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いちご†盗人  作者: 斉河
<第一部>
17/42

16、He makes me feel as if I know nothing.(a)

 

「その程度の謝罪で……ていうか謝罪らしい謝罪すらせずに妻の許しを得られるなんて、肖衛くん、ほんっとにいいご身分だわ。事務所住まいの間中、道ばたの貧乏草でも食って生きてりゃいいのよ」


 清々しい笑顔で美鈴さんは毒を吐く。かきあげた髪の生え際がさかんに引きつっているのを見、私は愛想笑いしかできなくなる。

 現在、彼女の顔のパーツにおいては唯一、額だけが感情に正直だ。

 私は監督特製のネギみそラーメンを前に割り箸をわって、肩をすくめた。


「未知にも甘いって叱られました」


 あれから――ナツと和久井加恋の熱愛報道が列島を駆け巡ってから―― 四日。

 私は肖衛の提案通り実家での生活を始めていた。

 簡単な荷物しか持参しなかったものの、それで不都合があるかといえばそんなことはない。

 狭い家の中にはまだ私の私物が出て行ったときのまま、数多く残されていたから。それらは多少の埃をかぶってはいたものの、払えば何ら問題なく使えた。

 今日は買い物へ行こうと家を出た途端に美鈴さんから連絡があって、ここ、やまだ屋へと赴いたのだけれど。


「まあね、私も叱りたいくらいだわ。いくらなんでも寛容すぎるもの。普通、旦那に浮気疑惑が持ち上がったら、動かぬ証拠を掴んで突きつけるか、血反吐をはくまで問いつめるか、いずれにせよぎゃふんと言わせるもんよ。それが妻ってもんよ」


 血反吐をはかせるのは彼女独特の手段だと思う。


「あの、でも、私も言いたいことは言いましたし、初穂とふたりきりでいたのも申し訳なかったっていうか、肖衛もあの記事は誤解だって言ってくれたから……」

「だからそこが甘いっていうのよ」


 ずばり言い切って再び髪をかきあげると、美鈴さんは豪快にラーメンをすすった。

 無関係だろうに、餃子に差し水をしていた監督が、カウンターの向こうで肩をはねあげる。巨体がすっかり縮み上がっている。

 美鈴さんの権力はやまだ屋においても通用するらしい。


「現に、相手の女は公共の電波を使って堂々と交際宣言なんてモンをしてくれてるのよ。このままでいいの?」


 いいの、も何も。


「事務所が弱小だから、大手には逆らえないんだって董胡から聞きましたよ」


 だから否定のファックスも、送るに送れなくなってしまっていると。


「弱小がなによ。あそこまで言わせておくなんて癪じゃない。彼の好きな食べ物はパスタですーとかなんとか、加恋はすっかり妻気取りだし、それを野放しにしておく肖衛君も肖衛君だわ」

「……野放しっていうか、仕方ないんじゃ……」

「そんなことないわよ。もう、彼の浮気疑惑は私の中で限りなく漆黒に近いカーボンブラックだわ」


 つまり種類はどうあれ完全に黒って言いたいのか。

 私は苦笑いでメンマをつまむ。細切りのメンマ。美味しい。


「でも、和久井さんの発言、正しくないです。肖衛の好きなもの、パスタじゃなくて唐揚げとたまごやきだし……だから私、肖衛の言うことのほうが、正しいんじゃないかなあって」

