12、Love is blind.(b)*
私はやむなく通話を諦め、番号をクリアにして携帯電話をしまった。
柳さんが詳細を教えて欲しいと願い出てきたからだ。会議室を開けたから、そちらでゆっくり聞かせて欲しい、と。
せっかくなら美鈴さんにも同席してもらいたかったのに、呼びに行ったら『あんな勝手な男の味方なんてしなくていいのよ!』と逆にたしなめられてしまって叶わなかった。
時期をみて説明しておくからと未知は言ってくれたけれど……あの様子だとそう簡単には納得してもらえないだろうと思う。
「――というわけなので、言うなれば肖衛と私の関係はギブアンドテイクなんです。買われた、っていうのは極端かつ悪い言い方で」
ふたりきりの密室にはなんとなく居づらくて、私は手元のマグカップを手慰みにしながら話す。
相手がもの静かだから、余計に態度に困る。
「そうですか……。先程は、差し出がましいことを申しまして」
「いえ! こんなの時代錯誤な話だし、世間一般から見たらどう考えてもおかしいんですよね。自覚はしてますから」
フォローしたのに、柳さんはますます申し訳なさそうに背を丸める。
イメージ的には、躾のいいドーベルマンにリードをつけた感じかな。もちろん、それを握っているのは肖衛だ。
柳さんはシヴィールのメンバーの中では古株で、もともとは董胡と夏肖さんの弟分だったらしい。と、肖衛からは聞いている。
三十五歳で、やはり独身。
恋人はいないの? との質問には、あいつも複雑だから、と董胡が言葉を濁していたっけ。
否定されなかったということは、いる、のかなあ。
「肖衛はちゃんと私のことを想ってくれて、大切にしてくれてますよ。だから柳さん、肖衛のこと、見捨てないでやって下さいね」
すると、何をおっしゃいますか、と彼はようやく顔を上げて答えた。
「見捨てるだなんてとんでもない。私にとって肖衛さんは心より尊敬できる唯一の方ですから。ただ、今回は――奥様のことが気になったものですから」
気になった……って。
「おふたりの間に、ある程度の距離があると聞いて、ほっとしたと言ったらおかしいでしょうか」
私は肩がはねるほどどきっとした。な、な、何を言ってるんだ、柳さん。
「心配だったのです。奥様、いえ、あなたが……芹生さんが、あまりに尽くす方なので」
「そ、そんな、私、全然なにも出来てないです。肖衛に助けられてばっかりで、ほんと、駄目な妻なんです」
場違いを承知で笑ってみる。けれど、乾いた笑い声はむなしく静寂に吸収されて消えた。
何故だか、会議用のテーブル越しに、延びてくる腕。
「どうか、自己犠牲もほどほどになさってください。見ている、こちらのほうが辛い」
正直、事態が呑み込めなかった。
どうしてだろう。気のせいかな。
柳さんの顔、徐々に、近付いてくる?
