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教授の接触:99.1の意味


昼前、私は研究棟に呼ばれた。


呼び出しの紙は短かった。

実習記録の確認。エルマー教授室まで。


短い文ほど、嫌な予感は濃くなる。


研究棟の廊下は静かだった。

薬品棚のガラス越しに、曇った光が並んでいる。白い壁、白い石、白い紙。そういう場所に赤の気配が残ると、妙に目立つ。


扉の前で一度だけ立ち止まった。


ノックをする。

すぐに返事が来た。


「入りたまえ」


中へ入る。


研究室は広い。

広いが、片付いてはいない。整っているのは手順だけで、机の上には紙が山のように積んである。秤、ガラス棒、乾いた薬品皿、分厚い本、記録帳。散らかっているのに、どれも置くべき場所に置かれている部屋だった。


エルマー教授は窓際に立っていた。


振り向く。

灰色の瞳。乾いた顔。人の感情より、現象の方をよく見る人間の目だった。


「座りたまえ」


私は座らなかった。


「記録の確認と聞きました」


教授はそれで少しだけ口元を動かした。

笑ったのではない。観察の角度を変えただけだ。


「嘘は言っていないよ。記録の確認だ」


机の上の紙を一枚持ち上げる。


私の実習記録だった。

秤量誤差。抽出時間。触媒の順番。どれも地味だ。地味だから、たいてい誰も見ない。


「君は、派手なことが苦手だね」


「そうですね」


「だが、地味なことは妙に正確だ」


私は答えなかった。


教授は紙を戻す。

その動作に無駄がない。無駄がない人間は、相手の無駄もよく見ている。


「旧実験棟に、誰かが入っていた」


いきなりだった。


それでも顔は動かさなかった。

動かさないことは、私にもできる。


「封鎖されていたはずですが」


「されていた」


教授はあっさり頷いた。


「だから面白い」


その一言で分かった。


この人は正義で動いていない。


王城の捜査官なら、「問題だ」と言う。

学園の上層なら、「規則違反だ」と言う。

この男は「面白い」と言った。


危ないのは、こういう人間だ。


教授は机の端の陶皿を持ち上げた。

中には、ごく薄い赤の痕が残っている。光に当てなければ、ただの汚れにしか見えない量だった。


「これは何だと思う?」


「分かりません」


「正しい答えだ」


教授は皿を戻した。


「分からない人間には、分からない」


静かな声だった。

だが、静かな方がよく刺さる。


「君は錬金をどう考える」


質問がずれた。


ずれた質問は、たいてい本丸だ。


「役に立つかどうかです」


そう答えると、教授は初めて少しだけ目を細めた。


「美しいではなく?」


「美しさで生きるには、私の家は不向きです」


それを聞いて、教授は今度こそ本当に少しだけ笑った。


乾いた、短い笑いだった。


「そうか。……君はそういう答えをするのだな」


机の上の紙を指先で揃える。

その指が長い。剣ではなく、秤やピンセットやガラス棒を持つための指だった。


「純度というものがある」


教授は、もう私を見ていなかった。

窓の外でも、皿の中でもなく、頭の中のどこかを見ている顔だった。


「多くの学生は、九十で満足する。優秀な者は九十五を目指す。虚栄心の強い者は百と言いたがる」


そこで一度、私を見た。


「だが百は美しくない。百は一度きりの偶然を含む。再現性のない完成は、学問ではなく祈りだ」


部屋が静かになる。


私は呼吸だけを浅くした。


教授は続ける。


「九十九・一という数字は、美しい」


声が低い。

低いのに、よく聞こえた。


「届かない数字ではない。届かせない数字だ。安定のために、余計な見栄を削ぎ落とした者だけが、その位置を選ぶ」


私は何も言わなかった。


言えなかったのではない。

ここで何を言っても、余計な形になるからだ。


教授は皿を見たまま、静かに言った。


「これは署名ではない。癖だ」


指先が、机の上を一度だけ叩く。


「消そうとしても消えない。人の手順は、最終的に数字へ滲む」


喉の奥が少しだけ乾いた。


鉄錆に似た残り香。

純度九九・一。

旧実験棟の微粉。

偽造との差。


全部、一本に繋げようとしている。


「どうして、私にそれを」


ようやくそれだけ言うと、教授は視線を戻した。


灰色の目が、まっすぐこちらを見る。


「告発したいからではない」


ああ、と思った。


やはりそうだ。


教授は静かに言った。


「理解したいからだ」


その言葉は、脅し文句よりよほど危険だった。


理解したい人間は、捕まえるより近づいてくる。

近づいてくる人間の方が、排除は面倒だ。


「君は、近い」


教授はそう言った。


断定ではない。

だが疑いでもない。


近い。

その距離の取り方が、一番厄介だった。


「何に」


私は訊いた。


教授は一拍だけ黙ってから、紙を一枚差し出した。

学園の古い実験室利用申請書だった。未提出のまま残っていたものらしい。


「危険なものに、だ」


答えになっていない。


答えになっていないが、それで十分だという顔だった。


「気をつけたまえ」


教授は紙を引っ込めた。


「今、王城は“犯人”を探している。私は“作り手”を探している。前者は間違っていても人を壊せるが、後者は間違うと知性を失う」


