捜査班発足
朝の光は、昨夜の夜会の匂いを消さなかった。
香水の甘さ。金の重さ。あの赤い瓶が光を拾った瞬間の、通路の静けさ。全部、まだ肌の裏側に残っている。
私は学園へ向かう馬車の中で、手袋の縫い目を指でなぞっていた。残滓が残っていないか確かめる癖が、もう身体に染みている。
喉は渇いていない。指も震えていない。
だから、あの「渇き」は今は眠っている。眠っているだけだ。起きたら——考えない。今は考えない。
馬車が学園の門を抜けた。光が変わる。屋敷の光は重い。学園の光は、薄くて鋭い。
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昼前に、講堂へ集められた。
理由は「啓発」。名目はいつも優しい。優しい名目の裏側に、誰かの首を締める紐が隠れている。
表では啓発。裏では捜査班。——同じ命令でも、顔が違うだけだ。
講堂は広い。天井が高い。声が反響する。反響するから、壇上の声は実際よりも大きく聞こえる。大きく聞こえる声は、正しく聞こえる。
壇上にアルベルト殿下が立っていた。
制服の金糸が、壇上の光を拾って冷たく光っている。この人は、光の中にいても温度を持たない。氷で作った彫刻みたいに、完璧で、正しくて、触れたら手が凍る。
殿下が口を開いた。
「赤い違法薬が、王都に出回っている」
講堂が静かになった。静かになる速度が、殿下の権力の大きさだった。
「以前から噂はあった。だが、昨夜——"本物"が確認された」
紙を持っていない。原稿がない。すべて記憶で話している。記憶で話す人間は、感情で話す人間より怖い。感情は揺れるが、記憶は揺れない。
「赤は国を腐らせる」
声は低い。怒鳴っていない。怒鳴る必要がない。
「治安の問題ではない。経済の問題でもない。——この国そのものの問題だ」
殿下の視線が、講堂を一周した。ゆっくりと、一人ずつ顔を確認するみたいに。全員が、その視線に触れた瞬間だけ呼吸を止めた。
「赤を見た者は報告しろ。見逃せば、共犯とみなす」
一拍。
「容赦はしない」
拍手は起きなかった。
拍手の代わりに、空気が固まった。正義の形に。殿下が作った形に。全員が同じ方向を向いて、同じ空気を吸って、同じ結論に辿り着く。赤は悪だ。作った者は敵だ。捕まえなければならない。
簡単で、強い論理。
強い論理は、世界を単純にしてくれる。単純になった世界は、誰かを踏み潰しやすい。
殿下が壇上を降りかけた時、その隣にルミナ・セレスタの姿があった。
白銀の制服。揺れない微笑み。壇上に立っているわけではない。けれど殿下の斜め後ろにいるだけで、「正義の隣にいる人」という絵が完成する。
ルミナは何も言わなかった。何も言わないのに、空気が彼女の方を向いた。光属性の魔力がかすかに肌を照らしていて、講堂の光の中でも彼女だけが少し明るい。
——向日葵と同じだ。太陽の側に立つだけで、正しく見える。
殿下が階段を降りながら、講堂の隅にいた私を見つけた。
見つけた、というより「踏んだ」に近い。視界の端に入った石を、わざわざ避けない感じ。
「エリシア」
名前を呼ばれた。講堂の反響が、その名前を余計に大きくした。
数百人の視線が、一斉にこちらを向いた。
私は一歩前に出た。礼儀として。
「殿下」
「赤の件に、関わるな」
短い命令。理由はない。いつも通り。
けれど今日は、講堂だった。
数百人の前だった。
「無能が首を突っ込めば、邪魔になるだけだ」
講堂の空気が凍った。
比喩ではない。本当に、一瞬だけ空気が止まった。咳払いも、椅子の軋みも、息遣いも、全部が止まった。
婚約者を、公開の場で侮辱する王太子。
見たことがない光景を見た人間は、まず動けなくなる。理解が追いつかないから。理解が追いついた順に、反応が分かれる。
