1、All's fair in love and war.*
春が来た。春とは呼べないくらい、寒い春だった。
私は高校の制服を脱ぐと同時に小此木から坂口になって、それからほんの六時間後、いちご大福に当たっていた。
とはいえ別に、福引きで一年分を引き当てた、とか某氷菓みたいに当たり棒が入っていた、とかいうわけじゃあない。
いや、そのほうがどんなに良かったことか。
当たったというのはつまり、その、お腹を……下した、という意味。
なんとなく舌がピリピリしたし、いちごが妙に柔らかかったから嫌な予感はしたのだ。
しかし、いくら割引価格とはいえ食べずに棄てるのはかえって損というもの。
食欲というより小銭に勝てなかった私は、どれだけ小市民だろう。
……今更そんなことを言ったって、時間は戻らない、か。
とりあえず今できるのは、早いところ胃腸薬を飲んで、この腹痛にオサラバすることだ。
そう思ったのに、初対面のアルカリイオン製水器は『フィルター洗浄中です、しばらくお待ちください』と爽やかにのたまった。
「か、勘弁して」
下腹を押さえてうずくまる。冗談抜きでもう、動けそうにない。
やむを得ず、シンク前のマットに体を横たえたら、ふっと意識にもやがかかった。
「芹生?」
男の声が聞こえる。低すぎない、軽くガーゼで包んだみたいな、芯のない声が。
誰が発したものなのか、わかったからこそ、返答なんてしなかった。
「どうしたの」
坂口肖衛――もっさりした時代遅れの七三分けと、顔の半分を覆い隠す黒ぶち眼鏡が特徴の、三十八歳。
まともな会話すらしたことがないけれど、彼は今日から私の配偶者。つまり夫だ。
そして今晩こそが、俗に言う新婚初夜、だったりする。
けれど私は、彼と愛を営むつもりなんてない。微塵もない。
だから朝日を見るまで逃げ切ろうと思っていたのに、よりによって兵糧に足をすくわれるとは一生の不覚だった。
来ないで。近寄らないで。ドロボー、痴漢、疫病神。なにか一言だけでも言ってやりたいのに、声にならない。
遠のく意識の中、筋肉質な腕がこちらへと、伸びてくるのがぼんやり見えた。
――ああ、捕まってしまう――。
途端、私の脳裏にはデジャヴのような光景が映し出されたのだった。
こちらを心配そうに見下ろしている、“彼”、の姿が。
『せいなちゃん、大丈夫?』
あれはたしか、私が小学校に上がるか上がらないかというころの話だ。
相手はやはり年上の男のひとで、私のことを、ずっと『せいなちゃん』と呼んでいた覚えがある。
それは私が舌っ足らずだったために、自己紹介をしくじった所為なのだけれど。
『わたし、**くんのこと、だいすき』
『じゃあ、僕のお嫁さんになる?』
『うん!』
あんなことも約束したっけ。
顔を思い浮かべても、すりガラス越しの像しか結ばない。名前も声もぼんやりとしか思い出せない。
私がこうなのだから、向こうもとっくに忘れてしまっただろう。
これはつまり、現実はそんなに甘くなかった、ってことになるのかな。
そう思っていた私は、後に思い知ることとなる。
この時の出来事こそ、甘いものなんかじゃなかった、ってことを。
***
最寄駅まで徒歩五分という好立地にありながら、庭付き池付き外車付きの地上三階建て。
外壁は防火だか防寒だか防汚だかの効果がある大理石で、日がな太陽光を反射している傍迷惑な一軒家。
ここが今日から私の――坂口芹生十八歳の、住家だ。
近所にちょっと古風な商店街があるせいか、耳を澄ませば絶えず人のざわめきが聞こえてくる。おかげで静かとは言えないのだけれど、決して住みにくいわけでもない。
引越し前、家族で暮らしていたアパートは線路の真裏で、耳に入るのはもっと刺さるように冷たい音ばかりだったから、こういうのならかまわないと思う。
住人同士が行き会ってあいさつが普通にかわせる街。
要するにここはいいところなのだ。ただひとつ、私が置かれているこの状況をのぞけば。
前述で察して頂けたかもしれないが、私は高校卒業とともに好きでもない男のもとに嫁いだ。お見合い結婚だった。
