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偽造事故


噂は、光より速い。


昨日の夜会で交わされたのは、小瓶一本と金袋ひとつだけだったはずなのに、朝の学園はもう「赤」の話で満ちていた。廊下の角。階段の踊り場。窓際の陽だまり。誰もが同じ声量で、同じ温度で、同じ「危険」を共有している。


共有された危険は、もう危険じゃない。娯楽だ。


「——死んだんだって」


その一言が、空気を変えた。


私は足を止めなかった。止めた瞬間、噂を「欲しがっている」ことになる。けれど耳は勝手に拾う。耳は、私の許可なく働く。


「誰が?」


「バークリー伯爵家の……従僕。まだ若かったって。二十歳くらいの」


「赤で?」


「赤で。——でも、"本物"じゃないって」


「偽物?」


「偽物。甘すぎる匂いがしたらしい。本物は鉄っぽいって……」


声のトーンが落ちる。落ちた声は、秘密の形をしている。秘密は、共有するほど甘くなる。


「若いのに……家族いたのかな」


「知らない。でも、伯爵家の従僕って、田舎から出てきた子が多いから……」


「仕送りとかしてたのかも」


「やめてよ、怖い……」


怖い、と言いながら、彼女たちは離れない。怖い話の周りに人が集まるのは、怖さが「自分のものではない」からだ。他人の死は、自分の安全を確認する道具になる。


私は教室に入った。いつも通りに席に着いた。いつも通り、誰の目も気にしない顔で。


気にしない顔は、無能の特権だ。無能は何も知らないことになれる。


けれど——二十歳。田舎から出てきた従僕。仕送り。


胸の奥で何かが軋んだ。


軋んだだけだ。それ以上は許さない。


偽物を作ったのは私じゃない。飲んだのも私じゃない。けれど、「本物」が出たから偽物が生まれた。本物を市場に流したのは、私だ。


因果は、遡れば必ず誰かの手に届く。


——今は、数えない。数えたら、止まる。止まったら、死ぬのは私だ。


---


午前の授業は中断された。


鐘が一つ鳴り、教師が青い顔で教室に入ってきた。「講堂へ」。それだけ言って、もう一度廊下に出ていった。教師の手が震えていた。大人の手が震えるのを見ると、子供は黙る。


講堂の空気は、昨日と違った。


昨日は「正義の形」が先にあった。殿下の声が空気を作り、全員がその形に収まった。


今日は違う。先にあるのは恐怖だ。恐怖は正義より強い。正義は言葉で作れるが、恐怖は作れない。作れないものだけが、全員を本当に黙らせる。


壇上にアルベルト殿下が立っていた。


その足元に、布で覆われた小さな箱が置かれている。遺品だ。死体ではない。けれど、あの箱の中に「誰かの人生の残り」が入っていると思うだけで、講堂の温度が一段下がった。


