表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/24

捜査班発足


朝の光は、昨夜の夜会の匂いを消さなかった。


香水の甘さ。金の重さ。あの赤い瓶が光を拾った瞬間の、通路の静けさ。全部、まだ肌の裏側に残っている。


私は学園へ向かう馬車の中で、手袋の縫い目を指でなぞっていた。残滓が残っていないか確かめる癖が、もう身体に染みている。


喉は渇いていない。指も震えていない。


だから、あの「渇き」は今は眠っている。眠っているだけだ。起きたら——考えない。今は考えない。


馬車が学園の門を抜けた。光が変わる。屋敷の光は重い。学園の光は、薄くて鋭い。


---


昼前に、講堂へ集められた。


理由は「啓発」。名目はいつも優しい。優しい名目の裏側に、誰かの首を締める紐が隠れている。


表では啓発。裏では捜査班。——同じ命令でも、顔が違うだけだ。


講堂は広い。天井が高い。声が反響する。反響するから、壇上の声は実際よりも大きく聞こえる。大きく聞こえる声は、正しく聞こえる。


壇上にアルベルト殿下が立っていた。


制服の金糸が、壇上の光を拾って冷たく光っている。この人は、光の中にいても温度を持たない。氷で作った彫刻みたいに、完璧で、正しくて、触れたら手が凍る。


殿下が口を開いた。


「赤い違法薬が、王都に出回っている」


講堂が静かになった。静かになる速度が、殿下の権力の大きさだった。


「以前から噂はあった。だが、昨夜——"本物"が確認された」


紙を持っていない。原稿がない。すべて記憶で話している。記憶で話す人間は、感情で話す人間より怖い。感情は揺れるが、記憶は揺れない。


「赤は国を腐らせる」


声は低い。怒鳴っていない。怒鳴る必要がない。


「治安の問題ではない。経済の問題でもない。——この国そのものの問題だ」


殿下の視線が、講堂を一周した。ゆっくりと、一人ずつ顔を確認するみたいに。全員が、その視線に触れた瞬間だけ呼吸を止めた。


「赤を見た者は報告しろ。見逃せば、共犯とみなす」


一拍。


「容赦はしない」


拍手は起きなかった。


拍手の代わりに、空気が固まった。正義の形に。殿下が作った形に。全員が同じ方向を向いて、同じ空気を吸って、同じ結論に辿り着く。赤は悪だ。作った者は敵だ。捕まえなければならない。


