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いちご†盗人  作者: 斉河
<第一部>
10/42

10、Speak of the devil.(c)

 

 身支度を整えて自宅を出た私達は、董胡たちと共にマネージャーさんが運転するワゴン車に乗り込んだ。

 夢のような状況に我を失ってしまったのか、未知はうつろな目をして黙り込んでいる。

 しかし、同様に私が口を結んだままでいたのは、忘我したからとかいうわけじゃあない。ボロを出さないためだ。

 一言でも喋ったら、肖衛の正体がバレそうで怖かった。


 こうして、辿り着いたのは郊外の一軒家だった。


 平屋の民家を改築したと思しき建物は、黒く塗りつぶしたような外壁で、よくあるライブハウスと言った態だ。

 掲げられた看板は“Juice”――聞いたことがあるような、ないような、……思いだせない。

 首をひねる私のすぐ横で、未知が怯えきった口調で言った。


「ここ……今日、タカちゃんが……あたしの彼氏が夕方からライブ、するところだ……」

「え!?」


 どういうこと。

 問い質そうと振り向いたけれど、そこにはすでに乗ってきた車はおろか、ふたりの姿さえ無かった。

 置き去り? 何の冗談だ。


「み、未知、帰ろう」


 でなければ隠れよう。

 こんなところをうろうろして、もし彼氏とはち合わせでもしたらまずい。

 しかしそのとき私達の退路を塞ぐように、大きな人波が現れた。それは津波のごとく、こちらへと一気に押し寄せてくる。


「何!?」


 叫んだときすでに遅く、私達は手を繋いだままそれに呑み込まれていた。

 次から次へと現れる人々は百人、いや、二百人を軽く超えている。

 当然、逆行なんてできっこなかった。

 私と未知はあれよあれよというまに流れ流され、建物の壁面にぶちあたったところでようやく止まった。

 そうして、そこで彼らがシヴィールの名を口々に唱えていることに気付いたのだった。


「――シヴィールが――ツイッターで――」


 ツイッター? 

 慌てて携帯電話を引っ張り出し、Webに接続する。

 そこにはたしかにナツの名で『本日Juiceにて正午よりシークレットライブ、参加費無料』との書き込みがあった。

 Juice、というのは状況からしてここだろう。

 でも、なんで突然――。

 成す術も無く立ち尽くしていた私達は数十分後、突如頭上から降り注ぐ雷鳴のような轟きに身を屈めた。


「あ、あれ!」

「上っ」

「ナツ――ッ」


 人々が、天を仰いで叫ぶ。口々にその名を呼ぶ。甲高い悲鳴をあげる。

 それは数秒とたたないうちに、勝ちどきに似た歓声へと変わった。

 私は振り返って人々の視線の先を見――絶句した。

 フラットな狭い屋根の上には、ステージさながらの機材がずらりと並んでいる。

 くわえてそこには、シヴィール全員の姿があった。


(うそでしょ!?)


