14、Like a mystery.(b)
「ど、どういうこと。加害者って――そんなわけないよ。だって、死にかけていた私を助けてくれたのが彼だったんだよ」
「……本気で言ってる?」
「あたりまえじゃない」
自信満々で胸を張った私に、叶はもういいよと短く言って背を向けた。
どこがいいっていうんだ。何ひとつ納得できない。
しかし叶はそのまま電話を掛け始めたから、続けて尋ねることは出来なかった。
大好きな芹生ちゃんがここにいるよ、チャンスだよ、なんて言うところをみると、相手はどうやら初穂らしい。
それにしても――
『十三年前』に関して、不可解なことが多すぎやしないだろうか。
母が何かを隠しているのはほぼ確実だ。なおかつ、肖衛と約束なんてものもしている。
それに、叶の発言を鵜呑みにするなら、私の朧げな記憶はそれ自体がまるきり間違いだということになる。
“彼”が加害者で、私が被害者だなんて。
スカートの裾から覗く傷跡を、指先でなぞってみる。
あの日、一体何があったというのだろう。
もしかして肖衛はそれを知っていて、母と口裏をあわせている?
浮かんだ疑惑は、これまでの経緯を思えば簡単には否定できなかった。
その後、私は電話が終わるのを見計らって質問を続けたけれど、叶は終始無言で、しまいには「いっそ一生忘れていてくれればいいよ」とだけ言うと布団を被って眠ってしまったのだった。
どうせ、狸寝入りだろうけれど。
***
「よし芹生、今晩はナツ野郎のことなんて忘れてぱーっと遊ぼうぜ!」
私を愛車の助手席に押し込め、初穂は上機嫌でカーナビを操作する。
叶の家からは実質追い出されたようなものだし、家にも実家にも帰る気にはなれないし、殴られたときに携帯電話を無くしてしまったから未知にも連絡はとれないし、行き先があるというのはありがたいことだけれど……。
「ダーツとかどうよ。スポーツバーのが盛り上がるかな。あ、カラオケで俺の美声を聞かせるってのもアリか」
「……私、そんな気分じゃ」
膝の上で手を握りしめる。こういうのは正直有難くない。
「なんだ、もしかして気にしてんの、ナツと和久井加恋のこと」
ずばり核心を突かれて、返す言葉は無かった。
「その調子だと、事の真相までは知らねえみたいだな」
「し、真相?」
「そ」
私の知らないことがあるのか。ううん、当然か。
「……知らないよ。だって何も聞いてないもん」
「ん?」
「追いかけても来なかったし。言い訳も何も、されてないもん」
背中に当たるシートの感触がいつもと違う。車内の匂いも。
「出来なかったんじゃねえの。そんな余裕、なかったと思うけどよ」
「え?」
「芹生さ、飛び出して行ったんだろ、事務所。董胡に聞いたけど、そのあと大惨事だったらしいぜぇ」
惨事って。尋ねた私に、初穂はニッと前歯を見せる。
「知りてえ?」
「そりゃ」
知りたくないといえば嘘になる。
と、ますます得意げに笑って初穂は言った。
「じゃ、教えてやるかわりに、俺の言うこと聞けよ」
***
こうして強引に連れ込まれたのは、都内でも有数の高級・高層オフィスビルだった。それも最上階だ。
しかも会員制のクラブだかバーだかレストランだか――こんなところに足を踏み入れたのは生まれて初めてだ。
いや、産道を通る前にだって来ていないと自信を持って言える。
薄暗い店内、すっかり硬くなった私を見、初穂はくはっ、と豪快にふきだした。
「っとに可愛いよなあ、芹生は」
「わ、笑わないでよ。こっちは必死なんだから」
「笑ってねえよ。喜んでんの。そういう場慣れしてねえ感じが、俺には凄く新鮮でさ」
慣れた様子ソファーにもたれ、カクテルグラスを空にする様は、見ていて若干清々しいけれど。
でも、お酒なんて飲んで帰りの運転はどうするつもりなのだろう。
「普通はこういうところに連れてくると、さも当たり前な顔をするもんだぜ、女ってのはよ」
彼の言う“女”の基準は相当偏っていると思う。
「ほら、とっとと食え。腹、減ってるんだろ」
「う、うん」
差し出されたサンドイッチは、具がハムしか入っていないくせに二千五百円もした代物だ。
いらないと言ったのにオーダーされてしまった。こうなったらパンくずひとつ残せない。