それこそ時代錯誤な話なのだけれど、発端は父の借金。言ってみれば私は、借金のかたに売られた不運な女の子なのだ。
とはいえ、父ひとりを責めるつもりはない。家族のために頑張った結果だということは、重々承知しているから。
最初は、海外の投資会社がどうにかなったところで、下町の小さな工場にまで影響が及ぶなんて思いもしなかったけれど。
しかしリーマンショック以前も以降も、打撃を受けたのはことごとく中小企業だったように思う。
父の板金工場も例に漏れず、あっという間に傾いた。ピサの斜塔も真っ青の傾斜角だった。
従業員は全員解雇、私は大学進学を断念し、母は妊娠中にもかかわらずパートに出た。
それでも、食うや食わずの日々だった。
人一倍家族思いの父は悩みに悩んで、とうとううつの一歩手前まで追いつめられてしまって――。
自宅で首をくくろうとした。一度じゃない。三度もだ。
四度目を阻止した瞬間、もうだめだ、と思った。このままでは本当に、一家が離散してしまう。
そこで私は、自分が人柱ならぬつっかえ棒になることを申し出たのだった。
これまた今時珍しいことなのだけれど、ちょうどそのとき、自称資産家の男から私を嫁に欲しいとの申し入れがあった。
しかも、お困りでしたら借金返済の手助けもします、とのこと。
天の救いだと思った。
相手が三十八歳、というところに多少の引っかかりは覚えたけれども。
友人である未知にはよく、「芹生は童顔なのに巨乳だからマニア受けするよ」と言われていたから、推測するに、相手はよほどのマニアと思われた。
二十歳も年上で、マニアな資産家っていかがなものだろう。
しかし、かの福山雅治より年下だと思えば、無いこともないかな、と思えたから不思議だ。
結婚する、と決心を告げた私を前に、母は泣いた。
号泣だった。一緒になって弟も泣いていた。妹も、その下の生後間もない弟もだ。
でも私は――正直、かまわなかった。
家族のためになるのだし、なにより、資産があれば今よりずっと悠々自適に暮らせるのだから悪くはない。
元来、深く物事を考えない私は、底抜けのポジティブシンキングだけが取り柄だったりする。
しかし見合いの席で待っていたのはよりにもよって、私の仇敵とも呼べる男だったのだ。
「シヴィールの警備員!」
和食屋の襖を開けるなり叫んでしまった。
ちなみにシヴィールというのはちょっと前までインディーズだった五人組ロックバンドの名だ。
正式には『S.I.V.I.R.』といい、結成時に飲んでいたワインの名が由来――というのはファンの間では結構有名なエピソードだったりする。
ビジュアルはややゴシック系で、音は少しB'zに似ていた。つまりもの凄く上手かったのだ。
だからメジャーデビュー後もスマッシュヒットを飛ばし続け、あれよあれよという間にトップミュージシャンの仲間入りをしたのも、頷ける話なわけだ。
金欠病に冒されてからすっかりライブには行けなくなってしまったけれど、私はヴォーカルのナツの大ファンだった。
金髪でちょっと冷たい眼差しの、細身の美形。そしてとにかく歌声がセクシーな彼。
ライブに通っていた頃は出待ちなんて当たり前にしたし、楽屋に押しかけようとしたこともある。
その度に私の行く手を阻んでくれた憎きガードマン、それが坂口肖衛、見合い相手の自称資産家だったのだ。
「そこの女子高生、ルールが守れないなら来るな!」
毎回のように怒鳴られて、苛つかない日はなかった。
こんな皮肉、あって良いものか。だいいち、警備会社に雇われの身で資産家だなんて、嘘八百もいいところだ。
私は一転、破談を願った。
しかし奴は見事に現金一括で親父の借金二千万を返済してくれ――現在に至る。
こんなことになるなら、いっそあいつを殴り倒してでも楽屋に押し掛けておけば良かった。
そうしてあわよくば、私のヴァージンをナツに捧げたかった。
彼が相手なら、例え遊ばれても、無理矢理でも、ちょっとくらい痛くてもかまわなかったのに。
誰か冗談だって言って私の頬を往復叩いて。
そして悪夢から目を覚まさせてやって、お願い!