 しかし、特撮ヒーローじゃないんだから、と冷めた見方ができたのも一瞬だった。

 マイクをかまえたナツの咆哮に、私は日常と非日常の境界線を見失った。

 彼らがそこに君臨しているのが当然のことのように思えたら、もう、違和感なんて微塵も感じなくなってしまったのだった。


 ***


 演奏は新曲に始まり、MCを挟まず三曲続いた。

 どれもがここ最近のヒット曲で、スピード感のある曲調ばかりだ。

 最初は茫然としていた未知も、徐々に他の観客同様、飛び跳ねて興奮しはじめた。

 昔とおなじように。

 熱狂の中、揺れる地面に、呼び起こされる懐かしい記憶。


―― やっぱり、ライブって特別だ。


 過去、こうして何度彼らに酔わされたことだろう。

 躍動と繊細が混在する、ひとつの世界。ここには、鬱憤や退屈なんて誰も持ち込めない。

 圧倒的な音の渦に全てを委ねたら、嫌なことなんて全部忘れてしまえる。忘れていいんだって、言われている気がする。

 そうして、現実から解放されて、自由になれる気がしたのだ。

 だから私にとって、ここは何より特別だったのだ。


 ナツは哮る。あのころと同じように。あのころに増して、研ぎすまされた美声で。


 私は彼の歌声にうっとりしながらも、何故だか酔うに酔えなかった。

 懐かしいのに。大好きなライブなのに。

 どうしてだか、以前よりずっと、彼を遠くに感じる。

 そう感じることが、胸に、チクチク刺さる……。


『今日は突然の告知なのに、いっぱいあつまってくれてありがとーっ』


 三曲目が終わると、そう言って叶が屋根の上で飛び跳ねた。

 応えるように、キャーッ、と黄色い歓声が巻き起こる。叶のファンは若い女の子が多いのだ。


『えーと、僕らは今回前座なんだけど、最後まで楽しんでいってねっ』


 前座? 私と未知は思わず顔を見合わせた。まさか。

 しかし直後から再び演奏が始まってしまったため、私達が互いの考えを確認し合うことはなかった。


 異変が起きたのは、およそ一時間後のことだ。

 そう、前座にしてはパフォーマンスがやけに長いと感じ始めたときだった。


 人波をかき分けて、私達のすぐ横に現れたのは若い男だった。

 黒皮のライダースジャケットにやや長めの黒髪は、董胡の男性ファンが好んでするスタイルだ。

 私は最初遅れて来た熱狂的なファンだろうと思ったのだけれど、未知が怯えるように手を握ってきたことで、事態を察した。

 彼こそが、未知の彼氏である“タカちゃん”なのだと。


『よお、遅かったじゃねェか、真打ち』


 曲の真っ最中にもかかわらず、マイクを通して愉快そうな声色で言ったのは董胡だ。

 彼の視線の先にいる“真打ち”こそ――そのタカだった。


『お前らの前座、務めておいてやったぜ』


 やはり、だ。やっぱりシヴィールは、彼のバンドの前座を務めていたのだ。でも、どうして。

 あっけにとられていると、董胡は颯爽と梯子を伝って地上に降りたち、私達を庇うようにして立った。


「お前だろ、タカってのは」

「シヴィールの董胡……どうして俺の名を」

「てめェの美声が業界で話題になってるから。ってのは当然嘘だって本人が一番良くわかるよな?」


 あからさまな挑発。カチンときたのか、タカは斜めに董胡を睨んだ。


「どういうつもりだ。前座なんて、俺は一切聞いてねえぞ」

「そう睨むなよ。観客を大勢集めておいてやったんだ。少しは感謝してもらいたいもんだぜ」


 と、私は董胡が後ろ手に何かを差し出していることに気付く。

 見覚えのあるネックストラップの先には、クアイエットゾーンの社員証が下がっている。

 身内のフリをしろということか。だけど何故今。

 すると、“関係者以外立ち入り禁止”と書かれた扉の向こうから、美鈴さんが手招きをしているのが見えた。


 ***


 建物内に駆け込むと、ちょうど、内階段からナツと初穂が降りてくるところだった。ふたりとも、鋭い目線で私達の背後を見ている。

 そこには未知の彼氏・タカの姿があった。董胡に無理矢理引っ張り込まれたのだ。

 ……何が始まるのだろう。


「あなたが未知さんね。さ、こっちよ」


 美鈴さんが私達の背を押し、別室に導き入れてくれようとする。

 けれど、私はその場のことが気になってたまらなくて、足を止めて振り返った。

 ナツは迷いなくまっすぐに、タカの前へと歩いていく。

 木の床材で響くはずの足音は、屋外から聞こえる叶のトークによってかき消されている。


「――どうぞ」


