カイル暴走
配分が変わって三日目の夜、旧市街の路地は妙に静かだった。
静かな夜は危ない。
危なくない夜は、もっと騒がしい。
締め付けが強くなっている。偽物が沈められ始めている。上は「本物だけ」を欲しがり、下はもう「何でもいい」では済まなくなっている。そういう夜の静けさだった。
カイル・レインズは外套の襟を立て、壁際を歩いていた。
荷は持っていない。今夜の役目は運搬じゃない。路地の温度を見ること。どこが死んで、どこがまだ息をしているかを嗅ぐこと。それが今の仕事だった。
グレン――お嬢様が決めたルールは単純だ。
直渡ししない。例外を作らない。情で量を崩さない。
頭では正しいと分かっている。
正しすぎるくらいに。
だから余計に、喉の奥で苦かった。
三本目の路地を曲がったとき、風が変わった。石壁と石壁の間を抜ける夜風に、かすかな甘さが混じっていた。赤の残り香だ。この路地はまだ生きている。だが息は浅い。配分を絞った影響が、末端まで来ている。
角を曲がったところで、人影が一つ、壁から剥がれるみたいに出てきた。
若い従僕だった。灰色の上着。痩せた肩。顔色は悪く、目の下に濃い隈がある。貴族街の裏口で何度か見た顔だ。以前、カイルが荷を運ぶときに一度だけ巡回の時間を教えてくれたことがある。その一度が、今になって縄みたいに足に絡まる。
「……あの時の人」
声が掠れていた。
泣いた声じゃない。渇いた声だ。
唇の端が乾いて割れている。水では消えない何かを、水で誤魔化そうとした跡だった。
カイルは足を止めたくなかった。止めたら終わる。そういう夜だと分かっていた。
それでも、止まった。
「何だよ」
声を低くした。周囲を見る。路地には二人だけ。壁の向こうで猫が一度鳴いた。それだけだった。
従僕は喉を押さえた。寒いのか、震えているのか、もう見分けがつかなかった。上着の袖が伸びきっている。何度も引っ張ったのだろう。
「頼む……一回でいい……一回だけ……」
カイルの眉が寄る。
「駄目だ。今は回せねぇ」
「俺じゃない」
従僕が首を振った。振り方が雑だった。力が入っていない。
「旦那様が……暴れてる。昨日から何も食べてない。食器を全部割った。壁に頭を打ちつけてる。今夜、本物がないと……うちの女中を売るって……」
言葉が途切れた。息が足りないのだ。長い文を一気に吐き出そうとして、肺が先に空になった。
夜の空気が、一段だけ重くなった。
カイルは舌打ちしたくなった。
貴族はいつもそうだ。自分の渇きを、他人の首で払う。
「なら、なおさら無理だ。上流に勝手口作ったら全部崩れる」
「分かってる……でも、今夜だけだ。明日には金も作る。誰にも言わない」
従僕の手が、外套の裾を掴みかけて、やめた。
最後の一線だけは、まだ残っている。
それが余計に、見ていられなかった。
カイルは目を逸らした。
逸らした先に、閉じた肉屋の扉があった。数日前、踏み込みがあった路地。板で塞がれた窓。剥がれかけた張り紙。松明の焦げ跡。正義の通った跡だ。
情で動くな。
ルールを崩すな。
一回だけ、が一番高くつく。
全部、分かっていた。
従僕が言った。
「妹がいるんだ」
小さな声だった。
「田舎に。俺が金を送らないと、冬を越せない」
その一言に、カイルの奥歯が鳴った。
嫌だった。
その話し方が嫌だった。
正しいからだ。
正しい不幸は、断りにくい。
「……ふざけんな」
吐き捨てるみたいに言った。吐き捨てたのに、足はその場を離れなかった。
「そういうの、今言うなよ」
従僕は黙った。黙ったまま、喉だけが上下していた。
カイルは外套の内ポケットに手を入れた。
今夜持っているのは売り物じゃない。緊急時の確認用。試料。一本にも満たない、小さな分量。路地で使うものじゃない。絶対に。
指先が小瓶に触れた。
硝子の冷たさが、指の腹に伝わった。
その冷たさが、最後の壁だった。
三秒。
長い三秒だった。
理性の軋む音が、自分の中で聞こえた気がした。
「……一回だけだ」
声は低かった。自分でも驚くほど低かった。
「これで終われ。次はねぇ」
従僕の目が大きくなった。
絶望の底で、急に火を見た人間の目だった。
カイルは小瓶を押しつけるように渡した。雑だった。丁寧にしたら、本当に自分が許してしまう気がしたからだ。
「礼は言うな。消えろ」
従僕が口を開きかけた。音になる前の形だけが唇に浮いた。
その瞬間だった。
「――いたぞ」
路地の奥で、声が走った。
若い男の声。訓練された短さ。迷いのない音。考える前に身体が反応する類の声だった。
カイルの背筋が凍った。
次の瞬間には、足音が揃っていた。金属が擦れる音。革靴が石を打つ音。二人。いや、三人。一定の間隔。訓練された足。
従僕が小瓶を握ったまま固まった。
さっき戻った目の光が、今度は一瞬で恐怖に塗り潰されていく。
「走れ!」
カイルが怒鳴った。
怒鳴った時点で、もう遅かった。
声を出した。方向を示した。二人いることを証明した。全部間違いだ。
路地の角から二人。反対側の抜け道からもう一人。
