#An extra entertainment.
*こちらは肖衛視点の番外編となっています。本編のみを続けてお読みになる場合は、一話分飛ばしていただければ幸いです^^ さいかわ
追記:挿絵装備しました。提供のyoshi様、ありがとうございます!
夕暮れ、茜色に染まる雲。焼けるような、独特の臭い。空が炎上しているみたいだと思う。
となると、夜の闇はさしずめ焼け残った炭ってところかな。
そんなことを思いながら鼻をすんと鳴らして、俺は社長室のブラインドを降ろした。
陽が、また、のびた。
実感するのは恐らく数ヶ月ぶりのこと。
逆に言えば日々のわずかな変化など、積もり積もらなければわからないものなのだろう。
人間の感覚なんてひどく曖昧にできている。よほど意識的に観察しなければ、少しの変化なんて目にとまらない。
いや、曖昧どころかいい加減なのかもしれない。
ひとりの人間が丸ごと入れ替わったって、誰も気付かないくらいなんだ。
それでいいと思っていたんだ。
そんなものだと思っていたんだ。
あの日、君に、本心を見抜かれるまでは。
「おーす、ナツ、いる?」
ドアを勢い良く開きながら、つんのめるようにして部屋に飛び込んできたのは初穂だった。
物思いにふけっていた俺は存分に驚かされて、むっとしながら椅子に腰を下ろした。
「ノックくらいしてよ。それに、ここでは社長と呼べって何度も言ってるだろ」
「細かいこと言うなって。はい、これ申請書」
「エフェクターなら買わないよ」
「ちょ、見る前に却下するなって」
「もう五回目だよ。流石にわかるよ」
あーっ、とあからさまなブーイングを発して彼はソファーに倒れ込む。
経費でものを購入するときは、俺か美鈴さんを通すのがクアイエットゾーンの決まり事だ。
とはいえ俺は滅多なことでは申請を受け入れない。
直接ここに持ち込んでくるのは、それを全く理解していない初穂くらいのものだ。
「どうしてそんなに欲しがるんだよ。今ので充分こなせてるじゃないか」
「だって時々壊れるじゃん。修理、出しても壊れるじゃん。あれ、絶対に初期不良だと思う」
「なら、まるごと交換してもらったらいいじゃない」
俺は眼鏡を持ち上げて、手元の書類を捲る。エフェクターの買い替え申請は今に始まったことじゃない。
あれは確かにもうポンコツだ。デビュー前から使っているし、搬入であちこちぶつけたし。
しかし、不具合の一番の原因は董胡の扱いが荒いからだと思う。
機械類は主に董胡が弄るのだ。それも、必要もなく弄る。煙草を切らしたときに、主に。
苛々解消のための内職なのかもしれない。困ったものだ。
わざわざ大枚をはたいて新調したところで結果は目に見えているから、いっそ完全に機能しなくなるまで待とうと思う。
「買ったほうが絶対早いってー」
「はいはい、今度ね」
適当にいなしてノートパソコンを開けば、初穂はじっとりした視線をこちらに向けてきた。
「なんだよ。芹生のこと、俺がくれっていったの、まだ根に持ってんの」
何を言うかと思えば。
「もってないよ」
「クソ、なんだよ、籍が入ってるからって余裕シャクヤクかよ」
「しゃくしゃくって言いたいのかな」
「るせっ、釈由美子は細すぎて好みじゃねえんだよ。俺はな、もっとこう、むちっとした感じが」
「誰もそんなこと聞いてないよ」
俺は苦笑してうなだれた。だめだ、仕事の内容がさっぱり頭に入って来ない。
「今日だってはいさい弁当を自慢げに食べやがってよ」
「愛妻だよ。愛妻弁当。沖縄の挨拶じゃないんだから」
「愛を強調するなっ。ミートボールはなあ、マヨネーズが合うんだぞ」
初穂はちょっと変わっている。
真面目におかしいことを言う。だからMCではあまり喋らせないようにしている。
この本性を知ったら、ファンが引きそうで怖いし。