最前列の貴族子息が、唇を噛んだ。憤りではない。「見てはいけないものを見た」という気まずさだ。
中列の令嬢が、隣の令嬢の袖を掴んだ。掴んだ指が白い。恐怖ではなく、興奮。「すごいものを見た」という興奮。噂の材料が、今、目の前で生まれている。
後列の生徒が目を逸らした。逸らした方向に、別の生徒がいて、その生徒も目を逸らしていた。目を逸らす連鎖が、講堂の後ろ半分を埋めた。
ルミナが、小さく息を吸った。
「殿下……」
柔らかい声。困った顔。眉がハの字になって、唇が少し開いて、「そんな言い方をしなくても」という空気がにじむ。
けれど、声には出さない。
声に出さないことで、「私は止めようとした」が残る。止めようとして止められなかった善人。それは、何もしなかった人間よりずっと美しいポジションだ。
——上手い。本当に上手い。
殿下はルミナを見た。あの冷たい目が、ルミナの前でだけほんの少しだけ緩む。
「君は違う。君がこの国を守る」
その一言で、講堂が呼吸を取り戻した。
空気が「正しい形」に戻る。殿下とルミナが正義。私は——正義の外側。外側の人間は、何をされても仕方がない。
私は何も言わなかった。
反論は、正義の舞台で一番弱い武器だ。正義の舞台では、言い返した方が悪役になる。黙った方も悪役になる。どちらにしても私は悪役だ。なら、黙っている方が体力を使わない。
「承知いたしました」
頭を下げた。完璧な角度で。完璧に無意味な動作で。
頭を上げた時、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——殿下の目と合った。
冷たい目。
けれど、その冷たさの奥に、昨夜の報告書を読んだ時と同じ色が走ったのが見えた。怒りでも侮蔑でもない、もっと深い場所にある何か。
私にはそれが何か分かった。
——執念だ。
殿下は「赤」を追っている。赤を作った人間を追っている。その執念が、目の中で燃えている。婚約者を公開で侮辱するほどに、この人は今「赤」しか見えていない。
私は元の位置に戻った。壁際。影の側。
背中に刺さる視線は数えない。数えるほど暇じゃない。
ただ、殿下が語った「作り手像」が、頭の中で形になっていくのを感じた。
男。天才。冷酷。合理的。感情で動かない。
——便利な像ね。
便利な像は、便利に誤解される。誤解は、ときどき盾になる。殿下が追っているのは「冷酷な男の天才」。公爵令嬢の無能は、その像から最も遠い場所にいる。
遠いことが、今は安全だ。
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放課後。
旧実験棟へ向かう途中の、人気のない廊下。カイルが横に並んだ。並んだふりをして、半歩後ろ。誰かに見られた時に「偶然」にできる距離。
「動いたな」
小声。息だけで話す。
「何が」
「殿下だよ。捜査班」
カイルの声が、いつもより低い。低い声は、怖い時の声だ。
「昼の講堂、見てた。——"本物が出た"って、昨夜のやつだろ」
私は答えなかった。答えないことが答えだ。
「闇市に"匂い嗅ぎ"が入ってる」
匂い嗅ぎ。鉄錆の香りを追う捜査官。
胃の底が冷えた。冷えたのに、頭は冴える。恐怖と計算は同時に走る。恐怖が遅れた方が死ぬ。
「どこまで?」
「まだ浅い。形を見てるだけ。けど早い。昨夜の取引で火が付いた」
「昨夜だけじゃない。赤の噂は前からあったでしょう。本物が確認されて、殿下が動いた。——火種は前からあった。昨夜の私たちは、油を注いだだけ」
カイルが小さく舌打ちした。
「油って言い方やめろ。燃えるだろ」
「燃えてるわ。もう」
カイルの足が一瞬だけ止まった。止まって、すぐに追いついた。止まったことを隠すみたいに。
「……お嬢様」
「何」
