2、Time will tell.
結局その日、私は終日離してもらえず、ようやくお役御免になったのは翌朝八時を過ぎてからだった。
初夜を含め、拘束時間はのべ三十四時間。とんだ過剰労働だ。
と、言っても、例のお盛んな行為ばかりを繰り返していたわけではなくて、当然食事もしたし、時にはテレビを見たりもした。
そういえば、初めてゆっくり会話もしたっけ。
話題は、家族のこととか、友達のこととか、大好きなシヴィールの曲のこととかだ。
肖衛は相づちを打つばかりで、あまり自分のことを語ろうとはしなかった。先週までツアーで全国を飛び回っていたから、疲れていたのかもしれない。
何度かうたた寝もしていたから、元気いっぱいでなかったのは確かだ。
しかし――。
その間に私が逃げてしまわなかったのは、手をしっかり握られていた所為でも、寝顔が殺人的に可愛かった所為でもない。
憧れの人だとわかったから、というのが理由の半分で、あとの半分はというと――義理、だった。
肖衛は言った。ナツではなくて、自分のことを好きになって欲しい、と。
無茶な注文だと思う。
しかし私は彼に、現時点で二千万円の借りがある。つまり、意に沿うよう努力するだけの義理があるわけで。
肖衛を、好きになる……。
清水の舞台から飛び下りるほうがまだ、現実的に思えた。
***
「セリ、ちょっと髪、押さえてて」
「え、あ、うん」
セミロングの黒髪を顔の両脇でおさえると、背中のファスナーが音を立てて滑った。
お役御免になった、とはいえ私はまだ寝室という鳥篭の中。
そして何を隠そう、現在は彼に着替えを手伝ってもらっているのだ。
と、油断していたらうなじに突然柔らかいものが押し当てられた。
「ひゃん!?」
両手でそこを押さえて振り返ると、今度はがら空きになった額にキスひとつ。
「ふ、不意打ち禁止っ」
「そう。でも、体が勝手にね?」
「理由になってない!」
「ふふ、やっぱりセリは怒った顔が一番可愛い」
間近で微笑むその姿は――私が憧れ続けたナツそのものだった。
トレードマークの金髪が目の前で光に透ける。
「似合うと思ったんだ、これ。服、他にもクローゼットに入れておいたから好きに使って」
普段は冷たい印象の瞳が、別物みたいに優しく細められているのを見たら、救●のCMソングが脳裏をよぎった。
動悸が。息切れが。
「ありがと……」
「どういたしまして」
すると今度はドレッサーの前に連れて行かれ、大掛かりなメイクが始まってしまった。
メイク用品は全てANNASUI。可愛い、こういうの好きだ。ゴシック系のヴィジュアルが売りの、ナツらしいセレクトだと思う。
彼はそれは嬉しそうに、私の頬にファンデーションを塗ってくれる。
その指にはヴィヴィアン・ウエストウッドのアイコンをあしらったアーマーリングがはめられていた。
私のワンピースと、さりげないお揃いだ。
「みんな、驚くだろうな。俺がこんなに可愛い奥さんを貰ったなんて」
「か、可愛くなんかな……」
「怒るよ? 俺のものにケチつけたら」
……お、俺のもの、ね……。
恥ずかしさに笑顔が引きつる。
ちなみに、みんな、というのは彼の仕事仲間――シヴィールのメンバー達のことをさす。
なんと今日、私はナツの妻として彼らに紹介されるらしい。
昔の追っかけ仲間が聞いたら気絶するだろうな、と思ったら少し笑えた。
***
こうして私は、坂口家のリビングにて、憧れの人たちと対面することになったのだけれど。
「名前、表札で見たんだけど、君、せりおチャン?」
「せりなです。せりおはないです」
「だよな。だと思ったんだー、はは、悪ィ」
豪快に名前を間違えてくれたのはギターの董胡。
セミロングの黒髪をかき上げる腕が、筋張っていて色っぽい。
いぶし銀みたいなセクシーさがたまらない、と親友の未知は言っていたけれど、まさにその通りだと思う。
彼はナツの中学校の先輩で、ふたつ年上の四十歳なのだ。
董胡はバンド結成の発起人で、シヴィールの中心人物――というのはもちろんファンとしての基礎知識だ。
