15、Like a mystery.(c)*
数十分後、店に現れた肖衛は慌ただしく私を攫った。
滞在時間なんてあってないようなもので、せっかくの再会に――といっても離れていたのは半日程度なのだけれど――言葉を交わす間もなかった。
ただ、荒々しく腕を掴まれて車まで引っ張って行かれただけ。
ほんの数秒間の出来事だった。
しかし私の脳裏には、去り際に目にした光景が焼き付いて離れなくなってしまった。
寂しそうな目をしつつも、口角を上げて小さく手を振ってくれた初穂の姿が。
それはビジネスホテルで肖衛と二人きりになってからも、私の心をちくちく苛んでいた。
「……どうしてこんな時間に初穂とふたりでいたの?」
「それは――」
叶に誘拐されて。いや、そんなことは言えない。
シヴィールの今後を考えれば、これ以上の不協和音を生むわけにはいかないから。
「ああそうか、君は俺の“ちゃんとした妻じゃない”んだったっけね」
皮肉られて、私は下唇を噛む。さっきからずっとこうだ。肖衛の機嫌はすこぶる悪い。
「俺の気持ちを知っていて“部外者”だなんて、ああも非情な言葉がよく言えたよね」
「――っ……」
「君は俺を責める気なんて一切ないらしいけど、生憎、俺にはあるよ。あんなふうに、他の男と過ごしている様子を見せつけられたらね」
返せる言葉はなかった。責めたりしない、そう言ったのは自分だ。だけど。
「泣くならどうして俺の側で泣かない。どうして初穂を選んだんだ」
「選んでなんか……」
ない。あれは不可抗力みたいなものだったし。
けれど、今となっては相手が初穂で良かったと思う。こんな、理不尽な男よりはずっと。
「まあ、人選は間違えていないよね。自分に懸想している男なら、誰より優しく慰めてくれるだろうし」
どうしてそこまで言うの。
悲しい、を通り越して頭にかっと血がのぼるのがわかった。
「ほ、他に言うこと、ないの……!?」
人のことばっかり悪し様に言って――。
「原因を作ったのはそっちじゃない!」
「へえ。俺が、君をこの愚行に駆り立てたというわけ」
「……そうだよ」
タガの外れる音がした、ような気がした。
「私のこと、好きだとかセリだけだとか、散々調子のいいこと並べて」
「うん?」
「突然、あんな美人とお泊まりツーショットとかっ……ショック、うけないわけがないしっ」
それで、と問いかける声は冷たくて、私は怒りとも悲しみともつかないギトギトした感情に、胸焼けをおぼえる。吐きそう。
「に、逃げるので精一杯だったんだもん。なのに追いかけて来てもくれないし、言い訳も何もしてくれないし、そんな、めちゃくちゃな気分のときにひとりにするし――」
「だから初穂の腕に縋って泣いたんだ?」
「そうだよ。そうだもんっ」
本当は泣いてなんかいないけれど。でも、泣きたかったのは事実だ。
今だってそう。泣きたいくらい。
悔しい。認めたくない。だけど本当は、誰より自分が分かってるんだ。
「ぜんぶぜんぶ、肖衛のせいだもん……!」
こんなに苦しいのも、苛々するのも、分かってもらえないことが歯痒いのも。
ぜんぶ、肖衛が原因なんだってこと。
(もう、私ばっかり馬鹿みたい……)
溜めに溜めた大粒の涙が溢れるのと、広い胸に抱き寄せられるのは同時だった。
「……やっと、本音が聞けた」
耳にふきかかる、安堵の声。え?
茫然としていると、こめかみに、ちゅ、と音を立ててキスをされた。
「ごめん、意地悪して」
「……へ……?」
「セリが号泣したって聞いて、その理由、どうしても知りたくて」
事態が呑み込めない。
ひく、としゃくり上げた私の背を、大きな掌が優しくさすってくれる。
「初穂とのことは別に怒ってなんかないよ。諸々の君の発言もね」
「肖、衛」
「気にしていないとは言い難いけど、チャラにする」
何?