最初に会った時から俺は初穂を、黙っていれば美形なのにと残念に思っている。
「……仕事の邪魔だから出てってくれないかなあ」
貴重な時間を無駄にしてしまった。大きくため息をついたら、コンコンと乾いたノック音が響いた。
「社長、少々お時間よろしいでしょうか」
柳だ。「うん、入って」
俺はすぐさま返事をして、ドアが開いた瞬間、入れ違いで初穂を廊下に蹴り出した。
「向こう三年は入って来なくていいよ」
「なっ、この、横暴社長っ」
叫ぶ彼に一瞥をくれて扉を閉め、念のため施錠をする。これで邪魔者はひとまず片付いたかな。
胸を撫で下ろして振り返ると、柳が穏やかに微笑みながら紙の束を差し出していた。
「お疲れさまです。こちら、先日の物流の件です」
「ありがとう。……ああ、柳といると安心するな」
柳は光栄です、と言って笑う。品のある笑顔だ。
「初穂がいると落ち着いて仕事ができない。迷惑だよ。そう何度も言ってるのに、しょっちゅうここに入り浸るんだ」
「よほど社長のことが好きなんでしょう」
「ありがたくないよ。ベースの腕さえなければクビにしてるところだ」
「そうおっしゃらずに。彼にとってそのように、外見でなく本当の才能を見いだしてくれるのは―― あなただけなのですから」
そうかな。俺は口角だけをあげて、ワークチェアに体をもたれる。
初穂の才能を認めている人間は、本人が気付かないだけで結構いると思うけど。……まあいいや、初穂のことは、もう。
気を取り直してデスクライトをつけ、書類に目を通し始めた俺は、五行目で早速視点を止めた。
「柳、ここ、間違い」
「えっ」
「甲と乙が入れ替わってる」
すみませんっ、と言って狼狽える柳はステージ上では想像もできないくらい可愛らしい。
そう、柳は可愛いのだ。
鋭い一重と真面目そうな眼鏡の所為で切れ者だと思われがちだが、実際にはうっかりしているところが多くて、放っておけない性質をしている。
そうして俺は、そんな彼が狼狽えているさまを眺めるのが好きだったりする。
セリに言わせれば、これは悪趣味の域に入るのだろうけど。
「あ、ここも。日付が契約日になってない」
「す、すすすみません!」
「ふふ、謝るだけなら幼稚園児にも出来るんだよ?」
「申し訳ありません、今すぐ直して参りますっ」
「五分以内にね。一秒でも過ぎたら……そうだなあ、新曲のプロモで着ぐるみでも着てもらおうかな」
「はいっ、では失礼します!」
ああ、ほんと、かわいい。癒されるなあ。
俺は笑顔で柳を見送って書類を捲り始めたものの、ふと気付いて壁の時計に目を遣った。
……そろそろかな。
「ただいまあ!」
予想通り、いつもと同じ時刻にいつもと同じ台詞で部屋に飛び込んできたのは叶。
いつも通り高校の制服である紺のブレザー姿で、いつも通り満面の笑みを浮かべている。
その手に某ファーストフード店のシェイクが握られているのを見、俺は書類とノートパソコンを引き出しの中に仕舞った。
以前、あれをデスクにぶちまけられたことがある。しかもチョコレート味を。
天板がぬかるんだ地面みたいになって、本は汚れるし甘い匂いはとれないしで、それはもう悲惨だった。
「おかえり、叶。今日も元気だね」
彼は現役の高校生だ。
普段、とくに音楽の話をするときは五分五分で接しているせいか、たびたび失念してしまう。
労働基準法との兼ね合いもあるから、普段はこうしてアルバイト程度の時間をここで過ごしてもらうだけにしている。
練習をしたり、事務仕事を手伝ったり。若いからなのか、休まずキビキビ働く様には感心する。
ちなみに、彼が必ず『ただいま』と言うのはここを自宅のように思ってくれているからに他ならないのだが、俺はそのことを有難く思う一方で憂いてもいる。
家庭環境が複雑なんだ。
