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照合:疑いが名前に近づく


朝の王城は、紙より先に埃が光っていた。


古い記録庫は、いつも少しだけ寒い。

窓が高い。棚が多い。革表紙の背が、壁みたいに並んでいる。


人は、古い紙の前では声を落とす。

敬意があるからではない。昔の記録ほど、今の言い訳を簡単に殺すからだ。


アルベルトは、記録庫の長机の前に立っていた。


座っていない。

座ると、これはただの確認になる。

立ったまま読む時は、だいたい自分でも何を認めることになるのか分かっている時だ。


机の上には三種類の紙が並んでいた。


南区から押収した台帳。

学園の実習記録の写し。

そして、過去の成績提出用の訓練ノート。


どれも地味だ。

地味だから残る。

残った地味なものほど、あとで人を殺す。


エルマー教授が一頁ずつ開いていく。


火に炙られた台帳の端。

整いすぎた実習欄。

余白の取り方。

数字の詰め方。


「字は違います」


教授が言った。


アルベルトは黙っていた。

その先が来ると知っている顔だった。


「ですが」


教授は、実習記録の端を指でなぞる。


「削り方が同じです」


ルーカスが眉を寄せる。


「削り方?」


「ええ」


教授は頷いた。


「書く癖ではない。残す癖です」


短い声だった。

短いが、よく刺さる。


「普通の学生は、できるだけ多く書きたがる。優秀な学生は、余計なことまで書いて見せたがる。……この記録は違う」


教授は写しを一枚持ち上げた。


抽出時間。

温度。

反応速度。

誤差。

全部がある。

あるが、それ以上がない。


「必要なものだけを残し、事故になる見栄を削いでいる」


台帳へ視線を移す。


「こちらも同じです。量を増やさない。百を使わない。九十九・一で止める。止める位置が、書き方より先に同じです」


部屋が静かになる。


アルベルトは台帳の追記へ目を落とした。


百は使わない。

九十九・一で止める。

見栄は事故になる。


前に読んだ時は、数字として見えた。

今は違う。二枚の紙を並べたあとで見ると、数字ではなく人の声に見える。

考え方の癖が、そのまま文字になったような三行だった。


「この癖の持ち主を、特定できるか」


アルベルトが低く訊く。


教授はすぐには答えなかった。

答えない方が、今は正確だからだ。


「まだ、確定には足りません」


やがて言う。


「ですが、アルヴェイン嬢を外す理由ももうありません」


その名が、教授の口から出た。


部屋の空気が、一段だけ冷えた。


アルベルトは何も言わなかった。

言わないが、喉の奥が一度だけ動いた。


薄々は知っていた。

もう、ほとんど気づいていた。

ただ、最後の一歩を自分の声では踏みたくなかっただけだ。


「他に」


短く言う。


「繋がるものは」


ルーカスが一枚の紙を机へ置いた。


「国外流通の洗いです。国境のこちら側の染料商に、昨日から動きがあります」


アルベルトの目が動く。


「何だ」


「小口です。まだ小さい。ですが、向こうでは入手しづらくなった品目が三つまとめて動いています」


教授がその紙を取った。


仕入れ予定。

保存。

輸送。

遅延時切替。


紙の上を指がなぞる。


「保管条件が、普通の染料商にしては細かすぎますね」


教授が低く言った。


「そしてこの四項目の並び方にも、同じ考え方の痕がある」


アルベルトは何も言わなかった。


言わない。

言わないが、もう分かっている顔ではあった。


あの女は国外へ出た。

出た先で、崩れていく国を見ながら新しい流れを引いている。


その像が、紙の上で少しずつ輪郭を持ち始める。


「追え」


アルベルトが言った。


低い声だった。


「小口でも追え。染料商から倉、倉から輸送、輸送から保管。全部だ」


ルーカスが頷く。


「承知しました」


「それと」


アルベルトは実習記録の写しへ指を置いた。


「この記録を学園内の他の提出物とも照合しろ。授業用、訓練用、雑記でもいい。……余白の癖まで拾え」


教授が少しだけ口元を動かした。

笑ったのではない。興味の角度が変わっただけだ。


「人ではなく、手順を追うのですね」


「人は隠れる」


アルベルトは言った。


「癖は、遅れる」


その言葉は正しかった。

正しくて、だから少しだけ冷たすぎた。


教授が小さく言った。


「殿下」


アルベルトは顔を上げない。


「名を出すには、まだ一歩足りません」


「分かっている」


「ですが、もう疑えます」


その言い方が嫌だった。

嫌だが、正確だった。


疑い。

確信ではない。

だが、疑いの方が時々人を長く壊す。


アルベルトは何も言わなかった。


言わないまま、三枚の紙を揃えた。

台帳。実習記録。訓練ノート。


三枚が並ぶと、余白の形だけが妙に似ている。

字は違う。紙も違う。時期も違う。

なのに、削り方だけが同じだ。


