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幼馴染の婚約者に笑いものにされた私は、お一人様で構いません。冗談はやめろ?あなたとは婚約解消いたしましたよね?

掲載日:2026/10/16

「――寒いなぁ……」


 かじかんだ指をこすり合わせる。王都の時計塔が鐘を鳴らした。


 三度目の鐘。つまり私は、ここで三時間も待っていることになる。


「……エイジ様、まだかな……もう三時間だよ」


 私、ユキナ・ジョンヌは、今日の冬至祭を楽しみにしていた。


 幼馴染で婚約者のエイジ・ブルー様が、久しぶりに一緒に出かけようと誘ってくれたからだ。


『夕方の鐘が鳴ったら時計塔の前で待ってろよ。みんなで迎えに行くからさっ! ん? この前は来なかった? あれはお前の勘違いだろ? なーに、俺を信じろよ』


 私は約束を守っている。


 街灯に照らされた雪が、少しずつ私の肩を白くしていた。


 手袋の中に指の感覚がない。足も痛い。でも、待ち合わせ場所を離れるわけにはいかなかった。


 以前、寒さに耐えきれず近くの喫茶店で待っていたら、エイジ様に叱られたのだ。


『勝手に動くなって言っただろ! みんなで探したんだぞ!』


 クラスメイトたちがいる教室で、私を怒鳴った。周りの生徒はみんな笑っていた。あの日は何度も謝った。


 だから、今日はちゃんと待つ。迷惑をかけないように。


 懐の通信石が光った。石からエイジ様の声が聞こえてきた。


「エイジ様?」


『ああ、ユキナ。悪い悪い。今日はもう帰るわ』


「……え?」


『だって寒いだろ? 雪まで降ってきたし』


「でも、私、ずっと……」


『お前、まだ待ってたのか?』


 通信石の向こうで笑い声が弾けた。


『だから言ったでしょ! ユキナなら三時間待つって!』


 プリミア・ルージュ様の声だった。


『え、賭けはプリミアの勝ち?』


『嘘だろ、まだいるのかよ!』


『あははっ、馬鹿正直にもほどがあるわ!』


 エイジ様も笑っていた。


『まあ、そういうことだから。また明日な!』


「ま、待ってくださ――」


 通信が切れた。


 私は、手の中の通信石を見つめた。


 ……賭け?


 私が待ち続けていた時間で、皆様は遊んでいたの?


