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冷徹な救出


旧実験棟の仮工房で、ランタンの火だけが静かに揺れていた。


カイルは壁にもたれたまま、床を見ていた。見ているのに、何も見えていない顔だった。たぶんまだ、さっきの路地を見ている。掴まれた従僕。裂けた布。硝子が石床に当たる軽い音。そのあたりが、目の裏に貼りついて離れないのだろう。


私は机に手を置いたまま、動かなかった。


怒っているのではない。数えているのだ。


路地の位置。見られた角度。従僕の身分。捕まった時間。末端捜査官の動き。夜のうちに報告がどこまで上がるか。夜明けまでに潰せる線と、もう潰せない線。


損失の計算は、感情より先に終わる。


「その従僕、屋敷の名前は」


カイルが顔を上げた。少し遅れて口が動く。


「……バークリー伯爵家の別邸付きだ。表の屋敷じゃなくて、南の離れの方」


「年は」


「二十前後。妹が田舎にいるって」


「名前は聞いた?」


「聞いてない」


聞いていない方がまだいい。名前は線になる。線は辿れる。


「捕まった場所は肉屋の裏手。あの路地なら、夜番は仮詰め所に一度戻すだけね。王城まで上げるには小さい」


カイルの喉が動いた。


「……助かるのか」


「まだ」


冷たい返事だったと思う。けれど今は温度を選んでいる余裕がない。


「助ける」


カイルの肩が僅かに動いた。


「――ただし、あなたのためじゃない」


その顔が、少しだけ歪んだ。痛みなのか安堵なのか、本人にも分かっていない歪み方だった。


「今あの従僕が口を割れば、末端路地からあなたへ線が伸びる。あなたで止まればいいけど、止まらない。市場まで触られる。私はそれを許さない」


カイルは反論しなかった。できないと分かっている顔だった。


「俺も行く」


「駄目」


「でも――」


「あなたは顔を見られてる。二度目は記憶が輪郭になる。今夜のあなたは邪魔よ」


邪魔、という言葉に、カイルの顎が僅かに引かれた。殴られたのと同じ反応だった。けれど言い返さない。怒っているのではなく、自分の失敗にまだ追いつけていない顔だった。


私はもうカイルを見ていなかった。机の引き出しを開け、細い小瓶を一本だけ取り出す。売り物の封ではない。無地の硝子。中の赤は少ない。けれど色だけで分かる。偽物では出せない深さだった。


「それ……」


「保険」


「渡すのか」


「渡さないと退かない相手がいる」


外套を羽織る。喉元の金具を留める。手袋を嵌める。変声器の金属板を舌の裏に押し当てる。口の中に硬い異物感が広がる。三度、短く息を吐いて馴染ませる。公爵令嬢の輪郭が、一つずつ消えていく。


「カイル」


「……はい」


「あなたは東門の影にいて。鐘が一つ鳴るまで戻らなかったら、古井戸のルートを切る。それで今夜の線は半分死ぬ」


「半分、か」


「全部は守れない」


その言葉で、カイルの顔が少しだけ変わった。今さら気づいたような顔だった。このやり方は最初からそうだった。全部を守るためのものじゃない。切る順番を決めるためのものだ。


犠牲ゼロではない。最初から。


扉を開けた。夜の冷気が工房に流れ込む。


背中にカイルの視線を感じたまま、廊下へ出た。


---


南区の仮詰め所は、倉庫を半分だけ改装した粗末な建物だった。


表には灯りが二つ。裏手に一つ。見張りは三人。少ない。少ないが、少ない夜ほど練度が高い。


裏の搬入口は鍵が壊れたまま放置されていた。蝶番が錆び、下の隙間から冷たい風が吹き込んでいる。仮設の施設はどこもそうだ。恒久的でないものに、誰も金をかけない。


私は搬入口から入った。


声を変える金属板が舌の裏で冷たい。呼吸を浅くする。匂いを散らさないためだ。鉄錆の匂いは思ったより遠くまで残る。殿下は、そういう残りものも読む人間だ。


通路は短かった。石壁の左右に木の扉が並んでいる。ほとんどは閉じているが、一つだけ細く開いている扉があった。灯りが漏れている。その向こうに机があり、机の前に若い捜査官がいた。