「セリも同じように、妬いていてくれたみたいだし?」
ようやく、掌の上で転がされていたことに気付いたら、顔面がぼわっと熱くなった。
悔しい、というより恥ずかしくて。
「や、妬いてなんか、ないも……」
「今更取り繕ったって無駄無駄」
「う……っ」
そうだ。この人、こういう人だよ。
「ひ、卑怯者ぉっ」
「ふふ、いいよ、多少の悪口は気にしないよ。今は気分がいいから」
「ヘンタイ、サディストッ」
「それはまあ事実だしね」
「……っ、肖衛なんて」
肖衛なんて。
「嫌い。大っ嫌い……!」
はっきり言ってやったのに、彼は破顔して私を押し倒した。
「―― 知ってる」
せっかく綺麗に整えられていたシーツをぐしゃぐしゃにして、私達は昼間の続きをした。
無理矢理された、と言いたいところだけれど、悔しいかな違う。拒否らしい拒否なんてしなかったから。
しかし、ベッドがコンクリートのように硬かったせいで、私の尾てい骨には見事な擦り傷ができた。
そこで見逃してくれるかと思いきや、うつぶせにされて、がっちり押さえつけられて、覆い被さられたときにはバカバカと十回は言ったと思う。
言ったところで、簡単には放してなんてもらえなかったけれど。
「も、ばか……っ」
「言っただろ、そういうの気にしないって。気分がいいからね。いや、今いいのは身体のほうか」
「へんたいぃい」
「セリが悪いんだよ。どこを触っても柔らかくて……癖になるから……」
案の定、傷口はシャワーを浴びたらしみて、飛び上がるほど痛くて。でも。
あんなに痛かったはずの胸の奥はというと、鎮痛剤をつかったみたいにけろっと治ってしまったのだった。
***
こうして迎えた翌朝――といってもまだ薄暗い午前四時のこと――。
バスローブ姿でまどろんでいた私は思わず飛び起きた。
バスルームから出てきた肖衛が、すっかり着替えを済ませていたから。
「え、もうチェックアウト?」
「いやまさか。セリはゆっくり寝ていくといいよ。急な予約だったけど朝食もつけてもらったから」
「肖衛は? まさかもう事務所、行くの」
「そのためにこんなところに泊まったんじゃない」
自宅まで戻る余裕はないからね、と言って革靴に足を入れる。
「例の記事が出たら、しばらくばたつくと思う。一応マネージャーと柳に電話番を頼んできたけど、そろそろ代わってやらないと」
「……肖衛だって寝てないのに」
「俺は大丈夫。セリに癒してもらったから」
上体を屈めてキスをくれる、彼の目は充血している。
私は咄嗟に、目の前に垂れ下がったネクタイの先端をツンと引っ張った。
「あの」
「ん?」
「……あまり無理、しちゃ、だめだからね」
本当は、引き止めたかった。だけど、言ったところでどうせ聞かないだろうし。
仕事に対してストイックなところ、嫌いではないけれど心配になる。
こういう苦労、いちファンだったときには全然気付かなかったな。
すると肖衛はありがとうと言って、私の隣に腰を下ろした。
「ねえセリ、明日からしばらく実家に帰省していてもらえるかな」
「え、どうして」
「事態が収束するまで、事務所に寝泊まりしようと思うんだ。万が一、後をつけられて自宅がバレても困るし」
「そんな。なら私、ひとりで待ってるし」
「それは駄目。セリをひとりにしたら飛びつきそうな虫がたくさんいるからね」
「でも、帰省なんて……」
「ああ、心配しなくていいよ。ご両親には俺から連絡をいれておくから」
そういう意味じゃなくて。
うつむいたら、オデコとオデコがこつんと当たった。
「そんなに寂しそうにされると、俺、自惚れるけどいいの」
「……だめ」
「手厳しいなあ」
「……まだ、だめだもん……」
こうして彼は部屋を去り、私はエアコンの耳障りな音を聞きながら横になった。やけに、さびしかった。
だから当然のことだけれど熟睡なんてできなくて、ベッドを出たのは三時間後の七時ぴったり。
躊躇しつつも、テレビのスイッチを入れる。
肖衛はマスコミ各社に否定のファックスを送ると言っていたから、もしかしたらその文面が映し出されるかもしれないと思いながら。
しかし音声が流れ出すなり、私は硬直してしまった。
『―― シヴィールのナツさんとのことは、一部報道にあるとおりです。はい。恋人として、親しくおつきあいさせて頂いています』
そんな台詞が聞こえて来たから。
遅れて映し出されたのは和久井加恋の顔のアップ。それも満面の笑みで。
気のせいか、私にはそれが勝ち誇った表情に見えてならなかった。
『プロポーズされたとしたら? もちろんお受けします。ええ。お忙しい方なので、栄養満点の手料理をたくさん食べさせてあげたいですね』
堂々の交際宣言! と画面右上に丁寧な煽り文を入れられては、冗談と疑う余地もない。
『十歳の年の差? そんなの気になりません。彼のことは……ナツ、って呼んでます。はい。いつもすごく優しいです――』
私は大口を開けて、しかし場所がホテルの一室だけに実際に声を上げるのは自粛して、脳内だけで叫んだ。
(何言ってんだこの人!)