 胸の奥が痛かった。指先はとっくに痛くなくなっていたのに、どうして胸だけ痛いんだろう。


「……帰らなきゃ」


 そう呟いて、歩き出す。


 いつものように笑ってみようとした。


 明日、皆様に会ったら「面白い冗談でしたね」と言わなければ、また空気が悪くなる。


「あ、はは……」


 声にならなかった。


 白い雪が、誰もいない時計塔の周りに降り続いていた。



 ***



 私は高熱を出して、三日間寝込んだ。


 ようやく身体を起こせるようになった朝、お母様がベッドの隣に腰を下ろした。


「ねえ、ユキナ。冬至祭の日、何があったの?」


 熱で私の頭の中が燃え尽きてしまったようだった。


 私は、もう楽になりたかった。だから、力が抜けてしまった。


 私は迷った末に、全部話した。


 三時間待たされたこと。皆様が賭けをしていたこと。学園で、ずっと笑いものにされていること。


「……エイジ様は、二人きりだと優しいんです」


 涙がこぼれた。


 子供の頃、私をいじめっ子から守ってくれたのはエイジ様だった。


 泣き虫だった私の前に立って、『ユキナは俺の大切な友達だ!』と言ってくれた。


 あの男の子が好きだった。婚約が決まった時は、嬉しくて眠れなかった。


 でも、学園へ入ってから変わった。


 意味もなく私を笑う。髪をおかしな形に結われ、椅子を隠されて……。

 私が怒れば「そんな冗談も分からないのか」とみんなが不機嫌になる。


 だから、私も笑った。何をされても、笑うようになった。


「……もう、嫌なんです」


 お母様が私の手を握った。


「婚約を……解消したいです。あの人たちと、離れたい」


 家同士の大切な約束だ。迷惑をかけると分かっていた。


 でも、お母様は私を抱きしめた。


「今まで気づいてあげられなくて、ごめんなさい。お父様には私からも話すわ」


「……怒らないの?」


「どうして怒るの。あなたが、こんなになるまで我慢していたのに」


 泣いてしまった。


 胸の奥に押し込めていたものが、次々に溢れてきた。


「私……一人でいい。一人で、生きていきたい……」


 お母様は何も否定せず、私の背中をさすってくれた。


 それが私の心を固く、強くしてくれたんだ。



 ***



 登校すると、教室にはいつもの笑い声が上がった。

 一瞬だけ、心が沈みそうになったけど、私はもう怖がらないって決めたんだ。


 勇気――。


 それはとても怖いことだけど、死ぬよりマシだし、お母様たちを悲しませるよりは全然良かった。


「あっ、生きてた!」


「三時間で風邪を引くなんて、身体まで面白いのね!」


 プリミア様が笑い、エイジ様も口元を緩めた。


「おい、ユキナ。そんな顔するなよ。いつもの冗談だろ?」


 いつもなら笑う。


 そうすれば、みんな機嫌よく過ごせる。


「……面白くありませんよ?」


「……は? おい、ユキナ、冗談だろ……」


「私は、少しも面白くありませんでした」


 教室が静かになった。


 エイジ様が私の肩に手を回そうとしたので、一歩下がった。

 私はエイジ様の目をしっかりと見つめて、はっきりと言い放った。


「婚約を解消してください。父からも、ブルー伯爵家へ申し入れています」


 一瞬の沈黙。それからプリミア様が吹き出した。


「婚約解消ですって! ねえ、エイジ、おもちゃが反抗してるわよ!」


「ははっ……なんだよ、ユキナ。そこまで怒ることか? ていうかさ、冗談はやめろよ」


 エイジ様は笑っていた。


 でも、その目は笑っていなかった。


「……本気です」


 それだけ伝えて、自分の席へ向かった。


 背後で『どうせ明日には謝ってくる』と誰かが言った。


 私は振り返らなかった。


 私は孤独に生きることを選択したのであった。



 ***



 孤独になるのは、思ったより簡単だった。


