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救国交渉:王太子、敗者の椅子に座る


夜の借家は、来客のために整えた顔をしていなかった。


掃き清めてはある。

机も拭いてある。

火も落ち着いている。

だが、歓迎の匂いはない。


薄い染料。

乾いた紙。

閉めた窓の向こうの市場の残り音。

それだけだ。


迎える家の空気ではなく、順番を決める部屋の空気だった。


机の前に椅子が二つある。


一つは机に近い。

もう一つは、ほんの少しだけ遠い。


高さも、ほんの少し違う。

言われなければ気づかない程度。

でも、座った瞬間に身体は分かる。


私は椅子の位置を最後にもう一度確かめた。


近い方。

遠い方。

帳簿の向き。

ペンの置き場所。


全部、昨夜のうちに決めてある。

決めてあるのに、もう一度確かめてしまう。

それが今夜の正直な緊張だった。


カイルは壁際に立っていた。

立っているが、視線だけは扉にある。

こういう時のあの男は、何も言わない方が正確だ。


外で靴音が止まる。


三人。

二人は残る音。

一人だけが、こちらへ来る音。


扉が叩かれた。


カイルが開ける。


王家の紋章はない。

外套も地味だ。

護衛も最小限。


でも、立っているのはアルベルトだった。


顔色は悪くない。

悪くないが、良い顔でもない。

眠れていない人間の静けさだった。


「入って」


私が言うと、彼はすぐには答えなかった。

部屋を一度だけ見たのだ。


机。

帳簿。

閉じた窓。

そして椅子。


少しだけ遠い方の椅子を見て、ほんの一拍だけ止まる。


止まったが、文句は言わない。

それで十分だった。


アルベルトは中へ入る。

カイルが扉を閉める。

外の音が薄くなる。


「護衛は」


私が訊く。


「外だ」


「一人?」


「ええ」


頷く。


「ここから先は、聞かせない」


正しい。

少なくとも、ここへ来る前よりは。


「座って」


私は言った。


彼は近い方を見ない。

最初から遠い方へ向かった。


その座り方だけで、もう半分は終わっていた。


勝者は、自分で椅子を選ばない。

敗者は、選ばされた椅子へ自分で座る。


---


しばらく、誰も話さなかった。


火が小さく鳴る。

紙が少しだけ乾く。

市場の残り音は、もうほとんど聞こえない。


アルベルトの前に封書が置かれる。


白紙を入れた封だ。

王家の紋なし。

でも、中身の重さだけはよく分かる。


「持ってきたのね」


私が言うと、彼は封へ目を落とした。


「持ってきた」


短い答えだった。


「再入の保証。仮交易許可。責任の切り分け。先に出せるものは全部、書けるようにしてある」


私は封には触れなかった。


「ずいぶん急いだのね」


「急がないと、もう間に合わない」


その声に、ようやく少しだけ本音が混じる。


王太子の声ではない。

遅れた人間の声だ。


私は机の上の閉じた帳簿を見た。


「何をしに来たの」


アルベルトは答えなかった。

答えないまま、呼吸だけが一度浅くなる。


「謝罪?」


私は言う。


「命令?」


「違う」


「懇願?」


そこで、彼はようやく顔を上げた。


「……交渉だ」


私は少しだけ口元を動かした。


「まだ高いわね」


その一言で、部屋の空気が少しだけ変わる。


アルベルトは黙る。

黙ったまま、椅子の上で背を正した。


「国が止まり始めている」


やがて言う。


「上流だけではない。聖堂も。護衛も。物流も」


「知ってるわ」


「なら」


「頼み方が違う」


私は遮った。


火が小さく鳴る。


アルベルトは動かなかった。

だが、その沈黙の中で、彼が今どこまで自分を落とせるかだけがはっきり見えた。


「戻ってこい、と言うつもりなら無駄よ」


私は言った。


「戻らないもの」


「分かっている」


「分かっていない」


彼を見た。