***
「ん――……」
眩しい。
気付けば私は広々としたキングサイズのベッドの、ほぼ中央で大の字になって寝ていた。
純白の、恐らくシルクのカバーがかかった羽毛布団はベッドと同じ幅で、一枚なのに充分暖かい。
かなりの高級品に違いない。お値打ち品ではこうはいかないから。
視線を右に振ると、大きな格子窓が三つ並んで見えた。そこから存分に陽の光が降り注ぐ空間は、恐らく二十畳ほどの広さがある。
加えて、壁紙の淡いグリーンにナチュラルウッドの家具が並ぶ様は、広々しすぎて一見森林のようだった。
(私、どうしてここにいるんだっけ)
セミロングの黒髪を手櫛で整えながら体を起こす。と、窓際のソファでまどろむ男の姿が目に入った。
「肖衛……?」
シャツの上からでもわかる、筋肉質な胸元はさすが警備員とでもいうべきか。
かといって決してガタイがいいわけではなく、案外細身な体つきが、案外セクシーだったりして……いや。
でも、真ん中分けでボサボサの長い髪は嫌いだ。縁の太いギャグみたいな眼鏡も。さらに口煩くてマニアでロリコンなわけだから、全体で見れば最低最悪だ。
けれど。
「もしかして、運んでくれた……とか?」
「……、一応」
独り言のつもりだったのに返事が聞こえて、私は思わず五センチ飛び退いた。
細目でこちらの動揺を確認した肖衛は、ふふっと意地悪そうに笑う。
「大事な奥さんがいちご大福にやられて苦しんでるの、ほうっておけないからね」
「し、知ってたの」
「うん、まあ、だって包装紙が捨ててあったし、芹生、俺の料理手つけずだったから」
だってそれは。
「一服盛られるとか思った?」
「……う」
もちろんそれだけが原因だったわけじゃあない。
一番は、これ以上彼の財産にたかるようなことをしたくなかったから、だ。
ちなみにいちご大福は私の自腹。小銭貯金でこつこつ貯めた八千円の、最後の百円から購入した。
あとの七千九百円はというと、家族にお別れのプレゼントを買うために使ったのだった。
「馬鹿だね、そんなことしないよ。小細工なんてしなくても、君はもう俺に逆らえないんだから」
得意顔で立ち上がる彼を見て、私は再び飛び上がる。
まずい。ここ寝室、アイツ男、そして私達夫婦。
「……おあずけは一晩だけにしてもらえると有難いな」
そう言って、私を押し倒す強い力。流石に警備員、逆らうことは許されなかった。
手際良くボタンを外され、はだけた肩口に唇を這わされ、熱い息を胸元にふきかけられて、全身が一気に粟立つ。
「やっ、……っ」
「昨日は家中うまく逃げ回ってくれたよね。そんなに俺が嫌い?」
当然だ。
父の借金を返済してくれたことに関しては、有難いと思っている。でもそのくらいで恋愛感情が芽生えるほど、私の思考回路は粗い作りなわけじゃない。
だって、今までずっと天敵だと思っていたのだ。大嫌いだったのだ。
こればっかりは、自慢のポジティブシンキングでも処理しきれないレベルの問題といえる。
「……ぅんっ……待っ……!」
両手を押さえつけられて、胸に舌を這わされて、涙目で首をふる。
うまく力が入らないのは、寝起きだから? やだ、怖い。やだよ。
「……もう充分だよ、待つのは」
「や、やだ……っ」
気づけば、後ずさろうにも後がなかった。
「ごめ、なさ、いや、怖い、いやだよう。ごめんなさい、ごめんなさ」
涙声で命乞いをする。怖い。――こわい。
彼の姿よりもっと大きな、影のようなものが自分を呑み込もうとしている錯覚を覚えた。
全身が竦んで、もう、すっかり動けない。情けない。
けれど、ベッドの縁で私を捕獲した肖衛は、容赦なんてしてくれなかった。
「芹生、せり、俺はずっと」
「ヤだ、い、った、いたいぃ……!」
耐えかねて両手を振り回す。本当は蹴り飛ばしてしまいたかった。
ちょっと良い奴かも、なんて思って損した。最悪だ。最低だ、こんな初めて。
「いやあーっ!」
彼がこちらを覗き込むような体勢になった瞬間、ここぞとばかりに力任せに平手打ちをくらわせた。
とはいえ、私はすっかり縮み上がっていたから大した威力はなかったように思う。
しかしそれでも、趣味の悪い黒ぶち眼鏡はベッドの横までふきとんで、私の顔のすぐ横には、モサッとした巨大な毛虫のようなものが落下してきた。
カツラ、だった。
――え。
おのずと抵抗の手が緩んだのは、申し訳なさからではなく驚きの所為だった。彼の顔をまじまじ見つめ、私はまばたきを忘れる。一瞬にして、痛みなんて忘れてしまった。
「しょ……い?」
嘘。
真っ直ぐ通った鼻筋と少し冷たそうな目許、金の髪。
細い輪郭に並ぶ、見事なまでの麗々しいパーツに、私は目どころか脳細胞までもを疑った。
どこかでみた、いや、私がずっと遠くから見続けていた人の顔が、そこにあった。
「……な、な、ナツ――――!?」
うそだ。
肖衛がナツ? ナツが肖衛?