 昼休みは誰からも誘われない。移動教室も一人。食堂では、エイジ様たちの笑い声が聞こえる。


 でも、一人なら笑わなくてもいい。


 無理に相槌を打つ必要もない。


「……静かだな」


 少しだけ、寂しい。


 それでも、あの輪へ戻りたいとは思わなかった。


 昼食を食べる場所を探して、学園の裏にある古い温室へ入った。


 外は寒いのに、中は魔法のおかげで春のように暖かい。


「……そこはやめた方がいい」


「ひゃっ!?」


 窓際の椅子に座ろうとした私に、低い声がかかった。


 銀灰色の髪をした男子生徒が、分厚い本を手にこちらを見ていた。


「椅子の脚が割れている。隣の方なら座れる」


「あ……ありがとうございます」


 慌てて別の椅子へ移る。


 男子生徒はそれだけ言うと本へ戻った。


 追い出されないのなら、ここで食べてもいいのかな。

 私は持ってきた鶏肉と野菜のスープを取り出した。ふふ、魔法で温めたんだ。ここなら、匂いも気にならない。


 湯気が上がる。


「……いい匂いだな」


 男子生徒が、また顔を上げた。


「君が作ったのか?」


「は、はい」


「そうか」


 それきり本へ戻る。でも、時折こちらを見ている。


 私が器を持ち上げるたび、視線が動く。


「……少し、召し上がりますか?」


「いいのか? それは嬉しい申し出だ」


 ずいぶん素早い返事だった。彼はなぜかスプーンを持っていて、スープを一口食べた。


「……うまいな。……とてもうまい。君は令嬢なのに、料理ができるのか?」


「ふふ、趣味なんですよ。あっ、多く作りすぎたので、好きなだけ食べていいですよ。パンもあります」


 魔法でほんのり温めたパンをちぎって渡す。少しお行儀が悪いけど、ピクニックみたいでこっちの方が美味しく感じられる。


 彼は一瞬悩んで――。


「ありがとう――んっ、この黒パンは驚くほど柔らかだ。……君は美食家か何かか?」


「……ふふっ、おだててももう出てきませんよ」


 思わず笑ってしまった。


 その言葉を口にして、少し驚いた。


 そして、しばしの歓談――。


「私はユキナ・ジョンヌと申します」


「カーウィック・グリだ」


 グリ辺境伯家の次男。学園では誰とも親しくしない変わり者として有名な人だった。


「……もしよかったら、明日もここでお昼を食べていいですか?」


「ああ。……いや、それはやめた方がいい。俺が君の弁当を食べてしまう」


「喜んでもらえるなら、料理冥利に尽きますよ」


「そんな言葉初めて聞いたぞ。……まあ、とにかく、気軽に来てくれ」


 誰かとの約束。でも、気軽にって言ってくれた。


 なら――私は頷いた。



 ***



 翌日、温室には椅子が二つ並んでいた。


 割れていた脚も直っている。


「……直してくださったのですか?」


「座る場所がなければ困るだろう」


 ビスケットをかじっているカーウィック様は当たり前のように言って、私の持ってきた昼食を見た。


「お肉のパイと、チーズ入りの卵料理です。たくさん作ったので、ご一緒にいかがですか?」


「……くっ、貴族の子息として、与えられてばかりでは……駄目だ」


「じゃあ、食べません?」


「い、いや、食べられるのなら……食べたい」


「ふふ、正直なお方ですね。じゃあ一緒に食べましょう」


 一緒に食べ始めた。彼はパイをかじり、少し考えてから言った。


「紙ナプキンを持ってくればよかったな」


 私は反射的に謝っていた。


「ご、ごめんなさい! 次はちゃんと――」


「どうして謝る?」


「だって、失敗したので……」


 カーウィック様は不思議そうに私を見た。


「別に大した問題じゃない。ハンカチは持っている。それに、あそこに水道がある。なら気にせず食べればいい。君のドレスが汚れたら大変だから、紙ナプキンがあったら、と言っただけだよ」