捜査班。末端だ。だが末端で十分だった。こういう夜に必要なのは、頭のいい人間じゃない。数と足の速さだ。
従僕が半歩遅れて走り出した。
遅れた理由は簡単だ。
小瓶を落とさないようにしたからだ。
たった一瓶。指を閉じる一瞬。
それだけの遅れだった。
一人が追いついた。肩を掴まれる。布が裂ける音。従僕の息が詰まる。
カイルは反射で腕を伸ばした。
それが二度目の間違いだった。
末端の捜査官がこちらを見る。目が合う。暗がりだ。顔までは割れない。だが背格好、年齢、動き方、腕を伸ばした角度。そういうものは残る。
「もう一人いる!」
叫び声が路地に跳ねた。
カイルは壁を蹴った。狭い路地をまっすぐ走るのは駄目だ。捕まる。横へ。樽の陰。壊れた柵。積んだ箱。身体が先に選んでいく。
背後で従僕のうめき声が聞こえた。石の上に膝をつかされる音。硝子の軽い音。
背中で聞いた。
聞くだけにした。
路地を二つ抜け、洗濯物の縄をくぐり、低い塀を飛び越えた。着地で足首が捻れかけたが、止まらない。止まったら追いつかれる。
息が焼ける。喉が切れそうだ。
でも頭のどこかだけが妙に冷えていた。
見られた。
従僕は掴まった。
小瓶も取られた。
路地も潰れた。
背格好と声も、拾われた。
運河沿いの狭い通路に飛び込み、ようやく足を緩めた。追ってきた足音は、分散して遠ざかっていた。片方を確保できたなら、もう片方は顔だけでも記録したい。そういう動き方だ。
カイルは壁に背をつけ、呼吸を殺した。
肺が痛い。心臓がうるさい。外套の内側が汗で張りついている。背中の石壁だけが、今の自分を支えている気がした。
掌を見る。
震えていた。
寒さじゃない。
やったことの重さが、遅れて身体に来た震えだった。
一回だけ。
今夜だけ。
それで済むと思った。
馬鹿だ。
自分で思って、吐き気がした。胃の底から酸っぱいものが込み上げて、無理やり飲み込んだ。
助けたつもりだったのか。
違う。
中途半端に関わっただけだ。
助けもしなかった。守りもしなかった。逃げた。自分だけ。
カイルは目を閉じた。
閉じても何も静かにならなかった。
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旧実験棟の仮工房に戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。
裏門を抜け、廊下を走らず歩いた。走ると音が響く。この時間に走っている人間は、何かから逃げている人間だ。だから歩く。膝が笑っているのを、無理に止めて歩く。
扉の前で一度止まった。
息を整えた。整わなかった。それでも手をかけた。
扉を開けた瞬間、火の匂いがした。小さな火。最低限の火。触媒を確認するときの、あの静かな火。
鍋の前に、エリシアが立っていた。
顔を上げる。深紅の瞳がこちらを見る。
その一瞬で、全部見抜かれたと思った。泥の跳ねた裾。荒い呼吸。右手の擦り傷。失敗した人間の空気。
「遅かったわね」
声は平坦だった。
カイルは答えようとした。喉がうまく動かなかった。
エリシアが火を落とした。鍋の底で小さな音が消える。
静かになる。
静かになると、言い訳が浮く。
浮くが、口には出せない。
「何があったの」
責める声ではなかった。責める声の方が、まだ楽だった。
カイルは壁に手をついた。立っているのが少しだけ辛かった。
「……一人、いた」
「誰」
「従僕だ。貴族街の。前に巡回の時間を流してくれた奴。旦那が暴れてるって。今夜、本物がないと女中を売るって……」
言いながら、自分で顔が歪むのが分かった。言い訳だ。分かっていても、説明せずにはいられなかった。
「一回だけって……思った」
沈黙。
ランタンの火が小さく揺れた。
「渡したのね」
カイルは頷いた。
「見られたのね」
今度も頷いた。
「……従僕が掴まった。俺は逃げた。顔は割れてない……と思う。でも、背格好と声は拾われたかもしれない。路地も潰れた。小瓶も落ちた」
そこまで言って、ようやく顔を上げた。
エリシアは怒っていなかった。
少なくとも、見える形では。
それが一番、堪えた。
彼女は数秒、何も言わなかった。
考えているのだ。怒る前に損失を数えている。誰が生きて、どこが潰れて、何が残ったかを。情ではなく、順番で。
その沈黙の間に、カイルは自分がどれだけまずいことをしたかを、ようやく全部並べ終えた。
上流の締め付けの夜。
末端路地での直渡し。
情による例外。
目撃。
確保された従僕。
残った小瓶。
捜査班に拾われた背格好の記憶。
最悪だった。
「……お嬢様」
自分でも情けない声だった。弁解でも、懇願でもない。ただ、何かを言われる前の、間抜けな呼びかけ。
エリシアが口を開いた。
「――あなた、捕まりかけたのね」
その一言は、怒鳴り声よりずっと痛かった。
カイルは何も言えなかった。
ランタンの火だけが、静かに揺れていた。
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