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聖女の正義運動


朝の学園広場に立った瞬間、空気が違った。


花壇の縁に白布が張られ、簡易の壇が組まれている。壇の脇には木箱がいくつも積まれ、箱の表には大きな文字でこう書かれていた。


赤撲滅支援金

救護院寄付受付

署名台


丁寧すぎる字だった。字が丁寧な人間は、こういう運動をよく育てる。感情だけではなく、紙と欄と順番で人を動かす術を知っているからだ。


壇の下には、もう人が集まっていた。令嬢たち。子息たち。平民出身の特待生。使用人見習い。教師までいる。まだ授業前なのに、皆どこか顔が明るい。悲しい話を聞きに来た顔ではない。正しい側に立てる機会を前にした顔だ。


正しい側に立つと、人は少しだけ救われる。自分の薄さから。


壇の後ろに、ルミナ・セレスタがいた。


白銀の髪。揺れない微笑み。胸元の聖印。今日の彼女は、いつもより白かった。服の色のせいではない。立ち方のせいだ。余計な揺れがなく、手の位置まで美しく決まっている。祈る人ではなく、祈られる側の立ち方だった。


その横に、エミリア、クレア、ジュリエット。三人とも顔に迷いがない。

エミリアは群衆を見ている。

クレアは困ったような、悲しいような表情を浮かべている。

ジュリエットは署名用紙と寄付箱の配置を確認している。


それぞれの持ち場だ。


そして少し離れた位置に、アルベルト・ヴァルディスが立っていた。


近すぎない。遠すぎない。支配者が「支援者」に見える位置。前へ出れば王太子の運動になる。出なければ聖女の運動になる。今の位置は、その両方を取る位置だった。権力は後ろに立っている方がよく効く。


鐘が鳴った。


ざわめきが静まる。静まり方が深い。誰かが息を整え、誰かが唇を引き結ぶ。


壇に上がったルミナが、静かに両手を組んだ。


「皆さん」


声は柔らかかった。けれどよく通った。柔らかくて通る声は、練習した人間の声だ。しかし練習したことが悪いわけではない。伝えるために磨いた声は、それ自体が誠意の形になる。


「今、王都では“赤”によって、多くの方が傷ついています」


広場が静まる。もう話の中身ではなく、話している人間に耳を傾けている静けさだった。


「家族を失った方がいます。働き手を失った家があります。苦しんでいる方を見ながら、何もできずに震えている人たちがいます」


ルミナの声が、広場の空気をゆっくり押していく。言葉の一つ一つが丁寧で、急がない。急がないことで、聞いている側に考える時間を与えている。考える時間を与えられた人間は、自分で考えたつもりになる。自分で考えたことは、人から与えられた正しさより深く残る。


ルミナはここで一度、目を伏せた。


伏せ方が綺麗だった。長くもなく短くもない。悲しみに耐えている人間の間合いだった。


「私は、そういう方たちを見過ごしたくありません」


声が少しだけ震えた。震えは本物かもしれない。本物であることと、上手いことは両立する。ルミナの目に薄い光が浮かんでいた。涙ではない。涙の一歩手前だ。一歩手前で止めている方が、人はよく動く。


広場の端で、年配の教師が顎を引いた。

特待生の少年が拳を握った。

令嬢の一人が隣の手を掴んだ。


一人一人の反応は小さい。だが小さい反応が数十集まると、空気になる。


「弱さにつけ込む“赤”は、病です」


その一言で、空気が固まった。


道徳の言葉は強い。構造を一気に単純にしてくれるからだ。依存も、市場も、供給も。全部まとめて「病」にしてしまえば、考える手間が消える。


「だから私は、皆さんにお願いしたいのです」


ルミナが顔を上げた。陽の光が聖印と頬を白く照らす。


「見て見ぬふりをしないでください。苦しんでいる人を、放っておかないでください。――赤を、許さないでください」


最後の一言で、群衆の呼吸が揃った。


拍手はすぐには起きなかった。起きるまでに一拍だけ必要だったのだ。感動は、いつも一拍遅れて身体に届く。


最初に手を叩いたのは、エミリアだった。

音が一つ。明確で、迷いがない。合図だ。


次にクレア。

ジュリエットが涙ぐんだ顔で頷き、周囲がつられて拍手を始める。


広場の空気が一気に明るくなる。悲しみの運動ではなく、参加できる運動へ変わった瞬間だった。


寄付箱の前に列ができる。

署名台に人が集まる。

「私も何かしたい」という顔があちこちで生まれていく。


欲望は夜に育つ。

正義は昼に育つ。


どちらも人を並ばせる点では、よく似ていた。


---


私は広場の端を通り過ぎた。


誰にも止められなかった。止める必要がないからだ。今の私は舞台の上にいない。いても邪魔なだけの、背景の令嬢だ。


それでも視線は来る。


「……エリシア様」


「来てたのね」


「さすがに今日は……」


囁き声は前ほど鋭くなかった。侮蔑だけではない。躊躇いが混じっている。可哀想の噂がまだ薄く残っているのだろう。完全な悪役には戻りきっていない。だが今日の空気は、それを押し戻す力を持っている。