簡単で、強い論理。


強い論理は、世界を単純にしてくれる。単純になった世界は、誰かを踏み潰しやすい。


殿下が壇上を降りかけた時、その隣にルミナ・セレスタの姿があった。


白銀の制服。揺れない微笑み。壇上に立っているわけではない。けれど殿下の斜め後ろにいるだけで、「正義の隣にいる人」という絵が完成する。


ルミナは何も言わなかった。何も言わないのに、空気が彼女の方を向いた。光属性の魔力がかすかに肌を照らしていて、講堂の光の中でも彼女だけが少し明るい。


——向日葵と同じだ。太陽の側に立つだけで、正しく見える。


殿下が階段を降りながら、講堂の隅にいた私を見つけた。


見つけた、というより「踏んだ」に近い。視界の端に入った石を、わざわざ避けない感じ。


「エリシア」


名前を呼ばれた。講堂の反響が、その名前を余計に大きくした。


数百人の視線が、一斉にこちらを向いた。


私は一歩前に出た。礼儀として。


「殿下」


「赤の件に、関わるな」


短い命令。理由はない。いつも通り。


けれど今日は、講堂だった。


数百人の前だった。


「無能が首を突っ込めば、邪魔になるだけだ」


講堂の空気が凍った。


比喩ではない。本当に、一瞬だけ空気が止まった。咳払いも、椅子の軋みも、息遣いも、全部が止まった。


婚約者を、公開の場で侮辱する王太子。


見たことがない光景を見た人間は、まず動けなくなる。理解が追いつかないから。理解が追いついた順に、反応が分かれる。


最前列の貴族子息が、唇を噛んだ。憤りではない。「見てはいけないものを見た」という気まずさだ。


中列の令嬢が、隣の令嬢の袖を掴んだ。掴んだ指が白い。恐怖ではなく、興奮。「すごいものを見た」という興奮。噂の材料が、今、目の前で生まれている。


後列の生徒が目を逸らした。逸らした方向に、別の生徒がいて、その生徒も目を逸らしていた。目を逸らす連鎖が、講堂の後ろ半分を埋めた。


ルミナが、小さく息を吸った。


「殿下……」


柔らかい声。困った顔。眉がハの字になって、唇が少し開いて、「そんな言い方をしなくても」という空気がにじむ。


けれど、声には出さない。


声に出さないことで、「私は止めようとした」が残る。止めようとして止められなかった善人。それは、何もしなかった人間よりずっと美しいポジションだ。


——上手い。本当に上手い。


殿下はルミナを見た。あの冷たい目が、ルミナの前でだけほんの少しだけ緩む。


「君は違う。君がこの国を守る」


その一言で、講堂が呼吸を取り戻した。


空気が「正しい形」に戻る。殿下とルミナが正義。私は——正義の外側。外側の人間は、何をされても仕方がない。


私は何も言わなかった。


反論は、正義の舞台で一番弱い武器だ。正義の舞台では、言い返した方が悪役になる。黙った方も悪役になる。どちらにしても私は悪役だ。なら、黙っている方が体力を使わない。