 彼はパイを美味しそうに食べながら、ゆっくりと、優しい言葉でそう言った。


 たったそれだけの言葉なのに、なんだか嬉しくて――。


「はいっ! ありがとうございます」


「変な令嬢だ」


 それから、温室で過ごすのが日課になった。


 私は料理を持っていき、カーウィック様は時々、辺境伯領の珍しいものの話をしてくれた。料理だったり、お菓子だったり、魔物だったり。


 話さない時間もあった。何も言われないことが、こんなに楽だなんて知らなかった。


 ある日、温室へ小柄な少女が訪れた。


「あ、あの、カーウィック様……お借りした本を……」


 長い髪を三つ編みにした、眼鏡の女の子。


 私を見るなり顔を真っ青にした。


「ひっ……お、お邪魔しました!」


「リディカ。逃げるなら本を置いていけ」


「は、はいっ!」


 彼女はリディカ・ヴィオレ様。男爵家の奨学生で、読書好きなのだという。


 慌てて帰ろうとする彼女を、私は呼び止めた。


「あの、一緒にお昼を食べませんか?」


「……え? わ、私なんかが?」


「私も最近、一人になったばかりなんです。よかったら……友達になっていただけませんか?」


 リディカ様が目を丸くした。


 やがて、泣きそうな顔で何度も頷いた。


「……私で、よければ……!」


 初めて自分から、友達になってほしいと言えた。


 カーウィック様は私たちを見比べて、立ち上がった。


「椅子が足りないな。明日までにもう一つ直そう」


 リディカ様と目が合った。


 同時に笑ってしまった。


 そんな日々が続いた。


 きっと、私にとって初めての友人たちができたんだろう。


 朝、目が覚めると、今日は何を話そうかと思うようになった。


 学園が、怖い場所ばかりではなくなっていた。


 その頃、お父様から、両家の合意で婚約解消が正式に成立したと知らされた。


 ――でも、怖さが消えたわけではない。


 ある日の放課後、学園の廊下で男子生徒が囲まれていた。


 小柄で、緊張すると声が裏返る男の子。取り巻きの令息たちは何度も同じ言葉を言わせて、大声で笑っていた。


「ほら、もう一回、回って吠えろよ!」


「ははっ、女みたいな声だな! 裏返ってるぞ、声が」


 彼は引きつった笑顔を浮かべていた。


 私は足を止めた。


 助けたい。そう思ったのに、声が出ない。

 また自分が標的になるかもしれない。そう考えると、身体が動かなかった。


 それでも、無理やり足を踏み出そうとした時――誰かが、いじめっ子の集団のど真ん中を歩こうとした。


 カーウィック様だ……。


 堂々と、不敵な笑みで、いじめっ子たちを一瞥する。


「君らは俺の通り道を邪魔するのか? 消えてくれないか?」


 令息たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。


「逃げるぞ、こいつは頭がおかしい辺境伯の息子だ!」


「殺されるぞ……」


「に、逃げろ!! 絶対に関わるな!」


 カーウィック様が眼鏡の位置を直して「解せん……」と一言呟いていた。


 そんな後ろ姿を見ていたら、なんだか駆け寄りたくなってしまった。



 ***



「……ユキナッ!!!!」


 放課後、エイジ様に呼び止められた。


「なあ、いつまで意地を張ってるんだ? そろそろ機嫌を直せよ! 俺たちの間には恋の駆け引きなんて必要ないだろ?」


 おかしい。婚約解消は、両家の合意で正式に成立したはずだ。エイジ様にも伝えられているはずなのに。


「……意地ではありません。あの……もう、婚約は解消しましたよね?」


「そ、そんなもの知らん! お、俺は、ただの冗談で、どうせ婚約解消もお前の脅しだと思って――」


 私は、目頭を強く押さえた。じゃないと頭が痛くなりそうだったからだ。


 初歩的なことから聞いてみよう。


「あの……エイジ様。何が悪かったのか、分かっていますか?」


「……は? な、な、何がだ? 俺はあんなに優しかっただろ? みんなと仲良く過ごせるように、みんなに笑顔を……」


「馬鹿にして、冗談を言って、みんなが私を笑って? それが笑顔……?」


 彼は眉をひそめた。


「そ、そんなことどうでもいい! 俺たちは婚約者だろ。お前だって昔から俺のことが好きだったじゃないか。な、な、そうだろ?」


「……はい。好きでした。ですが、婚約はもう終わっています」


「――――ぐぎぃぃぃぃ……俺は……」