壇の上のルミナが、こちらを見た。


一瞬だけ。見て、微笑んだ。


優しい微笑みだった。優しいのに、その奥に線がある。ここから先はこちら側です、と引くための微笑み。この人は線を引くのが上手い。しかも線を引いていることを、相手に悟らせない。線の内側にいる人間は守られていると感じ、外側にいる人間は自分が出ていったのだと思う。どちらも彼女を責められない。


「アルヴェイン様も、どうか」


ルミナが壇の上から言った。声は柔らかい。だが広場じゅうに届く音量だった。


「苦しむ方々のために、お力を貸してくださいますよね」


視線が集まる。


署名台の前の生徒。

寄付箱の前の令嬢。

後ろに控える教師。

そしてアルベルト。


全員が、私の返事を待っていた。


断罪ではない。拒絶でもない。参加を求める形で、逃げ道を潰している。


「ええ」


私は答えた。


「できる範囲で」


その返事に、広場の空気が少しだけ揺れた。もっと気まずくなると思っていた人間。もっと反発すると思っていた人間。何人かの期待が、ほんの少しだけ外れた。


ルミナはすぐに頷いた。


「ありがとうございます」


微笑みが深くなる。感謝の形を取ることで、こちらを「運動の下」に置いた。賛同しない悪役ではなく、賛同せざるを得ない立場の人間に。


周囲の空気がまた整う。


「あの方も、ちゃんと分かってくださったのね」


「ルミナ様のお力だわ」


正しさの側に飲み込まれていく音がした。静かで、滑らかな音だった。


私は一礼だけして、その場を離れた。


アルベルトの横を通るとき、彼の外套が風を切った。視線は向けてこなかった。向けないまま、ルミナの方を見ている。


だがその横顔は、少しだけ固かった。グレンの話をしているときの顔ではない。聖女を支える王太子の顔でもない。二つの役割のどちらにも完全には寄っていない、隙間の顔だった。


今の彼は、ルミナの運動を必要としている。

だが心の中心は別の場所にある。


---


昼休みの食堂は、午前中の演説をよく発酵させていた。


「寄付、した?」


「したわ。少しだけだけど」


「署名もした。うちの兄にも回すつもり」


「赤を撲滅するなら、もっと厳しく取り締まるべきよね」


「ルミナ様が動いてくださるなら、王都も変わるかも」


言葉の端々に、参加した満足が滲んでいる。人は善いことをした後の自分が好きだ。だからもう一度やる。正義の運動は、その繰り返しで太る。


食堂の隅では、ジュリエットが署名用紙を整理していた。指先が速い。無駄がない。この三人の中で、いちばん感情の温度が低い手つきだった。


クレアは二人の令嬢に囲まれて、困ったような顔で何かを話していた。困った顔をしていると、人は彼女を助けたくなる。助けたい気持ちは、運動への参加動機になる。


エミリアは中央のテーブルで笑っている。今日の空気がどれだけうまく回っているか、もう計算できている笑い方だった。


ルミナは少し離れた席に座っていた。大勢に囲まれているのに、騒がしく見えない。一人一人の視線を受けるのが上手いのだ。話しかけてきた相手の顔をちゃんと見て、頷いて、一言返す。その一言が、相手に「見てもらえた」と感じさせる。そういう人間は、人を集めるのではない。人が集まってくる。


