幼馴染の婚約者に笑いものにされた私は、お一人様で構いません。冗談はやめろ?あなたとは婚約解消いたしましたよね?
「――寒いなぁ……」
かじかんだ指をこすり合わせる。王都の時計塔が鐘を鳴らした。
三度目の鐘。つまり私は、ここで三時間も待っていることになる。
「……エイジ様、まだかな……もう三時間だよ」
私、ユキナ・ジョンヌは、今日の冬至祭を楽しみにしていた。
幼馴染で婚約者のエイジ・ブルー様が、久しぶりに一緒に出かけようと誘ってくれたからだ。
『夕方の鐘が鳴ったら時計塔の前で待ってろよ。みんなで迎えに行くからさっ! ん? この前は来なかった? あれはお前の勘違いだろ? なーに、俺を信じろよ』
私は約束を守っている。
街灯に照らされた雪が、少しずつ私の肩を白くしていた。
手袋の中に指の感覚がない。足も痛い。でも、待ち合わせ場所を離れるわけにはいかなかった。
以前、寒さに耐えきれず近くの喫茶店で待っていたら、エイジ様に叱られたのだ。
『勝手に動くなって言っただろ! みんなで探したんだぞ!』
クラスメイトたちがいる教室で、私を怒鳴った。周りの生徒はみんな笑っていた。あの日は何度も謝った。
だから、今日はちゃんと待つ。迷惑をかけないように。
懐の通信石が光った。石からエイジ様の声が聞こえてきた。
「エイジ様?」
『ああ、ユキナ。悪い悪い。今日はもう帰るわ』
「……え?」
『だって寒いだろ? 雪まで降ってきたし』
「でも、私、ずっと……」
『お前、まだ待ってたのか?』
通信石の向こうで笑い声が弾けた。
『だから言ったでしょ! ユキナなら三時間待つって!』
プリミア・ルージュ様の声だった。
『え、賭けはプリミアの勝ち?』
『嘘だろ、まだいるのかよ!』
『あははっ、馬鹿正直にもほどがあるわ!』
エイジ様も笑っていた。
『まあ、そういうことだから。また明日な!』
「ま、待ってくださ――」
通信が切れた。
私は、手の中の通信石を見つめた。
……賭け?
私が待ち続けていた時間で、皆様は遊んでいたの?
胸の奥が痛かった。指先はとっくに痛くなくなっていたのに、どうして胸だけ痛いんだろう。
「……帰らなきゃ」
そう呟いて、歩き出す。
いつものように笑ってみようとした。
明日、皆様に会ったら「面白い冗談でしたね」と言わなければ、また空気が悪くなる。
「あ、はは……」
声にならなかった。
白い雪が、誰もいない時計塔の周りに降り続いていた。
***
私は高熱を出して、三日間寝込んだ。
ようやく身体を起こせるようになった朝、お母様がベッドの隣に腰を下ろした。
「ねえ、ユキナ。冬至祭の日、何があったの?」
熱で私の頭の中が燃え尽きてしまったようだった。
私は、もう楽になりたかった。だから、力が抜けてしまった。
私は迷った末に、全部話した。
三時間待たされたこと。皆様が賭けをしていたこと。学園で、ずっと笑いものにされていること。
「……エイジ様は、二人きりだと優しいんです」
涙がこぼれた。
子供の頃、私をいじめっ子から守ってくれたのはエイジ様だった。
泣き虫だった私の前に立って、『ユキナは俺の大切な友達だ!』と言ってくれた。
あの男の子が好きだった。婚約が決まった時は、嬉しくて眠れなかった。
でも、学園へ入ってから変わった。
意味もなく私を笑う。髪をおかしな形に結われ、椅子を隠されて……。
私が怒れば「そんな冗談も分からないのか」とみんなが不機嫌になる。
だから、私も笑った。何をされても、笑うようになった。
「……もう、嫌なんです」
お母様が私の手を握った。
「婚約を……解消したいです。あの人たちと、離れたい」
家同士の大切な約束だ。迷惑をかけると分かっていた。
