闇ギルド初交渉
夜の旧市街は、息を止めていた。
街灯の魔石はとうに切れている。路地を覆う闇は厚く、壁に染みついた湿気が靴底をねっとりと掴んだ。私は外套のフードを深く引き、角を曲がるたびに足音を殺した。
三歩後ろを、カイルが歩く。
「……お嬢様」
低い声。いつもの軽さがない。
「なに」
「引き返すなら今です。あの手紙、罠じゃないって保証は——」
「ない」
止まらなかった。カイルも止まらなかった。それが答えだった。
手紙には、刻限まで書いてあった。
子の刻。旧ヴェルム劇場、地下。
旧ヴェルム劇場。かつては貴族が仮面舞踏を楽しんだ場所だと聞く。今は窓が板で塞がれ、正面の彫刻は鼻と指を欠いていた。美が朽ちるのは早い。権力が朽ちるのは、もっと早い。
横手の搬入口。鉄扉に手をかけると、錆が掌に移った。
——鉄錆。嫌な親近感がある。
扉が軋み、黒い階段が口を開けた。地下から上がってくる空気は湿っぽく、油と黴と、かすかに血の匂いがした。
カイルの喉が鳴る。
「……臭い」
「覚えておいて。この匂いが、これから私たちの取引先の匂いよ」
カイルは何も言わなかった。ただ、腰の短剣の柄を一度握り直した。
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階段を降りきると、空間が開けた。
旧い舞台だった。天井は高く、壁際には朽ちた桟敷席の骨組みが残っている。舞台の上には長机が一つ、その上に油灯が三つ。灯りの輪の外は、すべて闇だった。
気配は数えられない。五人か、十人か。闇の奥で衣擦れの音がした。呼吸が聞こえた。見えない目が、こちらを値踏みしている。
舞台の中央に、男が座っていた。
ガルム・バルカ。
大きいわけではない。けれど椅子が似合っている。ここが自分の場所だと、身体が知っている座り方だった。目は笑っていないのに、口元だけが柔らかい。柔らかいほど、危ない。
ガルムの前には白い磁器のティーカップが置かれていた。湯気が細く昇っている。闇ギルドの地下劇場で、男は茶を飲んでいた。
「——遅い」
声は低く、よく通った。怒りではない。時間を計っていた、という響き。
「手紙の時刻には三分早いわ」
フードを下ろさないまま答えた。ガルムの目が、一瞬だけ細くなった。
「女か」
「取引に性別は要る?」
ガルムは答えなかった。代わりにカップを持ち上げ、一口飲み、受け皿に戻す。磁器が触れ合う小さな音が、地下に響いた。
「座れ。そこに椅子がある」
舞台の端に、木椅子が一脚。釘が浮いている。意図的だ。客には最低の席を与える。
椅子を見て、座らなかった。
立ったまま、机の向こうのガルムと視線を合わせた。
闇の中で、誰かが舌打ちした。「座れと言ってんだろ」と低い声が飛ぶ。カイルの背中が強張り、短剣に手が伸びかける。
ガルムが片手を上げた。
それだけで声が消えた。空気が凍るように静まった。
この男の支配力。声ではなく、手の動き一つで部下を黙らせる。
「……面白い」
ガルムが言った。笑ってはいない。
「手紙を寄越したのはそちら。私は招かれた側よ。座るのは、招いた側の仕事じゃなくて?」
沈黙。
ガルムの指がカップの縁をなぞった。三秒。五秒。
「——名は」
「ない。あなたが決めたければ好きに呼んで」
「名乗れないのか、名乗らないのか」
「どちらでも。薬の効果は変わらない」
ガルムの目が、初めてまっすぐこちらを見た。品定めではない。計測する目だった。人間の重さを、命の重さを、値段に換える目。
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「——赤い薬を作ったのはお前か」
「偽造品なら街に溢れているけれど」
「偽造で人が死んだ。だが、あの薬を飲んだ上客は別のことを言っている。本物は次元が違う、と」