私はその横を通り過ぎようとした。


呼んだのはルミナではなく、ジュリエットだった。


「アルヴェイン様」


足を止める。止めた場所は、食堂の中央から半歩外れた位置。完全に舞台の上ではないが、降り切ってもいない位置。


ジュリエットが署名束の中から一枚を抜き、きちんと両手で差し出してきた。


「今朝のご賛同を、こちらにも形としていただければと思いまして」


差し出されたのは署名用紙だった。上部にこう書いてある。


赤撲滅と被害者救済のための学園連名嘆願書


反対しづらい文面だ。救済に反対する者はいない。撲滅にも反対しづらい。二つを並べることで、両方を一つの正義にまとめている。


「今ここで?」


「はい。皆さんも、きっと安心なさいますから」


周囲が静かになる。


まただ。

今日は何度も、こうやって空気を集めてくる。


ただ、今度は朝と少し違う。

ルミナ本人が頼むのではなく、周囲が「当然ですよね」という形を作っている。本人が手を汚さず、空気だけで追い込むやり方だ。


私はペンを取った。


名前を書く。エリシア・アルヴェイン。


ペンの先が紙に触れた瞬間、ほんの一拍だけ指が止まった。


赤撲滅。この紙にこの名前を書く人間が、今夜も赤を作る。その矛盾が、ペン先を通じて指の腹に伝わったような気がした。


一拍だけだった。


インクが紙に沈む。


「ありがとうございます」


言ったのはジュリエットだった。

その声のすぐ後で、ルミナが柔らかく微笑む。


「きっと、皆さんにも伝わります」


食堂のあちこちで、空気がほどけていく。「やはり分かってくださった」「良かった」「これで学園は一つになれる」


一つにまとまった空気は、誰か一人を弾く準備でもある。


---


放課後、校舎裏の植え込みの影で、カイルを待った。


日が落ち切る前の空は薄青く、学園の石壁が冷たく見える時間だった。もう旧実験棟には入らない。教授の件がある。人目につかない場所で話すしかなかった。


半歩遅れてカイルが来る。いつもの距離。いつもの足音。だが今日は、その足音の中に苛立ちが混じっていた。靴底を地面に押しつける力が、いつもより強い。


「最悪だ」


開口一番、それだった。


「何が」


「昼の演説」


「聴いてたのね」


「俺だけじゃねぇ。裏の連中まで聞いてる。聖女様が赤撲滅だって騒いだって、もう旧市街の酒場に降りてきてる」


情報は速い。正義の話ほど速い。正義は自分に関係ない人間まで巻き込むからだ。


カイルは外套のポケットから紙片を出した。乱暴に折られたメモ。誰かの走り書きだ。インクが滲んでいる。急いで書いた証拠だった。


「上が焦ってる。本物を今まで以上に囲い込みたいって。締め付けが強くなる前に、欲しい奴はまとめて欲しがる」


「当然ね」


「当然で済ませるなよ」


カイルが低く吐き捨てた。声は荒れていなかった。荒れていない分だけ、本気で疲れているのが分かった。目の下に薄い隈がある。昨夜からずっと、路地を回っていたのだろう。


「今日の演説で、依存者の家族が何人か署名したらしい」


「そう」


「それで余計に、本物を欲しがる側が怯えてる。表じゃ赤を憎んでるくせに、裏じゃ今すぐ欲しがってる」


カイルの唇が歪んだ。嫌悪だった。人間そのものに対する嫌悪。だがその嫌悪の中に、自分も含めているような歪み方だった。この男は十九話の夜を忘れていない。自分も情で動いた人間だと分かっているから、人間の矛盾を責めきれない。責めきれないことが、余計に苛立つ。