「芹生さん……」
まずい。ものすごくまずい。だって、このままじゃ私、柳さんとキ――。
「す、――みませんっ」
その手を振り払い、震える足で後退しながら立ち上がる。はずみで折り畳み椅子が倒れ、がしゃんと激しい音をたてた。
そこで我に返ったのか、柳さんは驚いたように目を見開き口元を覆う。
反応のしようがなかった。
何。なんで柳さんが私にこんな。
「し、失礼します……!」
私は素早く一礼し、会議室を飛び出した。爪先は、まっすぐに社長室へ向いていた。
何を言いたかったわけでも、助けてもらいたかったわけでもない。
肖衛の側に行きたかった。顔を見れば、安心すると思った。
***
社長室のドアを開き、押し入るように中へと滑り込む。必死だったから、ノックをしたのかどうかは覚えていない。
真っ先に目に入ったのは、傾き始めた陽を背に、デスクに向かう見慣れた人のシルエット。
それだけで、私の胸には安堵感が染み込むように広がった。
「セリ」
彼は両耳から何か、コードのついたものを――恐らくイヤホンを外しつつ問いかけてくる。
「そんなに急いでどうしたの。緊急連絡?」
「う、ううん。えと、特に用事はないんだけど」
「ふぅん?」
「顔を……じゃなくて、仕事ぶりを見に来ただけ、だよ」
眩しさから逃れようと斜めに歩み寄った私は、ぎくりと動きを止めた。
デスクにはキーボードとメトロノーム、それから名前も知らない機材がいくつも並んでいたからだ。
「ごめん!」
もしかして作曲中だった? そうだ、仕事中なのに私ってば。
今出て行くから続けて。そう言おうとした私の言葉を遮るように、肖衛は手招きをする。
指先だけで、ちょいちょいと。
「おいで」
「え?」
「いいからおいで」
呼ばれるままに近付けば、待ってましたとばかりに腰をすくいあげられて「わ!」彼の膝の上に乗ってしまった。
「ちょうど今、セリの顔が見たいって思ってたんだよね。飛んで火にいるなんとやらかな」
身をよじって抵抗する私のカットソーをいともたやすく捲り上げて、彼は悪の親玉みたいに笑う。
「さて、存分に苛めさせて」
「ちょ、しょ、やめ、誰か来たらっ……」
「あ、そういうの気にするほう?」
しないほうがあるのか、ああ、この人自体がそれか。
露になった素肌に触れる手はほんのり冷たくて、首筋に鳥肌がたつ。
しかし引きはがそうと掴んだ肖衛の髪が案外柔らかくてくすぐったくて、不覚にも……きもちいい、と思ってしまった。
だからだろうか。駄目だと思うのに動けなかった。拒否しきれなかった。
「っふ、……ン……っ!」
(さっきみたいに、振り払えないよぉ)
「……そうだなあ、どうしてもやめてほしいっていうなら、条件付きで考えないこともないけど」
罠だろうな。イカれた思考でかすかに思う。
そりゃ、やめて欲しいに決まっている。でも、こいつが出す条件なんてどうせろくなものじゃない。
とはいえ、はだけた両胸をめちゃくちゃに弄られているこの状態で、誰かが訪ねて来たら、あら失礼では済ませられない。
「どうする?」
動けずにいた私の顎を、肖衛はあろうことか斜め下から甘噛みする。
一度。二度。少しずつ唇への距離を縮めながら。
「ねえ、それともこのまま、最後までさせてくれるの」
三度めには舌先で唇のきわを舐められて、体の奥に火がついた気がした。
駄目。だめだ。このままのほうが圧倒的にだめ。
今にも消えてなくなりそうな理性が、私にかぶりを振らせる。
すると彼は、私を正面から抱き締め直して言った。
「じゃあ、代わりにセリのほうから俺にキスして」
「え」
「この間は見逃したけど、そろそろできるはずだよ。毎日教えてるんだから」
この間、って――ああ、シヴィールのサインを貰ったときだ。そういえばあのお礼、うやむやにしたままだっけ。
眉をひそめた私に、彼はちゅっとわざとらしいキスをひとつ寄越す。
「ほら、簡単だろ」
私が、肖衛にキス?
確かに、さほど難しいことじゃない。こんなところで抱かれるよりはよほどいい。だけど。
「して」
「……っ」
誘うようにゆるゆると両胸を撫でる、節の張った手。伏せがちの瞼。くっきりとした虹彩。
どれもが、目をそらせないほど綺麗だ。
女の子には縁がなかったと董胡は言っていたけれど、肖衛は時々どこか慣れている感じがして、それがなんだか嫌だと思う。
ねえ肖衛、こういうの、私以外の人にはしていないよね?
