13、Like a mystery.(a)
私は少しの間、夢を見ていた。
―― ねえちゃん、あいつに泣かされたらおれに言えよ!
弟の奏汰がそう言ってくれたのは、結婚を翌日に控えた夜のこと。
ちなみに、あいつ、というのは当然肖衛のことをさす。
それまで奏汰は私にとって、今年で十歳になるにもかかわらずいつまでも幼稚園児の感覚で、幼くて、護ってあげなければならない存在だった。
と、思っていた。でも、……それだけじゃあなかったということなのだろう。
将来は飛行機のパイロットになって、沢山稼いで、父の工場を助けてあげるんだ、なんて言っていたのを聞いたこともある。
いつからあんなに強い子に育っていたのだろう。
―― おねえちゃん、かえってくるよね?
涙をこらえて私の指を握ったのは、妹の花梨だ。咄嗟には答えられずに、私は黙る。
そんな情けない姉の首を縦に振らせようと、花梨はいそいそとオモチャのおままごとセットを並べ出す。
―― わたし、ケーキ屋さんになる。おねえちゃんにはとくべつに、まいにちケーキあげるから。だからまいにちかえってくるといいよ。
泣き虫で、いつまでも小さくて、幼稚園のクラスではいつも隅っこのほうにいる花梨。
なのにこのときばかりは妙に気丈にふるまうから、見ているこちらのほうが泣いてしまいそうだった。
翌朝、私はふたりの枕元に欲しがっていたゲームとエプロンをそれぞれ置いた。
静かに玄関先へ向かい、父と母に見送られて家を出た。
奥から、張り裂けんばかりの泣き声が聞こえてきた。
卒業式の最中、それを思い出してひとしきり泣いた。
何があっても帰らないと決めた、あの日――。
***
割れるような頭の痛みに、私は呻きながらも体を起こす。お弁当の準備をしなければ。
「……む……?」
しかし、薄くひらいた瞼の間から見えたのは黒っぽい空間だったから、思わず首を傾げてしまった。
いつもなら、森林みたいなグリーンの壁紙と木目の家具がそこにあるはずなのに、ひとつも見当たらない。
肖衛の寝室、じゃない。どこだろう、ここ。
見慣れぬ部屋をぐるり眺める。
黒いスチール製の家具は、恐らく単身者用のものだ。それも、男性向けの。もちろん見覚えなんかない。
なんで?
「おはよう、せいなちゃん」
飛び上がって振り返ると、そこには一枚の扉があった。
どうやら声はその向こうから聞こえているようだ。
「いや、こんばんは、かな。今、真夜中だし」
真夜中?
ああそうだ。思い出した。私は“彼”にさらわれたのだ。
となると、この部屋の外にいるのは――。
恐る恐る、ドアノブに手をかける。動かない。
「残念。君が条件を呑んでくれるまで解放は出来ないよ」
「条件?」
つまり私は監禁されている、のか。思わず体が強張る。
「そう。身に覚え、あるでしょ。もうわかってるかな、僕の言いたいこと」
まだ若い、幼さの残る声。
流石にピンと来るものがあった。私の記憶が確かなら、この声の主は。
「か、叶……?」
まさか、叶が“彼”?
そんなはずはない。だって“彼”は私より年上のはずだ。
しかし扉の向こうの少年は「そうだよ」と短く答えた。
「じゃ、じゃあ、メッセージをくれたのも、メールを送って来たのも」
「僕だ」
信じられない。
「よく聞いてね。条件はふたつ。ナツと離婚して欲しいんだ。そうしてこれ以上、真人兄ちゃんを追いつめないで」
え?
