表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/24

裏社会で格上げ


旧市街の地下は、昼でも夜みたいに暗い。


石壁の湿り気。油の匂い。古い酒の酸い匂い。そこに今日はもう一つ、焦りの匂いが混じっていた。焦りは汗に似ている。乾く前から、すぐ分かる。


闇ギルドの集会所は、元は貯蔵庫だったらしい。低い天井を太い梁が走り、壁際に樽が積まれている。その樽の影で、男たちが言い争っていた。


「上に回しすぎだ」


「上客が金を出すんだ、当然だろ」


「当然で下が死ぬかよ」


「死ぬのは偽物に手ぇ出した馬鹿だけだ」


声がぶつかる。靴が石床を擦る。誰かが卓を叩いた。乱暴な音だったが、まだ刃は抜かれていない。刃が抜かれていない喧嘩は、まだ話が通る喧嘩だ。


卓の奥に、ガルム・バルカが座っていた。


今日も茶を飲んでいる。白い磁器のカップ。揺れない手。傷の多い指。暴力の中心にいる男ほど、こういう所作だけ妙に静かだったりする。


ガルムは部下たちの怒声を止めなかった。止める必要がないからだ。限界まで煮立たせてから、蓋をする。その方がよく冷える。


「偽物が増えすぎだ」


右端の男が吐き捨てた。鼻筋に古い裂傷がある。苛立つと左頬が先に痙攣する男だった。


「死人まで出た。上の連中は“本物だけ寄越せ”って騒ぐし、下の連中は“回ってこない”って騒ぐ。どうするつもりだ、頭」


「どうするも何もねぇだろ」


別の男が肩を竦めた。笑っているが目は笑っていない。


「作り手を押さえる。レシピを吐かせる。供給ごと飲めば済む話だ」


空気が、一瞬だけ沈んだ。


それは「いい案だ」ではなく、「言ってはいけないことを言った」の沈み方だった。


沈んだ空気の真ん中で、ガルムだけがカップを置いた。


小さな音。磁器と木の卓が触れ合う、ほんの微かな音。

それだけで、何人かが口を閉じた。


「……飲めると思うか」


ガルムの声は低かった。怒鳴っていない。怒鳴っていないから、余計に静まり返る。


「今の流れを、誰が作った?」


誰も答えない。


「偽物で死体が出た。締め付けが強くなった。上は怯えた。下は飢えた。――その全部の上で、本物だけが値上がりした」


ガルムは卓の上を指先で軽く叩いた。傷だらけの指が、乾いた音を刻む。


「流れを作る側の人間を、どうやって飲む」


返事はなかった。


飲めないからだ。

部下たちも、それくらいは分かっている。分かっているのに、焦ると短い解決策に飛びつく。奪う。殴る。縛る。そういう手段に。


「来るんですか」


樽の影から、連絡役の少年が訊いた。まだ頬の肉が落ちきっていない年齢なのに、目の下だけ妙に暗い。


「来るさ」


ガルムは言った。


「呼んだ。呼んだ以上は、来る」


その言葉が終わった直後、地下へ降りる階段の方で足音がした。


一つ。

その後ろに、半歩遅れたもう一つ。


部屋の空気が変わった。


怒号の温度が、一気に冷えた。


---


フードを深く被ったまま、私は階段を降りた。


湿った空気が喉に貼りつく。血と酒と油の匂い。こういう匂いには、もう少し慣れてきた。


半歩後ろをカイルがついてくる。今日は黙っていた。こういう場では、この男は黙る方が役に立つ。


視線が集まっていた。敵意。値踏み。飢え。恐怖。全部ある。


だが一番強かったのは、渇きだった。


この部屋の連中は、もう知っている。刃や拳ではなく、供給で首を締められる感覚を。


「揉めてるみたいね」


声を変えたまま言うと、誰かの喉が鳴った。


ガルムは立たなかった。座ったまま、こちらを見る。


「景気が良すぎてな」


「死人が出たのに?」


「死人が出たから、だ」


ガルムの口元だけが僅かに動いた。笑みではなかった。苦さだった。


「偽物は人を殺す。本物は人を選ぶ。そういう噂が固まっちまった。上も下も、欲しがり方が変わった」


卓の上に、小さな帳面が置かれた。配分表だろう。書き込みが多い。何度も消して書き直した跡がある。


私は椅子に座らなかった。立ったまま、その帳面を見下ろした。


「勝手に増やしたのね」


右端の男がぴくりと反応した。さっき怒鳴っていた、左頬の痙攣する男だった。


「増やさなきゃ回らねぇだろうが。上が払うんだ、金はある」


「払えることと、流していいことは別よ」


「綺麗事抜かすな!」


怒声が上がった。男は立ち上がりかけた。椅子の脚が石床を引っ掻く。


だが隣の男が肩を掴み、引き戻した。強い力だった。掴まれた肩が軋む音がした。


男はそこでようやく、自分が怒鳴る相手を間違えたのだと気づいた顔をした。掴まれた肩から力が抜け、椅子に沈み込む。左頬の痙攣だけが、さっきより酷くなっていた。


私は表情を変えなかった。