叶は真人の家で真人に育てられたも同然なのだと、以前本人の口から聞いた。
おかげで彼は幼くして熟達したギターの腕をもっている。が、それが良いことだとは一概に言えないだろう。
俺としてもどう考えたらいいのかわからない。こんなに無邪気な彼を見ていると、余計に。
「ねえねえ、ナツが高校生のときってモテた? 女の子に告白されたことってある?」
突然そんなことを聞かれたから、俺は指先で弄っていたボールペンを勢いよく飛ばしてしまった。
「うわ、危ないよナツ!」「ごめん」いや、だって、やけに鋭いことを聞くから。
高校、ねぇ。
「どうしたの急に。気になる子でもできたの」
「そういうわけじゃないけど。あのね、付き合って下さいって言われたんだ。でも僕、そういうのまだよくわかんなくて」
「うん、なら――まだ焦って考えることはないんじゃないかな」
恋愛をするなとはいわない。でも、こんな仕事をしているせいでチヤホヤされて、お飾りだけの恋愛を覚えてしまうのもどうかと思う。
「少なくとも、人と比べることはないよ」
「そうかなー。だけどさ、董胡に聞いたら、男は百戦錬磨にこしたことはないって」
「……董胡のアドバイスは今後一切聞かなくていいから」
俺は脱力しながら携帯電話をひらいた。仕事がちっとも進まない。
遅くなる、とセリにメールを入れておこう。
「ところで、ナツは平気?」
「うん?」
「誰かに苛められてない? 大変なことがあったら言ってね。僕、真人兄ちゃんからナツを護るようにって言付かってるんだから」
鼻息荒く胸を張る叶。健気ってこういうことを言うんだろうな。
俺はまだ、彼に護ってもらわなければならないほど、老衰したつもりはないのだけれど。
立ち上がって、その柔らかな赤毛を撫でてやった。
「ありがとう、俺は大丈夫だよ。俺のことより、叶は自分の心配をしないとだめだ」
「僕?」
「そう。来週、試験があるんじゃなかった?」
少年の顔が途端に歪む。見ているこちらのほうが、口の中に苦いものを広げたみたいな気になった。
「……ギターの練習してくる」
「一週間くらい勉強に集中したっていいんだよ」
「よくないよ。一週間のブランクは大きいんだっ。バンドマンの本分は音楽活動なんだからね」
本分なんて言葉、どこで覚えたんだか。
呆れる俺を残し、彼は部屋を出て行き、直後、練習室のドアが開いた音がした。
留年、しないといいけど。
デスクに頬杖をつくと、ポケットの中で携帯電話が震えた。二度の短いバイブは、セリだ。
さっき、遅くなるから先に夕食を済ませて、とメールを送ったから、きっとそれに対する返信だろう。
《わかった。じゃあ、事務所を出るときに連絡してね。揚げ物始めるから》
思わず噴き出してしまったのは、語尾にニワトリの絵文字がひとつついていたからだ。
唐揚げってことか。シュールすぎるよセリ。
しかし――。
わざわざ帰宅に合わせて出来立てを準備してくれるなんて有難いことだと思う。
例え二千万を負い目に思っての行動だとしても、頭が下がる。
揚げたての唐揚げなんて普通、男の一人暮らしではなかなかありつけない代物だ。
実際、セリと結婚するまでの夕食は董胡たちと居酒屋で済ませるのが常だったし、自炊なんて気が向かなければしなかった。
彼女が自分のためだけにキッチンに立ってくれるのだと思うと、胸が熱くなる。
温かい食事が準備されている。
そのたびに俺がどれだけ感激し、幸福を噛み締め、しかし複雑な想いをしているのか――。
彼女は知らないだろうな。
……いや、知らなくていい。
ワークチェアをくるりと返して、俺は閉ざされたブラインドを見つめ、息を吐く。
知られたくない。あの子に負い目を感じていることなんて。
知らないほうが、彼女のためにもなる。あんな記憶、無いほうがいいに決まってる。