でも、お母様は私を抱きしめた。
「今まで気づいてあげられなくて、ごめんなさい。お父様には私からも話すわ」
「……怒らないの?」
「どうして怒るの。あなたが、こんなになるまで我慢していたのに」
泣いてしまった。
胸の奥に押し込めていたものが、次々に溢れてきた。
「私……一人でいい。一人で、生きていきたい……」
お母様は何も否定せず、私の背中をさすってくれた。
それが私の心を固く、強くしてくれたんだ。
***
登校すると、教室にはいつもの笑い声が上がった。
一瞬だけ、心が沈みそうになったけど、私はもう怖がらないって決めたんだ。
勇気――。
それはとても怖いことだけど、死ぬよりマシだし、お母様たちを悲しませるよりは全然良かった。
「あっ、生きてた!」
「三時間で風邪を引くなんて、身体まで面白いのね!」
プリミア様が笑い、エイジ様も口元を緩めた。
「おい、ユキナ。そんな顔するなよ。いつもの冗談だろ?」
いつもなら笑う。
そうすれば、みんな機嫌よく過ごせる。
「……面白くありませんよ?」
「……は? おい、ユキナ、冗談だろ……」
「私は、少しも面白くありませんでした」
教室が静かになった。
エイジ様が私の肩に手を回そうとしたので、一歩下がった。
私はエイジ様の目をしっかりと見つめて、はっきりと言い放った。
「婚約を解消してください。父からも、ブルー伯爵家へ申し入れています」
一瞬の沈黙。それからプリミア様が吹き出した。
「婚約解消ですって! ねえ、エイジ、おもちゃが反抗してるわよ!」
「ははっ……なんだよ、ユキナ。そこまで怒ることか? ていうかさ、冗談はやめろよ」
エイジ様は笑っていた。
でも、その目は笑っていなかった。
「……本気です」
それだけ伝えて、自分の席へ向かった。
背後で『どうせ明日には謝ってくる』と誰かが言った。
私は振り返らなかった。
私は孤独に生きることを選択したのであった。
***
孤独になるのは、思ったより簡単だった。
昼休みは誰からも誘われない。移動教室も一人。食堂では、エイジ様たちの笑い声が聞こえる。
でも、一人なら笑わなくてもいい。
無理に相槌を打つ必要もない。
「……静かだな」
少しだけ、寂しい。
それでも、あの輪へ戻りたいとは思わなかった。
昼食を食べる場所を探して、学園の裏にある古い温室へ入った。
外は寒いのに、中は魔法のおかげで春のように暖かい。
「……そこはやめた方がいい」
「ひゃっ!?」
窓際の椅子に座ろうとした私に、低い声がかかった。
銀灰色の髪をした男子生徒が、分厚い本を手にこちらを見ていた。
「椅子の脚が割れている。隣の方なら座れる」
「あ……ありがとうございます」
慌てて別の椅子へ移る。
男子生徒はそれだけ言うと本へ戻った。
追い出されないのなら、ここで食べてもいいのかな。
私は持ってきた鶏肉と野菜のスープを取り出した。ふふ、魔法で温めたんだ。ここなら、匂いも気にならない。
湯気が上がる。
「……いい匂いだな」
男子生徒が、また顔を上げた。
「君が作ったのか?」
「は、はい」
「そうか」
それきり本へ戻る。でも、時折こちらを見ている。
私が器を持ち上げるたび、視線が動く。
「……少し、召し上がりますか?」
「いいのか? それは嬉しい申し出だ」
ずいぶん素早い返事だった。彼はなぜかスプーンを持っていて、スープを一口食べた。
「……うまいな。……とてもうまい。君は令嬢なのに、料理ができるのか?」
「ふふ、趣味なんですよ。あっ、多く作りすぎたので、好きなだけ食べていいですよ。パンもあります」
魔法でほんのり温めたパンをちぎって渡す。少しお行儀が悪いけど、ピクニックみたいでこっちの方が美味しく感じられる。
