ち上げた。
体温を確かめたかったのだと思う。掌をこちらに向ける仕草からして、私の額にそれをあてがおうとしたようだった。
「――ヤっ!」
しかし、触れたのはほんの一瞬だけだった。体温を感じた瞬間、私はあろうことか即座にその手を振り払っていたのだ。
どきん、どきん、耳のすぐ側で乱れた脈が聞こえる。
肖衛は目を丸くしていたけれど、一番驚いたのは他でもない、自分自身だったんじゃないかと思う。
やだ、私、何を。
「セリ……?」
確かめるように再び伸びてくる彼の手を、単純に怖いと思う。次の瞬間、私はまたも身を引いていた。
「……あ」
泥沼だ。もう、自分でもなにをしたいのか――。
「ごめんっ」
堪えきれず衝動的に身を翻したものの後方から腕を掴まれて、立ち止まらざるをえなかった。「待って!」また。
また、さっきと同じだ。恐怖なのか緊張なのか、とにかく感情が昂ってきてがむしゃらにその手を振り払いたくなる。
触られているところが、飛び上がるほど痛い。しもやけに洗剤が染みたとき、みたいな。
どうして。
どうしよう。
「……そんなに俺に触られるのが嫌?」
(そうじゃない)
私は顔を背けたまま震えるように細かくかぶりを振った。
「そう。でも、一ヶ月以上離れていたわけだから浮気心くらい芽生えたかもしれないよね」
冷笑する彼の機嫌がいかなるものかは、考えなくても分かる。それでもどうしようもなかった。うまい言い訳も思い浮かばない。
たまらなくなって振り払おうとした腕を、肖衛は力加減なく乱暴に引く。
刹那、悲鳴を上げる余裕もなく、私は彼に正面から抱き止められていた。
「……もしかして、あの日のことを思い出した?」
掠れた声。
「それで俺が怖くなった……?」
は……?
およそ想定外の台詞に、私は眉をひそめた。何を言っているのだろう。
いいや、まさか。
「あの日、って……‘十三年前’……?」
一瞬、気まずそうに泳いだ黒目が私に確信を持たせる。やっぱりそうだ。
「ねえ肖衛、何か知ってるでしょ。知ってるなら教えてよ。お願いだから」
「セリ……」
「お母さんとも何か約束してるよね。どうして? 叶に聞いたけど真人が加害者ってどういうこと。それで、なんで私が肖衛を怖がるの」
矢継ぎ早の問いに、彼が返してくれたのは悲しげな笑みと、謝罪の言葉だった。
「ごめん。なんでもないよ」
緩んだ腕に、感じるのは虚しさだけ。
「それ、答えになってない」
「うん、ごめん」
二度も謝らないで欲しかった。こんな卑怯な拒絶はない。私は下唇を噛む。まただ、と。
「……どうしてみんな、隠そうとするの」
実家滞在中、母にも何度か聞いたのだ。十三年前、何があったのかと。その度にはぐらかされてしまって、得られたものはなにもない。
叶だってそう。隙をみて尋ねようとすると、無邪気に笑って逃げる。最近分かってきた。叶の笑顔は、嘘を隠すためにあるのだと。
みんな、一様に何かを隠している。私に何かを悟られまいとしている。
これでは、何か大変なことがあったのだと間接的に知らされているようなものだ。
「このままじゃ私、動物園の見せ物みたい……」
何も知らずに檻の中で生かされている気分。なんて言ったら悲観的すぎるだろうか。
だけど、もう、プラスに考えられる要素なんてないように思うよ。
「それでいいじゃない」
返されたのは軽い言葉だったけれど、しかしそれは低く重い響きを持っていた。
「そのまま、俺に飼われていたらいい。何も知らないままで。――俺にとってそれは、この上ない苦痛を伴うけれど……」
「え……」私は思わず面を上げる。「苦痛?」私といるのが、肖衛にとって苦痛?
彼の顔は、笑っているのに笑えていない。
「本当は……すぐにでも打ち明けるつもりだったよ。君があのときの子だと、気付きさえしなければ」
何?