ガルムはカップを脇にどけ、机に肘をついた。
「俺の錬金士に調べさせた。市場に出回っている赤の純度は、良くて七十。八十を超えれば上物。九十台は存在しないと言われていた——昨日までは」
「それで?」
「お前の赤を、一本手に入れた。上客が飲み残しを惜しんでいたのを、少々強く譲ってもらった」
カイルの顔がこわばった。飲み残しを“譲らせた”の意味を理解したのだろう。
ガルムは机の下から、小さな硝子片を取り出した。赤い残滓がこびりついている。
「錬金士は、これを見て黙り込んだ。三時間黙って、ようやく一言だけ言った。——『九十九』。小数点以下は“揃わない”と言っている」
私は表情を動かさなかった。
——小数点以下が揃わない。つまり、到達できない。追いつけない。
「仮にそうだとして」
「仮にも何もない。本物だ。これを安定供給できる人間がこの国に何人いる?——いや、いない。お前だけだ」
ガルムの声に、初めて熱が混じった。欲望ではない。確信だ。金脈を掘り当てた人間の、震えを押し殺した確信。
「だから呼んだ。条件を聞こう」
地下の空気を吸った。冷たく、肺の底に沈んだ。
「条件は三つ」
指を一本立てた。
「一つ。流通域はこちらが決める。どこに、誰に、何本。すべて私の許可制。勝手に増やしたら供給を止める」
二本目。
「二つ。純度の保証はするけれど、製法は渡さない。分析してもいいわ。再現できるなら、どうぞ」
ガルムの目が一瞬だけ光った。挑発と取ったのか、自信の裏付けと読んだのか。
三本目。
「三つ。支払いは前金。金貨か宝石。帳簿はつけない。名前も残さない」
私は指を下ろした。
「——私が売るのは薬じゃない。選択肢よ」
長い沈黙。
闇の中の気配が揺れた。部下たちの視線が、ガルムの背中に集まっているのが分かる。判断を待っている。
ガルムは立ち上がった。椅子が引きずられ、石の床に甲高い音が走った。
「——いい度胸だ」
近づいてくる。一歩ごとに油灯の炎が揺れた。体格差は歴然で、こちらの頭はガルムの胸の高さにも届かない。
「だが、一つ聞く」
見下ろされる。
「お前の条件は聞いた。俺の条件を聞く気はあるか」
「——内容による」
「簡単だ。独占」
ガルムは淡々と言った。
「他のどの商会にも、どの貴族にも直接は売らせない。すべて俺を通せ。その代わり、お前の身の安全は俺が保証する。王城の捜査も、偽造屋の報復も、全部俺が壁になる」
甘い条件に聞こえるように作ってある。壁は守りに見える。守りは檻になる。
外套の内側で、拳を握った。
「半年」
言った。
ガルムの眉が、僅かに動く。
「半年の独占。——ただし、それは“合格したら”」
「合格?」
ガルムの口元が少しだけ歪んだ。笑いではない。試す顔だ。
「試験よ」
私は言った。言い切った。
「あなたの流通網がどこまで使えるか。あなたの壁がどこまで壁になるか。結果が出れば延長する。出なければ——私は消える。薬ごと」
ガルムは、しばらく何も言わなかった。
それから、初めて——ほんの数ミリだけ口の端が上がった。歯を見せた、という方が近い。
「——気に入った」
ガルムは手を差し出した。岩のような掌。指の関節には古い切傷が白く残っている。
手袋をしたまま、その手を握った。
握力が強い。試している。痛みが走っても、表情は変えなかった。
「名無し」
ガルムが言った。
「しばらくはそれで呼ぶ。だが——」
手を離さないまま、声を落とす。
「その前に、俺の“試験”を受けろ」
空気が沈んだ。闇の気配が一斉に締まる。
ガルムは指を二本立てた。
「三日」
短い。短い言葉ほど命令に近い。
「三日で、指定の量を用意しろ。指定の客へ。指定の場所で。成功したら、半年独占は認める。失敗したら——回収だ」
「回収?」