「承知いたしました」


頭を下げた。完璧な角度で。完璧に無意味な動作で。


頭を上げた時、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——殿下の目と合った。


冷たい目。


けれど、その冷たさの奥に、昨夜の報告書を読んだ時と同じ色が走ったのが見えた。怒りでも侮蔑でもない、もっと深い場所にある何か。


私にはそれが何か分かった。


——執念だ。


殿下は「赤」を追っている。赤を作った人間を追っている。その執念が、目の中で燃えている。婚約者を公開で侮辱するほどに、この人は今「赤」しか見えていない。


私は元の位置に戻った。壁際。影の側。


背中に刺さる視線は数えない。数えるほど暇じゃない。


ただ、殿下が語った「作り手像」が、頭の中で形になっていくのを感じた。


男。天才。冷酷。合理的。感情で動かない。


——便利な像ね。


便利な像は、便利に誤解される。誤解は、ときどき盾になる。殿下が追っているのは「冷酷な男の天才」。公爵令嬢の無能は、その像から最も遠い場所にいる。


遠いことが、今は安全だ。


---


放課後。


旧実験棟へ向かう途中の、人気のない廊下。カイルが横に並んだ。並んだふりをして、半歩後ろ。誰かに見られた時に「偶然」にできる距離。


「動いたな」


小声。息だけで話す。


「何が」


「殿下だよ。捜査班」


カイルの声が、いつもより低い。低い声は、怖い時の声だ。


「昼の講堂、見てた。——"本物が出た"って、昨夜のやつだろ」


私は答えなかった。答えないことが答えだ。


「闇市に"匂い嗅ぎ"が入ってる」


匂い嗅ぎ。鉄錆の香りを追う捜査官。


胃の底が冷えた。冷えたのに、頭は冴える。恐怖と計算は同時に走る。恐怖が遅れた方が死ぬ。


「どこまで?」


「まだ浅い。形を見てるだけ。けど早い。昨夜の取引で火が付いた」


「昨夜だけじゃない。赤の噂は前からあったでしょう。本物が確認されて、殿下が動いた。——火種は前からあった。昨夜の私たちは、油を注いだだけ」


カイルが小さく舌打ちした。


「油って言い方やめろ。燃えるだろ」


「燃えてるわ。もう」


カイルの足が一瞬だけ止まった。止まって、すぐに追いついた。止まったことを隠すみたいに。


「……お嬢様」


「何」


「殿下の捜査、どれくらい本気だ?」


「講堂で婚約者を公開で侮辱するくらいには、本気よ」


カイルが黙った。黙った時間が長い。長い沈黙は、考えている時間ではなく、怖さを飲み込んでいる時間だ。


「犯人像、聞いた?」


「男。天才。冷酷。合理的」


「お嬢様のことじゃん」


「男じゃないわ」


「それ以外全部当たってるだろ」


私は答えなかった。答える代わりに、歩く速度を少しだけ上げた。


「闇市は当分使わない」


「は?」


「露出が多すぎる。捜査が入ったルートは全部切る。上流の直接取引だけに絞る」


カイルの目が大きくなった。


「上流の方が危ねぇだろ。殿下の膝元だぞ」


「危ない。でも、人が少ない。動線が短い。痕跡が減る」


痕跡は人が増えるほど増える。増えた痕跡は、いつか私に戻ってくる。


「捜査が来る速度が上がった。——だから、こっちも速度を上げる」


「上げてどうする」


「稼ぐ。追われる前に、できるだけ多く」


カイルが足を止めた。今度は隠さなかった。


「……お嬢様」


振り返ると、カイルの顔は年相応だった。十八歳の、怖がっている顔。裏を歩いてきた不良貴族が、初めて「本物の追跡者」を意識した顔。


「俺は、どうすればいい」


声が揺れていた。役割を求めている声だ。役割がなくなると、人は壊れる。居場所がなくなるから。


「あなたは運ぶ。見る。嗅ぐ。——そして守る」


「守る?」


「匂いを。痕跡を。ルートを。——私の代わりに、外を見て」


カイルが唇を噛んだ。噛んでから、小さく頷いた。


「……分かった」


「それと」


「ん」


「あなたは絶対に飲まない」


カイルが笑った。笑いの形をした息。乾いている。


「分かってるよ」


即答が早い。早い即答は、だいたい危ない。


けれど今は、それ以上は言わなかった。言えば言うほど、赤は育つ。


---


夕方。学園の裏門を出て、脇道を歩いていた時だった。


空気が変わった。


笑い声が消えた。香水の匂いが薄くなった。代わりに、金属の擦れる音。足音が揃う音。


——「正義」の音だ。


私は物陰に足を止めた。カイルが隣で息を殺す。


路地の先に、数人の男が立っていた。


騎士ではない。制服が違う。けれど姿勢が騎士だ。命令に慣れた背筋。腰に短剣。手に帳面。


捜査班。


もう動いている。殿下が講堂で宣言してから、半日も経っていない。半日で人が配置できるということは、準備はもっと前から始まっていた。昨夜の報告は、最後の一押しだっただけだ。


