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物証が揃い始める


王城の地図盤は、朝になると少しだけ冷たく見える。


夜のあいだ灯りを浴びていた盤面が、窓から差す白い光に晒されると、そこに刻まれた線の細さだけが浮かび上がるからだ。青い光点。滞留地点。移動の軌跡。何日分もの往復が重なると、偶然は癖になる。癖は、いつか人になる。


アルベルト・ヴァルディスは、その盤面を見下ろしていた。


学園近辺。旧学術院区画。南区旧市街。


青い軌跡は、もう何日もその三点を外れていない。昼は学園寄り。夜は南へ落ちる。深夜にはまた戻る。建物単位の精度しかない。だが十分だった。


近い。


それだけで、胸の奥がわずかに熱を持つ。捜査官の確信として説明できる熱のはずだった。できるはずなのに、その奥に別の温度が混じる。贈り物が捨てられなかったことを、まだ身体のどこかで喜んでいる自分がいる。喜びと呼ぶには小さく、安堵と呼ぶには熱すぎる。名前のつかない感情は、いつも胸の一番深い場所に沈む。


「殿下」


ルーカス・ハルトが記録簿を閉じた。革表紙の音が、静かな執務室に落ちる。


「昨夜分までの転写、すべて一致しています。行動圏は狭まっております」


そこで一度、ルーカスは間を置いた。間を置くのは、次の情報が重いときだ。


「そして、もう一つ。素材ルートが出ました」


アルベルトの視線が、ようやく盤面から離れた。


ルーカスが机の上に三枚の紙を並べた。


一枚は追跡ログ。一枚は旧実験棟から教授が採取した残滓の報告。そしてもう一枚は、王都東区の薬材商から得た購入記録の写しだった。


「赤撲滅運動の名目で、薬材商への協力要請が先週通りました。その回答として得た記録です。例の高純度安定化に使われる系統の薬材を洗いました。大量購入はありません。あるのは、少量・現金・定期的な買い方だけです」


アルベルトの視線が紙へ落ちた。


薬材名の横に、短い印がいくつもついている。購入量は少ない。だが間隔が揃っていた。揃っているということは、偶然ではない。必要量を知っている人間の買い方だ。


「受け取り場所は」


「店頭ではありません。東区外れ、学園裏門に近い受け渡しが三件。名は偽名、あるいは使い走りでしょう」


ルーカスの声は平坦だった。だが平坦さの質が、いつもと違う。事実を事実として並べることに、慎重になっている声だった。事実が揃うほど、殿下が加速する。加速した先に何があるか、この側近はもう見えているのだろう。


アルベルトは薬材名の列を指先でなぞった。


少量。高純度。定期的。回収地点は学園寄り。


《グレン》は闇市場の深部に棲む怪物ではない。もっと小さい単位で、もっと正確に、自分の必要量だけを切り出して動いている。


「教授は」


「まもなく」


ルーカスがそう答えた直後、扉が叩かれた。


エルマー・グレイヴは朝の光を背負って入ってきた。白衣の裾は整い、眼鏡の縁には曇り一つない。整いすぎた人間は、整えることに意識を使っていない。もっと別のところに頭が行っている証拠だ。教授の目がそうだった。穏やかに見えて、奥の方だけが飢えている。何かを見つけかけている人間の目だった。


「殿下」


一礼は浅い。礼節に欠けるわけではない。この人間にとって最優先が常に別にあるだけだ。


「結論から申し上げます。旧実験棟の残滓、押収済みの本物の反応、そしてこの購入記録――繋がります」


ルーカスの肩が僅かに強張った。アルベルトは動かなかった。動かないが、指先だけが机の端を押さえている。


教授は机上の紙の一点を指した。


「作り手は、力で押していません。量でもない。工程です。手順で勝っている」


その言い方を、アルベルトは前にも聞いた。同じ言葉が二度出てくるとき、それはもう仮説ではなく確信になっている。


「偽造品は粗い。押収された本物ですら、反応に揺れがある。ですが旧実験棟に残っていた極微量の残滓は、揺れが小さすぎる。ここまで揃うのは、偶然でも天分だけでもありません。反復です。身体に落ちた理論です」