訳が分からない。けれど、確実なことがふたつある。
私は今憧れのナツと繋がっちゃってるってことと、この人と結婚しちゃったってこと。
「う、うそ、あ、あんた」
「バレちゃったか。うん、俺はナツです」
肖衛は私を組み伏せたまま、説明は終わってからでいいかな、と余裕のない表情で笑った。
冗談キツいよ。
***
皮膚を一枚余分に被っているみたいだ。ベッドの中で寝返りをうっても、全身の感覚が薄くしか感じられない。
ぼうっとした頭で、隣に寝そべる男を眺める。
細身の身体と、少し短めの金髪に縁取られた影のある面差し。どこからどう見てもシヴィールのヴォーカル・NATHUだ。
眼科にでも行くべきだろうか。視力が落ちたのかもしれない。
いや、でも――夢でもカンチガイでもかまわない。私の初めてはナツに捧げた、と思っていたい。
「うん、騙すつもりはなかったんだけどね、うん、もう少ししてから打ち明けようと思ってたっていうか」
相づちマイセルフでナツは後ろ頭をかいた。棘の形のシルバーピアスが星のようにキラリ光る。
「ごめんね、痛かった、よね? まさか初めてだなんて思わなくて」
「……痛かったに決まってる」
「はは。ごめん、だってずっと欲しかったものが目の前にあったらさ、普通、耐えきれないじゃない」
「ちゃっかり同意を求めないでよ。もうその件はいいよ」
良くないけどいい。
だってもっと重要なことが――説明しなければならないことが――他にあるよね。
「なんで肖衛がナツなの。でもって、どうして私と結婚なんてしたわけ」
ナツは、いや肖衛は、ああ、もうどっちでもいいや、とにかく彼はちょっと困ったような顔をして答えた。
「最初は単なる変装だったんだよね。ライブハウスから出る時の。でもある日、君に会って……チョコを貰ったんだよ」
「え? 私? なんで」
「覚えてないの?」
往復頷いた私に、肖衛は残酷だねえと哀愁じみたつぶやきを漏らす。
「おととしのバレンタインデー。初対面の俺を本物の警備員だと思ったのか、警備お疲れさま、ってちっちゃいチョコをね」
「そうだったっけ……」
記憶にない。首を傾げる私を、彼は涅槃のポーズでじいっと見ている。
思わず、はだけかけていた脂肪のかたまり――無駄なボリュームを誇るEカップの胸をシーツにくるんだ。
どうやって受け止めたらいいのか分からない。大嫌いな男に騙されたと考えるべきなのか、大好きなあの人と『美女と野獣』的シチュエーションを迎えたと考えるべきなのか。
いや、ここまできたら自分に都合の良いほうで解釈させてもらうしかないか。
「俺にとっては特別な出来事だったよ。警備員まで気遣うファンを目にしたの、初めてだったし。それ以来忘れられなくて、舞台の上からもずっと君だけを見てたんだから」
ナツが、舞台の上から私を?
ポカンと開いた唇の端だけをついばんで、彼は笑う。
「あとはもう、警備員のフリを続行してまで君に近付こうとしたんだ。ぎゅうぎゅう押されて、どさくさ紛れに抱き締めてみたりとか」
「……そのわりにえらく怒鳴られた覚えがあるんだけど」
「だってセリ、怒った顔も可愛いから、つい」
「な、なにそれ、趣味悪いよ」
言い返しながら疑問に思った。
あれ、もしかしていま私、告白されてるとか? ナツで肖衛で夫でもある彼に、今更。
だけど何故だろう、悪い気はしない。
肖衛に対する嫌いと、ナツに対する好きが半分ずつ、私の中に存在するからだろうか。
「悪いのは趣味じゃなくて根性かもね。結局お金で買ったわけだから」
「んっ……ちょっ、……重、いっ」
鎖骨のあたりにわざとらしい音を立ててキスを並べられ、身悶えてしまう。
「や、めえ、っ」
「そんな顔をされたらますますやめられなくなるよ。ね、ほらもっとよく見せて」
そう言って例のダサ眼鏡をかけだすものだから、はり倒しそうになった。
どこをどうよく見るつもりなの。近づいてくる顔をぐいぐい押し戻す。
「どうしてわざわざ格好悪い姿で迫るのっ、最初からナツの姿で口説いてくれたら、私」
「そういうの、長続きしないから。上辺だけの俺にキャーキャー言われたって困るし」