彼は一瞬悩んで――。
「ありがとう――んっ、この黒パンは驚くほど柔らかだ。……君は美食家か何かか?」
「……ふふっ、おだててももう出てきませんよ」
思わず笑ってしまった。
その言葉を口にして、少し驚いた。
そして、しばしの歓談――。
「私はユキナ・ジョンヌと申します」
「カーウィック・グリだ」
グリ辺境伯家の次男。学園では誰とも親しくしない変わり者として有名な人だった。
「……もしよかったら、明日もここでお昼を食べていいですか?」
「ああ。……いや、それはやめた方がいい。俺が君の弁当を食べてしまう」
「喜んでもらえるなら、料理冥利に尽きますよ」
「そんな言葉初めて聞いたぞ。……まあ、とにかく、気軽に来てくれ」
誰かとの約束。でも、気軽にって言ってくれた。
なら――私は頷いた。
***
翌日、温室には椅子が二つ並んでいた。
割れていた脚も直っている。
「……直してくださったのですか?」
「座る場所がなければ困るだろう」
ビスケットをかじっているカーウィック様は当たり前のように言って、私の持ってきた昼食を見た。
「お肉のパイと、チーズ入りの卵料理です。たくさん作ったので、ご一緒にいかがですか?」
「……くっ、貴族の子息として、与えられてばかりでは……駄目だ」
「じゃあ、食べません?」
「い、いや、食べられるのなら……食べたい」
「ふふ、正直なお方ですね。じゃあ一緒に食べましょう」
一緒に食べ始めた。彼はパイをかじり、少し考えてから言った。
「紙ナプキンを持ってくればよかったな」
私は反射的に謝っていた。
「ご、ごめんなさい! 次はちゃんと――」
「どうして謝る?」
「だって、失敗したので……」
カーウィック様は不思議そうに私を見た。
「別に大した問題じゃない。ハンカチは持っている。それに、あそこに水道がある。なら気にせず食べればいい。君のドレスが汚れたら大変だから、紙ナプキンがあったら、と言っただけだよ」
彼はパイを美味しそうに食べながら、ゆっくりと、優しい言葉でそう言った。
たったそれだけの言葉なのに、なんだか嬉しくて――。
「はいっ! ありがとうございます」
「変な令嬢だ」
それから、温室で過ごすのが日課になった。
私は料理を持っていき、カーウィック様は時々、辺境伯領の珍しいものの話をしてくれた。料理だったり、お菓子だったり、魔物だったり。
話さない時間もあった。何も言われないことが、こんなに楽だなんて知らなかった。
ある日、温室へ小柄な少女が訪れた。
「あ、あの、カーウィック様……お借りした本を……」
長い髪を三つ編みにした、眼鏡の女の子。
私を見るなり顔を真っ青にした。
「ひっ……お、お邪魔しました!」
「リディカ。逃げるなら本を置いていけ」
「は、はいっ!」
彼女はリディカ・ヴィオレ様。男爵家の奨学生で、読書好きなのだという。
慌てて帰ろうとする彼女を、私は呼び止めた。
「あの、一緒にお昼を食べませんか?」
「……え? わ、私なんかが?」
「私も最近、一人になったばかりなんです。よかったら……友達になっていただけませんか?」
リディカ様が目を丸くした。
やがて、泣きそうな顔で何度も頷いた。
「……私で、よければ……!」
初めて自分から、友達になってほしいと言えた。
カーウィック様は私たちを見比べて、立ち上がった。
「椅子が足りないな。明日までにもう一つ直そう」
リディカ様と目が合った。
同時に笑ってしまった。
そんな日々が続いた。
きっと、私にとって初めての友人たちができたんだろう。
朝、目が覚めると、今日は何を話そうかと思うようになった。