教授の声は少しも熱くなかった。温度がないことが、むしろ怖い。声に熱がある人間は、冷めることがある。熱のない執着は、冷める理由を持たない。


「つまり?」


「近い、ということです」


静かな断言だった。


「学園の外から闇に紛れて流している人間ではありません。理論に触れ、器具に触れ、掃除の癖まで持っている。そしてそれを学園の死角で運用できる人間。学園関係者、あるいはその周辺と考えるのが自然です」


ルーカスが口を開いた。


「学生でも成立する、と」


「ええ。教員でも成立します」


「使用人は」


「理論が足りません。少なくとも、ここまで純度を揃える人間は、薬を混ぜるだけでは駄目です。工程の意味を知っている。失敗の理由を言語化できる。そういう知性です」


知性。


その言葉が部屋に落ちた瞬間、アルベルトの指先が机の端を少し強く押さえた。紙が僅かにたわむ。


教授は結論を出した。出したが、結論に至る過程のすべてを共有したわけではなかった。手順の分析の中で、もう一つ気づいたことがある。掃除の癖の中に、ごく僅かな、だが系統の異なる触媒の残り香。それはまだ、自分の研究室にしかない。


渡す必要があるかどうかは、もう少し見てから決める。先に全部を渡してしまえば、王城の力で摘み取られる。摘み取られた花は、もう咲かない。


教授は続けた。


「焦って刈り込めば潜ります。こういう手合いは、追えば追うほど深く沈む。ですが、表に立たせれば別です」


アルベルトの視線が上がる。


「表に?」


「ええ。学園という場所は、隠れるのには向いていても、見られることには弱い。人の目が多いからです」


ルーカスの視線が、そこで教授の横顔に触れた。一瞬だけだった。だがその一瞬で、ルーカスは教授の声の中にあるものを聞き取った。捜査への助言ではない。実験の設計だ。「表に立たせて反応を見る」。それは容疑者を追い詰める手法ではなく、条件を整えて観察する研究者の言葉だった。


ルーカスはそれを指摘しなかった。指摘する余裕がなかった。殿下がもう、次の手を組み始めている顔をしていたからだ。


教授は机の上の紙を軽く叩いた。


「追跡ログ。残滓。素材ルート。これだけ揃えば、密かに探す段階は終わりです。次は、逃げ場のない場所で反応を見るべきでしょう」


執務室が静まり返った。


アルベルトは何も言わなかった。言わなかったが、その沈黙は、もう答えに近かった。


学園関係者説。その言葉が、部屋の空気の中で形を持った。形を持ったものは、必ず次の手を呼ぶ。


---


昼の学園は、妙に明るかった。


白布の運動はまだ続いている。掲示板には新しい署名数が貼られ、寄付箱は半分ほど埋まっていた。正義は数字が好きだ。数字になると、自分たちが世界を動かしている気分になれるから。


私は廊下の窓際を歩きながら、下の中庭を見た。


ルミナ・セレスタが生徒たちに囲まれている。柔らかい微笑み。聖印の白い光。その少し後ろを、アルベルトが教師と話しながら通っていく。外套の黒が、白い制服の群れの中で一つだけ際立っている。さらにその横に、白衣の教授。エルマー・グレイヴ。


三人が同じ画面に入る光景は、あまり良くない。


教授が何か紙を差し出した。アルベルトが受け取る。教師が頷く。位置が遠くて中身は見えない。見えないが、三人の間に流れている空気だけは見えた。静かだ。静かなのに、もう動いている。


