18、He makes me feel as if I know nothing.(c)
我こそが夏肖さんの元恋人――という和久井加恋の爆弾発言を受けて、私達はスタジオ内のミーティングスペースに一旦集合した。
その加恋はというと、まだ帰りたくないなどと駄々をこねたため、ラウンジでマネージャーさんと共にお茶を飲んでもらっている。
「つまり、彼女は夏肖さんの昔の恋人で、当時の結婚の約束を今も有効だと思い込み、自らスキャンダルをでっち上げるという暴挙に出たということなのですね」
柳さんは眼鏡のフレームを中指で上げながら、流暢に要点をまとめてくれる。
そういうことだね、と肖衛は腕組みをしてためいき。気のせいかな、ちょっと痩せた。
「つうか夏肖さ、なんで別れるときに結婚しようなんて言ったんだよ、理解できねえよ」
例のごとく遅れて現れた初穂は、事態を知りすっかり憤慨していた。
「普通、こいつとは結婚できねえと思うから別れるんだろうがよ」
「いや、俺が夏肖にそうしろって言ったんだ、悪ィ」
「はァ? なんで董胡が」
「手こずってたんだよ、別れるのに。加恋、あんな性格だろ、夢見がちっつうか思い込みが激しいっつうか、なかなか切れなくてな」
確かに、一連の行動を振り返るに冷静とは言えない。才媛なのに、というのは偏見かな。
「だからな、あー、ちょっとクセェけど『今は運命が二人を切り裂くけど、いつかまた巡り会ったらそのときは放さない』とでも言えっつったんだよ。まさか、イコールで結婚と受け取られるとは計算外だったぜ……」
うなだれた董胡の向かいで、柳さんは聞き捨てならないとでもいいたげな顔をする。
「計算外? 十年前と言えば和久井さんは十八歳ですよね。彼女でなくてもそんなふうに、都合の良いように解釈して当然の年頃では」
いつになく辛口の意見だ。
「あのな、おまえだってあの頃は辟易してただろうが、夏肖の女癖の悪さには」
「かといって、して良い事と悪い事があるでしょう。夏肖さんも董胡さんも、女性を軽視しすぎです」
「軽視? 俺は遊べる相手を選んで遊んでるだけだ。本命の女には一生手なんか出さねえよ。そういう意味ではだれより堅実だね」
「ちょ、おまえら論点ズレてんぞ。今はあの女をどうするかが問題なんだろうがよ」
苛立ちながら突っ込む初穂の横で、肖衛は一点を見つめたまま黙っている。
心配になって、声を掛けようかどうか迷っていると、叶が突如挙手をした。
「あのさ、もういっそ言っちゃうっていうのどう? 今のナツが夏肖じゃなくて肖衛だってこと」
「……それはだめだよ、叶。このことは俺達、仲間内だけの秘密だ」
「どうして!?」
首を振った肖衛に、食らいつく勢いで叶は立ち上がる。
「結婚してることも公表しない、自分が誰かもはっきりさせない、それで、それでナツはしあわせなのっ」
それは、誰よりナツを慕う彼だからこそ言えた台詞なのかもしれなかった。
「本当はファンに嘘ついてるの、すっごく気に病んでるくせに……!」
肖衛は宙を見つめたままわずかに眉をひそめる。それはどこか沈痛で、到底、叶の言葉を否定できるような表情じゃあなかった。
そうだ。現状、肖衛には自分が夏肖さんでないことを明かして、音楽活動を続けるという選択肢もある。
むしろそのほうが、本人にとっても他のメンバーにとっても、好ましいに違いない……と、第三者的な立場の私は思う。
それを頑なに拒むのは、ファンというより夏肖さんのためで。いつか弟に、その座を受け渡すためかもしれなくて。
となると、未知の言葉が俄然信憑性を帯びてくるわけで――。
“何か特別な事情でもあるのかね、あの兄弟には。自分の将来を犠牲にしてでも、弟に尽くさなきゃならない理由がさ”
一体、何がこれほどまでに、肖衛を縛っているというのだろう。
考え始めたら、彼らの討論が少し耳障りに思えてきて、私はひっそりとミーティングルームを後にした。
――無力だなあ、としみじみ思う。
私には、美鈴さんのように場をまとめる器量もなければ、未知のように鋭い観察眼があるわけでもなくて。
社会経験もないから、適切な意見すら言えない。
唯一自身を持って出来ると言えるのは、ごくあたりまえの家事くらい。
なのに、離れて暮らしている今はそれすらままならなくて、ひたすら歯痒い。
私が肖衛にしてあげられることって、他にないのかな。
廊下の隅までとぼとぼ歩いて行って、壁一面の大きなガラス窓から眼下を眺めた。
地上五階。
道行く人の人相がなんとなくうかがえる程度の高さだ。
(……あれ?)
私はふと、路地裏に立つ人影に視線を止めた。なんとなく、見覚えがあったからだ。
彫りの深い、けれどさっぱりとした顔立ちの男性。
あれは。
(真人!?)
