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名前が並ぶ


朝の王都は、昨日より少しだけ静かだった。


平和だからではない。

声を潜めるべき話題が増えた時、街は先に静かになる。


市場は開いている。

店先にも人はいる。

荷車も動いている。

だが、会話だけが半歩ずつ浅い。


「今朝は遅いな」

「いや、別の道を回ってるだけだ」

「聖堂はまだ開いてる」

「開いてるとも。開いてるはずだ」


はずだ。

だけ。

まだ。


そういう言葉ばかりが、今朝はよく使われていた。


噂はもう広がっている。

だが、まだ誰も形とは呼ばない。

形と呼んだ瞬間、自分の生活の中に入ってくると知っているからだ。


その時、北区の坂道を、神官を乗せた馬車がまた一台駆け抜けた。


昨日と同じ方角。

同じ時刻。

同じような急ぎ方。


一度目は偶然で済む。

二度目は祈れる。

三度目から、人は急に口を閉じる。


今朝は、もうその三度目だった。


---


聖堂の診療室は、白すぎた。


白い布。

白い壁。

白い盆。

白い水差し。


白は清潔に見える。

だから時々、人は白い場所へ正しい答えがあると思い込む。


寝台の上にいたのは、神官寮の若い司祭だった。


まだ若い。

頬も細い。

爪も綺麗だ。

だが喉だけが、まるで何日も砂を飲んだみたいに乾いている。


ルミナが入った瞬間、周囲の神官たちの目が揃った。


助けを求める目ではない。

結果を求める目だ。

それが、昨日までともう違う。


「昨夜からです」


年嵩の神官が言う。


「最初は熱かと思いましたが、光を落としても戻らず……」


戻らず。


その言い方に、ルミナは少しだけ目を伏せた。

誰ももう、治る前提で話していない。


「何を飲みましたか」


ルミナが訊く。


若い司祭は、すぐには答えなかった。

答えないのではない。

喉の奥で、言葉の前に別の何かを探している顔だった。


「……水を」


また、その一語だ。


昨日も聞いた。

一昨日も。

水と口にする時、人はまだ、自分が何を欲しているかを正確に認めなくて済む。


ルミナは手をかざした。


白い光が落ちる。


熱は引く。

呼吸も少し整う。

浅い震えも、表面だけは静まる。


けれど、分かる。


足りない。


届いている。

なのに、満ちない。

器の外側へ水を掛けても、中の空白までは埋まらないみたいに。


「どうですか」


横にいた神官が低く訊く。


その声には、敬意より先に焦りが混じっていた。


「今は少し戻ります」


ルミナは言った。


「でも、根は残ります」


部屋が静まる。


誰も泣かない。

代わりに、全員の頭の中で同じ計算が始まる。


なら何が必要か。

どこから来ていたか。

誰が知っていたか。

誰が隠しているか。


「……聖女様」


年嵩の神官が言う。


「これは、神官寮だけの話ではありません」


ルミナは答えなかった。


答えなくても、もう分かっている。

神官寮に来た時点で、これは上流の渇きだけではなくなった。


聖堂の中へも、同じ穴が開き始めている。


それが一番、嫌だった。


「記録を」


ようやくそう言う。


「誰が、いつから、何を。全部残してください」


そこで一度だけ息を継いだ。


「隠した方も、書いてください」


周囲の顔がわずかに動く。


隠した方も。


その一言で、今まで隠していたことの存在だけがはっきりする。

だが、もうそこを避けては進めない。


年嵩の神官が頷く。

重い頷きだった。


---


王城では、紙の置き方だけが変わっていた。


昨日までは、報告書は列ごとに並んでいた。

今日は違う。

机の中央に、一枚だけ別の紙が置かれている。


名簿。


まだ薄い。

まだ未完成。

けれど、その薄さが一番よく人を震えさせる。

完成した名簿より、未完成の名簿の方が、自分の名前が載る余白を持っているからだ。


アルベルトはその紙を見ていた。


バルデン侯。

北区伯爵夫人。

神官寮司祭。

南区護衛副長。

空白。

空白。

空白。


空白の方が多い。

だが、空白だらけの紙ほど、よく燃える。


扉が開く。


今日は書面ではなく、本人だった。


ルミナが入ってくる。


白い神官服。

疲れている。

だが、疲れて見えるだけではない。

自分の光の限界を知ってしまった人間の白さだった。


アルベルトが顔を上げる。


「どうだった」


短い問いだった。


ルミナはすぐには答えなかった。

少しだけ呼吸を整えてから、言う。


「熱も震えも、一時的には鎮まります」


部屋の空気が止まる。


「ですが、渇きの根は残ります」


アルベルトの喉が一度だけ動いた。


「神官寮でもか」


「はい」


ルミナは頷く。


「上流だけではありません。祈る側にも、同じ形が出ています」


祈る側。


その言葉が、机の上の紙より重く落ちる。


ルーカスが新しい紙を持って入る。


「三件目です」


その言い方に、部屋の空気が少しだけ変わった。


二件目までは、まだ偶然へ逃げられた。

三件目から、人は形という言葉を思い出す。


「誰だ」


アルベルトが訊く。


「神官寮の若い司祭。加えて、南区役人宿舎で一名、軽度の同症状」


軽度。

重度。

軽い方を入れるかどうかで、人はまだ迷う。

迷っているうちは、まだ完全に認めていない。


「聖堂の見立ては」


「光で熱と震えは抑えられるが、渇きの根は残ると」


ルーカスが一拍置く。


「聖女本人の言葉です」


アルベルトは目を閉じなかった。

閉じると、認めることになる。


「……そうか」


小さい声だった。

だが、机の上へ落ちたその音は思ったより重かった。