「殿下の捜査、どれくらい本気だ?」
「講堂で婚約者を公開で侮辱するくらいには、本気よ」
カイルが黙った。黙った時間が長い。長い沈黙は、考えている時間ではなく、怖さを飲み込んでいる時間だ。
「犯人像、聞いた?」
「男。天才。冷酷。合理的」
「お嬢様のことじゃん」
「男じゃないわ」
「それ以外全部当たってるだろ」
私は答えなかった。答える代わりに、歩く速度を少しだけ上げた。
「闇市は当分使わない」
「は?」
「露出が多すぎる。捜査が入ったルートは全部切る。上流の直接取引だけに絞る」
カイルの目が大きくなった。
「上流の方が危ねぇだろ。殿下の膝元だぞ」
「危ない。でも、人が少ない。動線が短い。痕跡が減る」
痕跡は人が増えるほど増える。増えた痕跡は、いつか私に戻ってくる。
「捜査が来る速度が上がった。——だから、こっちも速度を上げる」
「上げてどうする」
「稼ぐ。追われる前に、できるだけ多く」
カイルが足を止めた。今度は隠さなかった。
「……お嬢様」
振り返ると、カイルの顔は年相応だった。十八歳の、怖がっている顔。裏を歩いてきた不良貴族が、初めて「本物の追跡者」を意識した顔。
「俺は、どうすればいい」
声が揺れていた。役割を求めている声だ。役割がなくなると、人は壊れる。居場所がなくなるから。
「あなたは運ぶ。見る。嗅ぐ。——そして守る」
「守る?」
「匂いを。痕跡を。ルートを。——私の代わりに、外を見て」
カイルが唇を噛んだ。噛んでから、小さく頷いた。
「……分かった」
「それと」
「ん」
「あなたは絶対に飲まない」
カイルが笑った。笑いの形をした息。乾いている。
「分かってるよ」
即答が早い。早い即答は、だいたい危ない。
けれど今は、それ以上は言わなかった。言えば言うほど、赤は育つ。
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夕方。学園の裏門を出て、脇道を歩いていた時だった。
空気が変わった。
笑い声が消えた。香水の匂いが薄くなった。代わりに、金属の擦れる音。足音が揃う音。
——「正義」の音だ。
私は物陰に足を止めた。カイルが隣で息を殺す。
路地の先に、数人の男が立っていた。
騎士ではない。制服が違う。けれど姿勢が騎士だ。命令に慣れた背筋。腰に短剣。手に帳面。
捜査班。
もう動いている。殿下が講堂で宣言してから、半日も経っていない。半日で人が配置できるということは、準備はもっと前から始まっていた。昨夜の報告は、最後の一押しだっただけだ。
男の一人が路地の壁に手をかざした。指先に光が走る。探知系の魔術。微弱だが広範囲。残留する匂いや魔力の痕跡を拾う術式。
鉄錆の匂いを探している。
胸の奥が冷えた。
けれど足は動かない。動かないのは恐怖ではなく計算だ。ここで逃げたら「逃げた」という痕跡が残る。動かなければ「いなかった」になる。
カイルが、唇だけで言った。声は出していない。読唇だけ。
「やばい」
私も、唇だけで返した。
「まだ。まだ形を掴んでいるだけ」
捜査官の一人が、壁から手を離した。首を振った。何も引っかからなかったらしい。
別の捜査官が帳面に何かを書いた。場所と時刻と結果。全部記録される。記録は積み重なる。積み重なった記録は、いつか地図になる。地図の中心に、私がいる。
まだ——遠い。けれど近づいてくる。
捜査官たちが路地を離れた。足音が揃ったまま遠ざかっていく。
静けさが戻った。
カイルが息を吐いた。長い息。震えている。
「……もう、遊びじゃ済まねぇな」
「最初から遊びじゃないわ」
「分かってる。分かってるけど——」
カイルの手が、壁に触れていた。支えている。足が少しだけ震えている。不良貴族。退学寸前。闇市に顔が利く。けれど「国の捜査」に追われた経験はない。
