初試飲
夜が明けても、工房の匂いは変わらなかった。
鉄錆と薬草。甘さと苦さ。息を吸うたびに、胸の奥のどこかが「ここは安全だ」と錯覚する。安全なはずがないのに。私は今、禁忌の入口に立っている。
机の上には、小瓶が一つ。
昨夜“澄んだ赤”になった試作だ。完成品じゃない。99.1には遠い。それでも、色はもう嘘をつけないくらい真紅だった。見ているだけで、喉の奥が乾く。
——喉じゃない。
もっと内側だ。欲望の方が先に渇く。
私は手袋をはめた。指紋は残さない。癖も残さない。残したら最後、追われるのは物じゃなく私になる。
瓶を揺らす。赤が、ガラスの中で静かに回る。
カイルが背中側の椅子に座っている。昨夜のまま、眠っていない顔をしていた。眠っていないのは私も同じだ。眠れる人間は、まだ安全な世界にいる。
「お嬢様」
カイルが呼ぶ。声が妙に小さい。ここでは声を大きくしない。裏の癖。
「飲むなよ」
私は瓶から目を離さず答えた。
「売るものを、飲まずに売れる?」
「売れるって。むしろ飲むな。そういうのは」
「そういうの?」
カイルは言葉を探した。裏の世界の言葉は、時々やけに正直だ。
「……欲しくなるやつだろ」
「二回目からね」
私は母のメモを思い出す。依存のライン。最適と限界の数字。制御できる範囲の、最後の線。
「だから、一回だけ」
「一回でもだよ」
「一回で、何が売れるか分かる。何が危ないか分かる。何が“買われる”か分かる」
私は瓶を持ち上げ、光に透かした。赤が濁らない。濁りがないということは、余計なものを捨てられているということだ。捨てるのが一番難しい。
「カイル。私は正義をやりたいんじゃない。生きたいの」
「……知ってる」
知っている、という言葉は、慰めじゃなく確認に聞こえた。
私は栓を外した。
匂いが立ち上がる。甘いのに、苦い。皮膚の内側を撫でるみたいな匂い。そして、その下に——微かな鉄錆の香り。消えない痕跡。消えない署名。
私は瓶を傾け、ガラス棒の先にほんの一滴だけ取った。
落ちそうで落ちない、赤い丸。
指先が近づく。手袋越しでも分かる。熱じゃない。吸い寄せられる感じ。身体の方が先に「それは必要だ」と言っている。
私はその一滴を、舌先に触れさせた。
――味は、甘くない。
薬草の苦みが先に来る。次に、舌の奥が熱くなる。熱は喉を伝い、胸の中心で一度止まって、そこから全身に散った。
世界が、輪郭を取り戻した。
音が一段階大きくなる。遠くの水滴の落ちる音が、近くで落ちたみたいに聞こえる。火の小さな揺れが、呼吸のたびに違う形をしているのが分かる。空気の重さが、肌の上で「触れる」ものになる。
身体が軽い。
軽い、というより、余計なものが削ぎ落ちた。疲労が“疲労だった”ことすら忘れる。眠気が消える。痛みが薄くなる。指先が冴える。思考が速くなる。
魔力が——満ちる。
派手な光は出ない。火も出ない。それでも、胸の奥の器が満たされていくのが分かる。空っぽだった場所に、熱い液体が注がれる感じ。
私は息を吐いた。
「……これが、“価値”」
声に出した瞬間、背筋が凍った。
価値は、売れる。価値は、奪われる。価値は、人を変える。
カイルが椅子から立ち上がった。距離を詰めない。詰めないまま、目だけで私を見ている。
「顔色……変わった」
「変わってない」
「変わってるって」
「変わっても、誰にも見せない」
私は瓶の栓を閉めた。音が小さく鳴る。栓が閉まるだけで、世界が一段暗くなる。暗くなるのに、まだ明るい。明るさが身体の内側に残っている。
そして――遅れて来た。
渇き。
喉が渇く。水じゃない。水を飲んでも埋まらない渇きが、胸の奥から湧く。「もう一滴」と囁く渇き。
指先が微かに震えた。寒いからじゃない。欲望が前に出ようとする震え。
私は机の端を掴んだ。爪が木に食い込むくらい強く。
「……代償」
カイルが息を吸う音が聞こえた。彼は一歩も動かない。動かないことが、最大の協力だと分かっている。
「水いるか」
「要らない」
要るのは水じゃない。要るのは、止める力だ。
私は手袋を外し、すぐに布で包んだ。匂いが残る。残さない。残せない。