「ひとつだけ教えておく。これだけは忘れないで。君にとっての現実は、その記憶と同様に残酷な嘘を孕んでいるってこと――」
どういうこと、と発しようとした唇は、‘ど’の形のまま柔らかく塞がれる。
久々だからなのか、それとも私の感じ方がおかしいのか、触れただけで頭の芯まで痺れて身動きがとれなくなった。
肖衛は私の後頭部を押さえつけ口づけを深くし、後ろ手に脱衣所のドアを閉める。
「ン、肖……っ」
いつもの手口だ。ごまかす気なんだ、と思った。
「だ、め……!」
それだけは嫌だ。
だって、夏の初めに決めたんだ。肖衛の考えていること、隠していること、全部聞いた上で今の気持ちを伝えようって。
ずっと側にいたいって伝えようって。
だけど肖衛は私の呼吸すら止めかねない勢いでキスを繰り返す。
待って、と言いたいのに言わせてもらえない。
「……ん、ぅん、……っ」
「声、可愛い……だけど今日は我慢して。皆に聞こえるよ」
うそ。
「お、願、待っ」
「俺が大人しく待てる男だと思ってる?」
「や、やめ……あっ……!」
「そろそろ声を噛み殺すほうに集中したほうが利口だと思うけど」
本当にこんなところでする気なの? なんて、問うのは愚かな気がした。
押さえつけてくる肖衛の力にいつもの加減はなくて、私は悶えつつ瞼をぎゅっと閉じる。
「――っ」
だめだってわかってる。
なのに膝からはどんどん力が抜けていって、踏ん張ろうと噛み締めた奥歯は緩く浮いているみたいで、頼りなくて、たまらない。
(気持ちい、よぉ……)
やがて洗面台の端に腰掛けさせられたら、不安定な格好のまま、彼を受け入れざるを得なくなった。
必死でバスローブを噛み堪える私を見、肖衛はとても満足そうに笑う。
「ここまで抵抗されるの、久々だね。……悪くない」
悪魔みたい。
なのにどうしてだろう。助けを呼ぼうという気になれないのは。
「セリ。俺の大事なセリ……」
知っててやってるなら狡いよ、肖衛。
私が以前よりずっと、この熱に逆らえなくなっているってこと。
***
とはいえ――。
(いくら悩んだって、それで解決するわけじゃないんだよね)
六時間程度の睡眠を経たくらいでそう開き直れる私はやはり、自分でも見上げた楽天家だった。
……まあ冷静に考えてみたとしてもだ。
私が一日中思索にふけったところで知りたいことが知れるわけじゃなし、ましてや彼がそれで態度を軟化させるとか、ありえないと思う。
となれば好機を待つか、でなければうまい手立てを考えるほうにその時間を使ったほうが有効というもの。
無駄は極力出さないのが節約の第一歩なのだ。
なんて。
多少なりと強気に構えられるようになったのは、肖衛が朝まで抱き締めていてくれたことも要因の一つだと思う。
彼は充電器みたいに、くっついているだけで私をいっぱいにしてくれた。
悔しいかな近ごろの私は、肖衛というプラグなくして電源との接続は出来なくなってしまったらしい。
思い知らされた。
離れている間に、知らず知らず失い、枯渇していたものがあったこと、そしてそれを満たせるのは彼の体温でしかなかったことを。
「おう、早起きだな芹生ちゃん」
「あ、おはようございます」
起き抜けで向かった洗面所、出くわしたのは董胡だった。私は慌てて髪を撫で付ける。
タイミングが悪かった。今朝の寝癖は三割増で芸術的だというのに。
昨晩はあのあと、ぐったりしたところを肖衛に風呂場に連れ込まれ、全身くまなく洗われた(嫌だって言ったのに……)。
尚且つそこからベッドへは直行便だったから、悠長に髪を乾かしている暇なんてなかったのだ。
あの人のスタミナ、到底三十八歳のものじゃないと思う。
「董胡こそ早いね。せっかくのオフなんだから、もっとゆっくり寝てていいのに」
「いや、寝ていたいのは山々なんだがな、なにせ眠りが浅くて起きちまう。四十過ぎてから顕著にこうなんだが」
老化現象かな、なんて言うから髪を束ねながら笑ってしまった。
不似合いな言葉だ。
「肖衛は?」
「まだ寝てる。ぐっすりだよ。多分十時くらいまで起きないと思う」
「そうか。いつもこう? 君のほうが早起きで」
「ええと、私のほうが早いことは早いけど、今朝ほどじゃないかな。今日はこれから、皆の朝ご飯を調達しに行こうと思ってて」
「今からか。別に気にしなくていいぜ、一食くらい抜いたって死ぬわけじゃなし」
「うーん、そうかもしれないけど」
失礼して顔を洗わせていただく。寝起きの顔を見られるの、そういえば二度目だ。
「私が皆に食べさせたいんだ。なんだかね、最近それが生き甲斐っていうか。楽しみのひとつなんだよね」
「生き甲斐。そりゃ邪魔できねェなあ」
董胡は左の口の端をちょっと上げて笑った。男の人が顔の片側だけで笑うのって、妙にニヒルでセクシーだと思う。
「なら乗せてくよ。薄汚ェワゴンに老化現象の始まった運転席つきで良かったらだが。昨日、事務所の車のまま来ちまってな」
上手い誘い方だ。
「じゃあお願いしようかな。すぐに着替えてくるね」