まちがいない。どうしてこんなところに。
気付いたときには駆け出していた。ホールで、たまたま来ていた階下行きのエレベーターに飛び乗り、一階で降りる。
全力疾走で受付とエントランスを抜け、転げるようにして表通りに出た。
しかし、辿り着いたときすでに、彼の姿はそこになかった。
錯覚だったのだろうか。脱力して引き返すと、ホールの手前で、出くわしてしまった。
「あ、シヴィールの事務所の人だ?」
和久井加恋、その人に。
「ここ、何か食べるものとかないかな。カップ麺の自販機とか。お茶うけとか」
私は肩で息をしながら、辛うじて首を傾げる。たべもの?
当の加恋はというと悪びれもなく笑って、解熱沈痛剤の箱を胸の前でからから振った。
「薬が飲みたいんだ。で、先に何か胃に入れたいんだよね。マネージャーに買ってきてもらおうとも思ったんだけど、最近嫌な思いばっかりさせてるから、自分で何とかしようかなと」
嫌な思いって。
引き続き、呼吸が整わずものが言えない私に、彼女は丁寧にも説明を付けてくれる。
「うん、嫌な思いっていうのは、ナツのファンからの嫌がらせのことね。交際宣言してから酷いんだあ。モノを投げられたり、車をボコボコにされたりとか」
張りのある澄んだ声。肖衛と同じ。音を奏でるためにある、楽器みたいだ。
「あ、でも勘違いしないでね。別にあなたがたを責めたいわけじゃないから。覚悟して挑めって、責任は自分で取れって社長にも言われてるし」
事務所は自分の行動を黙認しているだけなのだ、と彼女はいう。つまり彼らに、スカウトを断ったシヴィールを貶めようとかいう考えはなかったのだろう。
スレンダーな体で頭ひとつ上から見下ろされたら、消えてしまいたくなった。
それは先日、舞台上のナツをやけに遠くに感じたのと、似た感覚で。
恥ずかしいのかもしれない。
私。
自分の何もかもが。
堪えかねて俯いたら、ついに咽せてしまった。
「……げほっ……」
情けない。なんて情けないんだろう。
加恋は慌てて、やだぁ、大丈夫、と私の背を叩いてくれる。いえ、とだけ答えると
「もしかしてあなたも風邪? 実は私も。今、流行ってるよねぇ」
そんなことを言われ、私は出かかっていた咳を咄嗟に呑み込んだ。
風邪? この人が?
「ならさ、風邪薬とか持ってたりする? 私いま、ちょうど切らしちゃってて。とりあえず解熱剤だけ飲んでおこうと思ったんだけど、あるなら分けて――」
「帰って下さい」
自分でも驚くほどきっぱりした口調で、私は言い切っていた。
一体、何考えてるの、と問いただしたいくらいだった。
「それ、ナツにうつす前に帰って下さい」
加恋はぽかんと口を開ける。その仕草は私をますます苛立たせた。
マスクがあればすぐにでも塞いでやるのに。
「非常識にもほどがあります。ここ、スタジオですよ。風邪のウィルスばらまいて、レコーディングにどんな影響が出るか、考えなかったんですか」
「で、でも、咳は出てないし」
「咳の問題じゃないです。もういいです、とにかく帰って――」
言いかけたとき、ミーティングルームから姿をあらわそうとする肖衛が見えた。あまりのタイミングの良さに、ぎくりとした。
「あ、ナツ! あのね聞いて、この人が帰れって」
加恋は甘えた様子で彼に駆け寄る。私は素早くその先に回り込み、前方を塞ぐように両手を広げた。
「肖衛に近付かないでっ!」
無我夢中だった。彼に病原菌を近づけたくなくて。
ううん、それだけじゃない。私はもう、他の誰にも、肖衛に触れて欲しくなかった。
「……セリ」
すぐ後ろで肖衛の細い声が聞こえて、私はようやく我に返る。
見れば、初穂はショックを受けた様子で大口を開け、柳さんは眉をひそめ、董胡は立ち尽くし――
唯一、叶だけが思い通りだとでも言いたげに笑っていた。
***
我ながら、政治家もびっくりの大失言だったと思う。
おかげで私達は現在のナツが夏肖さんでないことを、加恋に説明しなければならなくなった。
それも、密閉されたミーティングルームで、顔を突き合わせて、だ。
私は、皆の免疫力がウィルスに打ち勝つことを祈らずにはいられなかった。
一方、夏肖さんと肖衛が入れ替わった経緯を知った加恋は、信じないと吐き捨てた。
とはいえ夏肖さんに双子の兄がいることは以前から知っていたらしい。
それでも彼女は頑なに、ナツが肖衛であることを信じようとはしなかった。
しまいには、彼が夏肖でないはずがない、恋人だった自分にはわかる、と無茶苦茶な反論までした。
当然かもしれない。
想い続けてきた人が、昏睡状態に陥っていると告げられたのだ。