殿下が口を開いた。


「今朝、王都で犠牲者が出た」


声が低い。いつもより低い。低い声は、怒りを隠す声だ。隠しきれない怒りが、声の底で震えている。


「バークリー伯爵家の従僕。二十歳。名はセドリック。——"赤"に似せた偽造品を服用し、今朝、息を引き取った」


名前が出た。


名前が出た瞬間、講堂の空気が変わった。「死んだ人」が「セドリック」になった。名前があるだけで、死は重くなる。


殿下はそれを知っている。知っていて、名前を出した。


「偽造品だ。粗悪な調合で、毒が混じっていた」


偽造。


その言葉で、空気に逃げ道ができた。「本物の赤」が悪いのではない。偽物が悪い。——そう思えれば、自分の欲望を少しだけ許せる。


殿下は逃げ道を許さなかった。


「だが、本物が存在する限り、偽物は消えない。——作り手を捕らえる」


講堂が息を止めた。


殿下の目が講堂を一周する。昨日と同じ動き。けれど今日の目は、昨日より深い。深い場所に、怒りだけではない何かがある。


壇上の端に、ルミナ・セレスタが立っていた。


白銀の制服。整った顔。けれど今日は、微笑みがない。微笑みがないルミナを見るのは、初めてかもしれない。


彼女は遺品の箱に一歩近づいた。


跪いた。


講堂がまた静かになった。静かさの質が変わる。畏敬の静けさ。「聖女が祈っている」という絵が、数百人の目に焼きつく。


ルミナの唇が動いた。声は聞こえない。祈りの言葉。光属性の魔力が、かすかに彼女の掌を照らした。柔らかい光。温かいはずの光。


けれど、ルミナの指先が僅かに震えていた。


震えているのに、顔は崩さない。崩さないことで「私は耐えている」を残す。耐えている聖女。悲しみに寄り添う聖女。


——上手い。


上手いと思った自分が、少しだけ嫌だった。


殿下が再び声を上げた。


「もう一度言う。赤を見た者は報告しろ。売った者も、買った者も——関わった者は全員だ」


空気がざわつく。ざわつきの中に、見えない線が引かれていく。


「赤に関わった」と疑われたくない。疑われたくないから、誰かを指差す。指差されやすいのは、いつも舞台の端にいる者だ。


殿下の目が、一瞬だけ私の方を向いた。


向いた——だけだ。昨日みたいに名前は呼ばれなかった。呼ばれなかったことが、逆に怖い。名前を呼ぶ価値すらないという扱いか。それとも——


私は考えるのをやめた。殿下の視線の意味を解読する暇はない。今、計算すべきはもっと別のことだ。


偽造が出た。死人が出た。


市場が「放置できない戦場」に変わった。


このまま放っておけば、次は「本物」までまとめて潰される。捜査は正義の名で動く。正義は、区別なく焼くのが得意だ。本物も偽物も、赤ければ同じ「悪」になる。


——守らなければ。


守るのは善意じゃない。自分の生存計画を、偽造に壊されるわけにはいかないだけだ。


---


講堂を出たところで、カイルが私の影に入ってきた。半歩後ろ。いつもの距離。


「やべぇ」


小声。息だけで話す。


「うん」


「死んだ。マジで死んだ」


カイルの声が震えていた。怖さの震え。裏を歩いてきた不良貴族でも、「自分の商品に似た何か」で人が死ぬ体験は初めてだ。


「あれ……俺たちのせいか?」


私は足を止めなかった。


「偽物を作ったのは私たちじゃない」


「でも、本物を出したから偽物が——」


「カイル」


名前を呼んだ。声を落とす。


「責任の順番を間違えないで。偽物を作った人間が一番目。飲んだ人間が二番目。——本物を作った私は、三番目以降よ」


冷たい言葉だ。冷たいと分かっている。


カイルが黙った。黙った時間が長い。


「……お嬢様は、あの従僕のこと、何とも思わないのか」


二十歳。田舎から。仕送り。


胸の奥で、さっきの軋みがもう一度鳴った。


「思うわ」


言ってから、自分で驚いた。計算の外の言葉だった。


「……思うけど、止まれない。止まったら、次に死ぬのは私よ」


カイルが私の横顔を見た。長い目。何かを確かめる目。


それから、小さく頷いた。


「……分かった。で、どうする」


相棒の言葉だ。「どうする」は、まだ一緒に走るという意味だ。


私は歩きながら、頭の中で線を引いた。


偽物が出回れば、市場が壊れる。市場が壊れれば、私の供給網も壊れる。供給網が壊れれば、資金が止まる。資金が止まれば、逃亡計画が崩壊する。


全部、繋がっている。一つ倒れたら、全部倒れる。


「市場を分ける」


「分ける?」


「本物と偽物を、買い手の頭の中で分ける。"本物は安全"じゃない。"本物は別格"にする」


安全という言葉は嘘になる。赤は安全じゃない。鎖だ。けれど「別格」なら成立する。別格は、危険さえ価値に変える。


「……どうやって」


「純度よ。本物には——癖がある。偽物には真似できない癖」


99.1。母の数字。限界で最適。


それを「印」にする。まだ見せない。まだ早い。けれど、次の取引で——ほんの少しだけ匂わせる。


「本物を知った買い手は、偽物に手を出さなくなる。偽物の市場は勝手に縮む」


カイルが唾を飲んだ。