学園が、怖い場所ばかりではなくなっていた。
その頃、お父様から、両家の合意で婚約解消が正式に成立したと知らされた。
――でも、怖さが消えたわけではない。
ある日の放課後、学園の廊下で男子生徒が囲まれていた。
小柄で、緊張すると声が裏返る男の子。取り巻きの令息たちは何度も同じ言葉を言わせて、大声で笑っていた。
「ほら、もう一回、回って吠えろよ!」
「ははっ、女みたいな声だな! 裏返ってるぞ、声が」
彼は引きつった笑顔を浮かべていた。
私は足を止めた。
助けたい。そう思ったのに、声が出ない。
また自分が標的になるかもしれない。そう考えると、身体が動かなかった。
それでも、無理やり足を踏み出そうとした時――誰かが、いじめっ子の集団のど真ん中を歩こうとした。
カーウィック様だ……。
堂々と、不敵な笑みで、いじめっ子たちを一瞥する。
「君らは俺の通り道を邪魔するのか? 消えてくれないか?」
令息たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
「逃げるぞ、こいつは頭がおかしい辺境伯の息子だ!」
「殺されるぞ……」
「に、逃げろ!! 絶対に関わるな!」
カーウィック様が眼鏡の位置を直して「解せん……」と一言呟いていた。
そんな後ろ姿を見ていたら、なんだか駆け寄りたくなってしまった。
***
「……ユキナッ!!!!」
放課後、エイジ様に呼び止められた。
「なあ、いつまで意地を張ってるんだ? そろそろ機嫌を直せよ! 俺たちの間には恋の駆け引きなんて必要ないだろ?」
おかしい。婚約解消は、両家の合意で正式に成立したはずだ。エイジ様にも伝えられているはずなのに。
「……意地ではありません。あの……もう、婚約は解消しましたよね?」
「そ、そんなもの知らん! お、俺は、ただの冗談で、どうせ婚約解消もお前の脅しだと思って――」
私は、目頭を強く押さえた。じゃないと頭が痛くなりそうだったからだ。
初歩的なことから聞いてみよう。
「あの……エイジ様。何が悪かったのか、分かっていますか?」
「……は? な、な、何がだ? 俺はあんなに優しかっただろ? みんなと仲良く過ごせるように、みんなに笑顔を……」
「馬鹿にして、冗談を言って、みんなが私を笑って? それが笑顔……?」
彼は眉をひそめた。
「そ、そんなことどうでもいい! 俺たちは婚約者だろ。お前だって昔から俺のことが好きだったじゃないか。な、な、そうだろ?」
「……はい。好きでした。ですが、婚約はもう終わっています」
「――――ぐぎぃぃぃぃ……俺は……」
エイジ様が歯を食いしばって、何かに耐えていた。怒りをぶつけられるかもしれない。
頭を下げて通り過ぎようとした時、エイジ様が言った。
「……あの男か? グリ辺境伯の次男。最近、あいつと良い仲なんだってな」
地団駄を踏む。ひどくそれが滑稽だった。
「俺の前では、あんなにつまらなそうだったのに……! 笑わせようとしただけなのに!」
私も知らなかった。
自分があんなふうに笑えることを。
「……ごめんなさい。笑えるわけないですよ。だって、あなたは私を笑いものにしただけでしたから――」
そう言って、魔法を使って全力でその場から逃げ出した。もう二度と話しかけてこないでほしかった。
***
春の祝賀会が近づいていた。
学年末の成績優秀者を表彰する、大きな催しだ。
「ユキナ様! 私、学術優秀者に選ばれました!」
温室へ駆け込んできたリディカ様が、震える声でそう言った。
「本当ですか! おめでとうございます!」
思わず抱きしめると、彼女は真っ赤になった。
「……そ、それで、お二人にも来てほしくて……」
祝賀会。エイジ様たちもいるだろう。
