相棒を拾う
立入禁止区域の柵は、脅しのためにあるのではない。
本当に危ない場所は、柵の内側じゃなく外側にある。ここに近づく者が「何をしに来たか」を、柵は黙って告げてしまう。だから皆、近寄らない。近寄らないふりをする。近寄らないことで、平穏を買う。
私は今日、平穏を売りに来た。自分の分を。
柵の手前の木陰で欠伸をしていた男は、こちらを見た。目だけが動いた。身体は動かない。動かないことが余裕のつもりらしかった。けれど靴の踵がわずかに浮いている。いつでも立てる。いつでも逃げられる。
——この人は、座っている時も走っている。
カイル・レインズ。
噂通り、制服の着方が雑だった。ネクタイは緩く、上着のボタンは二つ開いている。だけど、だらしないというより「余計なものを身につけない」着方だった。掴まれた時に引きちぎれるネクタイ。ボタンを留めない上着は、脱いで走れる上着だ。
彼の足元に紙袋がある。中身は見えない。けれど袋の口が二重に結ばれていた。雑な人間は、結び目を丁寧にしない。丁寧な結び目は、「中身を知られたくない」と叫んでいるのと同じだ。
「お嬢様がこんな所?」
カイルが笑った。声は軽い。目は軽くない。目の奥で、値踏みが走っている。何を持っている。何を知っている。何が欲しい。——こいつは危険か、利用できるか。
裏を歩く人間の目だった。
「迷子?」
「あなたの方が迷子に見えるわ。退学まであと何歩?」
カイルの笑いが、一瞬だけ止まった。再開した時には、色が変わっていた。
「……いきなり刺してくるタイプか」
「遠回りする時間がないの」
「時間ね」
彼は私の顔をじっと見た。嘘を探しているのか、本気を探しているのか。
「悪役令嬢って、もっと怖い顔して歩くもんだと思ってた」
「期待を裏切って残念ね」
「残念でもない」
カイルが首を傾ける。
「……面白い。公爵令嬢が、俺の"退学"を知ってて、それでもここに来る」
"面白い"は、この男の「続けていい」だ。
私は木陰の境界で立ったまま、日向から日陰に入らなかった。こちらが踏み込んだ瞬間、相手の領域になる。交渉は、場所で半分決まる。
「取引をしたい」
「取引」
カイルが繰り返した。おうむ返しは驚きじゃない。計算のための時間稼ぎだ。
「あなたには販路がある。裏の市場に顔が利く。——私には、作れるものがある」
「何を?」
沈黙を一拍挟む。
「禁じられたもの」
カイルは笑わなかった。
笑わないことが、彼の本気だった。目が変わる。足元の踵がさらに浮く。紙袋を持つ指に力が入る。逃げるか、聞くか。その判断を、今この瞬間にしている。
三秒。
彼は逃げなかった。
「……具体的に?」
「ここでは言わない。場所を変える」
「俺を連れ込む気?」
「あなたが来る気なら」
カイルの喉が小さく動いた。唾を飲んだ。乾いている。緊張だ。けれど目は離さない。この男は怖がりながら前に出るタイプだ。怖がらない人間は信用できない。怖がって、それでも動く人間だけが使える。
「条件は?」
来た。
「あなたは売り先を用意する。護衛と口止めも」
「俺の取り分は?」
「売上の四割」
カイルが鼻で笑った。
「六割」
「四割。製造リスクは私が全部負う。あなたが捕まっても、作り手には届かない。でも私が捕まったら、供給が止まる。リスクの非対称に、四割は妥当よ」
カイルの目が一瞬だけ揺れた。感心したのか、呆れたのか。
「……お嬢様、商人みたいなこと言うな」
「商人よりは計算が速いわ」
「嫌味もな」
彼は腕を組んだ。組んだ腕は壁だ。まだ完全には開いていない。
「俺が断ったら?」
「あなたは退学する。半年以内に」
「脅し?」
「予測。あなたの素行記録は、あと一件で限度を超える。闇市への出入りが知れたら、レインズ家も庇えない。——私が何もしなくても、あなたは終わる」
カイルの顔から、笑いの残骸が消えた。
静かな目。冷たいのではなく、深い目。自分の状況を正確に知っている人間の目だった。
「……よく調べてんな」
「調べたんじゃない。廊下が教えてくれたの。あなたの噂は、あなたが思っているより広い」
カイルが舌打ちした。けれどその舌打ちには怒りがなかった。自分の甘さに対する舌打ち。
「で、お嬢様は俺の退学を"止められる"と?」
「直接は止められない。でも、取引が成功すれば金が動く。金が動けば、あなたの家に余裕ができる。余裕があれば、学園への"お願い"もできる」
「回りくどいな」
「確実よ。脅しより、金の方が」
カイルが黙った。
風が吹いた。木陰の葉が揺れて、光の斑点が彼の顔を横切った。その一瞬だけ、彼は年相応の顔をしていた。十八歳の、追い詰められた顔。
「……俺さ」
声のトーンが落ちた。
「親父に"お前は家の恥だ"って言われてんだよ。毎月。毎月、同じ手紙が来る。便箋の色まで同じ。"お前は家の恥だ。これ以上迷惑をかけるな"」
私は何も言わなかった。
「退学したら、勘当だ。家を追い出される。行く場所なんかない。裏の仕事は……そうしないと、飯が食えないからやってるだけだ」
彼の声が少しだけ震えた。震えたことに自分で気づいて、わざと笑った。笑いで塗りつぶした。
「——まあ、そういう話。だから、お嬢様の取引が本物なら……俺は乗る。乗るしかない」
「同情で乗らないで」
私は言った。冷たく聞こえたかもしれない。
「私は同情しない。あなたに必要なのは同情じゃなくて、売り先と稼ぎでしょう。それを用意する。その代わり、あなたは動く。——それだけ」