「はい、これお祝い」
差し出された瓶を受け取ると、それはまさしく『S.I.V.I.R.』のワインだった。
「あ、ありがとうございます! えと、董胡さん」
「董胡でいいよ。むしろ、皆呼び捨てでかまわないから。な?」
呼びかけられた他のメンバーも、ああ、とかうん、とか同意してくれる。何の奇跡だろう、これは。
「結婚ってマジだったんだ! すげ、おめでと、ナツ」
そう言ってナツの首を絞めにかかったのは同じくギターの叶だった。
赤茶けたパーマヘアの隙間から、ナツとお揃いのシルバーピアスが垣間見える。
彼はこの通り人懐っこい性格で、ライブのトークでは一番よく喋る。といっても、彼はメジャーになってから加わったメンバーだから、人づてに聞いた話なのだけれど。
インディーズ時代、このポジションには真人という天才肌のギタリストがいた。
しかしデビュー直前、突然脱退してしまって、真人の従兄弟である叶が加入したというわけだ。
好きだったんだけどな、真人。ハーフっぽい容姿とか。もちろん叶もバンビみたいで可愛くて、真人とは別の魅力があるけれど。
ちなみに叶は十六歳、メンバー最年少だ。
「よろしくね、セリちゃん」
「あ、は、はい」
「やだなー、僕のほうが年下なんだから、敬語はナシだよ」
ぽん、と私の肩を叩いた叶の視線は、何故だか下へと滑り落ちていく。
そうしてお腹の辺りを凝視されたものだから、思わずたじろいだ。
「もしかしてデキ婚? 僕、早く見たいな、ナツのジュニア。きっとかわいいよ。一番にだっこさせてよね」
……そういうことか。
否定しようとすると、すぐ横でシャンパンを傾けていたナツのほうが先に口を開いた。
「残念ながらまだなんだ。でも期待してて。今仕込んでる最中だから」
「ちょ、仕込むとか人前で言うかな普通っ」
慌ててその口を塞ぎ、みぞおちに一発入れた私を見、ドラムの柳がふっと笑う。
「……もっとナツさんにべったりのファンもどきかと思っていましたが……良い奥さまを見つけられたようですね」
肖衛とは明らかに種類の違う、オシャレな眼鏡の向こうの切れ長一重にどきりとしてしまった。
柳はナツより三つ年下なのに、ナツよりずっと落ち着きがある。
ドラムを叩く時は別人のように激しく変貌するから、それもまた魅力のひとつなのだ。
しかし、彼らの会話を聞くに、皆ナツと私の馴れ初めを知らないのかなあと思った。
例の借金二千万のことも。
「あれ、ていうかナツ、お見合い結婚だったんじゃねえの」
ちがうっけ、と口を挟んだのはベースの初穂だ。口ぶりからして、やはり詳細は知らないみたいだ。
二十五歳にしてどこか白猫を思わせる艶っぽい横顔に、私はしばし見蕩れた。
インディーズ時代から、初穂にはモデルのスカウトがあちこちから来ていたと聞く。
これだけ綺麗なら当然か。銀髪もよく似合っているし。
昔はライブにもよく遅刻していたけれど――つまり気まぐれで内面も猫っぽいのだけれど――今はそういう性格、直ったのだろうか。
「そう、結婚のきっかけはお見合いなんだけどね。俺はずっと片思いしてて」
言って、私に笑いかける肖衛は、現在もナツの姿を継続中。
憧れ続けた彼の顔に肖衛の影が重なって、一瞬、画面がブレた。私は慌てて顔を背ける。
と、焦ったせいかうっかり手元が狂って、ワインの瓶に袖を引っ掛けてしまった。
バン、と大きな炸裂音を伴って、それは床の上で砕け散る。
「きゃ」
「セリ!」
ぎゅっと瞼を閉じた私は、次に目を開けたとき、間近にナツの喉仏を見た。
次に体全体が熱いものに包まれていることに気付いて、それからだ。
自分が、彼の力強い腕にしっかり抱きとめられ、護られていると知ったのは。
動揺、しないわけがなかった。
「へー、やっぱ夫婦だねえ」
「微笑ましいものを見ましたね」
「ナツ、相当惚れてんなぁ」
口々に冷やかされ、ますます焦った私はナツの胸を突き飛ばす。「や、やだ」
ベッドの中でのことが鮮明に思い出されて血管の中が沸騰しそうになる。
