病弱な幼馴染を優先する婚約者様、お互い好きなことをいたしましょう
『カルロッタ、今日もアニタの調子が悪い。観劇は、またの機会に。サヴェリオ』
ヴェレーノ伯爵家の次男のサヴェリオ様には、病弱な幼馴染がいる。
ブイオ男爵家のアニタ嬢。
領地がお隣同士なのですって。
その十通目の手紙を受け取った時――。
わたくしはすでにクリーム色のエンパイアドレスを着て、館の玄関にいた。
頭には、造花とリボンのついたボンネット。
わたくしは王宮の庭園開放日を楽しみにしていた。
……観劇?
それは前回の予定だった。
わたくしたち……。
いいえ、わたくしは、満開の薔薇を見に行く。
婚約者が一緒でなくたって。
――お互い、好きなことをいたしましょう。
わたくしは、心の内でサヴェリオ様に宣言した。
「馬車の用意を。王宮の庭園に行くわ」
わたくしは執事に命じた。
執事がすぐに指示を出し、馬車が館の前に回される。
わたくしは侍女と護衛騎士を連れ、馬車に乗って王宮の庭園へと向かった。
◇
王宮の庭園は、わたくしの期待した通り、色とりどりの薔薇が咲き乱れていた。
わたくしは、薔薇の間をゆっくり歩く。
他の来園者は、婚約者同士や夫婦らしき男女二人連れが多い。
一人で来ているのは、いかにもオールドミスといった雰囲気の女性か、老婦人。
わたくしもサヴェリオ様との婚約なんて解消して、オールドミスになろうかしら?
我がシエロ伯爵家は、わたくしが結婚しなくても、きっと困らないはずよ。
サヴェリオ様とは、年齢と家柄が釣り合うから婚約しただけ。
お父様ったら、きちんとサヴェリオ様のことを調べたのかしら……?
ああ、サヴェリオ様も、婚約したての頃は、こんな風ではなかったものね。
アニタ嬢が王都に出てきてから、おかしくなったのよ。
「観劇も、一人で行けば良かったわ」
王立学園のお友達と観た歌劇が素敵だったから……。
サヴェリオ様と一緒に観たい、なんて思ったのだけど……。
九通目のお手紙が届いただけだった。
翌日には、サヴェリオ様は「申し訳なかった」と謝ってくれた。
それで……。
「埋め合わせで、君の好きなところに行こう」だったかしら?
わたくしったら、なんでサヴェリオ様の言葉を信じられたのかしら?
すでに九回も、約束を破られていたのに……。
どうかしていたとしか思えないわ。
薔薇は、一人で見ても美しい。
あの歌劇だって、わたくしが気に入った。
わたくしが観たかった。
それで良かったのに……。
この薔薇のむせ返る香りだって、一人でも味わえる。
二人で来ている人たちは、会話を楽しみながら薔薇を見ている。
だけど、一人でじっくり薔薇を見ている人だっている。
自分のペースで薔薇を見てまわるのも、気楽でいい。
好きなものを好きなだけ見て。
興味のないものは素通りして――。
……なんで気付かなかったのかしら?