 エイジ様が歯を食いしばって、何かに耐えていた。怒りをぶつけられるかもしれない。


 頭を下げて通り過ぎようとした時、エイジ様が言った。


「……あの男か? グリ辺境伯の次男。最近、あいつと良い仲なんだってな」


 地団駄を踏む。ひどくそれが滑稽だった。


「俺の前では、あんなにつまらなそうだったのに……! 笑わせようとしただけなのに!」


 私も知らなかった。


 自分があんなふうに笑えることを。


「……ごめんなさい。笑えるわけないですよ。だって、あなたは私を笑いものにしただけでしたから――」


 そう言って、魔法を使って全力でその場から逃げ出した。もう二度と話しかけてこないでほしかった。



 ***



 春の祝賀会が近づいていた。


 学年末の成績優秀者を表彰する、大きな催しだ。


「ユキナ様! 私、学術優秀者に選ばれました!」


 温室へ駆け込んできたリディカ様が、震える声でそう言った。


「本当ですか! おめでとうございます!」


 思わず抱きしめると、彼女は真っ赤になった。


「……そ、それで、お二人にも来てほしくて……」


 祝賀会。エイジ様たちもいるだろう。


 去年は変な化粧をされて、人前で笑われた。


 少し怖い。でも、嬉しそうなリディカ様の顔を見ていたら、答えは決まっていた。


「行きます。絶対にお祝いさせてください」


「俺も行こう」


「め、珍しいですね。カーウィック様はパーティー嫌いなのに」


 祝賀会の日、私はお母様が選んでくれた淡い黄色のドレスを着た。


 待ち合わせ場所には、青い礼服のカーウィック様が立っていた。


「……き、き、き、綺麗だな」


「……え?」


「そのドレス、よく似合っている、と俺は思うぞ」


「ぷっ、その言い方って歌劇で流行っているわね。……カーウィック様も素敵な装いですわよ。とても高等部には見えないですわ」


「それは……褒めているのか?」


「もちろん!」


 実は頬が熱くなっていた。


 まっすぐ褒められることに、まだ慣れていなかった。恥ずかしさを隠すために、冗談を言っただけ。


 あっ、私って、冗談を言えたんだ……。


「……えっと、とにかくありがとうございます」


 彼は手を差し出す。


「では、行こう」


 私は、そっとその手を取った。


 リディカ様の表彰式は、無事に終わった。


 誰よりも大きな拍手を送ると、壇上の彼女は照れながら手を振ってくれた。可愛らしい彼女には、隠れファンが大勢いる。


 ほら、あそこの令息たちは涙を流して喜んでいた。


 私たちは合流して三人で食事をし、たくさん笑って、たくさんお話をした。


 初めて、楽しいと思える祝賀会だった。


 ――大広間の隅で、笑い声が上がるまでは。


 祝賀会は生徒が主役のパーティー。先生たちはごく少数しかいない。生徒会が取り仕切っていた。


「ほら、もっと踊れって!」


「ははっ、その格好似合うな」


「ちょっと〜、もっと際どいの見たいんだけど〜」


「ヤマーダ卿、楽しそうに吠えろよ。犬みたいにさ」


「わ、わふん……」


「よしよし、褒美に金をやるよ」


 エイジ様とプリミア様たちだった。


 輪の中心に、男爵家の男子生徒がいる。


 頭には犬の耳、胸元には鈴……。しっぽも生えていた。


 彼は勉強ができて、おとなしい男の子だった。


「……あ、あはは……あ、ありがとう」


 笑っている。


 でも、私はあの笑顔を知っていた。自分もそうだったからだ……。


 今も足が震える。


 ここで口を出したら、また私が笑われるかもしれない。


 でも、私はもう、見て見ぬふりは嫌だった。


「……カーウィック様。私、止めに行きます」


「ああ、横にいよう。最近の輩は何をするか分からん」


 即答だった。


「わ、私も……!」


 リディカ様が反対側から手を握ってくれた。


 私は、二人と一緒に歩き出した。


 そして、エイジ様の前に立つ。


「……やめてください!! はっきり言います。見ていて不快です!」


 自分でも驚くほど、はっきり声が出た。


「は? ユキナ?」


 エイジ様が振り返った。


「その方は、嫌がっています。それが分からないんですか?」


 プリミア様が鼻で笑う。


「はっ? 何を真面目になってるの? ただの余興よ。この子だって笑ってるじゃない! 遊んでるのよ、分かる? 遊び、遊びなのよ」


「……では、ご本人に聞きましょうか」


 私は男子生徒へ向き直った。


「楽しいですか?」