忘れたままでいてくれたら、どんなにいいだろう。できることなら、ずっと眠らせておいて欲しい。
けれど、心のどこかで俺は願っているんだ。
出会ったあの日と同じように、彼女が俺の本心を見抜き、暴いてくれることを。
身勝手にも。
***
忘れもしない。
あれは、一昨年のバレンタインデーの夜。
「シヴィールのライブの警備員さんですよね」
そう呼び止められたのは、ライブハウスから数十メートルほど北へ離れた、大通り沿いの薬局の前だった。
俺は驚いて、いや、ぎくりとして振り返った。
立っていたのは、小さな女の子。
大きな瞳と幼い顔立ちから、中学生くらいだろうなあと俺は思った。
いいのか。中学生がこんな時間にライブに来て、そのうえ繁華街をうろつくなんて。
「大変ですね、こんなに遠くまで」
彼女は何故だか親しげに接してくる。
無言のままでいるのも不自然かと思い、俺はいえと短く答えた。
そんなところまで足を伸ばしていたのは、他でもない。逃げ帰るためだ。
俺達はその日、全員が警備員に紛れてライブハウスを脱出する手はずになっていた。
そして、その集合場所がここ、大通りだったのだ。
どうやら一番乗りは俺。呼んでおいたタクシーへと、一足早く乗り込むところだったのだが。
「やっぱりバレンタインだからですか。今日、凄い人でしたよね」
こんな子がいたら乗るに乗れない。
警備員がタクシーを拾うなんて、流石に怪しいじゃないか。早くどこかへ行ってくれと、正直鬱陶しく思った。
しかし彼女は喋るのをやめない。
「私も今日、ナツにチョコレートを渡そうと思ってたんですけど……もみくちゃになっちゃって、もう、渡せる状態にないっていうか。そもそも、あの人垣じゃあ近づけそうにないですけど」
賢明だ。何故なら俺はもう、こうしてライブ会場から遠く離れた場所にいるのだから。
「あ、そうだ。これ、あなたに」
突如笑顔でさしだされる、ピンク色のパッケージ。それは茶巾のような形状で、根元に同色のラフィアが結び付けられている。
俺は当然、たじろいだ。え。何。
「えと、ナツの代わりじゃないですよ。これは友達に配るのに作ったやつで、まだいっぱいあるんです。だから良かったら」
「俺に……?」
まさか、チョコレート……。
「はい。甘いの、食べたら疲れもきっと取れますよ」
衝撃だった。
よりによって俺に?という思いと、なぜわかったんだ、という思いが入り交じってどう反応したら良いかわからなかった。
その頃の俺は、今思えば無茶な生活を送っていた。
あいつの代わりを生きなければ、と必死で、さらに自分自身の夢も捨て去ることが出来なくて、二兎を追って。
ひどく疲れていた。困憊していたんだ。
こんな言葉を、確かに俺は渇望していたんだ。
「ね、貰って下さい。ホワイトデーとか気にしなくていいですから。それ、すごくちっちゃいし」
「あ、りがとう……」
「どういたしまして。こんな日まで、お仕事、お疲れさまです」
彼女は肩をすくめ、マフラーに埋もれた顔でふふっと笑う。それはやわらかくてふわふわした、冬毛の小鳥を思わせた。
目が離せなかった。
俺は彼女が立ち去った後も、董胡に肩を叩かれるまで、十分以上もそこに立ち尽くしていた。
体が動かなかった。
俺達を応援してくれる人間の中に、あんな子がいたなんて。
どうして気付かなかったのだろう。
その日から俺は、観客の中に彼女の姿を探し始めた。
しかし――。
一度しか逢ったことがない人間をステージ上から見つけ出すのは至難の業だった。
ライブハウスの中なんて混沌としたものだ。暗いし、観客はすし詰め状態だし。
俺はあるときふと思いたって、再び警備員の制服を着、表に出てみた。
今ならまだそのへんをうろついているかもしれない。
楽屋を出、薄汚れた廊下を突っ切って、怪しまれないようにすれ違う人達にも頭を下げて――
