二重冷酷
朝の王城は、紙の音ばかりがよく響いた。
報告書をめくる音。
ペン先が机を叩く音。
そして、地図盤の上で青い光点が静かに明滅している――音はしない。しないはずなのに、アルベルト・ヴァルディスには聞こえる気がしていた。
光点は今日も学園区画の近くにあった。
昨夜、旧市街へ流れ、しばらく留まり、また戻ってきた。建物単位の精度しかない。なのに十分すぎた。近い。自分が毎日足を運ぶ場所の近くに、《グレン》はいる。
机の前に立ったまま、アルベルトは盤面を見下ろしていた。
贈り物は捨てられなかった。それだけでなく、持ち歩かれている。毎日、同じ範囲を動き、夜になると南へ下り、また戻る。その往復が地図盤の上に青い線となって積み重なっていく。
捜査官にとっては行動パターンの蓄積だ。
だがアルベルトの胸の奥で生まれる感情は、分析の満足とは少し違っていた。消えていないことを確かめられた安堵に近い。それが何に対する安堵なのか、自分でもまだ正確には名づけられなかった。
ルーカスが一歩後ろに控えていた。報告書の束を抱えたまま、いつもの無駄のない立ち姿。だが最近、その無駄のなさが少しだけ固くなっている。主の視線の行き先が、以前とは変わったことを感じ取っているのだろう。
「殿下」
「言え」
「昨夜のログです。滞留地点の変化はありません。学園近辺、旧学術院区画、南区旧市街。この三点を往復する傾向が続いています」
アルベルトは答えなかった。
青い光点が脈打っている。規則的に。静かに。
ルーカスが少しだけ声を落とした。
「学園での動きも強まっています。ルミナ・セレスタ嬢の運動により、生徒間の空気は完全に赤撲滅へ傾きました。ここで婚約者殿下のお立場を、改めて整理しておくべきかと」
婚約者。
その単語で、アルベルトの視線がほんの僅かに動いた。盤面から、ルーカスの肩のあたりへ。顔ではなく肩。人は考えたくないことを言った相手の顔を、あまり見ない。
エリシア・アルヴェイン。
無能。沈黙。冷たい深紅の瞳。何もできない婚約者。
そのはずだ。そう思ってきた。
だが最近、その像の隣に、別のものが立つようになった。
《グレン》。
冷酷で、合理的で、完璧な誰か。
正反対のはずなのに、最近はその二つの像が同じ場所に立つ。
その違和感が、頭の中に小さな棘みたいに残っていた。
「昼に呼べ」
「……エリシア嬢を、ですか」
「そうだ」
ルーカスの喉仏が僅かに動いた。何を言うつもりなのか読めていない顔だった。
「承知しました」
一礼して、扉へ向かう。
扉の前で、ルーカスの足が止まった。
短い停止だった。半歩にも満たない。背中が僅かに強張り、肩が持ち上がりかけて、戻った。何かを言おうとしたのだ。言おうとして、やめた。
アルベルトはそれに気づかなかった。
盤面を見ていたからだ。
ルーカスは振り返らなかった。振り返らないまま、扉を開け、出ていった。扉が静かに閉まる。
ルーカス・ハルトは仕えて六年になる主の変化を、一番近くで見てきた。政策に没頭する夜。剣の稽古に集中する朝。捜査に熱を入れる週。どれも見てきた。だが今の熱は、そのどれとも違う。もっと個人的で、もっと危うい。
進言すべきだった。
《グレン》の件と婚約者の件は別だと。
だが言ったところで届かないことを、ルーカスはもう知っていた。届かない言葉を繰り返すと、信頼の残高が減る。信頼の残高が減れば、本当に必要な瞬間に声が届かなくなる。
だから黙った。
黙いたまま廊下を歩きながら、ルーカスは自分の判断が正しいのかどうか、少しずつ分からなくなっていた。
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昼の学園は、昨日よりさらに白く見えた。
白布。署名台。寄付箱。
ルミナの運動の名残が、まだあちこちに残っている。掲示板の横、食堂前の柱、礼拝堂への渡り廊下。正義は痕跡を残すのが上手い。見える場所に自分の正しさを貼りつけていく。
私は昼休みの終わりに呼び出された。
場所は中庭に面した小会議室。生徒会や教師との面談に使う部屋。窓が大きく、逃げ場がない。逃げ場のなさを、光で柔らかく見せている部屋だった。
中にはアルベルトだけがいた。
立っている。机には何も置かれていない。何もないこと自体が、この面談が「相談」ではなく「確認」だと物語っていた。
扉が閉まる。
私は一礼した。
「殿下」
アルベルトは返礼しなかった。顎を僅かに引くだけ。返礼しないことが当然だと思っている場所でだけ、人はこういう動作を代わりに使う。
「座れ」
「立ったままで結構です」
「そうか」
短い応答だった。窓から光が入っている。明るいのに、部屋はどこか冷たい。この人がいる部屋は、だいたい少しだけ温度が下がる。
アルベルトは窓辺に視線をやってから、ようやくこちらを見た。蒼い瞳。その中に、何かを確かめようとする光がある。
「昨日の運動には協力したそうだな」
