初取引
試供品という言葉は、甘い。
"少しだけ""試すだけ""本番じゃない"。そうやって、禁忌に触れる言い訳を用意してくれる。無料で渡して、味を覚えさせて、次から金を取る。それが試供品の文法だ。
私は最初の一本から値をつける。
無料は弱い。金を払った瞬間に、買い手は「共犯」になる。共犯は口が固い。無料で貰った人間は、気軽に喋る。
机の上に並べたのは、小瓶を二本だけ。一本は取引用。もう一本は予備。予備は見せない。見せた瞬間に「まだある」と思われる。「これだけ」が値段を作る。
昨日、私は一滴だけ試した。
世界が鮮明になった。疲労が消えた。魔力が肌の内側で満潮みたいに満ちた。——そして直後、喉が渇いた。水ではない何かを求める、名前のない渇き。指先が微かに震えた。
あの一滴で、私は知った。
これは薬じゃない。鎖だ。飲んだ者を繋ぐ、見えない鎖。
だから量を出さない。鎖は、短いほど強い。
紙に条件を書いた。線で区切って、一行ずつ。
——量は一回分。増やさない。
——値段は先払い。帳簿に残るものは不可。
——返品は存在しない。
——名前も、存在しない。
最後に一行だけ足す。
漏れたら供給を止める。
止める権利。それだけが、私の首輪だ。暴力は持てない。魔法も出ない。けれど「渡さない」という選択は、誰にも奪えない。
小瓶を布で包んだ。さらにその布を別の布で包む。封蝋は使わない。封蝋は家紋を連れてくる。私はまだ何も名乗らない。名乗らないものが、一番怖い。
手袋をはめた。
ガラス越しに見える赤が、妙に綺麗だった。昨日の一滴を思い出す。喉の渇き。指先の震え。あれを、今夜誰かに売る。
——綺麗なものほど、人を壊す。
私は、それを知っていて売る側に立つ。
覚悟という言葉は使わない。覚悟は格好いいものに付ける名前で、これは格好よくない。ただの選択だ。壊すか、壊されるか。
「……お嬢様」
カイルが小声で呼んだ。工房の入口、影の中。今日は制服じゃない。使用人の外套を借りた姿。襟を立てて、顔の半分が影に隠れている。似合っているのが腹立たしい。隠れるのが上手い人間は、上手く似合う。
「今夜、どこで?」
「夜会の裏」
カイルが封筒を見せた。封蝋に見慣れない家紋。高い蝋。高い紙。上流の匂いが封筒からにじんでいる。
「買い手の使いが来る。場所は厨房脇の控え通路。鐘が二つ鳴った後」
「早いな」
「急いでるのは向こうよ。こっちは急がない」
急ぐ側が弱い。弱い方から条件を飲む。
カイルは封筒を内ポケットに戻しながら、私の手元の小瓶に目を落とした。布越しに赤が透けている。彼の喉が、小さく動いた。
「……お嬢様」
「何?」
「昨日、飲んだんだろ。試したんだろ」
私は答えなかった。
「顔色が違う。今朝から。……目の奥が、ちょっとだけ光ってる」
見えるのか。この男には。
「大丈夫なのか」
「大丈夫よ」
「嘘だろ」
「嘘じゃない。一滴で済ませた。二回目は飲まない」
カイルの目が細くなった。信じていない目。けれど追及しない目。追及したら答えが返ってこないと知っている目。
「……約束しろ」
「何を」
「二回目は飲むな。飲んだら、俺が困る」
「あなたが困るから?」
「それ以外に理由が要るか」
私は一瞬だけ、言葉を失った。
善意じゃない。心配でもない。「俺が困る」。利害の言葉だ。けれどその利害の奥に、もう少しだけ別のものが見えた気がした。
気がしただけだ。
「飲まないわ。商品に手をつける売り手は、三流よ」
「……言い方がすげぇな」
カイルが苦笑した。苦笑の中に、少しだけ安堵が混じっていた。
---
夜会は、光でできていた。
シャンデリアが天井から氷柱のように垂れ、金縁の皿が長い食卓を埋め、宝石が首や指や耳たぶで光っている。笑い声は絶えず、それが何層にも重なって、会場全体を甘い泡で包んでいた。