 低く、それだけを言って、ナツはマイクをタカの胸にぞんざいに押し付けた。未知も、驚いたように振り返る。


「上のセット、そのまま貸すから。ライブの続き、やってみせてくれる」

「……は」

「君の実力、俺達に聴かせてくれないかな」


 引きつり笑いを浮かべるタカに対し、ナツは冷ややかな目をしたままだ。その横から、茶化すように初穂が口を挟む。


「あれ、まさかビビってんの。んなわけねえよな。音楽で成功したいーなんて言ってる男が、この程度のオーディエンスで」


 私は思わず息を呑む。もしかしてこれ、ぜんぶ未知のためとか言わないよね。

 同じことを思ったのか、タカは突如目を剥いて未知を睨んだ。そうして、怒鳴り声を上げながらこちらに向かってきた。


「仕組んだのはてめぇか、未知!?」


 ビクリと、電流が流れたみたいに未知の体が震えて固まる。

 瞬間、私は無謀にも自分の背に未知を隠していた。ただ、もう二度と、あんな傷跡を残させたくない一心だった。

 とっさに董胡が間に入ってくれたから意味はなかったけれど。


「仕組んだ、ねえ。チャンスだとは思わないわけ? 君は――どこまでも低能なんだね」


 ナツは、タカの肩を掴んでそう言うと、薄氷のような笑みを浮かべた。


「なのに欲求だけは高次元だなんて愚かしいよ。ねえ、人間の欲求は五層のピラミッド状、と言ったのはマズローだったっけ」


 私は息を呑む。その態度に、覚えがあったからだ。

 そう、あれはつい先日、初めての夫婦喧嘩をしたときのこと。

 あのときも肖衛はやけに遠回しに、難しい言葉で私を揶揄したっけ。


「下から順に、生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、そして頂点が自己実現の欲求――満たされるたびに、一段階上へと登っていくんだ」

「……おまえ、何を言って」

「成功したい、っていうのは当然、自己実現の欲求だよね」


 これは、怒りが沸点を超えた証拠なのだと思う。

 静かだけれど、確実に、彼の腑は煮えている。

 何故? 未知の話を聞いたから?

 それとも、私が昨日泣いたから……?


「で、君の欲求が見事頂点にまでのぼり詰められたのは誰のおかげなのかな」


 ナツは力任せにタカを振り返らせる。「彼女だろ」そして、語気を強めて言った。



「彼女がその他の欲求を全部満たしてくれてるからテメエは人並みに夢ってヤツが語れるんじゃねえのか。違うかよ――」



 珍しく乱暴な口調に、私はどきりとする。肖衛じゃ、ないみたい。

 すると、我慢の限界だったのだろう、未知はついに両手で顔を覆って泣き出してしまった。

 あるいは、彼の言葉が胸に響いたのかもしれない。私も――そうだった。

 思えば肖衛は、いつだって私に惜しみなく感謝の言葉をくれたっけ。

 ありがとうって何度も何度も、大げさなくらい言ってくれたっけ。

 ずっと、こんなふうに考えていてくれたんだな……。


「お取り込み中のところをすみません」


 そこで、内階段に姿を見せたのは柳だった。汗だくのまま拭いもせず、申し訳なさそうな顔で頭を下げる。


「そろそろ叶だけでは場が凌げなく――」


 と、全員の神経が彼に集中した一瞬の隙をついて、タカが苦し紛れに唾を吐いた。

 全く予想外の出来事だった。それはナツの胸元に見事命中する。

 しかしさらに私の予想を大きく外したのは、この暴挙に真っ先に反応した人物だった。


「貴様……ッ!」


 柳さんだ。

 怒声を発したかと思うと階段の手すりを飛び越え、タカへと一直線に飛びかかる。その目には明らかな怒気があらわれている。

 やめろ、と叫んで制止しようとした初穂は片手で簡単になぎ払われ、美鈴さんは両手を頬に当てきゃあっと叫んだ。

 寸前で董胡が彼を取り押さえなければ、本当に殴り倒していただろうと思う。

 驚いた。

 ステージを下りた柳さんにも、こんな激しい一面があったなんて。


「だめだよ、暴力は。警察沙汰になったら困る」


 ナツは悲しげに言って、汚れたジャケットを脱ぎ捨てる。


「ですが、ナツさんが」

「俺のことはいいから」


 よくないよ、と思った。柳さんの気持ちは、痛いほどよくわかる。わかるからこそ、もどかしかった。

 脳裏に、未知と肖衛の顔が交互に浮かんでは消える。どちらも穏やかな笑顔を浮かべている。しかし目の前の二人はどちらも悲痛な表情で、私はまるで自分の内側にあるふたりの穏やかな姿までもを、汚されたような気になった。