年は二十五前後。制服の襟はきちんと留めているのに、袖口だけ擦り切れている。几帳面だが余裕のない人間の服だ。机の上に報告書。インク壺。蓋が開いている。だがペンは置かれたまま。書きかけて止まっている。


その横の棚に、押収品袋が見えた。


油紙の上に、小瓶の破片が散らばっていた。割れている。中身はほとんど石床に染みたのだろう。油紙に残っているのは欠片だけだ。だが破片の縁に、赤い液の乾いた跡が僅かに残っている。


間に合った。報告はまだ上がっていない。


「誰だ」


若い捜査官が立ち上がる。椅子が石床を擦る音。手が腰の短剣に触れた。速い。だが抜かない。抜けば音が出ると分かっている手つきだった。


「その従僕を放して」


変えた声で言うと、男の眉が寄った。


「何だと」


「今夜ここで押さえた灰色の上着の従僕よ。あれは売人じゃない」


「……なら何だ」


「主人の発作を止めるために外へ出ただけの、使い走り」


男の目が細くなった。信じていない目だ。だが完全には切れていない。切れない理由が、机の端に見えた。


薬包紙。三角折りの雑な包み。中身は見えないが匂いはする。赤ではない。代用の鎮静剤。効かない方の薬だ。


「あなたの上司も、同じものを探してるんじゃない?」


男の指が止まった。


短剣の柄に触れていた指が、そのまま動かなくなった。一瞬だった。だが一瞬で十分だった。


男の目が泳いだ。隠していたものに触れられた人間の反射だった。


「……何者だ」


「選択肢を持ってきた人間よ」


小瓶を卓の上に置いた。赤が、ランタンの灯りを吸って静かに光る。


男の瞳が揺れた。否定したいのに、目だけが先に欲しがる揺れだ。


「その従僕は放す。報告には『主人の私物を持ち出して逃げたところを取り押さえたが、禁制薬は確認できず』と書く」


男は小瓶から目を離せなかった。


「……それで、これを寄越すのか」


「違う」


一歩だけ近づいた。


「それは、あなたの上司が明朝まで持つかどうかの話」


男の顔から血の気が引いた。


机の向こうの扉の奥で、何かがぶつかる音がした。誰かが寝台を蹴った音だ。低いうめき声が続く。


若い捜査官の視線が、ほんの一瞬だけそちらへ流れた。


「あなたが今ここで功を焦れば、報告は上がる。上がれば路地が死ぬ。路地が死ねば、明日から本物は消える。消えたとき、あなたの上司がどうなるか――責任は誰が取るの?」


若い捜査官は何も言わなかった。


言い返す理屈より先に、思い当たる顔が浮かんでいるのだろう。昨夜から眠れていない上司。壁に手をつく上司。効かない薬包紙を机に置いて、それでも何もできない夜番。


奥の扉で、また音がした。今度は声だった。言葉にならない声。人が苦しんでいる音は、どんな音楽より耳に残る。


若い捜査官の手が、報告書の上で止まった。


インク壺に伸びかけて、戻る。

もう一度伸びて、縁に触れる。

そのまま動かない。


「……あんた」


声が掠れた。


「市場の奴か」


「答える必要はないわ」


「脅してるのか」


「脅してない。計算を渡してるだけ」


小瓶を指先で押す。赤は少しだけ転がり、男の手の届く位置で止まった。


「その従僕は今夜のうちに屋敷へ戻しなさい。ただし、元の持ち場には戻さない。東へ出す。妹の所でも、別の領でもいい。ここに残したら、次は口を割る」


犠牲ゼロではない。救うのは命だけだ。今までの生活までは守らない。


「……なぜそこまで」


男がようやく小瓶から目を上げて訊いた。疲れた人間の顔だった。


「あなたのためじゃないわ。市場を壊されたくないだけ」


男は何か言いかけて、やめた。押収品袋を手に取り、小瓶の破片を中へ戻す。報告書を一枚引き寄せ、最後の一行を短く書き直した。文字数が減った。


「……ここには何も残さない方がいい」


見逃す代わりに、跡も消していけということだ。


卓の端に赤い微粉が落ちていた。さっき小瓶を置いたとき、栓の縁から僅かに散ったものだ。手袋の指で拭き取る。だが完全には取れない。石の目地に入った分は残る。手袋の内側に染みた工房の匂いも、少しだけ空気に混じった。