香水の匂いが、肺の奥まで入ってくる。
人間の欲望は、甘い匂いが好きだ。甘い匂いの中では、自分が上等な人間だと錯覚できる。
会場に入った瞬間、視線が来た。
「……あら、公爵令嬢」
「殿下の婚約者なのに、今日も一人?」
「ルミナ様の隣には立てないものね」
声は小さい。けれど届くように設計されている。この学園の令嬢たちは、「聞こえない声」で「聞かせる」技術に長けていた。
一人の少女が、仲間の肘を突いた。目が笑っている。口は笑っていない。
「可哀想ね。……ほんとに、可哀想」
「可哀想」の中に刃がある。可哀想は同情ではない。見下しの丁寧語だ。
私は礼儀として背筋を伸ばし、礼儀として歩いた。視線を拾わない。笑わない。怒らない。透明になる。透明な人間は、自由に動ける。
壇上の近くに、光の中心があった。
ルミナ・セレスタ。
今夜のドレスは白銀。光属性の魔力がかすかに衣装に宿っていて、彼女が笑うたびに裾が淡く輝く。周囲の貴族令嬢が見とれている。男たちは近づきたくて近づけない顔をしている。ルミナの隣にいるアルベルト殿下だけが、自然にその光の中に立っていた。
殿下がルミナに何か言った。ルミナが小さく笑った。
その笑いが、夜会の空気を一つにした。「正解」が決まる瞬間。全員が同じ方向を向く瞬間。
——私は、その光を背中にして歩いた。
光の中心にいない者は、誰にも見えない。観客は舞台を見る。舞台袖は見ない。
見えないことが、今夜は武器だ。
視線の外側へ。音の外側へ。香水の外側へ。
廊下を一つ曲がる。もう一つ曲がる。笑い声が遠くなる。シャンデリアの光が届かなくなる。代わりに壁燭台のささやかな火が、石壁に影を落としている。
厨房脇の控え通路。
甘い匂いが消え、代わりに熱と油と焦げの匂いがした。皿の触れ合う音。水の流れる音。裏側の音は、労働の音だ。
カイルが給仕の列に紛れていた。盆を持っている。持ち慣れた手つきではない。けれど「持ったことがある」手つきだった。この男は裏で何でもやってきたのだろう。
こちらを見ない。見ないことで「見ていない」ことにする。
そして——影から、男が出てきた。
背筋が真っ直ぐだった。命令に慣れている背筋。衣服は地味すぎる。目立ってはいけない仕事の制服。目は伏せている。けれど伏せた目の奥に、値踏みの光がある。
上流の「使い」だ。
男はカイルにだけ聞こえる距離で、声を落とした。
「レインズ様。——主が、お待ちです」
カイルが小さく顎を引いた。
男が私の方を——見なかった。見かけて、見ないまま戻した。上流の使いは「正体」を欲しがらない。欲しがった瞬間に責任が生まれる。知らなければ、何も知らなかったと言える。
私はその「無視」を許した。許すのは私だ。向こうじゃない。
「主が急いでおります」
男の声は低く、平たかった。感情を抜いた声。訓練された声。
「"本物の赤"が出たと噂が——」
「噂は軽いわ」
私は声を出した。
男の目が、一瞬だけこちらに吸い寄せられた。見ないはずの目が、声に反応した。声は隠せない。声は、人間の「格」を運ぶ。
「……軽い噂ほど、上に届きます」
言い方が、脅しの縁を踏んでいた。穏やかに聞こえるが、「上に届いている」は「殿下の耳に入るぞ」と同義だ。
私は小瓶を出さなかった。
脅しに反応した瞬間、主導権が渡る。反応しないことが、最初の交渉だ。
「条件がある」
男の眉が微かに動いた。「条件」という言葉に、使いの仮面が揺れた。試供品に条件が付くのは、彼の想定にない。
「量は一回分。増やさない」
「主は——」
「急いでいるのは主の方でしょう。急ぐ側が買う。それが道理よ」
男が口を閉じた。閉じた唇が薄く引き結ばれている。飲み込んでいる。怒りではなく驚きを。公爵令嬢——いや、名も知らない売り手が、上流の主を「買う側」と呼んだことへの。