すると盛り上がるメンバーをよそに、素早く立ち上がった董胡が洗面所からタオルを持ってきてくれた。
屋敷内のことは私より熟知しているみたいだ。流石は、ナツの親友。
「すみません、せっかくいただいたワイン、駄目にしてしまって……」
「いや、それより怪我はない?」
最年長らしい、大人の対応にうっとりしてしまう。
柳と叶も、率先して瓶の欠片を片付けてくれているし、こういう気遣いこそが、グループを円満に保つ秘訣なんだろうな。
ナツはといえば、私をソファーまで抱いていき、壊れ物を扱うように優しく腰掛けさせると、足に撥ねたワインの雫を拭いてくれた。
「良かった。怪我はないみたいだね」
「じ、自分でやるよ、私」
「駄目。言っただろ、セリの全ては俺のものだって。だから俺の好きなようにする」
自分だってワインまみれなのに、そこは全く気にしていない様子だ。
皮のパンツ、駄目にならないかなあ、なんて心配していたら、右足からルームシューズがそっと脱がされた。
そうしてナツは当たり前のように体を屈め――私の爪先に、キスをしたのだ。
「え!? な、ナツっ……」
うそでしょ。
驚きと同時に、めまいを覚えた。
ステージの上に、人垣の向こうに、画面の中に見ていた彼の唇が今、自分の足に触れている――。
「じっとしてて。いいこだから」
クモの巣みたいだ。彼の、好意は。
絡めとられたら身動きが取れなくなって、あとはもう、じわじわと毒に冒されて、臨終を待つだけ。そんな気がする。
と、それをじっと見ていた初穂が、私のふとももを突如凝視するように体を屈めた。
「それ……」
視線の先には、幼い頃に負った傷痕が今も生々しく残されている。
それは右足の付け根から膝の上に向かって、斜めに裂けたかのように、皮膚を白く変色させていた。
「ああ、えっと、昔ガラスで切っちゃったらしいんです」
「……ガラス?」
「はい。殆ど覚えてないんですけど、結構深かったらしくて。知り合いの男の人が助けてくれなかったら、命も危なかったと思います」
それで、結婚の約束をした、んじゃなかったかな。
言うと、メンバー全員の視線が一気に私の太ももへと集まった。
流石に恥ずかしくなって身を縮める。何しろ、ヴィジュアルが整いきった方々の目に、庶民的な私の足が晒されているのだ。
……すみません、お見せするほどのものじゃなくて。
すると、ナツは着ていたジャケットをおもむろに脱ぎ、それを私の足に被せながら立ち上がった。
「セリの肌を眺めていいのは俺だけだよ」
一瞬驚いたように動きを止めた彼らは直後、初穂が「はああ」魂の抜けたような声を発したことで、どっと脱力していた。
「マジで溺愛してんのな、ナツ」
「そう。君らの想像を絶するほどね」
「でも、公表はしない、と」
――えっ。
短く漏らした私に「あとで説明するから」とナツは口早に言い、リビングの奥の扉を押し開く。
そこには、ライブハウスさながらの什器を備えた闇色の空間が広がっていた。
「ここ……?」
「スタジオってほどのものでもないから、ちょっとした練習場ってとこかな。おいで、セリ」
ナツは私の手を引いて、部屋の中ほどまで導き入れてくれる。
天井も床も壁紙も、艶のないマットなブラックで統一されたそこは、寝室より少し狭い。いや、あんなに広い寝室と比べたら、大半の部屋は狭く感じられて当然か。
奥の壁の右端には、真っ白なペンキでシャンデリアのシルエットがひとつ描かれていて、ゴシックなのにどこか洗練された雰囲気だ。
少し埃っぽいのは、窓がないからだろう。
「こんな部屋、あったんだ……」
道理で間取りが複雑なわけだ。
落ち着きなく周囲を見まわしていると、背後でギターをかき鳴らす音が二度、重なるようにして響いた。
私は臆病な猫みたいに、飛び上がって振り返る。音を発したのは叶と董胡のようだった。
いつの間にか楽器を手にした彼らはもう、先程とは打って変わってプロの顔をしている。
失礼かもしれないけれど、ああ本物なんだ、と思った。本物の、シヴィールなんだと。