「セリ」
急かす声に誘われて、私は息を止めると目を閉じた。
ためらいながらも、精一杯の勇気で顎を少し、持ち上げてみる。
瞬間、思っていたより温かくて柔らかすぎるものにふんわり当たった。
――あ……。
上手に重なったのはきっと、肖衛が角度をつけてやさしく受け止めてくれたからだ。
「……上出来」
短い感想のあとに待っていたのは、唇の形をたしかめるようなキスの連続だった。
私は恥ずかしくて瞼をぎゅっと閉じていたものの、いつものように顎を引きはしなかった。
繰り返される接触が、わずかずつ長くなっても。
深くなっても。
「ゆっくりでいいから、応えて」
「っ、ん」
「そう。最初は俺の真似、するだけでいいから……」
この日、つたないながらも探り合うキスの仕方を覚えた私は――。
ふと、清水の舞台なんて現代の高層ビル群に比べたら格段に低いんだってことに、気付いたりもしたのだった。
***
「わ、わた、私、先に帰るね。ご飯のしたくとか、あるしっ」
解放されると同時に、私は素早く衣服を直してソファーの脇まで後退した。
わわ、どうしよう。恥ずかしすぎて顔が直視できない。
「いなよ、もう少し。夕飯なら外食して帰ればいいじゃない」
「え、でも、予算ないよ。私、いつも無駄に使わないように千五百円しか持って出ないもん」
真面目に返したのに、肖衛は傑作の漫才でも見たかのように、豪快にふきだした。「せ、千五百円っ……」
三日分の食材をまかなえる大金を笑っちゃいけない。
「心配しなくても奢るよ。たまには会社帰りのデートもいいだろ」
デート。その単語を出されると乗り気になってしまうのは、前回のデートがものすごく楽しかったからだ。
羞恥に耐えて顔を上げたら、肖衛が笑顔で携帯電話を弄っていた。
「これ以上ごねられるまえに予約しておこうかな。何かリクエストはある? フレンチ、イタリアン、中華、インドカレー、ああ、セリは和食派か」
その様子を見てようやく私は思い出す。
「あ、肖衛、ありがとう!」
「ん? まだごちそうしてないよ」
「そうじゃなくて、お母さんに携帯電話、持たせてくれたでしょ」
「――ああ、うん。連絡はとれた?」
「ううん、これから。でもちゃんと電話する。本当にありがとう」
いいんだよ、と言う肖衛はやっぱりやさしい。
意地悪で変態でサドだけど、こんなに優しい人、他には知らない。
「あの、で、デートなんだけど、今回はイタリアンがいい、かな」
「了解。いいの、和食じゃなくて」
「……それは次回にとっておくの」
言って背を向けた。
また次も誘ってね、なんて素直に言えない私の真意、伝わっているといいけれど。
するとそのとき、部屋のドアが開いて――いや、そんなに生優しい表現では伝えきれないような勢いで全開になった。
私はあまりにも驚いたものだから、頭部を庇ってソファーの影にしゃがみ込んでしまった。
「肖衛ッ!」
飛び込んできたのは董胡だ。血相を変えるというのはこのことだろう。
「まずい、撮られた。さっき、フリーのカメラマンとかいうヤツから直接交渉があって」
「写真? また初穂のやつ、懲りずに」
「違う、ナツだ。この間楽曲提供した、和久井加恋とおまえのお泊まりツーショ……」
そこで董胡は気付いたようだった。私の存在に。
「……え」
後から聞いた話によると、このときの私は恐ろしいほどの無表情だったそうだ。
「せ、芹生ちゃ」
おとまり? ……ナツが、ううん。
肖衛が、他の女の子と――。
「あの、わたし、で、電話しにいかなきゃ、だから、お母さんに、携帯番号を」
頭の中は真っ白で、支離滅裂な発言をしていることには気付かなかった。
「芹生ちゃん、これは」
「あ、いいの。うん、べつに責めたりしないから安心して。だって私、ちゃんとした妻じゃないもん」
だけど、泣き出しそうになっている自覚はあって。
「じゃ、えと、ぶ、部外者は出てくね」
「セリ!」
飛び出した。耐えきれなかった。
エレベーターを使うのももどかしくて、外階段を駆け下りる。