「甘いっ」

「そう、甘いたまごやき」


 ようやく口に運んだ麺は、すでにちょっと伸びていた。

 この間ごちそうになった炒飯のほうが断然おいしい、なんて言ったら失礼だろうけど。

 肖衛、ちゃんとご飯、食べてるかなぁ。


「……ま、芹生ちゃんがそう言うなら、私も黙るしかないけど、でもねぇ」


 美鈴さんは箸の先で、半分ほどになったどんぶりの中を行ったり来たり、迷うみたいにかき混ぜる。


「その調子で、本当に許し難いことが起こったらどうするの?」

「許し難いこと?」

「そ。そうやって深く考えずにやり過ごしてると、いつか本当に許せないことがあったとき、許し方がわからなくて困ることになるかもしれないわよ」


 何故だか、胸の辺りがずんと重くなった。

 正直をいえばその言葉の意味までは計りかねていたのだけれど――、多分、本能的に。

 それはある意味で、予感のようなものだったのかもしれない。

 すると、店の引き戸が勢いよく開き「ままー!」幼い女の子が駆け込んで来た。

 紺色の園服にはミニチュアみたいなセーラータイプの襟。リボンのついた帽子とあいまって、小さな海兵さんって感じだ。

 ついつい、頬が緩んでしまう。


理緒りお、おかえりー!」


 美鈴さんは箸をどんぶりの中に放って、彼女を抱き上げた。

 この子――理緒ちゃんは御年三歳、何を隠そう、美鈴さんとマネージャーさん夫婦の愛娘なのだ。

 つまり、美鈴さんは働くママ、というわけ。ますます格好良くて尊敬してしまう。

 私には出来ないだろうな。体力ないし。


「よう、話は終わったのか」


 続けて姿を現したのは董胡だった。後ろ手に引き戸を閉め、監督に「おす」頭を下げる。

 董胡は、肖衛につきっきりで忙しいマネージャーさんにかわり、理緒ちゃんを幼稚園に送迎しているらしい。

 彼だって決して暇を持て余しているわけではないのだけれど、美鈴さんは免許を持っていないから致し方なく、なのだとか。


「まだ。本題が……なかなかね。――あ、理緒、おじさんにお礼を言いましょうか。昨日練習したとおり」

「うん!『またあしたもじかんどおり、きっちりむかえにこいよ!』、言えたー!」

「よしよし、いい子ねえ」

「……おい、なんて台詞を教えてるんだ、オサナゴに。あとオジサンはやめろオジサンは」


 白い目をして妹に一瞥をくれると、董胡は私の隣に腰を下ろした。

 暑さの増した最近、それでも涼しい顔をして黒尽くめのスタイルを貫く点は尊敬に値する。


「よ、大丈夫か。災難だったな」

「ううん。董胡こそ疲れた顔してるよ。あ、餃子食べる?」

「おう、悪ィな。……ところで芹生ちゃん、こないだ柳に迫られたって?」


 私は思わず、持っていた箸を取り落とした。すかさず、監督が代わりの割り箸を差し出してくれる。


「ど、どうしてそれを」

「本人から聞いたよ。早まったって懺悔してたぜ。ま、あいつ、いつかはやるかもと思ってたがな」


 私も、と小声の同意は美鈴さんから。


「……初穂より先に、柳のほうが危ないと思ってたわ。止められなかったのは私達の責任ね。ごめんなさい」

「どういうこと?」

「ああ。実はさ、今日はそれが本題なんだが」


 餃子をひとつ頬張って、呑み込んでから董胡は言った。


「柳の過去」

「柳さんの? 何か……あったの」

「ああ。実はさ、あいつ、数年前に想い人を亡くしてるんだ」


 私はえっと言って目を見開いてしまった。以前チラと聞いた、あいつも複雑だから、ってつまりそういうこと?