飲み込める人間は、優秀な使いだ。
「……支払いは」
私はようやく小瓶を取り出した。布の包みを開かない。包みのまま見せる。
「先払い。金貨。石でもいい。帳簿に残る支払いは受けない」
「それは——常道ではありません」
「常道で買えるものなら、あなたはここに来ていない」
男が黙った。
静かな通路に、厨房の音だけが遠くで鳴っていた。皿の音。水の音。火の音。現実の音だ。光の中の夜会は夢みたいだが、ここは現実だ。現実で、禁忌が動く。
「……主に確認を」
「確認は要らない。あなたに裁量がある。ないなら、今夜は終わり」
男の目が細くなった。見抜かれた、という目。裁量がない使いは、こういう場所に来られない。来ている時点で、決める権限がある。
男は懐に手を入れた。
小さな袋が出てきた。布の上からでも分かる重み。金属の、嘘のない重み。
「こちらで」
袋が差し出された。
私は受け取った。開けない。
「確認を——」
「しない」
男が戸惑う。
「痕跡の話よ。触れた人間が増えるほど、追われやすくなる。金を開いて確かめて、また閉じて。その間に指紋と匂いが増える」
私は男を見た。真正面から。初めて、「売り手」として。
「あなたの主は、その程度の慎重さもないの?」
男の喉が動いた。唾を飲んだ音。小さいが、聞こえた。
「……失礼しました」
金の袋を内ポケットに入れた。重みが肋骨の内側に触れた。
資金が、動いた。
ゼロと、ゼロでないものの差は無限だ。この重みがある限り、次の一手が打てる。次の一手が打てる限り、私は死なない。
私は布を開き、小瓶を見せた。
赤が、ほんの一瞬だけ光を拾った。壁燭台の弱い火を吸い込んで、ガラスの中で燃えるように光った。
男の息が止まった。
完全に止まった。一秒。二秒。三秒目に、ゆっくりと吐いた。吐いた息が震えていた。
「——これは」
「一回分。次回は値段が上がる。量は増えない」
「値段が——」
「上がる。嫌なら、買わなくていい。他にも欲しがる人間はいる」
嘘だ。まだ「他」はいない。けれど、嘘は自信の形をしていれば通る。
男は小瓶を受け取った。受け取る指が震えていた。商品に怯えている。いや、商品の「力」に怯えている。この赤が何をするか、噂で知っているから。
「もう一つ」
男が耳を傾ける。
「返品はない。効き目が強すぎたからといって、私のせいにしないこと。飲んだのは主の判断。作ったのは私の技術。判断と技術は、別の勘定よ」
男の目が僅かに揺れた。「効き目が強すぎる」可能性を、私が先に言語化したからだ。つまり売り手は、自分が売るものの危険を知っている。知っていて売る。その冷たさが、男の背筋に触れたのが見えた。
「……承知しました」
男は小瓶を懐に入れた。大切に。壊れやすいものを扱うように。壊れやすいのは瓶ではなく、中身がもたらす未来の方だが、それは私が言うことではない。
去り際、男はこちらを見ないまま言った。
「主がもう一つだけ訊いております」
「何を?」
「作り手は——どのような方ですか」
私は一拍だけ置いた。
「噂で十分よ」
男は頷かなかった。頷かないまま、一歩下がった。
「主は申しておりました。——これは"王が飲むべき薬"だ、と」
その言葉が、通路の空気を変えた。
王が飲むべき薬。
大げさだ。けれど、大げさな言葉は市場を作る。「王の薬」という噂が広がれば、値段はさらに上がる。上がった値段は、次の取引の土台になる。
「伝えて。——王が飲んでも、私は値段を変えない」
男が一瞬だけ息を止めた。
それから、影に溶けた。
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通路に静けさが戻った。
厨房の音だけが、遠くで生きている。
カイルが壁の影から出てきた。盆はもう持っていない。どこかに置いてきたらしい。顔が少し青い。