「注文は増えた?」


「増えた。しかも質が悪い」


「どう悪いの」


「『金はいくらでも出す』『今夜中に』『他を切ってでも』――そういう欲しがり方」


カイルが紙片を握り潰しかけて、やめた。破ったら戻せないと知っている。情に流されるが、流されきる前に止まろうとする。そこがまだこの男の救いだった。


「ルミナ様は、上手いわ」


私は言った。


「何だよ急に」


「表で正義を集めれば、裏の依存者はもっと孤立する。孤立した人間ほど、本物に縋る。市場は細るどころか、逆に深くなる」


カイルが眉を寄せた。理解したときの顔だった。理解したくないことを理解した顔。口が少し開いて、閉じて、もう一度開いた。


「……つまり、あの運動のせいで、こっちの支配は強くなる?」


「ええ」


「最悪じゃねぇか」


「ええ。最悪で、便利」


カイルが顔をしかめた。その顔の奥に、ほんの少しだけ寒気がある。今、自分が仕えている相手が何を見ているのか、改めて思い知らされた顔だった。


「お嬢様、たまにほんとに――」


「怖い?」


先に言うと、カイルは言葉を切った。切ったあとで、短く息を吐いた。


「……そうだよ」


正直な返事だった。嘘がない声は、いつも少しだけ掠れる。


「昼の広場で、皆が『救いたい』って顔してたのに、お嬢様はその先の渇きの方見てる」


「見ないと死ぬもの」


「それでもだ」


カイルが視線を逸らした。逸らした先で、校舎の窓が夕陽を反射している。そこだけが少し赤い。


「……でも、あんたが正しいんだろうな」


小さな声だった。


正しい、ではない。生き残りやすい、だ。けれど今は訂正しなかった。


「カイル」


「ん」


「今夜は売らない」


カイルが顔を上げる。驚きの方が先だった。


「何で」


「表の運動が立ち上がった初日は、皆が過剰に動く。上も、下も、捜査も。そういう夜に品を出すと、情報も一緒に流れる」


「じゃあ需要はどうする」


「飢えさせる」


即答した。


「飢えた一晩の後の方が、交渉は通る。今夜は欲しがらせるだけでいい」


カイルが黙った。飢えた人間を見てきた顔だ。だから、このやり方の冷たさが身に沁みるのだろう。路地で震えていた従僕の顔が、今もどこかにあるはずだ。だが否定はしない。否定したくても、今の市場がそういう段階に入ったことを、もう身体で知っている。


「……分かった」


返事は重かった。


「噂だけ回す。『本物は消えてない』って」


「そう」


「で、明日には?」


「もっと高くなる」


カイルは苦い顔で笑った。笑っているのに、全然楽しそうじゃない笑いだった。


「正義ってのは、裏の値段まで上げるのかよ」


「旗を持ってる人間ほど、結果的に値段を動かすことがあるわ。本人が知らなくても」


それは本当だった。


---


夜の寮へ戻る途中、渡り廊下の手前で私は足を緩めた。


この時間帯、ルミナの側近たちがこの渡り廊下で打ち合わせをすることがある。演説の準備をしていた頃から、何度か見かけていた。今日のような大きな動きの後なら、なおさら。


少し先に、エミリア、クレア、ジュリエットがいた。ルミナはいない。だから声が少しだけ素になっている。


「今日の流れ、すごく良かったわ」


エミリアが言う。声は明るいが、明るさの質が昼間とは違う。昼間の明るさは群衆に向けたものだった。今の明るさは達成感だ。


「寄付も予想以上だったし、先生方まで署名してくださったもの」


クレアが小さく頷く。困った顔ではなかった。ほっとした顔だった。この子は人前で困った顔をするのが役目だが、その役目を降りた後はいつも少しだけ安堵している。


「でも、まだ空気が甘い気がするの」


ジュリエットが署名束を抱えたまま言った。声が冷静だった。


「可哀想の噂が残ってるからよ。そこを処理しないと、形が甘くなる」


上手い分析だった。


エミリアが口元を上げた。


「じゃあ、次はそれを切ればいいのよね」


クレアが少しだけ黙った。唇を噛んでいる。噛んでいるが、止めはしない。止めない程度の怖さだ。


「でも、あまり露骨だと……」


「露骨じゃなくていいの」


エミリアの声が柔らかくなる。柔らかくなるとき、この子は大抵よくない案を思いついている。


「皆の前で、ちゃんと“責任”を確認していけばいいのよ。赤に反対する側か、そうじゃないか。どっちに立つのかって」


ジュリエットが紙束を整えながら、低い声で言った。


「ええ。空気はもうできてるわ。あとは名指しするだけ」


渡り廊下の空気が、そこで少しだけ冷えた。


クレアが小さく息を吐いた。怖いのだろう。だがジュリエットの言葉には反論しない。材料がないのではない。材料を持つことを、自分に許していないのかもしれない。正しい側にいる人間は、正しい側の決定に逆らいにくい。


エミリアが笑った。嬉しそうだった。この子は誰かを追い詰めること自体を楽しんでいるわけではない。運動がうまくいくことが嬉しいのだ。うまくいく過程で誰かが傷つくことを、まだあまり想像できていない。想像できていない善意が、一番鋭い刃になる。


エミリアが、明るい声のまま言った。


「次は、エリシア様を“糾弾”しましょう」


三人の足音が遠ざかっていった。


私はその場を動かなかった。


予想通りだった。

予想通りなのに、少しだけ冷たい。


表では、正義の運動が私に向かってくる。

裏では、渇きがさらに深くなる。

そしてその両方の中心に、グレンの名だけが残る。


悪くない。


悪くないが、面倒だ。


踵を返した。足音は静かだった。


外套の内側で、あの小箱が静かに脈打っている。教授が近づいている。聖女が旗を振っている。王太子の地図盤に、私の動線が刻まれている。


全部、同時に来る。


同時に来るなら、同時に捌くしかない。


寮の廊下を歩きながら、明日の段取りだけを考えた。


---


メーター:資金 大/疑念 特大/執着 大/支配 大


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