「でもそれ、いくらなんでもダサ……っこら、ダメっ」
「それに、こっちが本当の俺っていうか。この髪型と眼鏡、バンドをはじめる前の素の俺とほぼ同じだし」
「う、嘘でしょ」
「本当。で、この姿の俺にチョコをくれたのは芹生が初めて。嬉しかったな」
嬉しかったな、と彼は繰り返す。その人懐っこい笑みに、一瞬、見蕩れてしまった。
「けど、ホワイトデーの頃にはもうメジャーデビューが決まって、忙しくなっちゃってさ、お返しをするどころか顔を見ることも出来なくなって」
切なそうに笑って、私の前髪をかきあげてくれる指の感触は、先程の強引な行為が嘘のように優しい。
「だから、人づてに君が困ってるって聞いたときは、最後のチャンスだと思った」
「肖衛……」
「卑怯だって罵ってもいいよ。それでも好きなんだ。ずっと好きだったんだ。君が必要だって言うなら、俺は何億だって何兆だって積むよ」
こんなの反則だ。もう、眼鏡の向こうの綺麗な瞳から目が逸らせない。
肖衛の中のナツ。ナツの中の肖衛。両方がそこに透けて見えるみたいだった。
「舞台の上の『ナツ』じゃなくて、本当の俺を見て。俺の全部を好きになってよ、芹生」
無茶な。無理矢理テゴメにしてから言う台詞じゃあないと思う。
けれどこれだけ真剣に迫られると、簡単に拒みきれなくなってしまうというか、無下にも出来ない気がする。
私、甘いのだろうか。
「なんて、嫌がる君を無理矢理組み伏せてみたかったっていうのが本音かな」
「……最低」
「最低上等。そうだなあ、そのうち最高だって言わせてみせるよ、……ベッドの中でね」
いたずらっぽく笑う彼に、私の心臓は落ち着きなくはねる。
強引な腕に閉じ込められて、甘いささやきに溺れそうになって、抵抗する力は無意識のうちに控えめになっていって。
ねえ、肖衛って、かなり恋愛下手でしょ。順番がことごとく逆だよ。でもね。
「じゃあとりあえず今日は、気の済むまでキスさせて?」
「……」
「無言は肯定ととらせてもらうけど」
「……」
「そう、良かった」
夫婦になったこと、ひとまず後悔するのはやめようかな、とか。
思う、よ?
***
「肖衛、しょういーっ」
お風呂上がり、私はバスタオル一枚で自宅の中で迷子になるという貴重な経験をさせていただきながら夫の名を呼んだ。返答はない。
この家はおかしい。中二階だとかピロティだとか、ごちゃごちゃしていて初訪問の人間には全然優しくない。
私は昨日ここに越してきたばかりで、まだ家中を見て回ったわけじゃないから、トイレの数も把握していない。
困ったな。着替えの場所くらい覚えておけば良かった。
壁の時計に目を遣ると、すでに正午近かった。一体何時間、あんなことをしていたのだろう。
「肖衛……どこ」
声がかれそうだ。急にひとりぼっちになったせいか、妙に心細い。
身体も冷えてきたし、シャワーでも浴び直そうかな、なんて迷っていると廊下の先にモッサリした頭の時代遅れな男が顔をのぞかせた。
「芹生、どうしたの、そんな格好で」
「どうしたもこうしたも、この家広すぎるよ。自分のいる場所がわからな……ていうか肖衛、家の中でまでずっとその格好でいるつもりなの?」
尋ねながら視線を落とすと、コンビニの袋が目に止まった。それは彼の細い指先からつららのように垂れ下がっている。
「ちょっとコンビニに行ってきただけ。近隣住民にはこっちで認識されてるからさ。はいお土産」
満面の笑みでそれを差し出し、肖衛は「今度はお腹こわさないようにね」と言ってくれる。
袋を覗き込んだ私は豪快に吹き出してしまった。
これ……いちご大福。
「ありがと。私、和菓子好きなんだ」
「そう、覚えておく。あ、それ俺も食べる。半分こにしよう。こう、手でちぎってさ」
「ええ? すごく分けにくそう」
「うん、だけどそれも夫婦って感じで」
いいだろ、と微笑むダサ眼鏡の男に胸がきゅんとしたことはまだ秘密にしておく。
ともあれ、こんななりゆきで新婚生活は始まって、私は人妻になったわけだけれど。
“彼”からの不審なメッセージが届いたのは、この、翌日のことだった。