「……終わった?」
「始まっただけよ」
カイルが大きく息を吐いた。吐いた息が震えている。緊張が解けた震え。
「お嬢様……今の……すごかった」
「声を落として」
「すごかった」と、もう一度、もっと小さく言った。
「値切りも脅しも、全部切った。あの使い、最後の方ちょっと泣きそうだった」
「泣いてない」
「泣きそう"だった"。目がうるっとしてた。上流の使いをあそこまで追い詰めるの、初めて見た」
カイルの声に、興奮が混じっていた。怖さの裏返しの興奮。初めて「本物の取引」を見た人間の熱。
「追加注文、来るぞ」
「来させる」
「どうやって」
私は通路の壁に背を預けた。石の冷たさが肩甲骨に触れる。
「出さないからよ。出し惜しむ。それだけで、向こうは欲しがる。欲しがった瞬間に、交渉は終わっている」
カイルが黙った。黙ってから、小さく笑った。
「……怖ぇな、お嬢様」
「怖いのは私じゃない。時間よ」
春の月の二十五日。残り時間が、鐘を打つたびに減っていく。
「それとカイル」
「ん」
「この金の袋、あなたは触らないで」
「分かってる。痕跡だろ」
「そう」
私は手袋を外し、布に包んだ。指先に鉄錆の匂いが微かに残っている——気がした。消えたか、残ったか。確信が持てない。
「……次は完全に消す」
呟いた声は、自分にしか聞こえなかった。
たぶん。
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夜会は続いている。
光の中で、笑い声が回っている。
私は控え通路から会場に戻り、壁際を歩いた。誰にも見られず、誰にも声をかけられず。透明な公爵令嬢。いないのと同じ存在。
それでいい。いない方が、生きやすい。
内ポケットの金が、歩くたびに肋骨を叩いた。小さな重み。けれど、確かな重み。
初めてだった。
自分の力で、自分の判断で、金を手にしたのは。
公爵家の令嬢として与えられた金じゃない。婚約者の名前で借りた金じゃない。私の技術と、私の言葉と、私の計算で掴んだ金だ。
——胸の奥で、何かが小さく灯った。
名前はつけない。名前をつけると安心して、安心すると鈍る。
ただ、足取りだけが少しだけ軽くなった。
誰にも気づかれない程度に。
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その夜。王城。
書庫に灯された蝋燭が、一枚の報告書を照らしていた。
アルベルト・ヴァルディス殿下は、机に座ったまま動かなかった。
報告書は短い。数行。けれど、その数行が空気を変えていた。
「殿下」
側近が声を落とした。声を落とすのは、内容が重い時の作法だ。
「“赤い違法薬”の件です。——本物が出たと」
殿下の指が、紙面の上でほんの少しだけ動いた。一行をなぞる。
「本物」
繰り返す声は冷たかった。冷たいのに、どこか速い。
「鉄錆に似た香りが残る、と。……買い手の使いが、震えていたそうです」
殿下は報告書を置いた。
置いた手が、紙面の上に残ったまま、動かない。
指先が、少しだけ震えていた。
怒りか。焦りか。あるいは——側近には分からなかった。
「……情報を集めろ」
声は短い。
「流通。買い手。噂の出所。派手に動くな。まずは“形”を掴め」
「はい」
側近が一礼して下がろうとした時、殿下がもう一言だけ落とした。
「——“本物”は、一度出たら増える」
冷たい声だった。
けれど、それが警戒なのか、別の何かなのかは、側近には判別できない。
蝋燭の火が揺れて、殿下の横顔に影が走った。
「次の会議で、手を打つ」
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メーター:資金中/疑念小/執着0/支配小