そのときだった。こそこそと関係者に混じってバックヤードに潜入しようとしている彼女と友達を見かけたのは。
「そこの子!」
思わず叫んでいた。注意されたと思ったのか、ふたりは飛び上がって振り返る。やはり、あのときの子だ。
「君、バレ――」ンタインの日の。
そう話しかけたつもりだったのに、彼女らは「バレた!?」「すみません、つい出来心でっ!」頭を下げると、逃げるようにしていなくなってしまった。
その後も何度か同じようなことがあって、俺はいつの間にか天敵として認識されたらしかった。
セリは怒った顔もとびきりかわいいから、それでも俺は充分嬉しかったのだけれど。
シヴィールはこのころ、現在の事務所との契約交渉が詰めに入っていた。
それまで、ライブハウスのオーナーに頼まれて他のバンドより頻繁に行っていたライブも、回数も減らさざるを得なくなって。
慌ただしくホワイトデーは過ぎてしまって、準備したプレゼントも渡せないままで。
気付けば俺は、自分でも驚くほど純粋な片思いをしていた。
……いや、それは今もあまり変わっていないかな。
セリを側に置くことには成功したけれど、振り向いてもらえたかというと――。
もし、例の二千万円が帳消しになったなら、きっと彼女は俺を捨てて出て行くだろう。
わかってるんだけどね。
それでも期待してしまうのは、やはりセリの所為だ。セリが必死で俺に尽くしてくれるから。
と、責任転嫁をしておくことにする。でなければ俺は、勘違いだけが得意な愚か者になってしまうし。
***
「おい、入るぞ」
ノックと同時に董胡の声がして、背後のドアがばたんと開いた。
俺はワークチェアを回転させて振り返る。と、途端に缶コーヒーが一本飛んできた。
「うわ」両手で辛うじて受け止めて、投手を睨む。「あぶないよ」
「悪ィ、しかしおまえ、案外運動神経いいよな」
はは、と董胡は悪びれも無く笑ってソファーに腰を下ろした。
笑い事じゃない。若干むっとしながらプルタブを引き上げる。室内が、一気にコーヒー臭くなる。
董胡はいわゆるカフェイン依存症だ。コーヒーがないと気が狂うんだとか。
「おまえさ、そろそろ許してやれ。あいつ、テンパって半泣き状態だぞ」
「あいつって」一口飲む。セリが淹れてくれたモカのほうが数倍美味い。
「柳だよ柳。運悪くプリンタに紙が詰まって、約束の5分を軽く過ぎたとかって」
「――、ああ!」
そう言えば、あれからもう十五分だ。柳、着ぐるみの刑、本気にしてたのか。
忘れてたのかよ、と苦笑して董胡は背もたれに大きく両腕を広げる。
皮のジャケットがソファーと擦れ合ってギチギチいう。
「その、慌てふためく様を眺めて免罪符としようかな」
「悪趣味」
「同じこと、セリにも言われた」
董胡は少々俯いてクククと肩を揺らす。
「最近、口を開けば愛妻の話だな。ま、でも充実してるみたいで良かった」
「うん、おかげさまで」
「おまえ、結婚してから変わったよな。いや、元に戻ってきたっつうのか。雰囲気が柔らかくなった」
「そう?」
「事故以前の、肖衛らしくなってきたよ」
事務所の皆は全員、あの事故のことを知っている。夏肖の状態も、俺が何故ヴォーカルを始めたのかも。
しかし、こうして話題にしてくれるのは董胡くらいのもので、変に気を遣われないぶん気持ちいいなと俺は思っている。
「一時期は別人みてェだったもんな。ガリ勉で気弱なおまえが、荒れ放題だった夏肖とそっくりになっちまってさ」
「……夏肖ってそんなに荒れてた?」
「それなりに、とでも言っておく」
それなり、ねえ。日本人らしい程度表現だ。
「俺と比べりゃかわいいもんだ」
言って董胡は空き缶をテーブルの上に置く。
確かに、バンドを始める前の董胡は今から想像もできないほど荒れていた。