「で、その彼女と芹生ちゃんは、厄介なことにある一点において酷似してるんだよな。夫に、尽くしすぎるくらい尽くすところがさ」

「夫……って、まさかその人、結婚してたの?」

「まあな。それも、柳の兄貴の奥さんだった」


 気の毒そうな顔で息を吐く監督。知っているのだろう。


「仕事仕事で家庭を顧みない夫を、支えて、支えて、支え続けて、挙げ句、両親の介護が重なってさ。頑張りすぎたんだな。ここが――」


 董胡は親指で胸のあたりをトントン叩いた。


「壊れちまった」


 その先は、聞かずともありありと想像することが出来た。父も同じだったから。

 家族のために、家族を養わなければと、自分を追いつめて――破綻した。死に、魅入られてしまった。

 ああいうのは一旦スイッチが入ると本人には制御がきかなくなってしまう……ように私には見えた。

 だから壊れるという表現はまさしく的を射ていると思ったのだけれど。


「柳の後悔は計り知れねえよ。例え倫理を踏み倒してでも、無理矢理にでも、奪って逃げていれば命だけは救えたかもしれないって、あの頃は口癖みてえに言ってた」


 それで、か。私は納得の二文字を飲み下す。

 柳さんが、私のことを見ていられないなんて言ったのは。

 尊敬する上司の妻を相手に、簡単にその垣根を飛び越えそうになったのは。


「だからさ、芹生ちゃん、あまり肖衛のために頑張りすぎないでやってくれないか。せめて、柳の目の前ではさ」


 ***


 私は董胡の車で一駅先のスーパーまで送ってもらい、買い物袋(といっても持参のエコバッグだけど)をふたつ下げて実家アパートに帰宅した。

 時刻はすでに、午後の四時を回っていた。


「ただいまー」

「あ、おかえりなさい芹生」


 狭い玄関で出迎えてくれた母の腕には、生後半年の末弟が抱かれている。

 結婚するのに家を出たときと比べると、格段に大きくなった。とはいえ、まだまだ夜泣きの絶えない、ミルク臭い赤ん坊だ。

 身体を屈めて、キスをしようとして、ふと思いとどまる。

 うがいと手洗いが先だな。万が一、風邪でもうつしたら大変だし。

 と、再び荷物を担いだ私の足めがけ「おかえり、おねえちゃん!」花梨が突進して来た。


「お、ただいま。いい子にしてた? 今日はひき肉が特売だったからハンバーグだよ」

「わぁい、ハンバーグう!」

「ハートの形にしようか。それともクマさんがいいかなぁ」

「くまさん! くまさーんっ」

「よし、じゃあくまさん決定。すぐ作るから待っててね」

「もう、そこまでしなくていいのよ。せっかく帰省してこれじゃ、休まる間もないでしょう」


 気遣わしげな顔で、母が荷物に手を伸ばす。私はその華奢な手をかわして、台所へと向かう。


「いいの。お嫁に行った以上、私は他家の人間だもん。肖衛が出張の間、長くご厄介になるぶん、やれることはやるよ」


 そう。家族に対しては、帰省の理由を『肖衛の海外出張』だと言ってある。


「でも、食費まで出してもらって」

「それは肖衛のいいつけだから。ほんと、もう気にしないでよ」


 実を言うと私は今回の帰省にあたり、肖衛から生活費と称して十万円を持たされている。

 例のごとく突き返した私に、もう一度それを握らせて『俺のセリがお世話になるから』だと彼は言った。

 確かに、私はもう肖衛のものだ。実家の人間じゃあない。

 で、それ以上拒否する理由もなくなってしまって、有難く使わせてもらうことにしたというわけ。

 正直、まだ実家の生活には余裕が無いから有難い。


「お母さんこそ、私がいる間に少しでも日頃の疲れを癒しておきなよ。毎日大変でしょ?」

「芹生……」


 母は申し訳なさそうに眉尻を下げると、あなたは昔からそうだったわね、と懐かしむような口調で言った。


「昔から、長女っていうよりお母さんって感じだったのよね、芹生は。弟達の面倒もよく見てくれて、家事もお手伝いしてくれて、近所の人にも羨ましがられたわ」

「そうだっけ」


 購入して来た食材を手早く冷蔵庫につめ、かわりに人参を二本とりだし、シンクの中に置く。

 ご飯を炊く前に、グラッセを煮始めよう。

 一番上の引き出しをあけ、ピーラーを取り出そうとして、手を止めた。違う、二番目の引き出しだ。

 またやってしまった。もう四日もいるのに、自宅と同じ場所を探ってしまうなんて駄目だな私。


「でも――そのおかげで叶わなかったこともあったわ」


 花梨が足下でおままごとをはじめたので、踏まないように注意しながら私は振り返った。


「なに、それ」

「あなたのワガママをきくこと。聞き分けのいい台詞なら何度も耳にしたのに、ワガママだけはほとんど聞けなかった。なんて、今更ね」


 そうだろうか。その場その場で言いたいことは言っているし、我慢をしてきたつもりもないのだけれど。

 返答に迷っていると、ねえ、と母は小声で言って、末弟をベビーベッドに寝かせた。


「肖衛さんはいい人ね。芹生のこと、ちゃんと想ってくれてるし。うちのことまで気にかけてくれて」

「……うん」

「あなたは今、ちゃんとしあわせなんでしょう?」


 頷いて、照れ隠しに俯いた。


「でもね、……悪いんだけど、それ、お父さんには言わないで欲しいの。しあわせだってこと、もう少し、黙っていてあげて欲しいの」

「え?」

「勝手だってわかってるわ。でもあの人今、芹生を肖衛さんから取り戻すために必死で頑張っているの。それだけが心の支えみたいなの。その目的を失ったら、どうなるか――」


 そういえば、未知もそんなことを言っていた気がする。父は私を取り戻す気でいる、って。

 見れば、母のほうがすっかり下を向いてしまっていた。つむじからは申し訳なさが染み出している。


「だからお願いよ。もう少しだけ、肖衛さんを悪者にしておいて」


 悪者……。

 彼らが普段、肖衛をどんなふうに言っているのか予想できてしまって、胸が痛かった。

 確かに、両親にとって彼は突然現れて娘を奪って行った憎き男なのだろう。

 でも、差し出したのはお父さんとお母さんだし、借金だって返してもらったのに。恩があるのに。


 肖衛は何も、悪くないのに。


 反感は覚えたけれど、私はしぶしぶ頷いた。他に選択の余地はなかった。

 やまだ屋で聞いた柳さんの過去が再び父とリンクして、怖かったから。

 恐らく父のスイッチは、まだ入ったままなのだ――。


「……あ、ごめん、メール」


 着信音が鳴ったのをいいことに、私はその場を逃げ出した。何もかもがやるせなかった。

 玄関の外、階段の踊り場に出てから画面を確認する。それは“彼”、つまり叶からのメールだった。


《夜、ちょっと会える? 話があるんだ。七時にそっちへ行く》

 

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