棚の奥に小瓶をしまい、鍵をかけた。鍵が鳴る。小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「……これ、売るのか」
カイルの声が、少しだけ低くなった。
「売る」
私は即答した。迷うと遅れる。母の字が脳内で鳴る。
「怖くないのかよ」
「怖い」
私は言った。言ってしまった。言うつもりはなかったのに。
でも怖い。怖いのに、止まれない。止まった方が終わるから。
「でも、もっと怖いのは——」
私は机の上の紙を見た。日付。卒業舞踏会。断罪。
「間に合わないこと」
カイルが黙った。
黙り方が、さっきまでの“裏の人間の黙り”じゃない。年相応の黙りだ。理解が胸に落ちるまでの時間。
私は紙に、短い計算を走らせた。
逃亡資金。拠点。護衛。偽名の準備。全部、金で買える。金で買えるなら、時間を買える。
「一回でこの価値。二回目から依存が始まる。——買うのは、誰?」
カイルが苦く笑った。
「……品がいいほど危険だ」
「どういう意味」
「欲しがるのは、上流からだ。金がある。権力がある。揉み消せる。だから手を出す。で、揉み消せるから、平気で人を消す」
彼は指で自分の首を軽くなぞった。冗談みたいに。冗談じゃないことを知っている指の動き。
「お嬢様みたいなのが作る“本物”はな。貧民が買うもんじゃない。貧民は偽物で死ぬ。金持ちは本物で生き延びる。……そういう世界だ」
私は頷いた。現実的だ。汚い。だから使える。
「最初は、少量。試供品も最小」
「それが効く相手が一番危ないって、分かってる?」
「危ない相手じゃないと、金にならない」
カイルが鼻で笑った。笑いの形をした諦めだ。
「……お嬢様、マジで商人だな」
「商人でいい」
私は棚を閉め、手袋を替えた。匂いは残さない。残させない。
「販路、用意して」
「……ああ。今夜までに、話を回す」
彼はそう言って、少しだけ目を逸らした。目を逸らすのは、怖いからじゃない。自分の中の“欲しい”に気づいた時、人は目を逸らす。
カイルも渇いている。
それが分かった瞬間、私は一つだけルールを増やした。
——カイルには、飲ませない。
相棒が依存した瞬間、私の計画は壊れる。
「カイル」
「ん?」
「絶対に飲まないで」
「飲まねぇよ」
即答が早すぎた。早すぎる嘘は、嘘に聞こえる。
私はそれ以上言わなかった。言えば言うほど、相手の中に“それ”が育つ。
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放課後、学園。
私はいつも通りに歩いた。いつも通りに無能の顔で。いつも通りに視線を受け流して。
地下の工房のことは、誰にも見せない。見せないものだけが私を守る。
中庭の端で、カイルが待っていた。待っているふりをして、周囲を見ている。視線が速い。裏の視線。
「来た」
彼は短く言った。
「何が」
「買い手」
その一言で、胃の奥が冷えた。
買い手は、金だ。金は、自由だ。自由は、生存だ。けれど金は、必ず刃も連れてくる。
カイルが顎で示した先に、見慣れない男が立っていた。
学園の生徒じゃない。騎士でもない。けれど姿勢が良すぎる。背筋が「命令」に慣れている背筋。
衣服は地味だ。地味すぎる。地味すぎるのは、目立ってはいけない仕事の制服だ。
男が近づいてきて、カイルにだけ聞こえる距離で言った。
「……レインズ様でお間違いなく」
カイルは頷いた。私を見る。紹介しない。紹介しないのが正しい。
男は私を見ない。見ないことで、「見ていない」ことにする。上流の使いは、そういう技術を持っている。
男が封蝋のついた小さな封筒を差し出した。封蝋には、見覚えのない家紋。けれど、その重さだけで分かる。
——上だ。
「主が急いでおります」
男はそれだけ言った。
封筒の中身が何かは聞かない。聞く必要がない。欲しいのは“赤”。それだけだ。
カイルが封筒を受け取り、私に目で問うた。
私は頷いた。小さく。誰にも見えない角度で。
男が最後に、ひとことだけ付け足した。
「……試供品を。今夜」
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メーター:資金小/疑念0/執着0/支配小