 彼は口を開いた。でも、声が出ない。


 エイジ様たちの顔を見て、無理に笑おうとする。


「……答えなくてもいいです」


 私は、その子の頭から犬の耳を外した。


「嫌なら、嫌だと言っていいんですよ」


 男子生徒の目から涙が落ちた。


「……っ、ひっ……」


 私も昔、あんなふうに泣くのを我慢していた。


「ちょっと、ユキナ! 今まであんただって笑ってたくせに、何様のつもりよ!」


 プリミア様が声を荒らげた。


 私は彼女を見た。



「ええ、私は笑っていましたね……。心の底から嫌でしたけど……」


 皆の視線が集まる。


 まだ怖い。だけど、隣には二人がいる。


「嫌われるのが怖くて、笑っていました。面白くなくても、悔しくても……私が笑えば、皆様の機嫌がよくなるから」


 エイジ様の顔から笑みが消えた。


「そんな笑顔なんて必要ありません。誰かを傷つける遊びなら、なおさらです」


 プリミア様が何か言おうとした。先にリディカ様が口を開いた。


「わ、私も見ていました! その方、さっきからずっと嫌がって……!」


 いつも小さな声で話す彼女が、今は震えながらも逃げなかった。大きな声は会場中に響いた。


 近くにいた生徒会役員が騒ぎを聞きつけ、男子生徒を保護した。


 私は、その子の背中をそっと押した。


「大丈夫。もう、無理して笑わなくていいんです」


 そんな単純な問題じゃないって分かってる。陰でいじめるからこそ、陰湿なんだから。


 だから、ここで――。


「……おい、ユキナ」


 エイジ様が私の前に立った。


「何なんだよ。俺たちを悪者みたいに言って……! 昔から一緒だっただろ。お前だって楽しんでると思ってたんだぞ!」


「……まったく違います」


 私は首を横へ振った。



「楽しくありませんでした。エイジ様に笑われるのが、一番悲しかった……。なんでそれが分からないのですか? 人としての理性はないのですか? 頭が沸いているのですか?」



 彼の顔が強張った。



「……俺は、お前のことが好きだったんだ。……好きな子に意地悪をしたく――」



 私はこれ以上聞きたくなくて、言葉を切った。



「私も、好きでした」


「な、なら――また婚約を――」



 子供の頃の思い出は、今も大切だ。


 でも、思い出だけでは、もうこの人の隣に戻れない。


 私は手を胸に当てる。ただ、自分の思いを伝えるために真剣に言った。



「だったら、どうして……私が泣きそうになっている時も、笑っていたんですか?」



 エイジ様の唇が震える。


「……それは、みんなが楽しむなら……いや、俺は……」


 答えは出てこなかった。


 私は続けた。


「あなたといるのが、怖かったです。今でも、少し怖いです」


 私は踵を返し、エイジ様に背を向けた。





「……二度と話しかけてこないでくださいませ、エイジ様」





 背中から、不器用な嗚咽の音が聞こえてきた。それでも私は振り返らない。


 カーウィック様が私の隣へ来て、そっと手を差し出した。


 私はその手を握った。



 ***



 俺、エイジは、その場から動けなかった。


 ユキナが、あの男の手を握っている。


 銀髪の男が何かを囁くと、ユキナは少しだけ頬を赤くして――笑った。


「……な、なんだよ、あの顔……」


 見たことがなかった。俺にはそんな顔したことなかった。


 あっ……違う。子供の頃は、よく見ていた。


『エイジ! 今日はどこに遊びに行くの?』


『ねえ、エイジ! 私も連れていって!』


 いつだって自分の後ろをついてきた女の子。泣き虫で、笑顔が可愛くて、自分のことが大好きだった幼馴染。


 ……いつからだ?


 いつから、あいつはあんなふうに笑わなくなった?


「ちょっと、エイジ! 何なのよ、ユキナったら! あんな男に尻尾振っちゃってさ!」


 プリミアが不機嫌そうに言った。


「……うるせえ、黙れよ」


「はあ? 何よ、その態度!」


「お前らが、いつもユキナを馬鹿にするから……」


 そう言いかけて、俺は口を閉じた。


 違う。一番笑っていたのは、自分だ。


 ユキナが泣きそうな顔をすると、面白くて仕方なかった。どれだけ馬鹿にしても、最後には笑ってくれる。



 だって、あいつは俺のことが好きだから。



 そう思っていた。


『私は、少しも面白くありませんでした』


 あの言葉が、頭から離れない。


 ……じゃあ、今までずっと? 何年も、嫌だったのか?