合わせているのか調子を見ているのか、しばらく音は無秩序に氾濫していた。
けれど数分後、董胡が柳に目で合図を送ったのが見えて――直後、それはひとつの大波になって空間をいっぱいに満たした。
「……これ、“GRAVITY”!」
私の一番好きな曲だ。
昨日ベッドの中でも、この曲の良さを延々と話したばかりなのだけれど――もしかして。
ピンと来てナツを見上げると、彼は横目で得意げに笑って歌いだした。
生の演奏は、以前ライブハウスで聴いていたときより磨きがかかって、シャープになったというか、迫力が増したように思う。
けれどやはり、私の心を残らず攫って行ってしまったのはナツの歌声だった。
高音に上がる瞬間の、泣き声にも似た発声が色っぽい。歌い終わり、息をふっと混ぜ込むところもたまらなく好き。
こんな喉を持って生まれるって、どんな気持ちなんだろう。想像できない。
(……すごい……)
そうして感極まった結果、私はいつの間にか涙を零していた。
数年前まで彼ら目当てに、足しげくライブハウスに通っていたことを思い出したらますます泣けた。
あの頃はまだ、お父さんは元気だったし、お母さんだっていつも笑っていた。弟たちも無邪気で、他愛もないことで真剣に喧嘩したりしたっけ。
私はそれまでずっと、今の平凡で暢気な日々が永遠に続くものなんだと思っていた。
一寸先に何が潜んでいるのかなんて、考えもしなかった。
不思議なものでお金がなくなればなくなるほど家族の結束は強まって、喧嘩の回数も減って、だけど、笑顔は消えていった。
一昨日、ごめんなと言って送り出してくれた、お父さんのやつれた背中を思うと胸が苦しい。
(みんな、元気かな……)
憧れのシヴィールが自分のためだけに演奏してくれているというのに、私は何故か家族のことばかり考えて、号泣してしまったのだった。
***
ようやく涙が底をついたのは、午後六時をまわってからだった。
伏せていた顔を上げたら、窓の外の風景が影絵みたいになっていた。
董胡以外のメンバーが帰ったのは、まだ空が青い頃だったから、私は随分長い間泣き続けていたのだろう。せっかくの楽しい席に、水を差すようなことをしてしまって申し訳なかったな、と思う。
自慢のポジティブシンキングはどこへ行ったやら。考えたら、家族こそがその原動力だったのだと気づいた。
「どう、落ち着いた?」
「ん、……うん」
鼻声で答えると、背中に覆い被さっていたナツが、両腕にぎゅっと力を込めた。
皆が帰ってしまったのは、このナツの密着ぶりも原因の一端なんじゃないかと思う。
泣き出した私をリビングまで担いで来、それからずっとラグの上であやすように抱き締めてくれていたから。
どう思われただろう。いや、完全に仲のいいカップルとして認識されただろうな。
今更だけれど恥ずかしくなってきて、もぞもぞと身をよじる。
と、向かいのソファーでコーヒーを飲んでいた董胡が見計らっていたかのように腰を上げた。
「じゃ、俺もそろそろ帰るわ。お嫁ちゃん、玄関まで送ってくれる?」
「は、はい!」慌ててナツの腕を振り払い、立ち上がる。
ナツもワンテンポ遅れて腰を浮かせたけれど、
「おまえはこれの仕上げが急務」
と董胡が四角い台紙を差し出したので、立ち上がるまでには至らなかった。
覗き込むとそれは色紙で、ナツ以外の全員のサインが既に記されていた。誰かにあげるのだろうか。
「発案者はおまえだろ。うまくやれよ」
そう言い残して董胡が踵を返したから、私は慌ててあとを追った。
「すみませんでした、今日は、いろいろとご迷惑を」
しかし、お見送りとは言えないなあと思う。
私はまだ屋敷の見取り図が頭に入っていないから、董胡にくっついて迷路を行くようなものなのだ。
「いや。こちらこそ、あいつが迷惑かけただろ」
「そんなこと全然!」
「いいよ無理しなくて。ここだけの話、俺だけは君等の結婚の真相、ぜんぶ知ってるから。芹生ちゃん、金で買われたんだろ」
「え」思わず立ち止まる。