男の一人が路地の壁に手をかざした。指先に光が走る。探知系の魔術。微弱だが広範囲。残留する匂いや魔力の痕跡を拾う術式。


鉄錆の匂いを探している。


胸の奥が冷えた。


けれど足は動かない。動かないのは恐怖ではなく計算だ。ここで逃げたら「逃げた」という痕跡が残る。動かなければ「いなかった」になる。


カイルが、唇だけで言った。声は出していない。読唇だけ。


「やばい」


私も、唇だけで返した。


「まだ。まだ形を掴んでいるだけ」


捜査官の一人が、壁から手を離した。首を振った。何も引っかからなかったらしい。


別の捜査官が帳面に何かを書いた。場所と時刻と結果。全部記録される。記録は積み重なる。積み重なった記録は、いつか地図になる。地図の中心に、私がいる。


まだ——遠い。けれど近づいてくる。


捜査官たちが路地を離れた。足音が揃ったまま遠ざかっていく。


静けさが戻った。


カイルが息を吐いた。長い息。震えている。


「……もう、遊びじゃ済まねぇな」


「最初から遊びじゃないわ」


「分かってる。分かってるけど——」


カイルの手が、壁に触れていた。支えている。足が少しだけ震えている。不良貴族。退学寸前。闇市に顔が利く。けれど「国の捜査」に追われた経験はない。


「——怖い」


小さく言った。言ってから、自分で驚いた顔をした。漏れたのだ。


私は彼を見た。


十八歳。背が高くて、態度が大きくて、裏を歩く度胸がある。けれど今、壁に手をついて震えている。


「怖くていい」


私は言った。


カイルが顔を上げた。


「怖くない人間は、匂いを見落とす。足音を聞き逃す。怖がる人間の方が、長く生きる」


カイルが私を見た。長い目。何かを探している目。


「……お嬢様は、怖くないのか」


怖い。


怖いに決まっている。あの捜査官の指先に光が走った瞬間、心臓が一拍だけ跳ねた。跳ねたことを、顔に出さなかっただけだ。


「私が怖いかどうかは、売上に関係ない」


カイルが鼻で笑った。笑いの中に、少しだけ安堵が混じっていた。


「……ほんと、冷てぇな」


「現実的なの」


「同じだろ」


「違う。冷たい人は逃げる。現実的な人は、逃げ方を選ぶ」


カイルの震えが止まった。


止まったのは、勇気が戻ったからじゃない。「この人についていけば、逃げ方を間違えない」と思ったからだ。


それは信頼じゃない。依存の手前の、利害の計算だ。


——けれど、今はそれで十分だった。


「帰るわ。今夜は動かない」


「……明日は?」


「明日は動く。追加注文が来ているでしょう」


カイルが目を細めた。


「来てる。使いが"主が急いでる"って。——捜査の噂を聞いて、焦ってる」


「焦る側が金を積む」


「……お嬢様、ほんとに商人だな」


「生きたいだけよ」


私は歩き出した。カイルが半歩遅れてついてくる。


裏門を出ると、夕焼けが街の屋根を染めていた。赤い。空が赤い。鉄錆みたいな赤ではない。もっと柔らかい赤。けれど今の私には、全ての赤が意味を持ってしまう。


——春の月の二十五日。


残り時間が、夕焼けに溶けていく。


---


その夜。王城。


蝋燭が一本だけ灯された机の前で、アルベルト・ヴァルディス殿下は報告書を読んでいた。


二枚目。三枚目。捜査班からの初動報告。場所。時刻。反応の有無。まだ何も掴めていない。けれど、記録は始まった。


側近のルーカスが、扉の前に立っていた。


「殿下。初日の報告は以上です。——まだ、痕跡は拾えていません」


殿下は紙面から目を上げなかった。


「拾えていないことが情報だ」


ルーカスが僅かに首を傾げる。


「作り手は痕跡を消す技術がある。——つまり、素人ではない」


殿下がペンを取った。報告書の余白に、暗号めいた記号を一語だけ書いた。蝋燭の揺れで、ルーカスには読めない角度だった。


「殿下」


「何だ」


「犯人像について、もう少しお聞かせください。男、天才、冷酷——それだけですか」


殿下のペンが止まった。


「……それだけだ。今は」


ルーカスは殿下の横顔を見た。蝋燭の火が揺れて、影が頬を横切った。


冷たい横顔のはずだった。いつも通りの、氷の横顔。


けれど——ルーカスは長年この方に仕えてきた。仕えてきたからこそ、分かることがある。


殿下の目に、怒り以外の色が混じっていた。


怒りなら分かる。正義なら分かる。義務なら分かる。


けれど、今夜の殿下の目には、それ以外の何かがあった。


「……殿下」


「何だ」


「作り手は“生きたまま”確保しますか。……それとも処分を」


殿下が振り向いた。冷たい目。けれど冷たさの温度が、ほんの少しだけ違った。


「生きたままだ。——情報が要る」


声は氷だった。


氷だったが——ルーカスは思った。


氷の下に、何か別のものが流れている。


それが何かは、まだ分からなかった。


---


メーター:資金中/疑念小→中/執着0→小/支配小


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