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試験


三日は、短い。


短いという事実は誰にとっても同じなのに、短さに殺されるのはいつも段取りのない側だ。


母の工房の奥。蝋燭を一本だけ灯し、紙を広げた。鉄錆と薬草の匂いの中で、羽根ペンを走らせる。


一日目は仕込みと濾過一回目と沈殿。

二日目は濾過二回目と安定化と瓶詰め。

三日目は検査と封と搬送と引き渡し。


その隙間に、さらに小さく書き足す。


足跡を消す。匂いを残さない。人を増やさない。


書き終えたところで、指先が止まった。


「……お嬢様」


工房の入口で、カイルが息を殺している。いつもの軽口がない。闇ギルドの地下の空気を、まだ肺の奥に溜めたままの顔だった。目の下に薄い隈がある。眠れなかったのだろう。あの劇場の湿気と血の匂いが、まだ鼻の裏に貼りついている。


「三日だぞ」


「知ってる」


「指定の量、指定の客、指定の場所。あいつ、わざと面倒なのを——」


「試してるのよ」


ペンを置いた。


試すのは、精度だけじゃない。胆力。沈黙。逃げ道。誰を使い、誰を切り、どこまで約束を守るか。

そして一番大事なのは、止める権利を持っているかどうかだ。


闇ギルドのような連中は、金では動かないことがある。脅しでは動かないことがある。でも「渇き」なら動く。


赤は、鎖だ。鎖は、握った側が強い。


「カイル」


「はい」


「今から三日、あなたは情をしまって。しまえないなら、持ってないふりをして」


カイルの口が動きかけて、止まった。唇を噛む。噛んだ跡が白くなるほど強く。


「……分かってる。あの従僕が死んだ件、俺だって——」


「分かってるならいい」


視線を紙に戻す。


カイルの靴音が、工房の石床に小さく響いた。出ていくのかと思ったが、出ていかなかった。壁に背をつけて黙って立っていた。


その沈黙が、今のカイルの精一杯だった。


---


## 一日目


夜明け前、工房の火を入れた。火は小さく、音も小さく。大きい火は見つかる。大きい音は人を呼ぶ。


手袋をはめる。指先に余計な皮脂を残さない。匂いを残さない。匂いは追われる。殿下は、匂いすら情報として読む。


「匂い嗅ぎが増えてる」


カイルが言った。外に出て、戻ってきたばかりの顔。頬が冷えていて、息がまだ白い。走ってきたのだ。


「旧市街まで捜査班が入ってきてる。聞き込みじゃなくて、足で地図作ってる感じだ。『何も出ない』を集めてる」


「何も出ないことが情報」


私が言うと、カイルが顔をしかめた。眉の間に深い皺が寄る。この男は感情が顔に出すぎる。裏の仕事には向いていない。向いていないのに、ここにいる。


「……殿下、怖ぇな」


「怖いのは殿下じゃない。殿下が作る“正義の空気”よ」


空気が固まると、人は勝手に指を差す。指差す先にいるのが、私だ。


鍋の中で液体が回る。最初は濁りがある。濁りは雑音だ。雑音を削るのが、私の仕事。


「指定の客は?」


カイルがポケットから紙片を出した。闇ギルドの使いが置いていったもの。紋章も暗号もない、ただの紙。普通の紙ほど危ない。


そこには二つ、淡々と書かれていた。


一日目:白い手袋の男/南水門の下/鐘が二つ/一本

三日目:肉屋の裏/鐘が一つ/白い布/九本


「……一本だってよ。今夜。確認用か」


「当然ね」


私は鍋の火加減を少しだけ落とした。0.1の差は、火の一段だ。


「最初の一本で、彼らは味を覚える。味を覚えたら、次を欲しがる。欲しがった瞬間に、取引は終わってる」


「……お嬢様、ほんとに商人だな」


褒めていない。分かっている。


「生きたいだけよ」


---


夜。


南水門の下は冷えていた。水の匂い。石の匂い。人の匂い。湿った闇が声を吸う。


白い手袋の男は、最初からそこにいた。


背筋が真っ直ぐで、帽子の影に目がある。顔は見せない。見せない顔ほど身分が高い。

その後ろに、闇ギルドの見張りが二人。腕を組み、壁に寄りかかっている。笑わない。笑えない場所だ。


私は布包みを、石の上に置いた。


「一本」


包みは開かない。見せないことで、値段が上がる。


白い手袋の男は、こちらを見ないまま言った。


「……本物か」


声が震えていた。微かに。喉の奥で何かを飲み込んでから発した声。恐怖か期待か、本人にも区別がついていないのだろう。


「偽物で死ぬのはあなたの勝手。本物で渇くのも、あなたの勝手」


男の白い手袋が膝の上で拳を作った。革が軋む音がした。


「確認を」


「しない」


「……一本だけでも」


声が変わった。さっきより低い。低いのに弱い。命令ではなく、懇願の周波数だ。上流の人間が懇願するとき、声は高くならない。低くなる。低くなることで体裁を保とうとする。