 耐えられない。それだけは、どうしたって耐えられない。

 静かにクアイエットゾーンの社員証を外し、私はタカに歩み寄る。

 目前で右手で握りこぶしをつくり、背伸びをした。そうしてそれを、容赦なく彼の脳天に見舞った。げんこつだ。

 本当は頬をはたいてやりたかったけれど、嫌悪感が先にたって、肌には直に触れたくないと思った。こんな男の肌になんて。


「……っにするんだこのアマッ……!」


 反応は早かった。反撃をしようと、タカが右手を振りかぶる。

 しかし「セリ!」ナツが素早くそれを掴んで庇ってくれ、私は事なきを得たのだった。

 とはいえ、私はげんこつを振り上げた位置から少しも動きはしなかった。「セリ、退いて」あえて聞こえていないフリをした。

 一歩も引く気はなかった。別に殴られたっていいと思っていた。



「未知はもっともっと痛かったんだ。そんなこともわかんないくせに、偉そうに歌なんか歌うなっ」



 自分こそ偉そうに、何様のつもりだろう。でも、黙ってなんかいられなかった。

 私は知っている。そう自負している。

 未知がどれだけいい奴で、どんな想いで彼を支えていたのか。

 肖衛がどんな想いでステージに立っているのか。どんな気持ちでナツを演じているのか。

 どれだけ一生懸命、シヴィールの活動をまもっているのか。

 私は誰より知っているのだから。



「うい、を……シヴィールをばかにするな……!」



 捨て身の状態でタカに殴り掛かる。肖衛が彼の腕を押さえつけているのをいいことに、その胸をドンドンと太鼓のように叩いた。たいしたダメージを与えられていないとわかっていたから、余計に悔しかった。

 唾を吐きたいなら私を標的にすればいい。だけど肖衛は。肖衛だけは。

 と、焦ったように初穂がかけてきて、私をタカから引きはがした。


「芹生、もうやめとけ」「や!」


 届かない拳が歯痒い。私はだだをこねるように両腕をふりまわして――ふりまわして、最終的に肖衛の背中のシャツを掴んだ。

 掴んで、ぎゅうっと握った。

 汗ばんだその背中が、ひどく哀しいもののような気がして、はなせなかった。


 こんなに憤ったのは、生まれて初めてだった。


 ***


 その後、タカがどうなったのか、私は知らない。

 尻をまくってライブハウスから逃げ出した、と初穂が教えてくれたけれどなにしろあの初穂の言葉だけに、真相はわからなかった。

 ライブは結局シヴィールが最後までつとめて、アンコールも二度おこなったそうだ。これは、柳さんからの情報だから信用に値すると思う。

 その間、私が何をしていたのかというと、別に帰宅してしまったわけでも悔しさのあまり絶望していたというわけでもない。

 未知と美鈴さんと共に、別室へ隔離されていたのだ。いや、隔離というのは言いすぎかな。

 それは、ナツ―― 肖衛が未知のために用意してくれた、特別な場だったのだから。


「そこまでシヴィールのことを熟知してくれてるとなると、もう私としては文句のつけようがないんだけど」


 面接官としてテーブルの向こうに座っていた美鈴さんは、一通りの質問を終えて満足そうに口角を上げた。


「とりあえず痣が良くなるのを待って、そうね、来週からでも働いてもらえたらうれしいわ」

「ほ、本当ですかっ」

「もちろんよ。あ、でもウチ、薄給だから覚悟しておいてね」

「はいっ、宜しくお願いします!」


 そう、特別な場というのは中途採用の面接試験のことだ。

 職を失った未知に、肖衛はなんとクアイエットゾーンの社員になったらどうかと勧めてくれたのだ。

 まさかの提案だった。そりゃ、あそこには万年人手不足みたいな部分がある。逆に、シヴィールの人気が上昇するにつれ仕事量は比例して増しているし。とはいえそこまで未知に親切にする理由が、彼にあるとは思えない。