初穂はこういうの、食べ慣れているのだろうか。
必死で頬張ったら、肩に腕がまわってきた。
「さて、ちゃあんと俺に口説かれろよ。そういう約束だ」
間近に迫る笑顔。したくないのに、どきっとしてしまう。
初穂の顔の造作は、整っている、ではありきたりすぎて表現として正しくないほどきれいだ。
こういうのを完成している、というのだと思う。
同じ美形でも肖衛とは種類が全然違う。
「お、おちついて食べられないよ」
「なら食わせてやろうか。ん?」
「い、いいってば!」
辛うじて一切れを口に押し込んだら、その横にあてがわれるアルコール臭い唇。焦った。
「ちょっ……き、キスはだめ!」
「キスじゃねえし。俺にとってこれは口説き文句のひとつだもんよ」
なんという屁理屈だろう。
「まずはひとつ質問だ。おまえ、ナツとは無理矢理結婚させられたって本当か」
「え」
「その顔じゃマジだな。事務所で柳に聞いたときは、嘘だと思ったけど」
必死で押し戻そうとしたけれど、初穂はますます調子に乗って抱き締めてくる。
「なら、本気で奪わせてもらうぜ。ま、もとより紙切れ一枚のことは俺を振る理由にゃならねぇけどな」
顔に当たる胸は見た目よりずっと筋肉質で、シャツ越しなのに熱い。
「俺は芹生が好きだ。今まで出会った女の中で、ダントツに好きだ」
まるで自分たち以外の客の存在など忘れてしまったかのような、堂々たる口調に圧され、私は戸惑う。
「俺のこと、嫌いか」
「そんなこと」
ない。嫌いではない。それだけは自信を持って言える。むしろ数ヶ月前まで憧れの存在だったし。
「じゃあ好きか」
だけど、その質問には簡単に答えられない。
もし憧れが好きの範疇に含まれるというのなら、そうかもしれないけれど。
でも、だとすると、私は董胡や叶や柳さんや――ナツのことまで好きだということになってしまう。
「なら、これから好きになれそう?」
それこそわからない、と思った。
「……わからないよ。今は、もう、なにも」
考えれば考えるほどわからなくなる。
「肖衛のこと、ずっと私、無条件で信じてて。信じすぎてて。だからこんな日が来るなんて」
「あいつのことなんて聞いてねえよ」
抱き締める腕に力をこめて、初穂は言う。
「関係ねえだろ。今は」
関係ない?……そうかもしれない。
肖衛は、そう思っているのかもしれない。
実際、私達はこんなときに言い訳をするに足らないくらいの、希薄な関係性でしかなかったのだ。
買われた立場なのだから、それは仕方のないことだけれど。でも。
身を引きながら、私は首を左右に振った。
「……あるよ……」
「芹生?」
「だって、わたし」
私――。
「ぐ、ぐちゃぐちゃになるの。肖衛が、どうして追いかけて来てくれなかったのか、考えると」
あの瞬間からずっと苦しくて。
いいの、なんて言ったくせに。
「向こうにとってはその程度でも、私にとってはちがう。肖衛が自分のこと、どう思ってるのか、わからないと」
不安で。
初穂のシャツを掴んだら、拘束がかすかに緩んだ。
「自分のことなんて考えられなくなるの。だから……無関係なんかじゃないんだもん」
どうしてこんなに掻き乱されるのだろう。肖衛、たったひとりに。
いつもみたいに、前向きになんてなれない。
貧乏暮らしをしていたときも、肖衛の家に住むことになった日も、なんとかしなきゃって、なんとかなるって思えたのに、肖衛の気持ちがわからない、ただそれだけのことが私を絶望の淵に追いやる。
「……ちっ、わかったよ」
すると初穂は不愉快極まりないといった顔で携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「――あ、もしもし美鈴? ナツ、まだそっちにいるんだろ。うん。実はさ、芹生が泣いてんだ」
思わず頬を拭ってみる。涙はまだかろうじて零していない。なのに彼は煽るように、
「そう。俺の腕に縋ってわんわん泣いてんの。だからそろそろナツを釈放してやって。ああ、いつものとこにいるから。んじゃ」
そんなことを言って、電話を切ったのだった。
「あー、俺ってすげえイイ男」
私は目を丸くする。もしかして、肖衛を呼んでくれたのだろうか?