わたくしは、行きたいところに行って、やりたいことができる。
◇
その翌日、王立学園に登校すると……。
サヴェリオ様は、朝の教室で、いつものように申し訳なさそうな顔をして寄ってきた。
「すまなかった。埋め合わせをする。行きたい場所を教えてくれ」
「では、次は、街歩きをいたしましょう」
わたくしがほほ笑むと、サヴェリオ様はほっとしたようだった。
いつにするのかも、すんなり決まった。
どうせ、またいつものお手紙が送られてくるのよね。
わたくしは、約束の日には、他の方との予定を入れられないけれど……。
いつものお手紙を受け取った後、どうするかなら決めておける。
――当日になると、サヴェリオ様からは、やはりお手紙が届いた。
わたくしにとっては、予定通り。
今日もお気に入りのクリーム色のエンパイアドレスに、お花とリボンのボンネット。
前回と服装が同じだなんて、気にしなくていい。
一番好きなドレス、一番好きなボンネット。
侍女にはピクニック用のバスケットを持たせていた。
わたくしは王都の商店街に行き、平民に人気だというバーガーなる肉の挟まったパンと、カフェオレという飲み物を買った。
王立学園の同級生にも、この二つにチャレンジした方がいて、意外と美味しかったと聞いていたの。
一人で街中で食べるのは、わたくしには、まだ少しハードルが高い。
わたくしはその二つをバスケットに入れて、また馬車に乗った。
馬車は王都の西門を出て、丘を上がる。
王都の街並みがよく見える場所で、馬車を止めた。
侍女が敷布を草の上に敷き、バスケットを置いてくれた。
わたくしは敷布に座ると、カフェオレを飲み、バーガーをかじった。
カフェオレは、ほろ苦いのに、甘い。
バーガーは、肉とパンのシンプルな味わい。
心地よい南風に吹かれながら、美しい景色を眺める。
王宮は白い石造りで、屋根だけが青かった。
大聖堂の尖塔も見える。あの緑の屋根の下には、大きな鐘が吊るされているはず。
王宮を取り囲むように貴族の王都館。
さらに外側には裕福な平民の家がある。
わたくしは飲食を終えると立ち上がり、空に向かって両手を伸ばした。
「ここは……、空が近いわ」
我が家の領地も、サヴェリオ様の家の領地も、商業で栄えている。
どちらも『小王都』などと呼ばれている土地。
サヴェリオ様は、いずれ父親の持つ子爵位と、小さな領地を受け継ぐ予定。
わたくしは、その子爵領で領主夫人をする。
きっと子爵領では、こんな風に、空や風を感じることはないだろう。
王都の景色に目を戻す。
灰色の石でできた防壁が、王都を囲んでいる。
かつては、あの防壁が外敵の侵入を阻んだりしたらしいけれど……。
今では、その役目を果たす必要はなくなっていた。
「あの山……」
王宮の遥か後ろに見える山並み……。
ここよりも、空に近い場所。
「あの山々に登ったら、もっと景色は綺麗なのかしら? 山にしか咲かない花も、見られるのかしら……?」
返事を求めて問いかけたわけではなかった。
答えなんて、最初からわかっている。
景色は綺麗だろうし、花だって見られるだろう。
「貴族の娘が、アルバ山脈に登れるのかしら? 王都にほど近い、こんな丘が精一杯……?」
今度の問いは、心からの疑問だった。
わたくしだって、望んだらアルバ山脈にだって登れるかしら?
「きっと、たくさん歩かないといけないわね。もっと歩きやすい靴がいるわ」
わたくしはエンパイアドレスの裾を見た。
今日もヒールの低い靴を履いてきたけれど……。
さらに歩きやすい靴が必要ね。
「乗馬服? 女性騎士用の騎士服が良いのかしら? それとも、平民用の綿のシャツとトラウザーズ?」
わたくしは、ふふっ、と小さく笑ってしまった。
これでは『形から入るタイプ』みたいだわ。
いきなり油絵セットや、高価なバイオリンを買うようなもの。
「帰りましょう」
わたくしが言うと、侍女がすぐに敷布やバスケットを片付けた。
丘には、わたくしと、侍女と、護衛騎士と、馬車。
王都は遠くに見える。
アルバ山脈は、さらに遠い場所にある。
「パオラは馬車に乗って。ピエール、歩けるところまで歩いていくわ」