今更かとは思ったけれど、着替えついでに軽いメイクもしてから急ぎ車庫へと向かった。
少し肌寒かったので、ワンピースの上にカーディガンを羽織った。
董胡はすでに運転席にいて、長い腕を伸ばして内側からドアを開けてくれた。
「商店街だっけ」
「うん。近いよ。タクシーでもワンメーターあるかないかってとこ。あっけなくて驚くかも」
「はは。んじゃ、遠回りするか」
早く帰宅して朝食の支度にとりかかりたいのが正直なところだったのだけれど、歩きで向かうことを考えれば遠回りをしてもまだ車のほうが早かろうと、私は頷く。
走り出した車のフロントガラスから、降り注ぐのは少し褪せた朝日。夏を過ぎ、その鋭さはすっかり衰えた。
「そういえばさ、芹生ちゃん、どんなムチを使ったんだ?」
「キムチ?」
「いや、ムチな。鞭」
「えっ、ごめん。食べたいのかと」
「そりゃまあ、あれはビールと最高に合うからな。――いやさ、そうじゃなくて、あの叶がすっかり君に懐いちまったのはどういうわけか、と」
董胡はハンドルを片手で操作しながら、開け放した窓の枠に肘を置く。
「これまであれが真人とナツ以外に心を許してる様子、見たことなかったからさ」
「え、董胡には?」
「芹生ちゃんに対して、程には」
「うーん、でも私ツンツンされてばっかりなんだけど」
「それが何よりの証拠だろ。あいつ、ニコニコ愛想振り撒いてなつっこいふりをしてるけど、その態度こそ武装っつーか、生きるために身に付けた手段だったりするからな。俺に対しては多分、捨てられまいとイイ子ぶってんだ」
「ああ……」
以前本人から聞いた身の上話が耳に蘇る。親戚をたらい回しにされていたっていう、あの。
彼も幼い頃は生きる場所を得ようと必死だったのだろう。
想像すると哀しいというより、いたたまれない。
「となると、芹生ちゃんのことは母親みてェに思ってるのかもな。それでわがままも言えるんだろ」
「そうかな。だとしたら嬉しいけど」
「あいつを息子のように可愛がって来た俺としては、淋しいような嬉しいような、複雑な気分だがな」
「私が母親で董胡が父親?……ふふ、それじゃ私たち、夫婦ってことだね」
え、あ、ああ――と董胡の返信は少し焦ったふうだった。
でも董胡との結婚生活って頭に思い描けないなあ、と思う。年齢差は肖衛とあまりかわらないのに。
どこか“お兄さん”として捉えてしまうのは、私が肖衛のとなりで、肖衛と同じ高さで董胡をみているからだろうか。
「で、そのお父さんはどうなの?」
「俺か?」
「うん。結婚とかしないのかなぁって。董胡、まわりの皆に気を使い過ぎて、自分のしあわせを後回しにしてる感じがする」
半分はカマをかけたつもりだった。
だって董胡、凄くいい父親になりそうなのに、この間は本気の女には手を出さないとか言ってたし。
何かあったのかなって。
「別に、自分をおろそかにしてるつもりはねぇよ。ただ俺には、こういう生き方しか出来なくてな」
「……ふうん?」
「幸せって自分だけのものじゃねぇだろ。結婚とかになると余計にさ、相手の中にある幸せが、自分のそれより重みを持ったりとか」
董胡らしい考えかただ。
「俺はさ、自分が得る幸せ以上のものを相手に与えてやれないと思うんだ。むしろ、奪うんじゃねぇかとすら……」
その意味は正直、抽象的にしかわからなかった。けれど。
「それ、矛盾してる気がするなあ」
「え?」
「それってつまり、董胡は相手のしあわせを自分のしあわせより重要に思うってことだよね」
「あ、ああ」
ちょうど信号が赤になったのはいいタイミングだった。私は董胡の目を見て言った。
「同じこと、相手も思ってたらどうするの?」
だとしたら、それってどこか逆説みたいだ。
極端な話、董胡は相手を幸せに出来ないと不幸で、相手もまた、董胡を幸せに出来ないと不幸ということになる。
考え始めると頭がぐるぐるする。
「詳しい事情はわからないけど、董胡は石橋叩きすぎ。そのうち叩いた衝撃で壊れるよ」
「……芹生ちゃん」
「何もかもに備えなくても、それなりにやっていけるもんだよ。うちの両親を見てみなよ。かなり行き当たりばったりだよ」
威張れたことじゃないけど。実際、傾いてたし。
「なんとかなるって。董胡なら、絶対」
言って、彼の肩を軽く叩いた。内心それは、自分自身にかけた言葉でもあったのだけれど。
そうだ、なんとかなる。今までだってそうやってやってきたんだもの。
すると董胡は美味しいものとまずいものをいっぺんに頬張ったような複雑な顔で笑って、
「そんな君だから、俺は……」
聞こえるか聞こえないかといった程度の声で呟いた。
「ありがとな。おかげで再認識したよ」
「ん?」
踏み込まれるアクセル。信号は、いつの間にか青に変わっていた。
「君が、肖衛と結婚してくれてて良かった」
「そう? えと、至らない妻だけど」
「……そういう意味じゃねえよ」
その後、董胡は言葉少なで、私は自らのおせっかいを少々反省しつつ買い物を済ませたのだった。