去年は変な化粧をされて、人前で笑われた。
少し怖い。でも、嬉しそうなリディカ様の顔を見ていたら、答えは決まっていた。
「行きます。絶対にお祝いさせてください」
「俺も行こう」
「め、珍しいですね。カーウィック様はパーティー嫌いなのに」
祝賀会の日、私はお母様が選んでくれた淡い黄色のドレスを着た。
待ち合わせ場所には、青い礼服のカーウィック様が立っていた。
「……き、き、き、綺麗だな」
「……え?」
「そのドレス、よく似合っている、と俺は思うぞ」
「ぷっ、その言い方って歌劇で流行っているわね。……カーウィック様も素敵な装いですわよ。とても高等部には見えないですわ」
「それは……褒めているのか?」
「もちろん!」
実は頬が熱くなっていた。
まっすぐ褒められることに、まだ慣れていなかった。恥ずかしさを隠すために、冗談を言っただけ。
あっ、私って、冗談を言えたんだ……。
「……えっと、とにかくありがとうございます」
彼は手を差し出す。
「では、行こう」
私は、そっとその手を取った。
リディカ様の表彰式は、無事に終わった。
誰よりも大きな拍手を送ると、壇上の彼女は照れながら手を振ってくれた。可愛らしい彼女には、隠れファンが大勢いる。
ほら、あそこの令息たちは涙を流して喜んでいた。
私たちは合流して三人で食事をし、たくさん笑って、たくさんお話をした。
初めて、楽しいと思える祝賀会だった。
――大広間の隅で、笑い声が上がるまでは。
祝賀会は生徒が主役のパーティー。先生たちはごく少数しかいない。生徒会が取り仕切っていた。
「ほら、もっと踊れって!」
「ははっ、その格好似合うな」
「ちょっと〜、もっと際どいの見たいんだけど〜」
「ヤマーダ卿、楽しそうに吠えろよ。犬みたいにさ」
「わ、わふん……」
「よしよし、褒美に金をやるよ」
エイジ様とプリミア様たちだった。
輪の中心に、男爵家の男子生徒がいる。
頭には犬の耳、胸元には鈴……。しっぽも生えていた。
彼は勉強ができて、おとなしい男の子だった。
「……あ、あはは……あ、ありがとう」
笑っている。
でも、私はあの笑顔を知っていた。自分もそうだったからだ……。
今も足が震える。
ここで口を出したら、また私が笑われるかもしれない。
でも、私はもう、見て見ぬふりは嫌だった。
「……カーウィック様。私、止めに行きます」
「ああ、横にいよう。最近の輩は何をするか分からん」
即答だった。
「わ、私も……!」
リディカ様が反対側から手を握ってくれた。
私は、二人と一緒に歩き出した。
そして、エイジ様の前に立つ。
「……やめてください!! はっきり言います。見ていて不快です!」
自分でも驚くほど、はっきり声が出た。
「は? ユキナ?」
エイジ様が振り返った。
「その方は、嫌がっています。それが分からないんですか?」
プリミア様が鼻で笑う。
「はっ? 何を真面目になってるの? ただの余興よ。この子だって笑ってるじゃない! 遊んでるのよ、分かる? 遊び、遊びなのよ」
「……では、ご本人に聞きましょうか」
私は男子生徒へ向き直った。
「楽しいですか?」
彼は口を開いた。でも、声が出ない。
エイジ様たちの顔を見て、無理に笑おうとする。
「……答えなくてもいいです」
私は、その子の頭から犬の耳を外した。
「嫌なら、嫌だと言っていいんですよ」
男子生徒の目から涙が落ちた。
「……っ、ひっ……」
私も昔、あんなふうに泣くのを我慢していた。
「ちょっと、ユキナ! 今まであんただって笑ってたくせに、何様のつもりよ!」
プリミア様が声を荒らげた。
私は彼女を見た。
「ええ、私は笑っていましたね……。心の底から嫌でしたけど……」