「一応は口説いたからな。約束だ、教えてやるよ。おまえが出て行ってすぐ、ナツは会議室に監禁されてたんだ」
えっ、という声は声にならなかった。監禁、って。
「美鈴に大目玉を食らってさ、反省するまで出てくるな、ってなわけよ」
いまいち理解しかねて首を傾げると、初穂は自分の頬に拳を当てて少年漫画の効果音をひとつ。そして言った。
「殴ったんだと。柳が、ナツを。で、ナツも殴り返して、取っ組み合い」
「は!? なんでっ」
「おまえが出て行ったの、柳は見てたみたいでさ。‘奥様を泣かせるな!’だとよ。びっくりだろ」
当然だ。
でも、じゃあ、追いかけて来てくれなかったのはそれが原因?
「つまり柳もおまえに惚れてんだな。あいつ、強敵になるかもなあ」
「だ、大丈夫なの、肖衛、怪我とかは」
「どうってことねえよ。いくらキレたとはいえ、相手は柳だぜ? 一応の分別はあるんだ。美鈴にはなかったけどよ」
「まさか、美鈴さんも殴り合いに……」
「いや、美鈴がしたのは携帯電話の破壊。二人のポケットから奪い取って、ハイヒールで一撃にしたらしい。死ね、って叫びながら」
美鈴さんならやりかねない、と思ったら頬が緩んだ。そうか、電話すらなかったのはそのせいだったのか。
「……やっぱ芹生は笑ってたほうがいいよ」
初穂はソファーにごろりと体を横たえる。
彼の頭がちょうど膝の上に乗ったから、びっくりして両手を上げてしまった。
「は、は、初」
「このくらいいいだろ。敵にシコを踏んでやったんだからよ」
敵に塩を送った、の間違いだと思う。
「ついでに言うとさ、例のスキャンダルはデマだぜ。あいつの頭ン中はおまえでいっぱいだよ、安心しろ」
その横顔はふてくされていて、いじけきった子供みたいだ。
胸がきゅんとして、気付けば、左手が勝手にその頭を撫でていた。
「ありがと」
脱色を重ねた銀の髪はそれでも柔らかな手触りで、やっぱり猫みたいだな、と私は思う。
「……次は無いからな」
「うん」
「そこ、かゆい。ん、もっと右」
「はいはい」
その後――。
彼は私の膝の上で目を閉じたまま、ぽつぽつと語った。
地元に残して来た十人の家族が、懸命に切り盛りしている大規模な農家のこと。
『初穂』という名は、長男として生を受けた自分に、祖父が授けてくれた特別な名前であること。
「いつかは家を継ぐんだと思ってたから、音楽がやりたいなんてなかなか言えなくてさ」
唐突に過去の話になったから、反応に困ってしまった。
どうしてこんなことを教えてくれるのだろう。
「最初にわかってくれたのがじいさんだった。やりたいことがあるならそっちを優先しろ、って。俺、何も言ってねえのによ」
「偉大なおじいちゃんなんだね」
「ああ。豪傑っていうんだと思う、ああいうの。九十過ぎてグラサンかけてロック聴くんだぜ。ハワイに連れてけーってわざわざ電話してくるし」
笑ってしまう。初穂のおじいさんらしい。
「でもさ、じいさんの言うことは大概道理にかなってるんだ。だから、俺はじいさんを世界一かっこいい男だと思って育った」
頷いた私の頬に触れるのは、いつもベースを奏でている、功労者たる指先。
ほんのり、つめたい。
「でさ、初めてだったんだよ。その、じいさんのお眼鏡にかないそうな女に出逢ったのは」
「え?」
「働かざるもの食うべからず。あれは、じいさんの口癖で」
まだ口説かれている最中なのだと、気付いたのはそのときだ。
「食いモンを大切にする。働くヤツをねぎらう。そんな当たり前のことを当たり前にできるおまえは、最高にいい女だよ」
「初穂……」
「俺、簡単に退く気はねえから。それだけは覚えておけよ。いや、忘れられねえようにしておくか」
初穂は私の頬に触れていた右手を口元まで下げると、親指の腹を、やはり猫のようにぺろりと舐めた。
その仕草があまりにも色っぽくて目を離せないでいると、閉じていた瞼がゆっくりひらいた。
まっすぐにこちらを見上げる、黒曜石のような瞳孔。
射抜かれたみたいで動けなくなる。
と、その指はもういちどこちらに伸びて来て。
「……間接キス、やる」
私の下唇を、滑るように撫でた。
うっすら湿った感触に、心臓が、壊れるかと思った。