実家との折り合いが悪かったのだ。いや、親戚、と言ったほうが正しいかな。
というのも彼はとある旧家の長男で、世が世ならやんごとなき立場にいたはずの男なのだ。
中学時代にはまだ、趣味が乗馬だとか言っていたっけ。その直後、夜な夜な鋼の馬を駆るようになったけど。
――俺は知っている。
彼がこうして独り身でいるのは、自分と同じ境遇の子供をつくらないためなのだと。
恐らく、一生独身でいるつもりなんだ、董胡は。
「でもま、俺もシヴィールを結成してからだいぶ角が取れちまったがな」
そうだね、と俺は答えて腕組みをする。
シヴィールを結成してから――、か。なるほどねえ。
変化ってやつには理由があると、どこか納得してわかった気になるのかもしれない。
「じゃ、そろそろ柳を解放しに行ってくるよ」
「おう、そうしてやれ」
そんなことで柳を無罪放免で釈放した後、俺は三時間の残業を経て事務所を出た。
すっかり遅くなってしまった。
自宅までは車で四十分少々。電車なら一時間は堅い。あまり恵まれた環境とはいえないけれど、仕方の無いこと。
まだ駆け出しの俺達に贅沢は禁物なのだ。
駐車場に向かいながら芹に約束のメールを入れると、早々に返信があった。
《気をつけてね。おうちに着くまでが遠足ですよ》
俺はまたもや噴き出して、しばし悶えた。遠足って……俺、いくつだ。そもそも遠足じゃなくて仕事だよ。
彼女は出会った日からこうして変わらず俺の男心をくすぐってくれる。
意識的にやっていることではないと思うけれど――いや、だからこそタチが悪いなと俺は思う。
おかげで、いつもなら使わない有料道路を選んでしまったじゃないか。
「おかえりなさーいっ」
明るい声。俺に、先にただいまと言わせないのは彼女のポリシーらしい。
いつも、玄関を開けると笑顔で出迎えてくれる。きっと、料理をしながらエンジン音に耳を澄ませているのだろう。
俺の帰りを、ただひたすらに待っていてくれる健気なひと。たまらなくなって「ただいま」言うなり抱き締めた。
「え、ちょ、肖衛っ」
いきなり何、と狼狽える割に嫌がってはいない……ように見えるのは俺の気のせいかな、やっぱり。
ついでだから唇も奪っておこうと思ったのに、「ストップ」それは流石に止められてしまった。
「ごはんが先。冷めちゃうよ」
「……ふうん、後ならいいんだ?」
「いちいちあげあしとりすぎっ」
否定まではしないのか。
それは甘んじているだけ? 慣れたから? それとも、妥協なのだろうか。
俺は少し複雑な気持ちで苦笑う。
君は優しいから。その優しさが、いずれ惰性になってしまわないだろうかと、危惧しつつ。
「あ、セリ、今日も美味しかったよ、お弁当。ごちそうさま」
「ほんと? ん、からっぽだー、ふふ」
「季節外れの伊達巻きがよかったなあ。あれ、まだある?」
「うん。じゃあ今出すね。よかった、肖衛、甘い卵焼き好きだから伊達巻きも好きだと思ったんだ」
「熟知してるねえ、俺の味覚」
セリは、そりゃそうだよ、と言ってむくれ、足早にカウンターの中へと消える。
意外な反応だった。褒めたのに。すると。
「……だって奥さんなんだもん」
そう――君がキッチンの隅でぽつりと零した愚痴を、俺が聞き逃したなんて思わないで欲しい。
こうして、ゆるい弧を描くように、日々わずかずつ軟化してゆく君の態度にも。
気付いていないなんて、思わないで欲しい。
ねえ、セリ。
君のその変化には、どんな理由があるの?
問うたところで、意味は無い、と返されるのが関の山だろうけど。
なら、もう少し見て見ぬ振りをしているのも一興かなあ。頭の中で呟きながら、食卓の前に腰を下ろした。
なにしろ俺は悪趣味、らしいからね。
<fin.>
*次話より、再び本編に戻ります。ここまで読んで下さって有り難うございます!感謝をこめて。さいかわ