皆の視線が集まる。
まだ怖い。だけど、隣には二人がいる。
「嫌われるのが怖くて、笑っていました。面白くなくても、悔しくても……私が笑えば、皆様の機嫌がよくなるから」
エイジ様の顔から笑みが消えた。
「そんな笑顔なんて必要ありません。誰かを傷つける遊びなら、なおさらです」
プリミア様が何か言おうとした。先にリディカ様が口を開いた。
「わ、私も見ていました! その方、さっきからずっと嫌がって……!」
いつも小さな声で話す彼女が、今は震えながらも逃げなかった。大きな声は会場中に響いた。
近くにいた生徒会役員が騒ぎを聞きつけ、男子生徒を保護した。
私は、その子の背中をそっと押した。
「大丈夫。もう、無理して笑わなくていいんです」
そんな単純な問題じゃないって分かってる。陰でいじめるからこそ、陰湿なんだから。
だから、ここで――。
「……おい、ユキナ」
エイジ様が私の前に立った。
「何なんだよ。俺たちを悪者みたいに言って……! 昔から一緒だっただろ。お前だって楽しんでると思ってたんだぞ!」
「……まったく違います」
私は首を横へ振った。
「楽しくありませんでした。エイジ様に笑われるのが、一番悲しかった……。なんでそれが分からないのですか? 人としての理性はないのですか? 頭が沸いているのですか?」
彼の顔が強張った。
「……俺は、お前のことが好きだったんだ。……好きな子に意地悪をしたく――」
私はこれ以上聞きたくなくて、言葉を切った。
「私も、好きでした」
「な、なら――また婚約を――」
子供の頃の思い出は、今も大切だ。
でも、思い出だけでは、もうこの人の隣に戻れない。
私は手を胸に当てる。ただ、自分の思いを伝えるために真剣に言った。
「だったら、どうして……私が泣きそうになっている時も、笑っていたんですか?」
エイジ様の唇が震える。
「……それは、みんなが楽しむなら……いや、俺は……」
答えは出てこなかった。
私は続けた。
「あなたといるのが、怖かったです。今でも、少し怖いです」
私は踵を返し、エイジ様に背を向けた。
「……二度と話しかけてこないでくださいませ、エイジ様」
背中から、不器用な嗚咽の音が聞こえてきた。それでも私は振り返らない。
カーウィック様が私の隣へ来て、そっと手を差し出した。
私はその手を握った。
***
俺、エイジは、その場から動けなかった。
ユキナが、あの男の手を握っている。
銀髪の男が何かを囁くと、ユキナは少しだけ頬を赤くして――笑った。
「……な、なんだよ、あの顔……」
見たことがなかった。俺にはそんな顔したことなかった。
あっ……違う。子供の頃は、よく見ていた。
『エイジ! 今日はどこに遊びに行くの?』
『ねえ、エイジ! 私も連れていって!』
いつだって自分の後ろをついてきた女の子。泣き虫で、笑顔が可愛くて、自分のことが大好きだった幼馴染。
……いつからだ?
いつから、あいつはあんなふうに笑わなくなった?
「ちょっと、エイジ! 何なのよ、ユキナったら! あんな男に尻尾振っちゃってさ!」
プリミアが不機嫌そうに言った。
「……うるせえ、黙れよ」
「はあ? 何よ、その態度!」
「お前らが、いつもユキナを馬鹿にするから……」
そう言いかけて、俺は口を閉じた。
違う。一番笑っていたのは、自分だ。
ユキナが泣きそうな顔をすると、面白くて仕方なかった。どれだけ馬鹿にしても、最後には笑ってくれる。
だって、あいつは俺のことが好きだから。
そう思っていた。
『私は、少しも面白くありませんでした』
あの言葉が、頭から離れない。
……じゃあ、今までずっと? 何年も、嫌だったのか?