「署名はいたしました」
「本心からか」
質問というより確認だった。
「苦しむ方がいるなら、反対する理由はありません」
「だが君は、中心には立たない」
ほんの少しだけ、言葉が鋭くなる。
「いつもそうだ。君は責任のある場所に立たない。反論もしない。主張もしない。何もしないまま、被害だけを受けた顔をする」
この人、今日は機嫌が悪い。
ルミナの運動が思った通りに進んでいるのに、機嫌が悪い。理由はたぶん、別のところにある。
「被害だけを受けた顔、ですか」
「違うのか」
「どう見えるかは、殿下の自由です」
アルベルトの眉が僅かに動いた。この返しが気に入らないのだろう。この人は、私が怒るか泣くかする方が扱いやすい。沈黙と平坦な返答は、いつも少しだけ苛立たせる。
「君は何もできない」
声は低く、よく通った。怒鳴りではない。怒鳴らない方が、言葉はよく刺さる。
「何もできない人間が、中途半端に善人ぶるな。ルミナの運動に名前だけ貸して満足するくらいなら、最初から黙っていろ」
私は黙って聞いていた。
だがアルベルトの目が、一瞬だけ泳いだ。
自分の言葉の矛盾に気づきかけたのだ。
ルミナの運動を支援しているのは彼自身だ。その運動に婚約者が署名しただけで怒る理屈は、どこにもない。怒っている理由が別にあることを、この人自身がまだ整理できていない。
目が泳いだのは、その整理のつかなさが一瞬だけ表面に出た証拠だった。
だがすぐに目が戻る。
自分の矛盾を見なかったことにする速さだけは、さすがだった。
「君には《グレン》のような力もない」
来た。
「少なくとも、あの人間は自分のやっていることの価値も危険も分かった上で動いている。冷酷だ。だが無駄がない。判断がある。責任もある」
蒼い瞳が、真っ直ぐこちらを見た。
「君とは違う」
部屋の静けさが、一瞬だけ深くなった。
そりゃそうでしょうね。
私だもの。
「そうですね」
私は言った。
「殿下の仰る通りです」
アルベルトの表情が、そこでほんの僅かに止まった。否定も反発もないことが、気に入らないのだろう。自分の言葉がもっと傷になると思っている。傷になったところを見たいのだ。自分が正しいと確認するために。
けれど私は、今この部屋で傷ついている暇がない。
アルベルトは視線を逸らし、窓の外を見た。生徒たちが歩いている。白い制服。笑い声。平和な昼の形。
「……君は」
言いかけて、止まる。
何を言おうとしたのかは分からなかった。責める言葉の続きを探したのか。あるいは、全く別の言葉が喉元まで来て、飲み込んだのか。
止まった時間は短かった。だがその短い時間の中で、アルベルトの横顔に何かが過ぎった。怒りではなかった。困惑に近い。自分が何をしに来たのか、自分でも分からなくなっている人間の顔だった。
数秒の沈黙のあと、アルベルトは再び冷たい声に戻った。
「今後、ルミナの運動に余計な形で近づくな。君がいると空気が濁る」
「承知いたしました」
一礼した。完璧な角度。
扉へ向かう。背を向けた瞬間、アルベルトの声がまた飛んだ。
「エリシア」
足を止める。
「何でしょう」
沈黙。
長い沈黙ではなかった。だがこの部屋の中では、一拍の沈黙が十分に長かった。
「……もういい。下がれ」
振り返らずに部屋を出た。
廊下へ出た瞬間、肺の中の空気が少しだけ軽くなった。軽くなったのに、胸の奥には別の重さが残っていた。
《グレン》には敬意。
婚約者には侮辱。
その二つを同じ口でやるのは、なかなか器用だ。器用で、滑稽で、少しだけ危うい。
あの人の中では、もう二つの像が並び始めている。並んでいるのに、絶対に交わらないと思い込んでいる。思い込みは強い。強いが、強いものほど割れたときの音が大きい。
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廊下の角でカイルが待っていた。
壁に背をつけるふりをして、耳だけこちらに向けている。いかにも聞いていましたという顔ではなく、聞こえた分だけ拾った顔だった。
「……どうだった」
「冷たかったわ」
「どっちに」
「両方」
カイルの眉が寄る。
「は?」
「私には無能って。グレンには完璧って」
数秒、カイルの顔が止まった。それから口元だけが引きつった。笑いを堪えているのか、怒りを堪えているのか、本人にも分かっていない顔だった。眉は怒りの角度なのに、口元は笑いの形をしている。そのどちらにも振り切れないまま、顔全体が中途半端に歪んでいた。
「……あの王太子、ほんとに」
「ええ」
「言ってる意味、分かってねぇんだろうな」
「分かってたら困るわ」
カイルが短く息を吐いた。その息には呆れと、少しの怒りと、ほんの少しの哀れみが混ざっていた。三つの感情が一本の息に入りきらなくて、少しだけ音が割れた。
「勝手に崇めてるだけならまだしも、本人に向かってそれ言うの、どうかしてる」