使い古された表現かもしれないけれど――その心情は察するに余りある。
「あんたにゃ悪ィが、俺達の話は真実だよ。こいつは夏肖じゃねぇ。肖衛だ」
「そんなの嘘! ねえそうだよね」
――夏肖。
別れ際、その名を呼びながら肖衛に縋った彼女を、誰が止められただろう。
そのときばかりは、皆が傍観者だった。当の肖衛も、例に漏れず。
彼は、自分の胸で嗚咽する彼女に声をかけることはおろか、肩を抱くことすらしなかった。
それは私への気遣いというより、加恋本人への優しさだったのだと思う。
ひとしきり泣いて、泣きはらした顔で引き上げて行った加恋は翌日、関係各位にファックスを流した。
そこには陳謝の言葉と共に、自分が本当はナツの交際相手ではないこと、勝手に嘘をついていたこと、これからは片思いでもナツを思い続けて行くことなどが綴られていた。
彼女を非難する声は多かった。直後から、仕事のオファーも激減したらしい。
あれだけ世間を騒がせたのだから無理もない。
でも、私はその一途さが鮮やかに印象に残って、むしろ騒動以前より少しだけ、彼女に好感を持つようになったのだった。
美鈴さんと未知には、声を揃えて甘すぎると叫ばれたけれど。
そして――。
騒動が一段落し、肖衛と私の別居生活がすぐに解消されたかといえば、そんなことはなかった。
迎えた夏本番はロックの季節。
当然シヴィールも夏フェス参加やライブツアーの開催が決定していて、八月いっぱいは全国を飛び回るため、どう頑張っても自宅には戻れないとのことで。
つまり私の実家暮らしは、秋口まで続く見通しとなった。
そうと聞いて、私は何故だか落胆した。素直に言えば、寂しかったのだ。
4ヶ月に満たない期間ではあったけれど、毎日寝食を共にしていた相手が突然いなくなってしまったわけで、その喪失感といったら想像以上のものだった。
だからといって――。
不抜けになるのは嫌だった。だから、無力にかこつけて大人しくしているのはもうやめた。
ようやく、自分が彼らにしてあげられることに気付いたから。
「はいっ、今日の差し入れ。デザートはレモンのはちみつ漬けだよ」
「えー……僕、すっぱいの嫌いだ」
「そんなこといって、叶は冷たいものばっかり食べるからスタミナないんでしょ」
「ほっといてよ、僕、三食シェイクでいいんだっ」
「良くない。倒れて苦しむのは自分なんだからね。ほら、おにぎり食べる」
「……はぁい」
「なんだ、芹生ちゃんはお母さんみたいだな」
私と叶のやり取りを聞き、董胡はくくっとおかしそうに笑う。その横で、柳さんは渋い顔をしている。
ライブのリハーサルを終えた彼らは汗だくで、もれなく潮の香りがする。努力の匂いだ、と、私はどこか誇らしく思う。
「そうだね。そうなるといいなぁって……」
「うん?」
私、皆のお母さん役になれたらいいなって思うんだ。
一部反対意見が聞こえてきそうだから、言わないでおくけど。
「……今日も来てくれたんだね」
「あ、ナツ! はいこれ、甘いたまごやき」
「ありがとう。なんだかセリ、最近生き生きしてない?」
何かあったの、と問う肖衛の前に、半裸の初穂が割り込んで来る。
「はっ、しつこいオッサンと別居できてせいせいしてるからに決まってんだろ。な、芹生ー」
「いや、せいせいはしてないけど……」
「なんだよっ、ノロケる気か!」
「ちょ、違」
困ったなぁ、と思っていたら、柳さんがどうぞ、と助け船ならぬ折り畳み椅子を出してくれた。
「暑いでしょう。扇いで差し上げますね」
「い、いえっ、結構ですっ」
「セリちゃん、アイスあげる。食べかけだけどいいよね?」
「え、あ、ありがと叶」
「おう、アイスコーヒーにミルクはいるか?」
「あ、と、董胡まで」
気付けばちやほやされている現状、私が理想の自分になれる日はまだ遠いかもしれないけど。ひとまず。
「あ、あの、ナツ」
舞台袖でふたりきりになってから、そっと伝えた。
「はやく帰ってきてね」
待ってるから、私。
彼は笑顔で頷くと、物陰で私に軽いキスをし、スタンバイの位置まで駆け出して行った。
遠い世界の人だ。
だけど、支えて行けたらと思う。
誰よりも近くで。
そのためには、ねえ肖衛、あなたのことをもっと知りたい。
何を考えているのか。
何を抱えているのか。
何を隠しているのか。
知った上で、伝えたいことがあるの。とても大切な話なの。
呟いた私を暗がりに残し、舞台はまばゆい光に満ちる。
私はただ、彼らに最高のパフォーマンスが出来ますようにと祈るのだった。
*一部完、引き続き、二部へ。