17、He makes me feel as if I know nothing.(b)
叶から、待ち合わせ場所に着いたと連絡があったのは十九時を三十分ほど過ぎた頃だった。
夜になって家を出ようとする私を見、父は訝しげな顔をした。それこそ、余所に好きな男がいるのかとでも問いたげな。
慌てて、相手は肖衛の会社の部下なのだと弁解をした。嘘は言っていない。
出張中の彼からの預かりものを受け取るだけ、ともっともらしい理由も付けたけれど、納得してくれたかどうかは怪しい。
一緒に行きたいとだだをこねる妹弟達を振り切って、指定されたコンビニまで駆ける。
からがら辿り着くと、ゴミ箱の横でしゃがみ込んでいた少年が「あ」と言った。
「やけに遅かったね」
紺色のブレザーは高校の制服だろうか。細い体によく似合う。
「ごっ、ごめ、妹たちが……げほ」
胸元を叩いて息を整えようとしたら、豪快に咽せてしまった。失敗した、走らなきゃ良かった。
「あげる。飲めば」
すると、そんざいに差し出されたのはファーストフード店のシェイク。
半透明の蓋から透ける茶色を見るに、恐らくチョコレート味だ。それも、飲みかけ。
「げほっ……、い、いいよ」
余計咽せそうだし。
「いいから飲みなよ。それじゃ落ち着いて話せないもん」
「い、いや、でも……ごっほ」
「間接キスとか気にしてるならナンセンスだからね。こんなの、学校ではよくあることだし」
そう言われては断るに断りきれなくなる。渋々受け取って、彼の横に腰を下ろした。口は、つけなかったけれど。
「……で、話って?」
「うん、あのさ、この間言ったこと、ひとまず撤回しておこうと思って」
「この間言ったこと?」
「ナツと離婚して、って言っただろ、あれのことだよ」
「ああ!」
「……アンタ、本っ当に忘れるの得意だよね。頭の中、平和すぎ」
喋り方に刺があるのは、ばつが悪いからだろうか。
まあ、あんなことがあった直後だから仕方ないのかもしれないけれど。
「こないだ柳から、二人の結婚の本当の理由、聞いたんだ。で、ナツにも確認した。そうしたら、そうだ、って言うから。アンタがナツを騙してる、ってのはないかなって」
「信じてくれたんだ?」
「当然だよ。ナツの言葉なら、僕は疑わないもん。だからアンタはこれからも、のうのうとナツの奥さんやってなよ」
笑ってしまった。のうのうと、か。とりあえず誤解はとけたのかな。
「ありがと。叶は優しいねえ」
「ご、誤解するなよなっ。アンタがナツとつり合ってるとか、思ってるわけじゃないし!」
彼は上気しかけた顔で居心地悪そうにそっぽを向く。そうして、ぼそっと言った。
「でも、まあ、あの取り澄ました女よりマシかな」
「取り澄ました……って和久井加恋のこと?」
「うん。僕、あいつ嫌いだ。ナツの気持ちなんて完全に無視してるし、ナツを困らせてる。許せない」
やっぱり悪い子じゃないんだよなあ、と私は脳内で呟く。
叶のナツに対しての思い入れはそこらへんのファンよりずっと強い。だから、この間のことは空回りしてしまっただけなのだと思う。
「今のところはノーコメントで通してるけどさ、それもマスコミに叩かれてるし」
「そうだね。ニュースで、ちょっと見た」
「身動きがとれないんだ。加恋の事務所は、昔シヴィールがスカウトを断ったところだから……、正直、あまり状況はよくないよ」
叶は座り直して言う。
「せめて、加恋が何を考えてるのかわかればいいんだけどね。単なる番宣なのか、事務所の命令でウチを潰そうとしてるのか、それとも本当にナツを好きなのか――」
うん、と私は軽い相づち。
肖衛が対応に苦慮しているのは、それが本当の理由なんじゃないかと思う。
朝に晩に大きく報道されて、こんなに事態が大きくなっているところを見るに、加恋サイドが火消しに積極的でないことは明らかだ。
一体、何がしたいのだろう?
