1、Keep the truth a secret. (a)
蝶番のようなものを想像する。
決して特殊なやつじゃあない。ごくありふれた、一般的な二枚羽の蝶番だ。
どこのお宅にも必ずひとつはあって、例えばドアの付け根なんかにつけられていたりする、あれ。
大方の場合、それらには軸があって、ふたつの羽をとめるようにピンが入っている。それを中心にして、羽はとてもスムーズに回転する。
で、だ。
ここに、ふたつある羽のうち、片方を肖衛と仮定してみる。もちろん、いや、やや不本意ながらもう一方は私だ。
軸はきちんと噛み合っている。そこには、ピンが一本揺るがぬように差し込まれている。だから私達は離れない。
それは互いへの気持ちだとか、性格の一致だとかいう抽象的なものを表しているのではなくて――誰もがそれと認めるような、とてもわかりやすいものの例えだ。
それが、私達の間にひとつの支点をつくり、繋いでいる。そう思っていた。
だから私は、彼との絆を信じて疑わなかった。それがあるからこそ私達ははじまり、また、続いていくんだって。
しかし、私は気付いてしまった。皮肉にも親友の手によって、気付かされてしまった。
あのとき風邪をひきさえしなければ、私はその先も彼を疑わず、ピンを信じて回れたのだろうか。蝶番は機能し続けたのだろうか。
答えはノー、のような気がする。
いつかはきっと、軸はブレた。分解は、免れなかった。
だってそこには、ピンなんて最初から入っていなかったのだから。
***
肖衛がいない日々、それでも地球は順調に回った。
たとえば昼間は少し短くなったし、逆に、私の影は主を差し置いて成長期に入った。
まるでここから飛び出して、待ち遠しい季節を呼びに行こうとしているみたいに。
残暑の中、徐々に気配を漂わせ始めた、秋。
それはロックの季節の終わりを告げ、同時に肖衛との結婚生活の再開を意味するものでもあったのだった。
――ここ一ヶ月のことを振り返ってみる。
実家住まいだった私は家事に奮闘するかたわら、事務所の手伝いをもこなしていた。
父には内緒だ。変に勘繰られると困るから、母と口裏を合わせ、スポーツジムに通っていることにしておいた。
幸いにも、私の体重が二キロ落ちたおかげで疑われずに済んだ。
炎天下を駅から事務所まで移動するというのが、いい運動になったのだと思う。
はたして私のしていたことと言えば、お茶汲みとたまの電話対応だけだったのだけれど。
それでも、何とかして肖衛の力になりたかった。シヴィールの活動を、影から支えたかった。
そういえば、何度かシヴィールの滞在先へも赴いたっけ。
流石にお弁当を持参できる距離じゃなかったから、あちらへ行ってから手料理を振る舞ったりしていた。
そのために、栄養学に基づいたレシピ本まで買って試行錯誤していたなんて、肖衛には絶対に秘密だ。
体力がないくせにはりきりすぎて、夏風邪をひいてしまったから。
つまりここ一ヶ月、私の主婦業は慌ただしいどころか、多忙を極めたといっても過言ではなかったのだ。
「はぁん、ようやく認める気になったか。旦那への恋心」
いかにもいやらしげな笑いを浮かべ、未知は私のおでこから冷却シートを剥がす。四辺が乾燥して、不思議な形になっている。
「こ、恋心、て、いうか……」
「そうなんだろ。ま、あたしは最初からわかってたけどね。あ、ほら、顔赤い」
それは熱の所為だと思う。
数日前――多分三日前だと思うけど高熱の所為で記憶があやふや――から、私は立派な病人なのだ。
いや、立派じゃないし威張っている場合でもないというのは重々承知している。
幼い弟達にうつすわけにはいかないから、と早々に実家を出たはいいけれど……肖衛はまだ地方だし、なかなか熱は下がらないし、見ての通り、未知に世話を焼いてもらわなければならない状態なのだから。
「ほら、口開ける」
「むご」
無理矢理突っ込まれた体温計をくわえ、私は唇を尖らせる。
会社を半日休んでまで看病してくれるのは有難い。でも、余計なおせっかいまではいらないと思う。
あーあ、言わなきゃ良かったな。肖衛に話したいことがあるなんて。