それが一番、嫌だった。


---


昼の聖堂は、昨日より静かだった。


良くなったからではない。

祈る前に、皆が結果を知ってしまったからだ。


ルミナは回廊の端で、名簿を受け取った。


今までは依頼票だった。

どこへ行くか。

誰が倒れたか。

何件目か。


今日は違う。


名がある。

家名がある。

役職がある。

神官寮の部屋番号まである。


紙は白い。

でも、その白さがもう清潔には見えなかった。


「王城からです」


若い神官が言う。


「記録をまとめろと」


まとめろ。


便利な言葉だ。

まとめるだけなら、罪はないように聞こえる。

だが、人をまとめる紙は、だいたいあとで刃になる。


ルミナは名簿を見下ろした。


侯。

伯。

司祭。

副長。

南区商会補佐。


別紙には、匿名報告が二件。


そこへまた一つ、新しい名が足される。


「……ここまで」


小さく漏れる。


若い神官が顔を上げた。


「ルミナ様?」


ルミナは首を振った。


「いいえ」


よくない。

そう言いかけたのだろう。

でも、それを口に出す権利が自分にあるのか、もう少し分からなくなっていた。


昨日までは、光を落とせば少しは戻ると思っていた。

今は違う。

戻らないものの名簿を、聖堂の手で整え始めている。


正義のため。

救うため。

原因を知るため。


理由はいくらでも並ぶ。

でも、紙の上に名が揃い始めた瞬間、人はもう“救う側”ではなく“選ぶ側”に立つ。


それが怖かった。


「全部、書いて」


ルミナは言った。


若い神官が頷く。


「症状も、時刻も、隠した記録も」


そこまで言って、一拍置く。


「ただし、漏らさないで」


「王城へですか」


「いえ」


ルミナは名簿を折った。


「外へ、よ」


その一言だけで、若い神官の顔が少しだけ青くなる。


名が外へ出た瞬間、奇跡は信仰ではなく身分と結びつく。

そうなれば、聖堂の白はもう保てない。


だが、もう遅いのだとも分かっていた。

王城が名簿を作り始めた時点で、白は白だけではいられない。


「……はい」


若い神官は小さく答えた。


声が少しだけ幼かった。

怖い時、人は声から先に若くなる。


---


夕方、向こうの町の借家には、染料より先に紙の匂いが残っていた。


新しい帳簿。

新しい取引。

新しい仕入れ。

全部がまだ小さい。


小さいが、小さいものほど最初の間違いをよく覚える。

だからこそ、最初は丁寧に置く。


私は新しい帳簿の二頁目を開いていた。


一頁目は取引先。

二頁目は切替。

三頁目は保管。

四頁目は例外。


例外は少ない方がいい。

例外の多い流れは、だいたい次の人間を迷わせる。


カイルが窓辺から言う。


「追ってきてるな」


私は顔を上げなかった。


「ええ」


「どこまでだ」


「染料商までは来るでしょうね」


ペン先を止める。


「でも、その先はまだ霧よ」


カイルが小さく息を吐く。


「扉か」


「ええ。でも、扉の向こうから足音は聞こえる」


それで十分だった。


追ってくる。

速い。

順番に縋る王太子は、ここからが一番厄介だ。


けれど厄介なだけで、届くとは限らない。


私は新しい帳簿の余白へ、小さく注記を足した。


追跡時、切替先を一段飛ばす。

同名義の継続使用不可。


実務的なメモだ。

誰かに見せるものではない。

自分だけが読めればいい。


カイルが覗き込んで、それから黙って窓を閉めた。


何も言わない。

何も言わないカイルは、時々一番正確だ。


私がどういう計算をしているか、あの男は分かっている。

分かっていて、言葉にしない。

それが今は少しだけ、ありがたかった。


私は帳簿の次の行に、港町の仲買への条件を書き足した。


量。

期限。

受け渡し場所。

代替経路。


昨日までは点だった取引先が、今日は線になり始めている。

まだ細い。

だが、線は細い方が切りにくい。


ペンを止めた。


少しだけ、指先が冷えている。


昨日の夜、台帳が押収されたと聞いた時と同じ冷え方だ。

怖いのではない。

自分の癖が、どこまで読まれているかを計算している時の冷え方だった。


九十九・一。


あの数字を見れば、あの教授なら気づく。

気づいた上で、実習記録と並べる。

並べれば、余白の削り方が同じだと分かる。


そこまでは、もう止められない。


止められないなら、その先を変えるしかない。


私は帳簿を閉じた。


閉じた表紙に、指を一度だけ置いた。


昨日は一歩先にいた。

今日はまだ一歩先にいる。

だが、向こうの足音が半歩だけ近くなった。


明日からは、一歩では足りないかもしれない。


その計算だけが、今夜は少しだけ重かった。


---


メーター:資金 初動確立→流通初回転/疑念 台帳発見→照合段階/執着 追跡移行→特定目前/支配 構造化→深耕


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