「ついでに言うと俺は、あいつがどれだけ長い間君を見続けてきたのか、ってことも知ってる」
廊下を突き当たると、彼は少し複雑そうな表情でこちらを振り返った。
「あいつのこと、好きになれそう?」
即答ができなかった私は、正直者というより、嘘がつけない子供みたいだっただろう。
「難しいかもしれないけどさ、真面目に考えてやってくれねェかな。ナツだけじゃない、肖衛をひっくるめた、あいつのこと」
董胡はそう言って、私の頭をくしゃくしゃ撫でた。
やはり返答に詰まってしまった。どんなに頑張ったところで、いい返事は出来そうになくて。
「肖衛は……いい奴だよ。俺はガクチューの頃からあいつを見てるけど、すげえ純粋で、繊細でさ。だからずっと、あいつには幸せになってもらいてェって思ってた」
ひとつ、頷く。
「あいつを頼む。君を想う気持ちに、嘘はないから」
答えないと踏んだのか、董胡は続けて言った。
「それと、あいつの家族のこと……本人が打ち明けるまで、そっとしておいてやってくれると助かる」
「家族?」
そういえば、会ったことがない。お見合いの席でも、彼はずっとひとりだった。
どんな人物なのかも知らない。あの時はもう、驚きと反発で、余計なことを考えている余裕なんてなかったから。
「ああ。いずれは話すって言ってたから。聞いても、変な勘ぐりはせずに、あいつを信じてやってくれないかな」
……信じる、って?
妙な物言いに疑問は覚えたけれど、わかりました、と言って頷くしかなかった。
私がこの言葉の意味を知るのは、もう少し先のことだ。
迷子になりながら、辛うじてリビングに辿り着くと、ナツは私の姿を認めるなりにっこり笑って先程の色紙を差し出した。
「これ、セリに」
「えっ」
「シヴィール、好きだって言ってくれただろ。だから」
「あ、ありがとう!」
不覚にも飛びついて受け取ってしまった。うれしい!
インディーズ時代にも貰ったことはあるけれど、シヴィールのサインならいくつあっても足りないと思う。
それに、叶が加入してからのフルメンバーに書いてもらうのは初めてだ。
「額に入れて飾ろうっ」
嬉しさのあまりスキップでソファーを一周してしまった。
人間、頑張ってたらたまにはいいこともあるもんだな。
そんな私を見て、ナツはくっくっと喉の奥で笑ったあと、こう漏らした。
「……お礼は貰えないのかな」
お礼?
「うーん、私、全財産三十円しかないし。あ、じゃあ夕ご飯作るよ。節約料理なら得意なんだ」
「それもうれしいけど、そうじゃなくて」
クモの糸みたいな両手が、私の自由を絡めとる。
「もっと官能的なことを希望したい、かな」
随分遠回しだったけれど、間近に唇を寄せられたら、言わんとしていることもはっきり伝わるってものだ。
つまり、キス、しろと。
「や、無理、できるわけ」
ない。
「ディープでもいいよ。口、開けて待とうか」
さらっと恥ずかしいことを言ってくれる。自分が赤面してしまったのがわかった。
「な、な、なんっ、わ、わた――お、お」
「お?」
「お腹空いたから!」
色紙を盾にして唇を防御すると、私はキッチンまで早足で逃げ込んだ。
いっとき忘れていたはずの動悸と息切れが蘇ってくる。
この胸の高鳴りは、ファン心理? それとも病気? はたまた、もっと別の何かなんだろうか。
サイン色紙に視線を移すと真っ先にナツのサインが目に飛び込んできて、咄嗟にそれを裏返した。
そのときだった。
色紙の裏、隅に小さく記されている、何か、に気づいたのは。
「ん?」
思わず眉をひそめて凝視する。
キッチンの照明はさほど明るくないから、シャープペンでうっすらと書かれたその文字は、一見ただの模様に見えたのだけれど。
“セイナちゃんだよね”
一行目を解読し、たちどころに凍り付いた。
セイナちゃん、と私を呼ぶのは“彼”しかいない。幼い頃、私の命を救ってくれた“彼”しか。
なんでこんなところに……。
“セイナちゃんだよね
あの日のこと、忘れたの?
どうしてナツと結婚したの”