「まあでも良かったよ。肖衛さんの気持ちが報われそうでさ。あたしも一安心っつーか」
「らからそうじゃらいってば」
鼻声で言い返し、顎の下まで布団にもぐった。
やっぱり坂口家のベッドはいい。実家の煎餅布団と違ってふかふかだし、広々としているからよく眠れる。
……未知さえいなれば、の話だけど。
「じゃあなんなんだよ、肖衛さんに話したいことって」
「えと……だから、こ、これからも、ずっと側にいたいって、それだけのことで」
「ほら、それってモロに告白じゃん」
「ち、ちが――うわっ」
新しい冷却シートをおでこに押し付けられたら、全身に鳥肌が立った。
「それ、本気で言ってるならおまえ、鈍感にも程があるぞ」
「……そ、そう、かな」
「普通、好きでもない男のために倒れるまで尽くせるかよ」
そうなのかな、やっぱり。
私はぼそっと、布団に含ませるように言う。
「実感、ないよ……」
肖衛のことはもう、少しも嫌いじゃない。むしろ彼が旦那さまで良かったって、これまで何度も実感している。
だからこれからもずっと側にいたい。この気持ちを、どうにかして伝えたいって思う。
けど――これが恋なのかは、正直、よくわからない。
いや――つかみ始めていたのに見失ってしまったのかもしれない。だって。
「一ヶ月以上も離れてたんだもん……」
もう、一緒に暮らしていたときのペースを思い出すのも難しい。どんなときに、どんなことを感じていたのかも。
薄情かな。
未知は難しい顔をして唸ると、スポーツドリンクをグラスに注いでくれる。
「まあわからないこともないけど。感情って麻痺するもんだよな。特に痛いとか苦しいとかはさ」
彼女が言うからこそ、それは説得力のある言葉だった。
そういえば、肖衛と離ればなれになった直後は落ち着かなくて、夜もあまり眠れなかったのに、今はそんなことない。
状況はなにひとつ変わっていないのだけれど。
慣れたのかな。となると、感覚は麻痺したと言えるのだろう。
「……うん。なんだか、全部が遠いみたいな感じ……」
寂しいのかどうかも、もう、わからないや。
何だろうなあ、この虚無感。
実は夕べ、ひとりになってからこっそり肖衛のまくらをひっくり返して、顔を押し付けて、思い切り息を吸い込んでみた。
だけど期待していた匂いはしなくて、私は正直、深く落胆したのだ。
肖衛に抱き締められているときのあの匂いを、無性に思い出したかった。
例えば、懐かしい歌をひっぱりだしてきて聴きたい衝動に駆られるみたいに。
「恋愛若葉マークの芹生にはちょっとハードルが高かったかもな。あやふやな気持ちのときに遠距離とか」
未知は私の口から体温計を引っこ抜き、途端に渋い顔をする。
「37度6分かあ。やっぱ総合感冒薬にゃ限界があるな。病院行こ、病院。保険証どこ?」
通勤用のスーツで腰に手を当てる姿は、どことなく美鈴さんを思わせる。どうしてだろう、最近似てきた。
「保険証なら、そこのドレッサーの右の引き出しに入ってるって肖衛が」
「ここか。ん? ないぞ」
「嘘ぉ」
そんなわけはない。思わず体を起こした私に、未知は大胆にも引き出しをまるごと抜き取って中身を見せてくれる。
「……ほんとだ」
見事に空っぽだ。入れ忘れたのだろうか。
「財布にでも移したんじゃないの」
「や、それはない。だってその引き出し、まだ開けたこと無いもん」
「ええ? じゃあ自分の保険証、一回も確認してなかったのかよ。芹生はマジで考えが甘いなぁ」
ごもっとも。
言い返せなくなって再び仰向けに倒れた私を見下ろし、親友は呆れ顔で笑った。
「ま、あと一日の我慢か。明日の夕方には肖衛さんも帰宅するわけだし。とりあえず寝てな。また夜に来るから」
「ありがと。この恩はかならず返す……」
「いらん。いらんからとっとと治せ」
それもまたごもっともな意見だ。
私は頷くかわりに瞼を下ろし、泥沼に沈むようにして眠りに落ちたのだった。
***
未知の心配を余所に、私の体は驚異的な回復を見せた。
なんと翌朝にはすっかり平熱に落ち着いたのだ。まるで、肖衛の帰宅に合わせたみたいに。
自分でもびっくりした。免疫ってすごい。