「……嘘だろ……」
俺は、ユキナが去っていった扉を見つめた。
あいつは、いつも俺を待っていた。呼べば来た。
怒れば謝った。笑えば、一緒に笑ってくれた。
だから、ずっとそうしてくれると思っていた。
なのに、今は――。
「……ユキナ」
呼んでも、もう振り返らない。
その事実が、たまらなく恐ろしかった。
「……俺、本当に……あいつが好きだったんだ……」
あの雪の日だって、迎えに行けばよかった。
三時間も待っていたと聞いた時、笑わずに駆けつければよかった。
たった、それだけのことだったのに。
もう、取り返せない。
俺は、誰もいなくなった扉へ手を伸ばした。
「……待ってくれよ、ユキナ……」
その手を取る人は、もういなかった。
***
祝賀会の出来事をきっかけに、学園は以前からあった嫌がらせを調べ始めた。
エイジ様とプリミア様たちは謹慎になり、両家からも正式に謝罪があった。
私は自由になった。
でも、すべてが終わったわけではなかった。
謹慎が明けると、今度はプリミア様たちを笑いものにする人が現れたからだ。
「今までユキナ様をいじめてたくせに!」
「最低ね!」
廊下で囲まれているプリミア様は、悔しそうに唇を噛んでいた。
一人の令嬢が彼女の鞄を取り上げ、別の令嬢へ投げ渡した。
「返して……」
「ほら、もう一回謝ってみなさいよ」
プリミア様が手を伸ばすたび、鞄は別の人へ渡っていく。
皆様は笑っていた。
私は、その輪へ声をかけた。
「……やめてください」
皆様が驚いて振り返る。
「この方々がしたことは、学園が調べています。だからといって、皆様が同じことをしていいわけではありません」
令嬢たちは顔を見合わせ、プリミア様へ鞄を返すと、気まずそうに去っていった。
プリミア様が私を見つめていた。
「……あんた、どうして……」
「許したわけではありません」
私は、はっきり答えた。
「でも、同じことを繰り返してほしくないんです。それだけです」
背を向けると、小さな声がした。
「……ごめん、なさい……」
私は振り返らなかった。
今はまだ、許す気にはなれなかった。
それでも、いつか普通に挨拶できる日が来ればいいと思った。
***
王都に、季節外れの雪が降った。
時計塔の下。
私は、約束の時間よりずいぶん早く着いていた。
あの日もここで、三時間待っていた。
でも、今日は違う。
待っている間に何を話そうか、考えるのが楽しい。
「……ユキナ?」
振り返ると、カーウィック様が立っていた。
「まだ約束の時間より早いですよ?」
「君こそ」
「私は……早く会いたくて」
口に出してから恥ずかしくなった。
でも、カーウィック様も少し笑った。
「俺もだ」
彼が手を差し出した。
「寒くないか?」
「……少しだけ」
「なら、手を繋ごう」
私は、その手を取った。
「カーウィック様。私、一人で生きるつもりだったんです」
「ああ。聞いた」
「でも……今は、一人になりたくありません」
彼は足を止めた。
真剣な顔で、私を見つめた。
「俺も、君といたい。君が料理を作らない日も、何も話さない日も、一緒にいたい」
胸がいっぱいになった。
「……それって……」
あの日、私は時計塔の下で一人きりだった。
約束した人は来なくて、私が待っていることを笑っていた。
今日は、私に会いたいと言ってくれる人がいる。
「ああ、俺の――一番大切な――友達になってくれ――」
「んっ……えっと……」
予想と少し違ったけど、彼の顔が真っ赤に染まっていたのが、何かの証拠だった。きっと彼なりに精一杯頑張ったんだろうね。
「もちろんです。カーウィックは私の……大切な人です」
だから、今はそれで大丈夫。
あれ? 涙がこぼれた。でも、嬉しくて笑っている。
カーウィック様は、泣いている私に、ただ何も言わずに寄り添ってくれた。
カーウィック様が笑った。
私も笑った。
雪の中で待つ時間が、こんなにも幸せになるなんて。
カーウィック様、私はもう、あなたに惹かれていますよ――。
(完)
ありがとうございました!!!