教授が紙を渡し終えた後、ふと顔を上げた。視線が校舎の方へ流れた。二階の窓の方へ。


私は窓から離れた。


教授の視線がここに届いたかどうかは分からない。分からないことが、一番怖い。


「お嬢様」


半歩後ろで、カイルが声を落とした。


「見たか」


「ええ」


「最悪だな」


その一言が、珍しく少し軽かった。軽く言わないと本当に最悪になるとき、この男は逆にこういう声を出す。怖さを薄めて、口の中で転がしやすくするための声だ。


「来たわね」


私が呟くと、カイルの息が少しだけ止まった。


「何が」


「点が線になる時が」


窓から離れた。立ち止まって見ていると、それ自体が記憶に残る。今はまだただの生徒の顔でいた方がいい。


廊下を曲がったところで、カイルが低く言った。


「旧市街の耳屋が朝から走り回ってた。王城が学園の薬材搬入記録、研究室の使用簿、夜間出入りまで洗い始めたって」


「早いわね」


「早すぎる。しかも裏だけじゃねぇ。表の手続きで来てる。だから止めづらい」


表の手続き。それが一番厄介だ。裏の捜査なら壊せる。表の手続きは、壊した瞬間にこちらが悪役になる。


ルミナの運動がちょうどいい旗になっているのだろう。赤撲滅。被害者救済。正しい言葉の下に王城の手が入れば、学園は拒みにくい。


「旧実験棟は」


「もう見られたと思った方がいい」


カイルの声が低くなる。


「……拠点、全部切るか」


「全部は無理よ」


「でもこのままじゃ」


「知ってる」


知っている。知っているから、考えている。


固定の拠点はもう持てない。紙は残せない。材料は一か所に置けない。ルートも、顔も、順番も、全部切り直しだ。


そういう計算をしている横で、昼の学園は変わらず明るい。誰かが笑い、誰かが署名用紙を抱え、誰かが聖女の名前を話題にする。


---


その日の放課後、王城ではもう次の手が決まりかけていた。


執務室に戻ったアルベルトは、机の前に立ったまま地図盤を見ていた。朝と同じ盤面。同じ青い光。だが朝よりも、自分の中の形がはっきりしている。


学園の誰か。あるいは学園の近くにいる誰か。


もうそこまではいい。問題は、その先だった。


捕まえる。当然だ。国家の敵だ。それで終わる話のはずなのに、胸の奥に別の声がある。直接見たい。確かめたい。あの声を、もう一度聞きたい。


気持ち悪いほど個人的な渇きだった。正義の形に収まらない。収まらないものほど、強く残る。


「殿下」


ルーカスが戻ってきた。書類を一枚差し出す。


「学園側は協力的です。赤撲滅運動の延長として、来週の公開集会に合わせた薬品庫査察、実験室点検、生徒私物の抜き取り検査まで認める方向で動いています」


公開集会。


アルベルトの目が、その一語の上で止まった。


「公の場で行えば、逃げ場は減ります。隠れている者は動かざるを得ない。教授も、その形が最も効果的だと」


アルベルトは少しの間、書類を見つめていた。公開集会。薬品庫査察。私物検査。立会人は王城、学園、聖女派。表の正しさを全部並べた形だ。誰も反対しづらい。そして、誰か一人を舞台へ上げるには十分すぎる。


「殿下」


ルーカスの声が、少しだけ落ちた。


「これは、公開摘発です」


「そうだ」


「……退路がなくなります。相手の、だけではなく」


アルベルトの蒼い瞳が、静かにルーカスを見た。


ルーカスは目を逸らさなかった。逸らさないことが、今の彼にできる最後の抵抗だった。進言はもう飲み込んだ。飲み込んだ言葉の代わりに、視線だけで伝えようとしている。これは後戻りできない手だと。殿下自身の退路も閉じると。


アルベルトはその視線を受け取った。受け取って、それでも言った。


「逃がさない」


短い言葉だった。


ルーカスはその声を聞いた。「逃がさない」。捜査官の言葉だ。だが声の温度が違う。逃がしたくない。見つけたい。終わらせたくない。そういう個人的な欲が、正義の言葉の裏に薄く貼りついている。


ルーカスは一礼した。完璧な角度だった。完璧な礼でしか隠せない表情がある。今がそうだった。


「ルーカス」


「はい」


「準備しろ。次は公開で捕らえる」


その言葉を聞いたとき、ルーカスの背筋に走ったのは忠誠ではなかった。予感だった。この先に待っているものが、殿下が想像しているものとは違うかもしれないという、根拠のない、しかし消えない予感。