そこで俄然張り切って、夕飯の支度をしたい、買い物に行きたい、と未知に言ってしまったのは迂闊だったと思う。
ひとりでこっそり事に及べなかったのは、やはりまだ頭が朦朧としていたからに違いない(と思いたい)。
おかげで、未知の必殺技・デコピンをくらいベッドに沈められる羽目になった。
とはいえ、額を痛くした程度で諦めては芹生が廃る。
イザとなれば、買い物には行かなくても料理は出来るのだ。
生野菜は準備がないものの、冷凍しておいた温野菜とハンバーグのたねがあるし、コーンの缶詰でスープも作れる。
その算段を脳内で済ませると、私は諦めたふりをして彼女を見送り、早速キッチンへ向かった。
どうしても、あたたかい手料理で彼を迎えたかった。おいしい、って笑顔で言ってもらいたかった。
要するに、心から待ち遠しかったのだ。肖衛の帰宅が。
しかし夕方になって、車庫からドアが閉まる音がして、喜び勇んで玄関まで駆けていった私は
「おかえりなさい!」
そう言った直後、目が点になった。
彼のかたわらに、四人の従者が引き連れられていたから。
「おーす、ただいま芹生。やっぱおまえのエプロン姿はそそるわ」
「セリちゃんっ、チョコ買ってきたよ。食べるよね?」
「え」
どかどかっと足を鳴らして踏み入る無法者は初穂と叶。なんで。なんでここにいるの。
でもって、なんでそんなに当たり前に上がり込む? ここ自宅? 違うでしょ。
あっけにとられる私に、柳さんが会釈をしながら四角い箱を差し出してくれる。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます。えと、これは」
「お見舞いです。奥様が体調を崩されていると小耳に挟んだものですから」
よくよく見てみれば、それはメロンだった。しかも化粧箱いりのクラウンメロン、すなわち高級品だ。
帰れとは言えなくなって、私は廊下の先を手で示す。内心、大いに葛藤しながら。
「……良かったら上がってって下さい……」
「お邪魔いたします」
脱いだ靴をきっちり揃える姿が恨めしい。密かにため息をついたら、後ろからふいに頭を撫でられた。
振り返った私の目に飛び込んできたのは、不本意そうに笑う――肖衛。
黒髪ウィッグと黒ぶち眼鏡が、大歓声の中にいるスターの面影をすっかり消し去っている。
それはダサくて冴えなくて、もっとも彼らしい彼の姿。
なのに私は、本物だろうかと疑ってしまった。本当にこの人は、肖衛だろうかと。
だって、視線がそらせない。
おかしいな。肖衛ってこんなに素敵な人だったっけ……。
「ただいま、セリ。まったくみんな容赦ないよねえ」
おかえり、と言ったら声が上擦った。つられて、心臓の動きがはやくなる。
「風邪は? 寝てなくて大丈夫なの」
「え、あ、うんっ」
「本当かなあ」
覗き込まれた瞬間、鼻をつく懐かしい匂い。
それだけで感極まって、視界が歪む。やだ、どうして泣きそうになるかな。
だけど、ああ、帰ってきたんだ。今日からまた、一緒なんだ。
(嬉しい。どうしよう、うれしい……)
董胡が後ろから入って来なければ、私は何分もそこに立ち尽くしていただろう。
「ごめんなー、芹生ちゃん。せっかくの再会に野暮なことして。止めたんだが、あいつらどうしても真っ先に君に逢いてェって言ってきかなくてな」
「……光栄、です……」
「表情と言葉が裏腹だぞ。ま、タイミングを見て俺が早々に引き上げさせるから、ちょっとだけ堪忍な」
苦笑いをする董胡に、笑い返す余裕はなかった。
タイミングなんて言わず今すぐに連れ帰って欲しい。
しぶしぶリビングへ向かうと、テーブルの上に準備してあったハンバーグを初穂がうれしそうに頬張っていた。
「あーっ!」
「うん、美味い。やっぱ芹生の料理は最高だな」
「食べちゃ駄目! これ、肖衛の夕飯なんだからっ」
「はっ、もう手遅れだっつうの」
見れば、反対側の席ではさも当たり前のような顔をして叶がスープを飲んでいる。
「僕、この味嫌いじゃないよ。ねえ、おかわりある?」
思わず泣きそうになった。肖衛のごはんが。私、肖衛のために作ったのに!