「……で、偽物を作ってる奴らは?」


「直接は潰さない。潰すと戦争になる。戦争は目立つ。目立てば捜査が来る」


「じゃあ——」


「裏に話を通す」


カイルの足が一瞬だけ止まった。止まって、すぐに追いついた。


「闇ギルドか」


私は答えなかった。答えないことが肯定だ。


カイルの顔から、血の気が薄くなった。


「お嬢様……正気か」


「正気よ。正気じゃないと、ここまで来られない」


「闇ギルドは、商人じゃない。あいつらは——」


「暴力。知ってる」


カイルが言葉を探している。探しているのは「やめよう」の丁寧な言い方だ。けれど見つからない。見つからないのは、やめたら終わると分かっているからだ。


「……俺も行く」


「当然。あなたがいないと話が通らない」


「通るかも分からねぇけどな」


カイルが苦笑した。苦笑の中に、覚悟が混じっていた。覚悟は笑いの形をしている方が、長持ちする。


---


放課後。屋敷に戻る道で、一度だけ遠回りをした。


遠回りは嫌いだ。けれど今日は必要だ。必要な遠回りは、直線より短い。


路地の影にカイルが立っていた。制服の襟を立てて、目だけで周囲を見ている。


「来た」


彼が言った。


「何が」


「死んだ従僕の家の使い。追加を欲しがってる」


路地の奥に、地味な服の男が立っていた。地味すぎる服。地味すぎるのは、目立たないことが仕事の制服だ。


男が近づいてきた。足音が小さい。息が速い。急いでいる。急いでいる人間は、弱い。


「レインズ様」


低い声。昨夜の使いとは別人だ。けれど姿勢が同じ。命令に慣れた背筋。


「主が求めております。本物を。——偽物で人が死にました。これ以上は……」


声が震えていた。上流の使いが震えている。死が近くにあると、上流の礼儀は薄くなる。薄くなった下に、生身の恐怖がある。


「主は申しております。"本物があるなら出してくれ。なければ——作り手を紹介してくれ"と」


作り手。


その単語が路地の空気を刺した。


私は初めて男の方を見た。男の喉が動く。見られるのに慣れていない。見られる仕事じゃないのだ。


「伝えて」


静かに言った。


「本物は出す。ただし条件がある」


男の眉が動く。


「条件……」


「次の取引で提示する。——遅れたら、供給は止まる」


供給停止。この一言で、男の背筋が変わった。怒りではない。恐怖だ。供給が止まれば、主が壊れる。主が壊れれば、使いも終わる。


「……承知しました」


男は下がった。下がりながら、最後に一言だけ落とした。


「それと。別の方からも、同じお話が来ております」


需要が膨らんでいる。


死人が出たのに、減るのではなく増える。恐怖は需要を殺さない。恐怖は需要の質を変える。「何でもいい」から「本物が欲しい」へ。


市場が燃えている。火は、恐怖と欲望で燃える。


カイルが低く言った。


「……お嬢様。これ、マジで戦争になるぞ」


「だから、先に"上"と握る」


「上?」


「闇ギルド。上流の買い手。両方よ。上が本物を欲しがれば、偽物は勝手に沈む。沈まなければ——裏が沈める」


カイルの目が暗くなった。暗いのは影のせいじゃない。覚悟の色だ。


「……いつ?」


「向こうから来るわ」


---


来た。


屋敷に戻った夜。自室の扉の下に、紙が差し込まれていた。


封蝋はない。家紋もない。けれど紙が黒い。黒い紙は、それだけで名刺になる。裏の世界では、色が言語だ。


指先が紙の縁に触れた瞬間、匂いがした。香水じゃない。鉄錆でもない。乾いた土と、古い血の匂い。暴力の匂い。


紙は一枚。文字は少ない。少ない文字ほど、命令に近い。


> 今夜。劇場の地下。

> 来ないなら、次は"お前の赤"で死ぬ。


署名はない。署名がないのが署名だ。


紙の角に、小さな刻印が押されていた。見慣れない紋。けれど裏を少しでも知っている人間なら読める。


闇ギルド。


頭目の名が、カイルの声で頭の中に響いた。


——グラート。


私は紙を折った。指先で一度だけ押さえた。


震えていない。


——嘘だ。震えている。紙の端が、微かに揺れていた。


怖い。


闇ギルドは商人じゃない。交渉が通じる相手かどうかも分からない。暴力で始まり、暴力で終わる世界の住人だ。


けれど——行かなければ、偽造に巻き込まれて焼かれる。捜査に巻き込まれて捕まる。何もしなければ、座したまま壊れる。


私は紙を鞄の内ポケットにしまった。


窓の外に、夕焼けの名残が見えた。空が赤い。鉄錆みたいな赤ではない。もっと柔らかい赤。けれど今の私には、全ての赤が意味を持ってしまう。


春の月の二十五日。


残り時間が、赤に溶けていく。


——行くしかない。


誰にも聞こえない声で、もう一度。


「行くしかない」


紙の重みは、金貨よりずっと軽い。


けれど、肋骨の裏側に残る感触は、金貨よりずっと冷たかった。


---


メーター:資金中/疑念中/執着小/支配小→中(需要増)


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