「開けるなら、あなたが自分の手で。——触れた指が増えたら匂いが増える。匂いが増えたら、殿下が嗅ぐ」


殿下の名を出した瞬間、男の肩が動いた。外套の下で背筋が一本の棒になるのが見えた。


正義を怖がるのは、いつだって上流だ。正義は下を焼く火だと思っている。自分に火が回るとは思っていない。思わされた瞬間、身体が先に反応する。


男は布を開き、瓶を取り出した。赤が、暗い水門の灯りを吸い込んで光った。


男の息が止まった。


止まった息が、ゆっくり吐き出される。吐く息が震える。白い手袋の指先が、瓶の曲面をなぞった。愛撫するように。失いたくないものに初めて触れたときの、あの動き。


「……鉄の匂いがする」


「あなたの手から? それとも瓶から?」


男は答えなかった。白い手袋のまま、瓶を布に戻した。戻す手が丁寧だった。丁寧すぎた。壊れ物を扱うように、あるいは、もう手放せないものを包むように。


袋が差し出された。金属の重み。宝石の硬い音。


受け取って、開けないまま内ポケットへ入れた。


「これは“確認用”よ」


男の唇が開いた。閉じた。また開いた。言葉を探している。見つからないのは、欲しいという一語が喉に詰まっているからだ。


「本番は三日目。条件を飲めないなら、そこで終わり」


男が去り際に言った。


「上が……喜ぶ」


上。闇ギルドの上。貴族の上。あるいはもっと上。


「喜ぶのは勝手。渇くのも勝手」


背を向けた。


背後で、男がまだ立っていた。動けないのだ。赤を抱えたまま、水門の下で、一人で。


闇ギルドの見張りが男の肩に触れた。男は弾かれたように歩き出した。足音が乱れていた。来たときと、まるで違う足音だった。


---


## 二日目


工房の火を入れる前に、瓶を数え直した。


減っていない。増えていない。増えないことが、価値を作る。


「ガルムの部下が揉めてる」


カイルが言った。今日は汗の匂いが強い。走ってきたのだ。額に張りついた前髪を払いもせず、息を切らしたまま話し始める。


「偽物を潰せって派と、偽物も儲かるって派。で、本物が入ってきたって噂で、全員頭おかしくなってる。昨日まで仲間だった奴らが、互いの胸ぐら掴んでた」


火を入れた。


「揉めさせておきなさい」


「……え?」


「揉めてる間は、私を奪いに来れない。揉めてる間は、私の値段が上がる」


カイルが舌打ちした。苛立ちではない。納得と抵抗が同時に出た音だ。


「それ、危ねぇだろ。揉めすぎたら、力で奪いに来る」


「だから配分を出す。配分は餌よ。餌を出せば、犬は喧嘩を止める」


「……お嬢様、犬扱い好きだな」


「犬は忠実よ。飢えた犬ほど」


カイルは黙った。黙ったまま壁に背をつけ、天井を見上げた。


「……俺も犬か?」


声が小さかった。聞こえないふりをすることもできた。


「あなたは犬じゃない」


カイルがこちらを見た。


「犬は自分で考えない。あなたは考えすぎる。だから厄介なの」


カイルの口が開いて閉じて、そして笑った。笑い方がぎこちなかった。安心したいのに、安心しきれない笑い方だった。


鍋の中の液体が静かに回る。濾す。沈殿を待つ。温度を落とす。誰にも見せない。誰にも聞かせない。ただ、正確に。


その間、カイルが何度も出入りした。材料は増やさない。材料を動かせば帳簿が動く。帳簿が動けば家が嗅ぐ。家が嗅げば殿下が嗅ぐ。彼が運ぶのは物じゃない。情報だ。旧市街の噂。捜査班の動き。闇ギルドの内輪の温度。


「匂い嗅ぎが、劇場の近くまで来てる」


カイルが言った。声に焦りがあった。隠そうとして、余計に滲んでいた。


手を止めなかった。


「来るわね」


来る。来るからこそ、三日で終わらせる必要がある。


瓶の口を拭き、布で包んだ。包みは二重。封蝋はなし。家紋もなし。名もなし。無いことが、今は最強だ。


---


## 三日目


朝、一本だけ自分の前に置いた。飲むためじゃない。見るためだ。


赤は、綺麗だ。綺麗だからこそ、怖い。


瓶の向こうで、私の指先が微かに震えた。震えは渇きじゃない。渇きの予告だ。


瓶を布で包み、引き出しにしまった。


「飲むなよ」


カイルが言った。昨日より声が硬い。目がまっすぐこちらを見ていた。逸らさない。逸らさないのは、怖いからだ。怖いのは捜査班でも闇ギルドでもなく、私が赤に手を伸ばすことだ。