「どうかしてるのよ。でも今はそのままでいてもらう方が安全だわ」
カイルは頷きかけて、途中で止まった。安全だと理解している。しているが、納得はしていない。
「嫌な予感がするの」
「……何の」
「帰ったら分かる」
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公爵家の屋敷は、夕方になると人の足音が増える。
夕食の準備。使者の出入り。洗濯物の回収。帳簿の受け渡し。昼間より忙しいのに、不思議と静かに見えるのは、全員が自分の役目の範囲だけを動いているからだ。
私室へ向かう途中、廊下の空気が少し変わった。
バーナードがいた。
執事はいつも通りの角度で立っていた。背筋に一本鉄が入ったような姿勢。手袋を嵌めた手。感情を表に出さない顔。だが今日は、その無表情が少しだけ整いすぎていた。整いすぎているときは、だいたい何かある。人は隠し事があるとき、普段より丁寧になる。
「お嬢様」
「何かしら」
「失礼ながら、お部屋の整理をしておりました」
整理。
その単語だけで、背中の奥が少し冷えた。表には出さない。
「珍しいわね」
「先日の運動以降、屋敷でも寄付品や私物の見直しを進めております。旦那様のご意向です」
父らしい。正義の空気にはすぐ乗る。
「そう」
「その際――」
バーナードの白手袋の指先が、銀盆の上の紙切れを示した。
小さい。切れ端。だが見覚えがあった。
母の工房にあった、古い帳簿の断片。素材の購入記録だ。母が生きていた頃のもので、私が工房を引き継いだときに整理したはずだった。薬草名は消してある。日付も半分しか残っていない。だが、店の略号が残っていた。母が昔から使っていた商会の、癖のある略号。
一瞬だけ、呼吸が遅れた。
処分したつもりだった。母の遺品を整理するとき、帳簿はすべて焼いた。すべて焼いたはずだった。だが紙は、机の裏の隙間に挟まることがある。端が折れて、見えない場所に入り込む。完璧に焼いたつもりでも、一片だけ生き残ることがある。
「……これは」
「お嬢様の机の裏に挟まっておりました」
机の裏。
たった一片。たった一片で、人は死ぬほど焦る。
バーナードは紙切れを拾っただけの顔をしていた。だが、その目は違う。この人は、もう紙そのものより私の反応を見ている。反応を見る人間は、答えを知りたいのではない。答えを知る必要があるかどうかを判断しようとしているのだ。
「何の購入記録でしょうか」
声は丁寧だった。丁寧すぎる声は、逃げ道を減らす。
私は銀盆の上の紙切れを見た。見たまま、数を数える。
店名の略号。日付の断片。品目の頭文字。これだけで決定打にはならない。ならないが、導線にはなる。
「母の古い控えかしら。工房の整理をしたとき、入り込んだのかもしれません」
嘘ではなかった。嘘ではないが、全部でもない。全部でないことを、バーナードは察している。察しているが、追及はしない。追及しない理由は二つある。確信がないか、確信があっても今は泳がせたいか。
「左様でございますか」
その一言だけ。その一言が、余計に怖い。
「お返しいたします」
銀盆ごと差し出される。受け取るしかない。受け取らなければ、隠したい物だと認めることになる。
指先で紙切れを取った。紙は軽い。軽いのに、妙に重かった。母の筆跡の名残が、端にほんの少しだけ残っている。母が書いた数字は、いつも右に傾いていた。その傾きが、指先から伝わってくる気がした。
「今後、お部屋の整理は私がいたします」
「お気遣い、感謝します」
バーナードが一礼する。完璧な角度。完璧すぎて、刃物みたいだった。
執事の足音が去っていく。一定の間隔。乱れない。乱れない人間は、疑いを持っても歩幅を変えない。だからこそ怖い。
部屋へ入り、扉を閉めた。
紙切れを机の上へ置く。
たったこれだけだ。
たったこれだけなのに、ここから先はいくらでも伸びる。
表も王城も学園も、もう十分に近い。
そこへ屋敷の中まで足音が入り始めた。
ノートを開いた。
『帳簿断片、母の旧記録。屋敷内で発見。対処:即時廃棄。屋敷内の紙類、再点検。』
ペン先を置く。置く動作が、いつもより少しだけ速かった。
紙切れを火皿の上に置いた。火をつける。小さな炎が、端から静かに食っていく。母の略号が最後に燃えた。右に傾いた数字が、炎の中で一瞬だけ浮かび上がって、消えた。
燃える紙の匂いは、いつも少しだけ甘い。
炎が消えるまで見届けた。
今夜は動かない。次の手を間違えられない夜だ。
扉の外で、足音が止まった気がした。気のせいかもしれない。こういうときの気のせいは、だいたい気のせいではないけれど。
ランタンの火を少しだけ絞った。
部屋の影が深くなる。影の方が、今は少しだけ安全だった。
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メーター:資金 大/疑念 特大/執着 特大/支配 大