カイルの声が漏れた。すぐに飲み込んだが、遅い。闇が笑った。
ガルムは笑わない。
「赤も。作り手も」
私は一歩も動かなかった。怖くないからではない。怖さを見せたら、条件が重くなる。
「一つだけ」
私は言った。
ガルムが顎で促す。
「偽物の件。あなたの街で偽物を流した人間は、あなたの“仕事”よね」
ガルムの笑みが、ほんの少しだけ消えた。怒りではない。面倒を思い出した顔だ。
「……確かに」
「なら、私の赤が試験を通った時点で、偽物は沈めて。沈められないなら、私が供給を止める」
沈黙。
数秒。
それから、ガルムがゆっくり頷いた。
「いい」
低い声。
「お前は金のためじゃないな」
「生きるためよ」
「違う」
ガルムの目が、妙に楽しそうに光った。
「支配の匂いがする」
私は息をしなかった。息をしたら、震えが出るから。
「勝手に誤解して」
私は言った。
「誤解は盾になる。あなたも知ってるでしょう」
ガルムが頷く。
「三日だ」
最後に、もう一度。命令は繰り返すほど固くなる。
「遅れるな」
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階段を上がる時、カイルの息が荒かった。
荒い息は、まだ生きている証拠だ。
搬入口の鉄扉を押し開けた瞬間、夜風が顔を叩いた。冷たいのに、肺が少しだけ広がる。
カイルが隣に並んだ。しばらく無言で歩いた。
「……お嬢様」
「なに」
「三日って」
「短いわね」
「短いどころじゃねぇよ。無理だろ」
「無理じゃない」
私は言い切った。言い切ることで、無理を“課題”に変える。
「段取りの問題よ」
カイルが笑った。笑いではない。震えの逃げ道としての笑い。
「殿下より怖ぇ」
「殿下は正義の顔で殺す。ガルムは静かに殺す。——どっちが怖いかは趣味ね」
運河沿いの石橋まで来た。水面に月が映り、風が冷たい。
「カイル」
「はい」
「あの地下で、短剣に手をかけたでしょう」
カイルの肩が跳ねた。
「……すみません。身体が勝手に」
「いい。でも次は抜かないで。あの場で刃を見せたら、私たちは二人とも地下に埋められていた」
「…………はい」
声が小さくなる。前を向いたまま歩き続ける。
私は一拍置いて、言った。
「——ありがとう。守ろうとしてくれたのは、分かってる」
カイルの足音が、一瞬止まった。
それから、少しだけ早くなった。追いつこうとするように。
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屋敷に戻り、自室の扉を閉めた。
外套を脱ぐ。手袋を外す。
右手を見た。ガルムの握手の痕が、赤く残っていた。
机に向かい、ノートを開いた。今夜の条件を一行ずつ記録する。
独占は「合格後」。
前金制。流通許可制。製法非公開。
三日試験。指定の量、指定の客、指定の場所。
偽物沈め——達成できなければ供給停止。
最後の行に、こう書いた。
『闇ギルド錬金士:九十九止まり。小数点以下が揃わない。——純度は署名として機能する。揺らがせない』
ペンを置いた。
指先に、まだ劇場の匂いが薄く残っていた。手袋をしていたのに。空気が布を透過したのか。あるいは——自分自身の匂いが、もう消えなくなり始めているのか。
窓の外で、王城の尖塔に灯が点いた。あそこで今夜も、アルベルト・ヴァルディスが報告を待っているのだろう。痕跡がないことすら情報として読む男。
二つの檻。王太子と、闇ギルド。
どちらにも捕まるわけにはいかない。どちらからも逃げ切る。
——握り返せた。あの男の力に、震えずに。
それだけが、今夜の収穫だった。
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メーター:資金 中/疑念 中/執着 小/支配 小→中