わたくしは侍女と護衛騎士に指示した。
わたくしのこの思いが、いつまで続くかは、わからないけれど……。
歩ける距離を伸ばしていったら……。
いつかは、アルバ山脈にも登れるかもしれない。
わたくしは馬車で上がってきた道を、徒歩でゆっくりと下り始める。
道端には、白い小さな花が咲いていた。
名前も知らない花。
黄色い蝶がひらひらと、花のまわりを飛んでいる。
「ピエール、ごめんなさいね。現実逃避に付き合わせて」
わたくしは、少し後ろを歩く護衛騎士に詫びた。
「いいえ」
とだけ、ピエールは返してくれた。
わたくしは、木々の間から見える北方の山々を見る。
今の時期は緑色に見えるけれど、冬が近づくと雪をかぶって白くなる。
「ピエールは、あの北の山から来たのよね」
北方の国境を守る辺境伯家の三男。
我が家と同じ寄親を持つ、フルミーネ辺境伯家。
「ええ」
北の男は、口数が少ない。
雪に溶け込む銀髪に、薄氷の色の瞳。
整いすぎた顔立ちも、なんだか冷たそうに見える。
「あの遠い山から、王都に来る人がいるのだもの……」
わたくしは言葉を切った。
同じ貴族であっても、ピエールは辺境で騎士となるべく育てられた。
わたくしのような淑女として育てられた者とは、すべてが違う……。
「まずは、ミロ山を目指されては?」
ピエールは、わたくしの隣に立って、東を指さした。
わたくしは足を止め、ほとんど平地に見える場所に目を向ける。
「そんな山もあったわね」
名前は聞いたことがある。
けれど、これまでは興味なんてなかった。
王都付近では、最も高い山だったはずだけれど……。
この丘よりも低く見えるわ。
「山頂には、古い見張り塔があります。そこからの眺めは、なかなか良いですよ」
「行ってみたいわ……」
考える前に、望みが口から飛び出していた。
ピエールの目尻が、なんとなく下がったように見える。
もしかして、笑顔になったのかしら……?
「その次は、ジョルジャの滝」
ピエールは、さらに東を指さした。
たまに絵画で見る、森の奥にある美しい滝。
「セルセの大樹」
今度は、王都の東南の方角。
『世界樹』なんて呼ばれることもある、巨大な杉の木。
大樹信仰の巡礼地の一つだわ。
森を数日かけて歩いていった先にある。
「運が良ければ、精霊鹿も見られるのよね」
精霊鹿は、青白い毛並みの神秘的な鹿。
こちらも絵画で見たことがあった。
「ええ」
「貴族の娘がセルセの大樹に行ったなんて話は、聞いたことがないけれど……。行ってはいけないという決まりだって、ないものね」
わたくしは自然と笑顔になっていた。
「はい」
いつもと変わらない、短い返事。
「ありがとう、ピエール。元気が出たわ」
「良かったです」
ピエールはそっけなく言うと、一歩下がる。
そこが、護衛騎士の定位置ですものね。
わたくしは目を道の先へと戻し、また丘を下り始めた。
◇
わたくしの歩ける距離は、まだまだ短い。
わたくしはあの後すぐに疲れてしまって、馬車で館まで戻った。
その日の夜、わたくしはサヴェリオ様の手紙を持って、父の書斎を訪れた。
書斎には、お母様とお兄様にも来てもらっていた。
両親とお兄様は、十一通の手紙を読んでから、わたくしを見た。
「カルロッタの方から、サヴェリオ殿に注意はしたのか?」
お兄様が訊いてきた。
「わたくしはサヴェリオ様の婚約者です。あの方を教育するのは、ヴェレーノ伯爵家の役目ですわ」
「……ああ、その通りだな」
一度や二度ならともかく……。
これだけの回数、わたくしとの約束よりも、アニタ嬢を優先した。
それは、貴族の家同士の婚約よりも、病弱な幼馴染を選んだということ……。
サヴェリオ様をそのように育てたのは、ヴェレーノ伯爵家。
わたくしがヴェレーノ伯爵家の尻拭いをする必要などない。
「貴族の家の次男は、嫡男になにかあれば、家を継ぐお立場。その次男にあのような教育しかできない家は、我がシエロ伯爵家には釣り合いません」
あのような婚約者は、もういらない。
サヴェリオ様は、わたくしとの婚約を解消されたら、次男としての役目を他の方に譲ることになるのではないかしら?