だが予感は進言にならない。


「承知しました」


声は平坦だった。平坦にするしかなかった。


---


夜、自室に戻ってからも、私はしばらく灯りを消さなかった。


机の上には何も広げていない。紙はもう置かない。置くものは、燃え残るからだ。


それでも机の前に座っているのは、考えるためだった。考え事は身体の形がないと進まない。立っていると逃げの計算になる。座ると整理になる。


窓の外で風が鳴っている。廊下の向こうで足音が一つ、止まって、また遠ざかった。バーナードか、別の使用人か。屋敷の中にいると、今は何もかもが耳につく。


扉が二度、軽く叩かれた。


カイルだった。


入ってくるなり、外套のまま壁に背を預ける。今日はその姿勢を隠す余裕もないらしい。目の下が暗い。だが暗い目の奥だけは冴えていた。走り回ったあと、身体は疲れていても頭だけが回り続ける夜がある。今夜のカイルはそういう顔をしていた。


「決まった」


「何が」


「公開で来る」


私は頷いた。昼の時点で、だいたい読めていた。


カイルは続けた。


「来週、学園で大きい集会やるらしい。ルミナ様の運動の締めだか拡大だか、名前はどうでもいいけど、その日に王城が薬品庫と私物を一斉に見る」


「ええ」


「お嬢様、驚けよ少しは」


「驚いてるわ」


「そう見えねぇんだよ」


カイルが吐き捨てるように言った。だが怒っているというより、怖いのだろう。怖いとき、この男は少しだけ乱暴な声を出す。乱暴にすることで、怖さの輪郭を雑にして、見えにくくする。


私はランタンの火を見た。火は小さい。小さい方が落ち着く。


「驚いてる。でも、来るなら来るでやることは同じよ」


「同じじゃねぇだろ。公開だぞ。裏じゃない。逃げても目立つ。黙ってても絞られる」


「だから段取りを変えるの」


カイルが黙った。黙り方が重かった。「分かってるけど聞きたくない」ときの黙り方だった。


「固定の拠点は全部死んだと思って」


「……ああ」


「薬材は分散。器具は最小限。紙は持たない。グレンの動線も、昼と夜で切り離す」


「ブローチは」


外套の内側に触れた。静かに脈打っている。


「使うわ」


カイルの顔が歪んだ。


「まだ使うのかよ」


「向こうが見ているなら、見せるものも選べるもの」


カイルは何か言いかけて、やめた。やめたのは納得したからではない。反論の言葉が見つからなかっただけだ。見つからないことに苛立っている。この男は、反論できない状況が一番嫌いだ。


「カイル」


「何」


「今夜から、やり方を変えるわ」


カイルの目が少しだけ細くなった。意味は分かっている。もう、隠れながら稼ぐ段階ではない。向こうの舞台そのものを読んで動く段階に入る。


「……面倒くせぇな」


「ええ」


「でも、やるんだろ」


「やるわ」


カイルは短く息を吐いた。その息の中に、怖さも、諦めも、覚悟も入っていた。全部が混ざった息は、少しだけ震える。震えているのに、声は震えなかった。


「じゃあ、ついてく」


命令ではない。確認でもない。ただ、そうするしかない人間の声だった。そうするしかないと分かっていて、それでも自分の口で言う。言わないと、ついていく理由が自分の中で固まらないから。


私は答えなかった。答えなくても、この男は半歩後ろにいる。それで十分だった。


「お嬢様」


「何」


「……まだ、大丈夫か」


その声は小さかった。独り言みたいだった。たぶん半分は自分に聞いている。壊れていないか。まだ動けるか。そう確認するみたいに。


「大丈夫よ」


答えた声は、自分でも少しだけ柔らかかった気がした。


気のせいかもしれない。


ランタンの火を、さらに少しだけ絞った。


部屋の影が深くなる。深くなった影の中で、ブローチの脈動だけが静かに続いていた。


もう、全部が変わり始めている。


変わらないのは、この脈動と、半歩後ろの足音だけだ。


---


メーター:資金 大/疑念 特大/執着 特大/支配 大



第2章 完


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