カイルが私を見た。
長い目だった。確かめるような、諦めるような。そして最後に、ふっと息を吐いた。
「……冷てぇな、お嬢様」
「現実的なの」
「同じことだろ」
「違う。冷たい人は切り捨てる。現実的な人は、使えるものを拾う。——私はあなたを拾いに来た」
カイルが一瞬、目を見開いた。
それから——笑った。
今度の笑いは、値踏みでも虚勢でもなかった。「負けた」時の笑い。自分より上手い相手に出会った時の、悔しさと安堵が混ざった笑い。
「……拾うって言い方、犬みたいだな」
「犬は忠実よ。悪い意味じゃない」
「褒めてねぇだろ、それ」
「褒めてない。事実」
カイルが手を差し出した。
日陰の中の手。指に細かい傷がある。喧嘩の傷ではない。紐を結ぶ傷。紙を扱う傷。荷を運ぶ傷。裏の仕事を、素手でやってきた手だ。
「握手?」
「契約。破ったら、両方終わり」
カイルの手が、空中で一瞬だけ止まった。
「……お嬢様」
「何?」
「俺、こういうの好きなんだ。人生が変わりそうな匂い」
「鼻が利くのね」
「裏育ちだからな」
私は手を出した。日向の中の手。傷はない。綺麗な手。けれどそれは「守られてきた」綺麗さではなく、「汚れを残さないようにしてきた」綺麗さだ。
指先が触れた。
カイルの手は温かかった。乾いていて、硬くて、温かい。私の手は——たぶん冷たかっただろう。
「冷てぇ」
「知ってる」
「手だけ?」
「さあ。確かめる?」
カイルが笑いを噛み殺した。
「……こいつ、悪役令嬢ってより——冷たい商人だな」
その言葉を、私は否定しなかった。
商人でいい。商人は生き残る。悪役令嬢は断罪される。なら、商人の方がいい。
握手が終わった。
手を離す。指先に、彼の体温がほんの少しだけ残っていた。
——それを「温かい」と思った自分に、少しだけ驚いた。
驚いただけだ。それ以上は、何も。
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夜。
屋敷の地下。母の工房。
バーナードの夜巡回は西翼。リナが台所を騒がせて視線をずらした。カイルは通用口から、使用人の外套を借りて入ってきた。
鍵を開け、灯りを入れる。鉄錆と薬草の匂いが迎えてくれる。昨日と同じ匂い。けれど、今日は一人ではない。
カイルは工房の入口で立ち止まっていた。
「……ここ、お嬢様の家の地下?」
「そう」
「俺、公爵家に忍び込んでんの?」
「忍び込んだんじゃない。招いたの」
「言い方ひとつで犯罪が消えるの怖いな」
彼は恐る恐る中に入った。足音を殺している。癖だ。裏を歩く人間の足音。
工房を見回すカイルの目が、少しずつ変わっていった。最初は警戒。次に困惑。そして——
「……すげぇな、ここ」
敬意だった。
器具の配置。棚の高さ。鍋の並び。彼には錬金の知識はないだろう。けれど「整っている場所」と「乱れている場所」の区別は、裏を歩く人間の方がよく分かる。整った倉庫は信用できる。整った工房は、本物の仕事場だ。
「お嬢様が作ったの?」
「母が」
「……お母さん」
カイルの声が、一瞬だけ柔らかくなった。触れてはいけないものに触れた時の声。彼は何も聞かなかった。聞かないことが、彼なりの礼儀らしかった。
私は器具を並べた。火を入れる。
レッド・エリクサー——の、手前。試作の、さらに手前。今夜は完成品を作るのではない。工程の確認だけだ。混ぜ方と順番と温度と時間。理論を身体に通す作業。
鍋の中で、液体が静かに回った。最初は濁っている。灰色に近い赤。そこに触媒を一滴。熱を一段だけ落とす。沈殿を待つ。
カイルが、息を殺して見ていた。
彼は口を開かなかった。開かないことが正しいと、本能で分かっている。料理人の手を止めてはいけないのと同じだ。集中している人間の邪魔をすると失敗する。失敗の代償が大きい仕事では、沈黙が最大の協力になる。
濾す。
瓶に移す。
最後の一滴が——落ちた。
赤く、澄んだ。
まだ完成品じゃない。純度は足りない。99.1には遠い。けれど色だけは本物の兆しを見せていた。濁りのない真紅。ルビーを溶かしたみたいな、深くて透明な赤。
空気が変わった。匂いが立ち上がる。甘くて、苦くて、鉄錆に似た微かな残り香。
カイルが、息を飲んだ。
音が聞こえた。喉が鳴る音。乾いた唾を飲み込む音。恐怖か、興奮か、あるいはその両方。
「……これ——」
「まだ試作よ。純度が足りない。これでは売れない」
「売れないって——これ——」
カイルの声が震えていた。
裏を歩いてきた人間だ。本物と偽物の区別がつく目を持っている。その目が今、私の手の中の小瓶を見て、震えている。
「これが"本物"になったら——死ぬほど儲かるやつだ」
「死なない程度に儲ける。それが目標よ」
カイルが笑おうとして、笑えなかった。
彼は小瓶を見つめたまま、喉を鳴らした。もう一度。まるで、渇いているみたいに。
「……お嬢様」
「何?」
「あんた——本物だ」
その言葉に、私は何も答えなかった。
本物かどうかは、まだ分からない。分かるのは、時間がないということだけだ。
春の月の二十五日。
残り時間が減っていく。
私は小瓶に蓋をした。赤い液体が、ガラスの中で静かに揺れた。
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メーター:資金小/疑念0/執着0/支配0