もしもサヴェリオ様が嫡男だったら、廃嫡される可能性もあるような行いですもの。
「わたくしは淑女科から、文官科に転科しようと思います。その上で、侍女の仕事も探しつつ……。どなたか良い方がいたら、縁談をお受けしようかと……」
わたくしの未来には、様々な選択肢がある。
その中で、最良のものを選びたい。
今からでも文官科に移れば……。
王宮は無理でも、地方の役所の事務官にはなれるはず。
「名門シエロ伯爵家の娘が、文官か侍女……。まるで我が家が没落したようではないか」
お父様は吐き捨てるように言った。
「王立学園の三年生にもなって、この先、どのような良い縁談があるのでしょうか?」
そう言いながら、わたくしは心の奥にピエールの姿を描いた。
ピエールは、まだ結婚していないし、婚約者もいなかったはず。
寄親も同じで、家柄だって申し分ない。
けれど、わたくしは、自分からピエールの名を挙げたくなかった。
ピエールにだって、大事な幼馴染がいるかもしれない。
病弱だとか、身分の差があって、婚約できていないだけで……。
わたくしは、もうサヴェリオ様の時と同じ失敗をするわけにはいかない。
「サヴェリオ殿のことは、たしかに調査が足りなかった」
お父様の顔が歪む。
「家柄や領地の状況は、釣り合っていましたのにね……」
お母様は残念そうだった。
このようなことにならなければ、サヴェリオ様との縁談は、たしかに良いお話だった。
「安心しろ。ヴェレーノ伯爵家の有責で婚約を破棄……、いや、解消となるよう動く」
お父様がお母様に向かって、宥めるように言った。
「わたくしは社交界の笑い者になるところでしたわ」
両親とお兄様の顔が強張った。
サヴェリオ様が、わたくしよりアニタ嬢の看病を優先していたことは、すでにどこかで噂になっているかもしれない。
お父様には、そのあたりの火消しまで、きっちりやっていだたかなくては。
「そうだな……。カルロッタ、護衛騎士として雇っているピエール殿と婚約するのはどうだ? 『銀の守護竜』フルミーネ辺境伯家の三男だ」
お父様は、お母様とわたくしを交互に見た。
「ピエール殿は、嫡男か次男になにかあったら、北方に帰る方ではありませんか!」
お母様が声を荒げた。
辺境は『小王都』とは危険度が違いすぎる。
お母様が嫌がるのも無理はなかった。
「すぐに決める必要はないかと。まずはピエール様とフルミーネ辺境伯家のことを、しっかり調べてくださいませ。――また婚約を解消することになったら、わたくしの方にも問題があると思われるでしょう。わたくしはこの家の恥になります。修道院に行くしかありません。そのようなことになるなら、文官か侍女になる方がましです」
わたくしには、もう後がない。
その現実を、両親とお兄様に突きつける。
「私と父上と母上が、使える伝手をすべて使って調べる。カルロッタを修道院には行かせない」
お兄様の声はとても低く、まるでやっと絞り出したかのようだった。
ただの伯爵家の娘では、ピエールを調べるにも限界がある。
伯爵と伯爵夫人と次期伯爵に、本気で取り組んでもらわなくては……。
「そうしてくださいませ……」
わたくしは両親とお兄様に、悲しげに笑ってみせた。
サヴェリオ様と婚約する前に顔合わせをした時……。
わたくしは一目でサヴェリオ様を好きになった。
けれど、今はもう、そんな純粋さは失われた。
次に誰かを好きになるなら……。
問題のない方だとわかってからにしたかった。
こんな風に傷つくのは、もう嫌だから……。
「カルロッタ……」
お母様が、ハンカチで目尻に浮かんだ涙を拭う。
「なんだか疲れました。部屋に戻りますわ。おやすみなさいませ」
今日はだいぶ歩いたもの、疲れて当然ね……。
わたくしは父の書斎を出ると、寝室に向かう。
早く眠って、早く起きて……。
明日の朝、少しでも庭を歩きたい。
――いつかアルバ山脈に行かれるように。
その時、ピエールが、夫か婚約者として隣にいてくれたら素敵だけれど……。
わたくしは一人でも、きっと山を楽しめる。