その言葉に、私は初めて少しだけ背筋に冷たいものが走るのを感じた。


この人は、守る気で近づいている。

守る対象は私ではない。

私の中にある“作り方”だ。


それは好意より、ずっと扱いにくい。


「用件は以上ですか」


訊くと、教授はあっさり頷いた。


「今のところは」


今のところ。


便利な言い方だ。

次があると、最初から含んでいる。


私は最後まで椅子には触れず、一礼だけして扉へ向かった。


「アルヴェイン」


背中に声が来た。


止まる。振り向かない。


「手順は嘘をつかない。だが、手順を持つ人間は嘘をつける」


返事はしなかった。


返事をしたら、その言葉に名前を与えてしまう。


私はそのまま扉を開けて、廊下へ出た。


廊下の空気は冷たい。

なのに、掌の内側だけが少し湿っていた。

研究室の中では乾いていた手が、外に出てから追いついた。


---


研究棟の廊下の掲示板には、署名用紙が増えていた。


昨日は一枚だった。

今日は三枚。


名前の数は数えなかった。

数えなくても、空気で分かる。


学園の石畳を踏みながら、私は思った。


教授の視線。

聖女の署名。

王城の捜査。


形は違う。

違うのに、全部が同じ場所へ寄ってくる。


ここはもう、私にとって学校ではない。

狭まっていく包囲の中心だ。


---


夜の工房で、カイルは私の顔を見るなり言った。


「何があった」


説明より先に顔を読む。

そういうところだけは、この男は早い。


「教授に呼ばれた」


カイルの眉が動く。


「……エルマー?」


「ええ」


机の上に手袋を置く。

指先が少しだけ冷えていた。研究棟の空気がまだ残っている。


「何て」


「九九・一は美しい癖だって」


カイルが数秒黙った。


「何それ、褒めてんのか脅してんのか分かんねぇな」


「両方でしょうね」


私はランタンの火を少しだけ絞った。


明るすぎる部屋では、考えが散る。


「教授は、正義で来ていない」


「知ってる」


「知ってるけど、今日、確定した」


私は机の端のノートを開いた。

新しい頁に、短く書く。


危険な知性。


その下に、もう一行。


理解で接近。


カイルが低く言う。


「捜査官より面倒なやつだろ」


「ええ」


私は頷いた。


「捜査官は捕まえて終わる。教授は、終わらせない」


知りたい人間は、壊すより先に観察する。

観察する人間は、相手を長く生かす。

長く生かされた方が、時には逃げ場がなくなる。


「どうする」


カイルが訊く。


扉の外は静かだった。

礼拝堂の上を抜ける風の音だけがする。


私はノートを閉じた。


「まだ分からない。でも、使えるかどうかは確かめる」


カイルが顔を上げる。


「……確かめるって、教授相手にか」


「知りたい人間は、知りたがっている間だけ制御できる。答えを渡した瞬間に、手を離れる」


「じゃあ、答えを渡さなきゃいいのか」


「渡さないまま、近くに置く。それが一番難しいの」


カイルは数秒黙ってから、小さく息を吐いた。


「お嬢様」


少しだけ低い声だった。


「学園、もうきつくねぇか」


私は答えなかった。


答えないまま、今日の教授の目を思い出す。


王太子の目は、まだ人を見ている。

ルミナの目は、まだ空気を見ている。

教授の目だけが、手順を見ていた。


手順を見られるのは、いちばん近い。


私はノートの表紙に指を置いた。


「きついわね」


小さく言う。


「でも、まだ使える」


それは学園のことか。

教授のことか。

あるいは両方か。


カイルはそれ以上、聞かなかった。


聞かないのは優しさではない。

今は聞く順番ではないと分かっているからだ。


私は立ち上がり、棚の奥から封のない紙を一枚出した。


教授の名前は書かない。

書くのは、必要な条件だけだ。


知性は使う。

敬意は受け取らない。

契約が要る。


文字は短い。

短い文の方が、あとで人を裏切らない。


紙を折る。

封はしない。

まだ渡す段ではない。


けれど、次の段はもう見えている。


教授は近づいた。

こちらも、近づかせるなら形を決める必要がある。


曖昧な敬意は、一番扱いにくい。

敬意は、契約に落ちるまではただの火種だ。


私は紙を机の端へ置いた。


「次は、向こうからじゃない」


カイルが顔を上げる。


「こっちから行くのか」


「ええ」


私は火を見た。


火は小さい。

小さいが、消えてはいない。


「近づいてきたなら、使える形に直す」


それが一番、損が少ない。


扉の外で風が鳴った。

礼拝堂の石壁に当たって、低く返ってくる。


学園も、王城も、闇市も、少しずつ狭まっている。

その中で、新しく増えたのは一人の教授だ。


一人。

たった一人の知性の方が、軍より厄介なことがある。


私はノートを開き、最後の行にだけ目を落とした。


危険な知性。


その四文字の横に、小さく一語だけ足す。


候補。


ペンを置いた。

まだ決めてはいない。

だが、決めないまま名前をつけた。


それが、今の私にできる一番正確な距離だった。


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