「あなたはまだ、『止めてほしい』の言い方をしてる。違うでしょう」


アルベルトの喉が一度動く。


「今あなたが買いに来たのは、私じゃない」


机の上の白紙封書へ視線を落とす。


「時間よ」


部屋が静まる。


カイルは何も言わない。

何も言わないが、壁際で少しだけ肩の力が抜けた。

そこまで届いたか、という顔だった。


アルベルトは封書へ手を置いた。


「……そうだ」


ようやく言う。


「時間を売ってほしい」


それでよかった。


私はそこで初めて、封へ手を伸ばした。

指先で重さを確かめる。

まだ開けない。


「誰のための時間?」


「国のためだ」


「誰から先に?」


その問いに、彼はすぐには答えなかった。


ここで詰まるなら意味がない。

上流か。

聖堂か。

護衛か。

市場か。


誰を先に救い、誰を後回しにするか。

それを決めずに「救国」だけを口にするなら、まだ勝者のままだ。


「……護衛と物流を先に戻す」


アルベルトが言う。


「次に聖堂だ」


「上流は」


そこで、彼はほんの一拍だけ黙った。

短い沈黙だった。

だが、さっきまでよりずっと重かった。


「後だ」


ようやく出た声は低い。

低いが、そこだけはもう逃げなかった。


私は彼を見た。


ようやく、ここまで来たのね、と思った。


「その順番を、紙に書ける?」


「書く」


「あなたの名で?」


アルベルトはそこで初めて、少しだけ目を伏せた。


王太子の名で書く。

それはつまり、上流の一部を後ろへ回す決定を自分で負うということだ。


「書く」


二度目は低かった。

でも、一度目より正しかった。


---


私は白紙封書を開いた。


本当に、まだ何も書かれていない。

いい白紙だった。

誤魔化しの余白ではなく、敗北のための余白だ。


ペンを一本、彼の前へ置く。


「まず、あなたが書きなさい」


アルベルトはペンを見た。

見て、すぐには取らない。


「何を」


「欲しいものを」


私は言った。


「こっちが先に条件を言うと、あなたはそれを『譲歩』だと思うでしょう。違うの」


火が小さく揺れる。


「先に書くのは、あなたの不足よ」


その一言で、ようやく彼はペンを取った。


紙の上へ、ゆっくりと書く。


護衛線の再稼働。

物流の移行。

聖堂への優先供給。

上流の制限配分。


その下に、まだ数行続いた。

書き終わるまで、私は何も言わなかった。


途中、二度だけ彼の手が止まる。

一度は「上流の制限配分」のところ。

もう一度は、最後の一行を書く直前。


そこが痛いのだろう。

痛い場所が分かるだけ、まだまともだった。


紙がこちらへ回される。


私は読む。

読むが、顔には出さない。


悪くない。

でも、まだ足りない。


「これだと、私がただ国を助ける人になる」


そう言うと、アルベルトはすぐに言い返さなかった。


言い返さない。

そこも前よりは進んでいる。


「じゃあ、何が要る」


「商会を認めなさい」


「国外でか」


「国外でも、国境でも」


私は言った。


「名義。保管。輸送。切替権。こっちで引いた流れを、王都側が勝手に握れないようにする」


アルベルトは頷かない。

だが否定もしない。


「関係者を追わない。カイルだけじゃない。ここまでの線に触れた中継ぎも、条件を守る限りは外す」


カイルが壁際で目を細めた。

細めたが、何も言わない。


「それと」


白紙の端へ指を置く。


「あなた、聖女は連れてこなかったわね」


アルベルトの目が、ほんの少しだけ動いた。


ルミナの話が出ると思わなかったのだろう。

だが、これは感情の話ではない。


「正解よ」


私は言う。


「今後も、交渉に象徴を使わないで。使うなら、その時点で終わり」


アルベルトは一拍だけ黙った。


黙った中に、何かが見えた。

ルミナを置いてきたことが正しかったのだと、今ようやく確信した顔だった。


「分かった」


短い返事だった。