「な、なんで」
どうしてここで、真人の名前が。
「君はナツを利用して、兄ちゃんの居所をつきとめるつもりだったんだよね? 僕はそれが、両方許せないんだ」
「……は……?」
混乱しすぎて、なにから考えたらいいのかわからない。
「ね、どうして真人の話になるの。私が肖衛と結婚したのは……もっと違う理由だよ」
利用した、という一点においては否定できないけれど。
「ごまかさないでよ。昼間だって十三年前のこと、電話で尋ねてたじゃないか。探ってるじゃないか、真人兄ちゃんのこと!」
頭の中で、パズルのピースがひとつ、ぱちっとはまった気がした。
メッセージを送って来ていたのは叶だ。しかし、叶が“彼”だったわけではないのだ。
本当の“彼”の正体は、真人――。
「うそ……」
「嘘を言ってるのはそっちだろ。いいかげん、白状したらどうなんだよっ」
怒声とともに、ばたんと急激にドアが開かれる。
狭いワンルームだ。踏み入って来た少年に右肩を突き飛ばされ、私はあっけなくベッドの上に崩れ落ちる。
「きゃ」
「そっちがその気なら、考えがあるって言っておいたよね」
「え、や、っ」
「どうやってナツにあれだけ取り入ったのか知らないけど」
両手を押さえつけられたら、奥歯がカタカタ震え出した。
覆い被さってくる彼はあどけない顔立ちだけれど、きちんと男の体をしている。
知っている、と思った。こんな恐怖を、過去にも。
それは新婚初夜の記憶ではなくて、もっと、もっと遠くの。
なに、これ。
「ねえ、大事な大事な君が他の男と関係を持ったとしたらどうなるかな」
「い、やだ、かな―― 叶っ」
こわい。こわい、怖い。
「嫌なら離婚届に判子を押してよ。僕がナツに届けてあげる」
こわい、なのに、どっちもいやだ、と感じてしまう私は変だろうか。
いやだよ。肖衛と別れるのも、肖衛以外の人に触られるのも、両方。だけど。
離婚したくないと思っているのは、私だけなのかもしれない。
だって肖衛は、立ち去る私を追いかけて来てはくれなかった。
言い訳のひとつもしてくれなかった。
「……早く降参してよ。頼むよ……」
叶の声が、震えていることに気付いたのはそのときだ。
すると耳元で、けたたましい音を立てて携帯電話が鳴った。
***
電話は、董胡から叶への緊急連絡だった。
明日のスポーツ新聞にナツの熱愛記事が掲載されるから、外出を控えろ、という例の。
それを聞いて、叶は酷くショックを受けた様子で頭を抱えてしまった。
裸の上半身にはバランスよく筋肉がついているものの、肖衛より幾分細くてたよりない。
「兄ちゃんにどう詫びたらいいんだよ。ナツのこと、護るように言われてたのに……っ」
君に気をとられていた所為だ、と理不尽に責められても、否定する気はおきない。
だって―― さっき、震えている様子に気付いてしまったから。
「真人に……真人さんに頼まれてたの? 肖衛のこと」
「そうだよ、悪いかよっ」
「ううん」
なんだか、弟を思い出してしまって。
あのときの奏汰も、必死で泣くのを我慢してかすかに震えていたっけ。
「“兄ちゃん”のこと、本当に大切に思ってるんだね」
必死だったんだろうな、なんて言ったら、未知にはまた小突かれそうだけど。
重なってしまう。その、懸命さが。
「これからも護ってあげてね、肖衛のこと。叶みたいな仲間がいてくれたら、安心だよ」
言うと、叶は意外そうに目を丸くした。「アンタ、ナツのこと」遮るように、私は尋ねる。
「……ねえ、真人さんはいいおにいさんだった?」
これ以上肖衛のことを考えていたら、泣いてしまいそうだったからだ。
「当然だよ。僕のこと、育ててくれたのは真人兄ちゃんなんだから」
叶は決まり悪そうにしながらも、ぽつりぽつりと語り出した。
自分が妾腹の子で、幼い頃に母親亡くし、親戚をたらい回しにされたこと。
最終的には従兄弟である真人の家に引き取られたものの、味方は真人だけだったこと。
彼がいなくなってから追い出されるように家を出て、一人暮らしを始めたことも。
「ナツは僕の生活を保障するために、シヴィールに入ったらいいって誘ってくれたんだ」
「そっか……」
「だから僕は、兄ちゃんに頼まれなくたって命がけであの人を護るよ」
ふたりでベッドに横になっていても、もう、何をされるでもない。
私が油断と隙だらけなら、彼は悪くなりきれない、心根の優しい人間だったのだと思う。
「真人さんも、ナツには傾倒してたみたいだね」
「兄ちゃんもナツには恩があるから」
「恩? それならどうして脱退しちゃったのかな。天罰がどうの、って董胡は言ってたけど、叶は知ってる?」
「……本当に忘れてるの?」
天罰は君が下しに来たんじゃないか、と叶は言った。
「兄ちゃんの顔を確かめるために、君は“GRAVITY”の手売りに三回も並んだんでしょ」
は……?
「相当危機感を覚えたらしいよ。強請られる、って」
「ゆするって私が? どうして」
「そんなの―― 君が被害者で、兄ちゃんが加害者だからに決まってるじゃないか」
どくん、と心臓が鳴った。