「飲まない」


「約束だぞ」


「あなたが困るから?」


「……それ以外に理由いるかよ」


——一瞬だけ、言葉が出なかった。


「困るのは私よ」


話を切った。


「今日の指定場所は?」


カイルが紙片を見た。目を細める。読みたくないのかもしれない。


「旧市街の肉屋の裏。鐘が一つ。合図は白い布。……九本だ」


肉屋。血の匂い。油の匂い。匂いが紛れる場所は、危険でもある。


「行くわ」


手袋をはめた。


---


肉屋の裏は、思ったより明るかった。


灯りがある。灯りがあるのは、人がいる証拠だ。人がいる場所は噂がある。噂がある場所には、捜査が来る。


白い布が壁に掛けられていた。


影から男が出てくる。白い手袋じゃない。闇ギルド側の使いだ。目が鋭い。口が薄い。頬がこけている。眠れていないのは、こちらと同じらしい。


「九本」


布包みを差し出した。


男が受け取ろうとして——止まった。


遠くで、足音が揃った。


金属が擦れる音。短剣の柄がぶつかる音。革靴が石畳を叩く音。ひとつひとつは小さいのに、揃うと大きくなる。


規律の音だ。正義の音だ。


カイルの肩が固まった。息を止めている。目が大きく開いて闇の奥を見ている。


闇ギルドの使いの顔から血の気が引いた。頬のこけた顔が、さらに削れたように見えた。唇が動く。声にならない。声にならない言葉は、たいてい「逃げろ」だ。


肉屋の裏の空気が変わった。匂いが変わった。汗と鉄と、冷たい魔力。魔力探知の術式が空気を撫でている。薄い膜のように。触れたものを記録する膜。


角の向こうで声が響いた。


「——踏み込め」


短い命令。命令は理由が要らない。


松明の光が路地の壁を舐めた。


私は布包みを——渡さなかった。


石の上に置いた。


闇ギルドの使いが目を剥いた。置くのか、と顔が叫んでいた。声は出さなかった。声を出したら終わりだと分かっていたからだ。


誰にも渡さず。誰にも触らせず。


石の上の赤は、松明の光を受けて一瞬だけ宝石のように輝いた。取った者が次の標的になる。取らなければ、赤は夜露に濡れるだけだ。どちらにしても、供給は私が握っている。


「カイル」


声を落とした。


「合図」


カイルが僅かに頷いた。その動作の中に、短剣の柄に触れかけた右手を引き戻す動作が混じっていた。前回の約束を、身体が覚えていた。


白い布が揺れた。風じゃない。闇の奥の誰かが引いた。


——闇ギルドが動いた。


路地の反対側で、別の足音が弾けた。捜査班の足音と違う。乱れた足音。散らすための足音。囮だ。


壁に沿って一歩。影の中へ二歩。


カイルが半歩遅れた。遅れた理由は分かる。石の上の布包みを、最後にもう一度見たのだ。あの九本を見捨てる重さを、カイルだけが金額で計算していた。


「お嬢様」


囁き。声は上ずっていない。上ずらなくなっている。三日前の闇ギルドの地下より、この男は少しだけ変わった。


背後で金属音が鳴った。短剣が抜かれる音。鎧がぶつかる音。誰かの怒声。誰かの悲鳴。混ざり合って、一つの暴力になる。


振り返らなかった。振り返った瞬間、今夜が戦いになる。


今夜は逃げる夜だ。逃げるのは負けじゃない。生きるための段取りだ。


路地を抜ける。運河の匂い。水の冷気。月が水面に落ちている。


走りながら、ただ一つだけ考えた。


三日。間に合ったのに、遅れた。


——違う。


ガルムが見たいのは、瓶じゃない。供給者が捕まらない逃げ方だ。


試験は終わっていない。むしろ、ここからが試験だ。


赤を置いてきた。九本分の金を捨てた。けれど供給者が捕まるよりはいい。捕まったら、九本どころか全部が終わる。


——損切りは、得意なの。


---


屋敷の裏口に滑り込んだとき、指先に鉄錆の匂いが残っていた。手袋をしていたのに。工房の空気が染みたのか、あるいは自分自身の匂いが、もう消えなくなり始めているのか。


窓の外で、王城の尖塔に灯が点いていた。あそこで今夜も殿下が地図に赤い印を打っているのだろう。旧市街一帯に捜査の網が狭まっている。痕跡がないことすら情報として読む男。


二つの檻。王太子と、闇ギルド。


どちらにも捕まるわけにはいかない。どちらからも逃げ切る。


ノートを開いた。今夜の損失を記録する。


九本。回収不能。

闇ギルドが拾えば——信用の前払い。

捜査班が拾えば——物証の前払い。


どちらに転んでも、次の手は変わらない。供給を止めないこと。止めた瞬間、私の価値が消える。


ペンを置いた。


明日、ガルムから連絡が来る。来なければ、私は“回収”の対象になったということだ。来れば——私は逃げ切ったということだ。


試験は、瓶ではなく私で採点される。


---


メーター:資金 中/疑念 中→大/執着 小/支配 中


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