「最後に一つ」


そこで初めて、少しだけ間を置く。


「謝罪は受け取る。でも、譲歩は急がない」


その一行を、自分で紙へ書いた。


見せつけるためではない。

順番を決めるためだ。


「……それだけか」


アルベルトが訊く。


「今夜はね」


私は答えた。


「今夜あなたが買えるのは、全部じゃない。崩壊の速度を落とす時間だけ」


そこは、はっきり言っておく必要があった。


戻す。

救う。

元に戻る。

そういう言葉は、この部屋には要らない。


必要なのは、何日持つか。

どこから戻すか。

誰を後ろへ回すか。


それだけだ。


---


長い沈黙のあと、アルベルトが立ち上がった。


私は一瞬だけ身構えた。

だが、彼は怒らなかった。

怒るには、もうここまで来すぎていたのだろう。


椅子の横へ出る。

机の前まで来る。

そして、その場で膝をついた。


床に、膝が落ちる音がする。


大きくはない。

でも、この部屋では火の音より重かった。


カイルが壁際で息を止める。

それくらいはする。

王太子が、自分でそこまで下がる場面は、そう何度も見られるものじゃない。


アルベルトは頭を下げた。


「売ってくれ」


低い声だった。


「この国が持つ時間を」


私は何も言わなかった。


言わないまま、その姿を見ていた。


謝罪の形ではある。

だが、これはもっと実務に近い。

頭を下げる高さで、ようやく交渉の土台が揃っただけだ。


「……三日」


やがて私は言った。


アルベルトが顔を上げる。


「第一便で三日持たせる」


「三日」


「ええ。護衛と物流から。聖堂はその後。上流は最後」


彼は頷いた。


「それで行く」


最初から、正しい言い方だった。


---


私は白紙の端へ、最後の条件を書いた。


第一便、明朝。

護衛・物流優先。

上流制限。

違反時、即停止。


紙を折る。

封へ戻す。

彼の前へ置く。


「持って帰って」


アルベルトはすぐには受け取らなかった。

まだ膝をついたまま、封を見ている。


白紙だったものが、もう白紙ではなくなった。

それだけで、国の形は少し変わる。


「立って」


私は言った。


「敗者のままだと、手続きが進まない」


その言葉に、彼はほんの少しだけ口元を動かした。

笑いではない。

自分が今どこにいるか、ようやく正しく測れた人間の、短い歪みだった。


ゆっくり立ち上がる。

封書を取る。

その手つきは、来た時より少しだけ重かった。


重い方がいい。

軽く持てるものは、だいたい軽く破るから。


---


扉が閉まったあと、部屋は急に静かになった。


カイルがようやく壁から離れる。


「あいつ、上流を後ろに回したな」


私は答えなかった。


「本気だな」


カイルが低く言う。


「ええ」


私は机の上の遠い椅子を見た。

まだ、少しだけ後ろに引いたままだ。


「三日で足りるか」


カイルが訊く。


「足りないわ」


私は言った。


「でも、三日あれば、次の値段は変えられる」


カイルが小さく息を吐く。


私は閉じた帳簿へ手を置いた。


明朝、最初の荷が動く。

それが着いた時、向こうの名簿は何枚減るだろうか。


減らないかもしれない。

減らなくても、速度は落ちる。

速度が落ちれば、次の交渉の席で私が出す条件はもう少しだけ重くなる。


外では、鐘の鳴らない夜がまだ続いていた。


でも今夜は、もう前と同じ夜ではない。


王太子は頭を下げた。

第一便は明朝に出る。


そして三日後、あの男はまたこの椅子に座ることになる。

その時、椅子の距離をもう少し近づけるか、それともこのままにするか。


それは、向こうの三日間の使い方次第だった。


---


メーター:資金 初商い前倒し→第一便確定/疑念 面会前夜→交渉成立/執着 会いに来る→頭を下げる/支配 交渉準備→条件提示


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