「——怖い」
小さく言った。言ってから、自分で驚いた顔をした。漏れたのだ。
私は彼を見た。
十八歳。背が高くて、態度が大きくて、裏を歩く度胸がある。けれど今、壁に手をついて震えている。
「怖くていい」
私は言った。
カイルが顔を上げた。
「怖くない人間は、匂いを見落とす。足音を聞き逃す。怖がる人間の方が、長く生きる」
カイルが私を見た。長い目。何かを探している目。
「……お嬢様は、怖くないのか」
怖い。
怖いに決まっている。あの捜査官の指先に光が走った瞬間、心臓が一拍だけ跳ねた。跳ねたことを、顔に出さなかっただけだ。
「私が怖いかどうかは、売上に関係ない」
カイルが鼻で笑った。笑いの中に、少しだけ安堵が混じっていた。
「……ほんと、冷てぇな」
「現実的なの」
「同じだろ」
「違う。冷たい人は逃げる。現実的な人は、逃げ方を選ぶ」
カイルの震えが止まった。
止まったのは、勇気が戻ったからじゃない。「この人についていけば、逃げ方を間違えない」と思ったからだ。
それは信頼じゃない。依存の手前の、利害の計算だ。
——けれど、今はそれで十分だった。
「帰るわ。今夜は動かない」
「……明日は?」
「明日は動く。追加注文が来ているでしょう」
カイルが目を細めた。
「来てる。使いが"主が急いでる"って。——捜査の噂を聞いて、焦ってる」
「焦る側が金を積む」
「……お嬢様、ほんとに商人だな」
「生きたいだけよ」
私は歩き出した。カイルが半歩遅れてついてくる。
裏門を出ると、夕焼けが街の屋根を染めていた。赤い。空が赤い。鉄錆みたいな赤ではない。もっと柔らかい赤。けれど今の私には、全ての赤が意味を持ってしまう。
——春の月の二十五日。
残り時間が、夕焼けに溶けていく。
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その夜。王城。
蝋燭が一本だけ灯された机の前で、アルベルト・ヴァルディス殿下は報告書を読んでいた。
二枚目。三枚目。捜査班からの初動報告。場所。時刻。反応の有無。まだ何も掴めていない。けれど、記録は始まった。
側近のルーカスが、扉の前に立っていた。
「殿下。初日の報告は以上です。——まだ、痕跡は拾えていません」
殿下は紙面から目を上げなかった。
「拾えていないことが情報だ」
ルーカスが僅かに首を傾げる。
「作り手は痕跡を消す技術がある。——つまり、素人ではない」
殿下がペンを取った。報告書の余白に、暗号めいた記号を一語だけ書いた。蝋燭の揺れで、ルーカスには読めない角度だった。
「殿下」
「何だ」
「犯人像について、もう少しお聞かせください。男、天才、冷酷——それだけですか」
殿下のペンが止まった。
「……それだけだ。今は」
ルーカスは殿下の横顔を見た。蝋燭の火が揺れて、影が頬を横切った。
冷たい横顔のはずだった。いつも通りの、氷の横顔。
けれど——ルーカスは長年この方に仕えてきた。仕えてきたからこそ、分かることがある。
殿下の目に、怒り以外の色が混じっていた。
怒りなら分かる。正義なら分かる。義務なら分かる。
けれど、今夜の殿下の目には、それ以外の何かがあった。
「……殿下」
「何だ」
「作り手は“生きたまま”確保しますか。……それとも処分を」
殿下が振り向いた。冷たい目。けれど冷たさの温度が、ほんの少しだけ違った。
「生きたままだ。——情報が要る」
声は氷だった。
氷だったが——ルーカスは思った。
氷の下に、何か別のものが流れている。
それが何かは、まだ分からなかった。
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メーター:資金中/疑念小→中/執着0→小/支配小