急いだ夜ほど、そういうものが残る。


男は従僕を連れてくるために奥へ消えた。扉が開いたとき、うめき声が一瞬だけ大きくなった。すぐに扉が閉まって途切れる。


従僕は奥から出てきた。


頬が少し腫れていた。右の頬。手の甲で殴られた跡だ。歩き方もおかしい。右足を庇っている。だが自分の足で立っている。目は怯えているが、折れてはいない。


「東門までだ」


若い捜査官が低く言った。


「そこから先は知らない」


「十分よ」


従僕がこちらを見た。見て、何か言おうとした。


私は先に首を振った。


今は声を残させたくなかった。


---


東門の外れで、カイルは壁の影に立っていた。


立っていたが、立っているのが精一杯という姿勢だった。腕を組み、爪先で小さく地面を叩いている。待つことに耐えられない人間の癖だ。


従僕の姿を見た瞬間、顔色が変わった。驚きと安堵が同時に来ると、人の顔は少し間抜けになる。


「……生きてる」


「ぎりぎりね」


従僕はふらついていた。カイルが反射で肩を支える。その動きが速い。考える前に手が出る。今夜の始まりと同じだ。


「お前、東へ行きな」


カイルが低く言った。


「今夜中に消えろ。妹の所でも、どこでもいい。もうこの街に戻るな」


従僕は何度も頷いた。頷きすぎて、最後は頭を下げる形になった。頬の腫れが灯りの下に出た。カイルがそれを見て、一瞬だけ歯を食いしばった。


従僕が暗がりへ消えた。右足を庇う、不揃いな足音が遠ざかる。その音が完全に消えるまで、カイルは動かなかった。


それからようやく、こちらを向いた。


「……助けたのか」


「市場を守ったの」


「でも、助けただろ」


その言い方が嫌いだった。嫌いだが、今は否定する方が面倒だった。


「あなたが掴まれば、全部崩れる。それを避けただけよ」


「それでもだ」


カイルの声は少しだけ掠れていた。安堵の後にくる、整理のつかない感情が混じった掠れ方だった。


「お嬢様、あんた――」


「勘違いしないで。優しさじゃない。必要だからよ」


先に切った。


カイルは黙った。黙ったが、その顔はもう半分くらい勘違いしていた。冷たい言葉の方を聞かず、動いた事実の方だけ拾う。いつもそうだ。


それが腹立たしくて、少しだけ楽だった。


「戻るわ」


踵を返した。


背後でカイルが小さく言った。


「……結局、優しいじゃねぇか」


聞こえないふりをした。


手袋の指先をそっと擦り合わせる。赤い微粉はほとんど落とした。だが全部ではない。鉄錆の匂いも、まだ薄く残っている。


今夜は急ぎすぎた。急ぎすぎた夜は、何かを置いてくる。


外套の内側で、あの小箱が静かに脈打っている。追跡魔道具。今夜の動きは全部、明日の地図盤に載る。


それでも、止めない方を選んだ。


---


仮工房へ戻ると、ランタンの火はまだ生きていた。


外套を脱ぐ。手袋を外す。指先の関節に、うっすら赤い粉が残っている。


ノートを開く。


『東門ルート、今夜で切断。従僕は生存、街外へ排出。末端捜査官一名に借り。報告改変済。』


そこまで書いて、ペンが少しだけ止まった。


『微粉、残り香――要経過観察。』


書き足した。


ノートを閉じると、工房の扉の向こうでカイルの足音がした。半歩遅れて、止まる。入ってくる前の呼吸が一つ。深い呼吸だった。


扉が開いた。


カイルが立っていた。目が少し赤い。風と緊張で充血しているだけだ。だが、泣いたあとみたいな目だった。


何か言おうとしていた。口が動きかけた。


「……次は」


そこで止まった。


言い直すみたいに、息を吸う。


「次は、やらかさねぇ」


それだけ言って、視線を逸らした。礼にならない程度に、ほんの少しだけ頭が下がる。


私は何も言わなかった。


ランタンの火が小さく揺れた。


微粉は落としきれなかった。

それでも、今夜はそれで進むしかなかった。


---


メーター:資金 大/疑念 特大/執着 大/支配 大


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