中ほどでチラと振り返ったけれど、期待した人影があらわれる様子はなかった。
事務所を見上げたまま、未だ生々しい感覚の残る唇をぎゅっと押さえる。
どうしてこんなにショックなのか。
わからないけれど胸が苦しかった。苦しくて、痛かった。
裏切った、なんて思っていい立場じゃないのに、思っている私は勝手だろうか――。
***
「あ、もしもしお母さん? 私、芹生だけど」
こんなときだからこそ明るい自分でいたくて、私は駅への道すがら、母への電話を掛けた。
家族に対して暗い態度をとるわけにはいかないから、自然と強くなれる気がしたのだ。
でも、本当は家族の声を聞いてただ安心したかったのかもしれない。
『芹生。本当に芹生ね』
「そうだよ。娘の声がわからなくなるくらい歳とっちゃったの」
『そうかもしれないわ。でもなんだか夢みたい。私、きっと許してもらえないと思ってたから』
別の意味で泣きたくなって、ちょっとだけ後悔した。
「どうしてそんなふうに思うの。私いま、幸せだよ?」
そうだ。しあわせだったんだ。不幸ではない、なんて程度の話じゃなくて。
どうして今更気付くのだろう。……遅いよ。
「肖衛は優しいし、私のことを大切にしてくれるし。結婚できて感謝してるくらいだもん」
『そう……。本当に?』
一部の嘘を見破るような言葉に、私は一瞬揺らぐ。
(和久井加恋――か)
テレビで何度か観た覚えがある。
たしか数年前に某有名大学のミスキャンパスに輝いた二十八歳の才媛だとかで、最近話題の美人シンガーだ。
長身で知的でスレンダーで大人で、つまり私とは正反対。
いや、こんな凡人とは比べること自体おこがましいってものだ。
なぜなら彼らは揃ってステージの上にいる人で、つまりは住む世界のちがう人なのだから。
それにしても肖衛、ああいうタイプが好みだったのか。
ということはやはり、私なんて単なる玩具に過ぎなかったということだ。
気が向いただけ? 優しかったのも、好きだっていったのも。
……だめだ。考えるの、やめよう。
「そうだお母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
わざとらしいかなと思いつつも、私は話題を切り替える。
「あのさ、私の足の傷、あれっていつついたんだっけ」
『え?』
「ガラスで切っちゃったってやつ。私、さっぱり覚えてないんだけど、あのときの男の子ってどんな子だったかなあ」
“彼”を探す手がかりが得られればと思ったのに、母は突然取り乱したように口調を変えた。
『しょ、肖衛さんに何か言われたの!? この間、あなたには黙っているって約束してくれたのに――』
え?
「お、お母さん? 別に肖衛になにか言われたわけじゃないよ。私がちょっと気になっただけで。ていうか約束って何」
『い、いえ、何でもないの。ええと、十三年前のことね、私もぜんぜん覚えてないのよ』
ごめんなさいね、と言う母は早口で、あきらかに狼狽しているとわかる。
「そんな、全然って……」
おかしいな、と思った。
だって“ぜんぜん覚えていない過去”を十三年前とすぐに断定できるものだろうか。
ううん、そのまえに“十三年前”って――。
駅へと繋がる路地の手前、私は思わず立ち止まる。
その数字、最近どこかで聞いたような。でも、どこでだった? 思い出せない。
(万事この調子だから未知にも甘いって言われるんだろうなあ)
苦々しい気持ちでためいきひとつ。そうして再び歩き出そうとしたとき、それは起こった。
後頭部への鈍い衝撃。声を上げる間もなかった。痛みというより痺れに全身の感覚をもっていかれて、私は膝をつく。
「……っ」
携帯電話が手をすり抜けて地に落ちる様が、やけにスローモーションに見える。
それを最後に私の視界は砂を被せるようにさらさらと暗くなっていって……
「――駄目だよせいなちゃん、これ以上踏み込んだら」
完全な暗転を前に、そんな声を聞いたような気がした。