ルーカスは名簿の横へ新しい紙を置く。


「実名洗い、始めました」


「早いな」


「遅いよりは」


その返しに、アルベルトは何も言わなかった。


正しい。

正しいが、その正しさが胸に刺さる時もある。


名簿へ一つずつ、名前が置かれる。

置かれた瞬間、その人間は噂から構造の部品へ変わる。


社交。

依存。

供給。

護衛。

神官。

物流。


全部が別の話のようでいて、もう同じ紙の上へ並び始めている。


「殿下」


ルーカスが低く言う。


「ここで止めるなら、上流の名簿だけで切れます」


アルベルトは顔を上げた。


止めるなら。

今なら。

まだ。


便利な言い方だ。

便利だから、いつも遅い。


「止まるか」


そう訊くと、ルーカスは答えなかった。

答えない。

それが一番、誠実だった。


アルベルトは名簿へ視線を落とした。


バルデン侯。

伯爵夫人。

司祭。

護衛副長。


身分が違う。

場所も違う。

なのに、渇き方だけが同じだ。


偶然ではない。

もう、そこは認めるしかなかった。


認めるしかないのに、次の言葉を口にした瞬間、卒業式の断罪そのものが別の形へ変わる気がして、喉の奥が少しだけ乾いた。


「……《グレン》か」


誰に向けた言葉でもなかった。


ルミナが、ほんのわずかに目を上げる。

ルーカスは何も言わない。

だが、否定もしない。


否定しないことの方が、今は重い。


アルベルトは机の上の名簿へ指を置いた。


「出せ」


「どこまでを」


「全部だ」


ルーカスがわずかに目を細める。


全部。

つまり、上流だけでは終わらせない。

聖堂も、護衛も、役人宿舎も、全部、同じ紙の上へ出すということだ。


「それで、王都が騒ぎます」


「もう騒ぎ始めている」


アルベルトは静かに言った。


「紙の上へ遅れて出すだけだ」


その声は低かった。

低いが、もう迷いはない。


順番に縋る人間は厄介だ。

だが一度順番を決めると、今度はそこへ逃げ込むように速い。


「名簿を作れ。身分で分けるな。症状で分けろ」


「承知しました」


「それと」


アルベルトはそこで止まった。


次の言葉は、昨日までならまだ出さなかった言葉だ。


「国外の流通も洗え」


ルーカスの視線が動く。


「国境の向こうですか」


「ええ」


アルベルトは答える。


「逃がした先で、何が始まっているかも含めて見ろ」


その一言で、部屋の空気は完全に前の形を失った。


追放した悪役令嬢。

ではない。

国外へ出た相手が、国の渇きと繋がっている可能性を、王太子が初めて命令として認めたのだ。


戻れない一線だった。


ルーカスはゆっくり頷いた。


「承知しました」


ルミナはその言葉を聞いたまま、しばらく動かなかった。


正義が、今ここで別の場所へ渡ろうとしている。

聖女の光が届かない隙間へ、もっと冷たい種類の手が入ろうとしている。


それが怖かった。

怖いのに、止める言葉が見つからない。


---


夕方、向こうの町の借家には、まだ染料の薄い匂いが残っていた。


古い工房。

水場。

狭い窓。

低い空。

向こうの市場の音。

全部がまだ借り物だ。

だが借り物の場所ほど、人は最初の線を丁寧に引く。


机の上には二枚の紙が並んでいた。


一枚は、確認札から抜かれた報せ。

もう一枚は、昨日の染料商との取引打診。


私は先に報せの方を閉じた。


三件目。

神官寮。

名前が出始める。


「来たな」


カイルが窓辺から言う。


私は頷いた。


「ええ」


「偶然、死んだか」


「まだ息はしてる」


そう言うと、カイルが少しだけ笑う。


「嫌な言い方だな」


「本当のことよ」


偶然は、三件目で死ぬわけじゃない。

三件目で、ようやく人の前から歩けなくなるだけだ。

まだ息はある。

まだ言い訳に使われる。

でももう、顔は保てない。


「王太子、来るな」


カイルが低く言う。


「ええ」


私は書類の端へ指を置いた。


「今夜あたり、国外も洗うでしょうね」


「早ぇな」


「三件目だもの」


三件目まで来れば、順番に縋る人間は次の段へ入る。

上流。

聖堂。

護衛。

そして外。


「じゃあ、こっちも急ぐか」


私は染料商の紙を引き寄せた。


小さい商いだ。

小さいが、向こうでは手に入りにくくなったものが三つある。

そこへ一つだけ、こちらで余るものを混ぜる。

混ぜると、ただの代替ではなくなる。

線になる。


「向こうが名簿を作る前に、こちらは帳簿を作る」


私は言った。


カイルが顔をしかめる。


「ほんと、お前さ」


「何」


「嫌な女だな」


褒め言葉として受け取っておくことにした。


私はペンを取り、最初の仕入れ予定を短く書いた。


染料。

溶剤。

保存塩。

代替薬液。

輸送費。

保管。


崩れていく国を見ながら、新しい流れを引く。

綺麗なことではない。

でも、綺麗なだけの正義よりは長く残る。


「始まったわね」


小さく言う。


今度は確認ではなかった。

三つ目の音まで聞いた人間の声だった。


窓の外では、知らない町の鐘が鳴る。

こちらの空は低い。

でも、その低さが今は少しだけ心地よかった。


国境の向こうは、まだ静かだ。

静かだからこそ、向こう側で増えていく名前の音がよく聞こえる。


私は紙へ最後の印を入れた。


向こうが名簿を作るなら、こちらは帳簿を作る。

それだけの話だ。


---


メーター:資金 国家級→運用段階/疑念 二件目→三件目/執着 決定的→追跡移行/支配 連鎖→構造化


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