「……嘘だろ……」


 俺は、ユキナが去っていった扉を見つめた。


 あいつは、いつも俺を待っていた。呼べば来た。


 怒れば謝った。笑えば、一緒に笑ってくれた。


 だから、ずっとそうしてくれると思っていた。


 なのに、今は――。


「……ユキナ」


 呼んでも、もう振り返らない。


 その事実が、たまらなく恐ろしかった。


「……俺、本当に……あいつが好きだったんだ……」


 あの雪の日だって、迎えに行けばよかった。


 三時間も待っていたと聞いた時、笑わずに駆けつければよかった。


 たった、それだけのことだったのに。


 もう、取り返せない。


 俺は、誰もいなくなった扉へ手を伸ばした。


「……待ってくれよ、ユキナ……」


 その手を取る人は、もういなかった。



 ***



 祝賀会の出来事をきっかけに、学園は以前からあった嫌がらせを調べ始めた。


 エイジ様とプリミア様たちは謹慎になり、両家からも正式に謝罪があった。


 私は自由になった。


 でも、すべてが終わったわけではなかった。


 謹慎が明けると、今度はプリミア様たちを笑いものにする人が現れたからだ。


「今までユキナ様をいじめてたくせに!」


「最低ね!」


 廊下で囲まれているプリミア様は、悔しそうに唇を噛んでいた。


 一人の令嬢が彼女の鞄を取り上げ、別の令嬢へ投げ渡した。


「返して……」


「ほら、もう一回謝ってみなさいよ」


 プリミア様が手を伸ばすたび、鞄は別の人へ渡っていく。

 皆様は笑っていた。


 私は、その輪へ声をかけた。


「……やめてください」


 皆様が驚いて振り返る。


「この方々がしたことは、学園が調べています。だからといって、皆様が同じことをしていいわけではありません」


 令嬢たちは顔を見合わせ、プリミア様へ鞄を返すと、気まずそうに去っていった。


 プリミア様が私を見つめていた。


「……あんた、どうして……」


「許したわけではありません」


 私は、はっきり答えた。


「でも、同じことを繰り返してほしくないんです。それだけです」


 背を向けると、小さな声がした。


「……ごめん、なさい……」


 私は振り返らなかった。


 今はまだ、許す気にはなれなかった。


 それでも、いつか普通に挨拶できる日が来ればいいと思った。



 ***



 王都に、季節外れの雪が降った。


 時計塔の下。


 私は、約束の時間よりずいぶん早く着いていた。


 あの日もここで、三時間待っていた。


 でも、今日は違う。


 待っている間に何を話そうか、考えるのが楽しい。


「……ユキナ?」


 振り返ると、カーウィック様が立っていた。


「まだ約束の時間より早いですよ?」


「君こそ」


「私は……早く会いたくて」


 口に出してから恥ずかしくなった。


 でも、カーウィック様も少し笑った。


「俺もだ」


 彼が手を差し出した。


「寒くないか?」


「……少しだけ」


「なら、手を繋ごう」


 私は、その手を取った。


「カーウィック様。私、一人で生きるつもりだったんです」


「ああ。聞いた」


「でも……今は、一人になりたくありません」


 彼は足を止めた。


 真剣な顔で、私を見つめた。


「俺も、君といたい。君が料理を作らない日も、何も話さない日も、一緒にいたい」


 胸がいっぱいになった。


「……それって……」


 あの日、私は時計塔の下で一人きりだった。


 約束した人は来なくて、私が待っていることを笑っていた。


 今日は、私に会いたいと言ってくれる人がいる。


「ああ、俺の――一番大切な――友達になってくれ――」


「んっ……えっと……」


 予想と少し違ったけど、彼の顔が真っ赤に染まっていたのが、何かの証拠だった。きっと彼なりに精一杯頑張ったんだろうね。


「もちろんです。カーウィックは私の……大切な人です」


 だから、今はそれで大丈夫。


 あれ? 涙がこぼれた。でも、嬉しくて笑っている。


 カーウィック様は、泣いている私に、ただ何も言わずに寄り添ってくれた。


 カーウィック様が笑った。


 私も笑った。


 雪の中で待つ時間が、こんなにも幸せになるなんて。


 カーウィック様、私はもう、あなたに惹かれていますよ――。


(完)

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