 でも、話が終盤に差し掛かってから気付いた。


「じゃあ未知さん、ひとつ大切な契約をしておきたいのだけれど、いいかしら」

「?はい」

「務めるにあたって、あなたには厳しい守秘義務が課せられるわ。まもってもらえる?」

「……はい。必ず」

「なら、芹生ちゃんの旦那様の正体も、絶対に口外しないでもらえるわね」

「え?」


 つまり彼は自分の秘密を守るため、この一見理不尽な要求を未知にうまく……いや確実に呑ませたかったのだ。

 その未知はといえば、真実を知って驚く様子もなく「そういうことか」と納得するだけだったのだけれど。

 こうして私達はすこしのわだかまりも残さず、親友としてのより強い信頼関係を築くことが出来たのだった。

 大団円ってやつだ。


「ありがとう、肖衛」


 帰路についてから、私は運転席の肖衛に頭を下げた。

 陽が落ちてからすでに三時間、首都高から見えるのはきらきら瞬く夜景ばかりだ。


「そんなに気にしなくていいよ。もともと、彼のことは放っておけないと思ってたところだったし」

「彼ってタカのこと?」

「うん。あちこちで自分はシヴィールに目をかけられてる、とか言いふらしてたみたいなんだ。迷惑してたんだよ。でもまさか、桂木さんの彼氏だったとはね」

 

 昨日調べてみて驚いたよ、と肖衛は言う。その目が赤いのは、前の車のテールランプのせいじゃない。

 夕べ、眠っていないのだと思う。

 せめて運転を代わってあげられたらいいのに、免許のない自分にそれはかなわない。

 私って、実際すごく無力だ。

 文句ひとつ言うにも、結局肖衛に護ってもらわなければならなかったし、足を引っ張るばかりで役にたたない自分が、情けなくていやになる。


「でも、それでも言わせて。ありがとう。嬉しかった」

「こちらこそ。今日のセリは、最高に頼もしかった。惚れ直したよ。俺、セリと結婚できて良かったな」


 なのに、こんなときでも肖衛は感謝の言葉を決して忘れないのだ。

 勘違いしちゃうよ。肖衛には、私が必要なんだって。

 くすぐったい気持ちで、私は足先をもぞもぞする。もぞもぞ、座り直したりしながら、私は口をひらいた。


「あ……あのさ、肖衛、私」

「うん? トイレいきたいの?」

「ちがうし。あのね、私、わたしこそ」


 そこまで勢いよく言ったくせに、一瞬ちょっと迷った。恥ずかしかったし、早まったかな、なんて。



「あのね、私こそ……、だ、だんなさまが肖衛で良かった」



 他の誰でもなく、肖衛で良かった。これは今回身にしみて実感したことだ。

 もし、相手がタカみたいな男だったら――考えるだけでゾッとする。

 いくら借金を肩代わりしてくれたとしても、きっと感謝なんて出来なかった。

 毎日、こんなに心穏やかに過ごせるのは相手が肖衛だからだ。

 選んだ理由なんてないけれど、今、相手が肖衛でなければならない理由なら、たくさんある。

 意地悪だけどやさしいところ。

 お弁当を残さず食べてくれるところ。

 だれよりも私を大切にしてくれるところ。

 いつだって、必ずちゃんと護ってくれるところ。


「……って、本気で思ってるんだから、ねっ」


 あげあしをとるかと思いきや、肖衛は「そう」短く答えて、くしゃっと笑った。子供のように無垢な笑顔だ。

 そうして彼は突然、私の右手を握った。

 運転中だよ、とか、いきなり何っ、とか、普段なら言い返したに違いない。

 けれどそのときの私はまるでデートの続きみたいにどきどきして、困惑しつつも高揚していて、茶化す気にはなれなかった。

 それどころか、もっと触れていたいと思った。

 はなしたくないと思った。


 ためらいながら、私は掌を返す。

 そうして、ぎこちなく――はじめて、彼の手を握り返した。


 節の張った指。思ったよりがっしりした感触の甲。浮き上がった血管が、少し速い脈を打っている。


 フロントガラスの先の、空をみつめた。


 大都会の夜空は、彼がくれたワンピースみたいに、ふわふわやさしい色をしていた。

 

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