すると、ふたりはほぼ同時に「ほれ」「ん」テーブルの上にビニール袋を置いた。その仕草はまるで代金を支払っているみたいだ。
白地にシヴィールのロゴマークが入れられたそれは、ライブグッズの販促用で、事務所の奥にストックが山ほど積んであるものだった。
「え?」
「土産。おまえが喜ぶもの、考えたらこれになった」
「あのね初穂、最初にこれがいいって言ったの僕だからね。セリちゃん、こっち先あけて」
お土産、って。
促されるまま袋を開くと、中から出てきたのは今回のツアー限定Tシャツだった。初穂のほうはポスターだ。それぞれに、全員のサインが入っている。
「うそ。貰っていいの?」
「芹生さんには本当にお世話になりましたからね。皆、何かお礼がしたいと、必死で考えたんですよ」
柳さんが笑顔で近付いてきて、同じ袋を隣に乗せる。中身はサイン入りの新曲のCDだ。
と、まるで最初から話が出来ていたかのように董胡までもがギターのピックを差し出した。いつも、彼が客席に投げ入れているものだ。
「バテそうになるたびに栄養補給してくれてありがとな。いくら社長夫人とはいえ、給料も受け取らずによくあそこまでやってくれたよ。本当に感謝してる」
「董胡。みんな……」
目の前がゆるく歪む。
私、役立ってなかったよ。途中で倒れちゃったし。自分で望むほどには、サポートできなかったよ。
「ありがとうはこっちの台詞だよ……」
皆のほうがずっと頑張ってたもん。
私はそれを、これまでずっと知らずにいた。
ステージの裏の苦労なんてこれっぽっちも考えずに、完璧な理想を彼らの中に見ていた。
それさえも彼らの努力の上に成り立っているということ、想像こそすれ、本当の意味ではちっともわかってなんかいなかったんだ。
「お疲れさま。みんな、ほんとに……ほんとにおつかれさま。……すっごくかっこよかったよ」
うれしいような情けないような、だけど誇らしいような、不思議な気持ちに胸が満たされる。満たされても止まらなくて、両目から零れ出た。
全てが終わったことを実感して、緊張の糸が切れたのかもしれない。
嗚咽をこらえて口元を押さえたら、
「――セリ」
肖衛が私を呼んだ。リビング奥の、例の練習室のドアを開きながら。
「おいで。俺からは、ツアーのラストを締めくくる一曲を君にあげる」
「……え」
「せっかくチケット渡しておいたのに、来てくれてもずっと舞台裏にいて、観てなかっただろ。だから」
気付いていたのか。
確かに私は一度も客席には行かなかった。遠慮したわけじゃない。彼らを見守っていたかったから、バックヤードを出なかっただけのことだ。
「で、でも、充分楽しかったよ。それに、疲れてるでしょ。もう休んだほうが」
躊躇う私の背を、初穂が押してくれる。
「好きな女のための無理は無理とは言わねえんだよ。な、ナツ」
ノーとは言わせない力強い掌だった。
「へえ、たまには初穂も良いこと言うじゃない」
「たりめーよ。てめえだけにいい格好させてたまるかっての。よっしゃ、やるか」
「当然っ! 僕、MCも入れちゃうからね」
「では、失礼してスタンバイを」
「おう。おまえらヌルい音出したら承知しねェぞ」
そうして私は、たったひとりの観客としてシヴィールのライブに酔いしれた。
こんな贅沢はない。自分のつたない労力では到底届かないはずの報賞だ。
(なんだかんだ言って、皆も充分甘いよ。私、すごく甘やかされているもの)
……良かったな、と思う。シヴィールのメンバーが、彼らで。
誰ひとりとして代役ではまかなえない。私にとってのシヴィールは、この五人が揃ってこそ初めてひとつの形になる。
それは、旦那さまが肖衛でなければならなかったのと全く同じ感覚で、ひとりひとりを改めて大切に思った。
かけがえのないもの、ってつまりこんなだ。
そしてそれは、彼らにとっても同じはず。
皆、何かを抱えてここにいる。シヴィールが唯一の居場所であるかのように。
それで肖衛は、ここを必死で守っているのかもしれない……。
「――とはいえ、寝るときくらいはちゃんとねぐらに帰ってもらいたかったけども」
演奏後、宅配ピザを平らげるなり次々にリビングで眠ってしまった四人に毛布をかけ、私は苦笑する。揃って電池が切れてしまったみたいだ。
肖衛は姿が見えないけれど、恐らくどこかで行き倒れている筈。
こんなに疲れてたのに、最後の力を振り絞って頑張ってくれたなんて。
(これじゃ文句なんて言えないよ、もう)
明日は早起きをして、朝ご飯の材料を買いにいこう。商店街のパン屋さんなら七時から開いてるし、朝市でサラダの材料も揃う。
肖衛と柳さんにはモカのブラック、董胡にはエスプレッソ、初穂にはカフェラテ、叶にはココアがいいかな。
そうだ、オレンジジュースもつけよう。ビタミン、不足してるだろうし。
エプロンを外してキッチンの壁に吊るし、照明を落とす。
「……おやすみなさい」
良い夢を。
そして明日も、皆が元気でありますように。
小さく囁いてドアを閉めると、廊下の奥から呼ぶ声が聞こえた。
「セリ」
肖衛だ。バスローブでいるところを見るに、シャワーでも浴びていたのだろう。
行き倒れていたわけじゃなかったんだな、なんて感心していると、彼は焦れったそうに手招きをした。
「セリ、来て。早く」