「でさ、董胡がさ、いっそナツが結婚してること、公表しちゃおうって言ったんだよ。でも柳が、それじゃ不倫したみたいになるからますます印象が悪くなるって反対して」
「……確かに」
今はタイミングが悪すぎる。
結婚の事実は、和久井加恋の嘘を暴くには効果的かもしれないけれど、あちらの事務所を不利に追いやることにもなる。
それってやぶれかぶれみたいで――結局裏目に出そうだもん。
「けど、なにより、ナツ本人が断固拒否って感じでさ。結婚してることは絶対にいわない、って」
「それは……」
最初からそうだったし、それに。
「肖衛にとって“ナツ”は夏肖さんの名前なんだよ。だから、好き勝手できないんだと思う」
となると、現状でも充分くるしいはず。
唸りながら膝を抱えたら、叶が丸い目でこちらを覗き込んできた。
「ねえ、アンタ、それでいいの?」
「ん?」
「自分の旦那がさ、別の女に所有権主張されてて大丈夫なの。アンタにとってのナツってそんなものなの」
純粋そうな瞳に見つめられ、たじろいでしまう。色んな意味でドキッとした。
「……正直、最初は大丈夫じゃなかったよ」
「最初は?」
「うん。最初だけはね。でも今は不思議と平気なの。だって、……信じてるから」
消え入りそうな声で言ったのに、彼の耳にはちゃんと届いたようだった。
「そっか。アンタもナツの言葉、信じてるんだ」
嬉しそうに言うと、叶はスクールバッグをごそごそ探った。
そこから見覚えのあるネックストラップを取り出し、立ち上がりざま、こちらに放る。ホルダーには、例の偽社員証が入っている。
「なら、いいこと教えてあげる。あさって収録のスタジオで、和久井加恋とナツが“たまたまはちあわせ”するよ」
「えっ」
「ちょっとね、仕組んだんだ。顛末を見届ける勇気があるなら来なよ」
そうして再びバッグに手を突っ込むと、ミルクチョコレートを三枚、私の目の前に突き出した。
「ん」
「……く、くれるの? こんなに」
「アンタに、じゃないし。弟と妹、いっぱいいるんだろ。そいつらにだもん」
乳幼児には与えにくいお土産だなあ、と思いつつも、有難く受け取った。気持ちだけで充分嬉しい。
叶はスクーターにまたがると、
「転ばずに帰れよな!」
そんな捨て台詞を残して去っていった。思わず笑ってしまった。素直に気をつけろって言えばいいのに。
チョコレートが溶けてしまわないように、私は早足で自宅アパートへと引き返す。
途中、三回も思い出し笑いをして動けなくなってしまったから、到着時刻が早まったかと言えばそうでもなかったのだけれど。
***
それから二日後、私は叶に誘われるまま、都内某所の音楽スタジオを訪れていた。
迷いがなかったわけじゃない。……いや。
実を言えば、待ち合わせ場所に到着してからも、私は存分に迷っていた。
肖衛のことは信じている。疑ってなどいない。だから事を見届ける勇気がないなんてことはない。
ないはずなのだ。それでも、加恋と並んだ様を想像すると胸をかきむしりたくなる。勇気がしぼんでいく。見たくないなと思ってしまう。
なのに、じっとしている気にもなれないのはどうしてだろう。
「あれっ、芹生ちゃん!?」
受付で叶を待っていると、ギターを担いだ董胡とばったり出くわしてしまった。
気まずかった。私が来ることは他のメンバーには言わない、きっと反対されるし、と叶に言われていたから。
「どうした? 桂木ちゃんなら美鈴と一緒に事務所だぞ」
「あ、いえ、今日は未知に会いにきたわけじゃなくて……」
言い訳くらい考えてくるべきだった。後悔が頭を駆け巡る。と、
「ごめん遅くなってっ」
自動ドアをこじ開けるようにして、叶が飛び込んできた。
「セリちゃ――、あ、董胡おはよっ」
「おう。なんだ、おまえが呼び出したのか、彼女」
「うん。あのさ、ナツ、ここんとこ本調子じゃなかっただろ。セリちゃんがいれば元気出るかなあって。……ダメだった?」
「いや、うーん、駄目ってことはないが……」
「そっか。良かったぁ、じゃあ行こ!」
無邪気な笑顔から、嘘に対する罪悪感は読み取れない。
子供のようにはしゃいだ仕草で私と董胡の腕を引く叶は、私が以前知っていた彼そのものだった。
こんな二面性があったなんて。ちょっと苦笑い。
「ナツーっ!」
エレベーターを降りたところで叶が叫んだ。
瞬間、私の心臓が飛び上がったのは、その声があまりに大きかったせいじゃない。
数日ぶりに肖衛と目が合ったからで、加えて、その横にすらりとした長身の美女の姿を見てしまったからだ。
「セリ……!?」
驚いた顔の彼の隣で、彼女は悠然とした笑顔。
「あ、お仲間到着だ。こんにちは、和久井加恋です。ってもう知ってるかぁ」
ワイドショーを賑わせている話題のカップルが、画面を飛び出してそこにいる、といった感じだった。
立ち竦む私の前方を、董胡がさりげなく塞ぐ。
「和久井……なんでここに」
「うん、あのね、私も近くのスタジオを使ってて。そうしたらここにシヴィールがいるっていうでしょ、つい」
やけに馴れ馴れしい喋り方だ。そう思っていたら、
「ねえ董胡さん、私のこと、忘れちゃった?」
彼女はそう言って董胡の目前にずいと迫った。困惑が、広い背中から伝わってくる。
「うーん、この顔じゃ無理か。十年前は一重まぶただったもんね。それだけ綺麗になったってことなら嬉しいんだけど」
「……十年前……って、おまえまさか」
「ふふ、わかった? やっとわかってくれた?」
加恋が、しなだれかかるようにして肖衛に抱きついた気配がした。
「そうです。私、インディーズ時代のナツの――夏肖さんの元カノ。ていうか、今も世間的には熱愛中だよね。ね、夏肖?」
まずいことになった、というのは、私というより董胡や叶や、肖衛たちの気持ちだったと思う。
「彼、別れ際にいつか結婚しようって言ってくれてたの。なのになかなか迎えにきてくれないから。だから焦らせようと思っていろいろと謀らせていただいたんだ」
 