「綺麗事じゃない。市場の話よ」


帳面を指で押さえる。


「偽物で死人が出た。締め付けが強くなった。そこに勝手な増配まで重ねたら、誰が得をすると思ってるの」


誰も答えない。


「偽物よ」


静かなまま言い切った。


「あなたたちが雑に広げたせいで、本物と偽物の見分けがつかなくなる。見分けがつかなくなった瞬間、市場は全部まとめて焼かれる」


カイルが後ろで息を止めたのが分かった。

部屋の連中も同じだった。


「じゃあどうする」


ガルムが訊いた。


試している声ではなかった。もう答えを聞く声だった。


「配分を戻す」


即答した。


「上客の中でも、口が固くて流通を絞れる所だけに回す。下には回さない。偽物が混ざった路地は、今月ゼロ」


左頬の男が顔色を変えた。額の血管が浮いたが、今度は怒鳴らなかった。怒鳴った先に何があるか、もう分かったのだろう。


「その代わり」


全員の視線が揃う。


「偽物を見つけたら、あなたたちが沈める」


沈黙。


「私がやるんじゃない。あなたたちがやるの。自分の取り分を守りたいなら、自分の流通を自分で掃除しなさい」


言葉は短い方が効く。長くすると情が混ざる。情が混ざると、隙だと見なされる。


「揉めるなら減らす。守るなら回す。――それだけよ」


部屋が、静まり返った。


怒声も、舌打ちもない。あるのは計算だけだ。


今、この場にいる全員が計算している。

逆らった場合の損。従った場合の得。

得より損が大きいと分かったとき、人はだいたい黙る。


ガルムがカップを持ち上げ、一口飲んだ。


それから、卓の上の帳面を閉じた。


「聞いたな」


低い声だった。


「今月からそうする。勝手に混ぜた路地は切る。偽物を流した奴は、うちの名前で沈める。上に回す量は俺が見る」


誰も異を唱えなかった。


唱えないのではない。唱えられないのだ。

首を締める手がどこにあるか、もう全員分かっているから。


ガルムはそこで初めて立ち上がった。


私より頭一つ分は高い。だが威圧は、もうさっきほど感じなかった。


闇の中で、誰かが小さく漏らした。


「……慈悲深いな」


慈悲。

そう呼びたいなら呼べばいい。


「勘違いしないで」


帳面を軽く押した。


「守ってるんじゃない。壊したくないだけよ」


ガルムの目が、僅かに細くなった。


数秒の間があった。長い数秒だった。

この男は言葉を噛む。噛んでから飲む。飲み込むまでに、その裏にあるものを舐め取る。


壊したくない。

守るのではなく、壊したくない。


その意味を、この部屋で一番正確に理解したのは、たぶんガルムだけだった。


ゆっくりと、ガルムが頭を下げた。


ほんの少し。顎が胸に触れるほどでもない。だが、この部屋の全員が見ていた。


「……仰せのままに」


息を呑む音が、そこかしこで重なった。


その一言で、空気が決まった。


もう私は「売り手」ではない。

少なくとも、この部屋の中では。


誰かが小さく呟いた。


「……王だ」


別の誰かが、すぐに肘で黙らせた。


滑稽ね、と思った。

公爵家では無能と呼ばれている令嬢が、地下では王らしい。


笑わなかった。笑うと軽くなる。


「次の配分は明日渡すわ」


それだけ告げて、踵を返した。


今夜は長居しない方がいい。支配は、短い方がよく効く。


---


地下を出たところで、カイルがようやく息を吐いた。


長かった。溜めていたのだろう。地下にいる間ずっと、この男は息を浅くしていたはずだ。


「……今の、何だよ」


「配分よ」


「そういう意味じゃねぇ」


石壁にもたれかけそうになって、踏みとどまっている。足の力が抜けているのに、もたれかかることを自分に許さない。この男のこういうところは、たまに痛い。


「ガルムが頭下げたぞ」


「少しだけね」


「少しで十分だろ。あの場にいた連中、全員見てた」


カイルの声が震えていた。興奮ではなかった。恐怖の残滓だった。怖かったのだ。私のためにではなく、私がやったことの大きさに。


旧市街の夜気が冷たい。けれど今夜は、地下よりずっと軽く感じた。


「お嬢様」


「何」


「今の、たぶんもう後戻りできないやつだぞ」


「とっくにしてるわ」


カイルは苦い顔をした。苦い顔のまま、でも少しだけ笑っていた。苦さと笑いが同時に出るのは、信じたくないものを信じている人間の顔だ。


「……ほんと、怖ぇな」


「現実的なの」


「それ、最近よく言うな」


返事の代わりに、外套の内側に指を触れた。

あの小箱がある。静かだ。だが静かなまま動いている。


「帰るわ」


「はいはい」


カイルが半歩遅れてついてくる。


その距離だけが、いつも通りだった。


---


王城の地図盤に、青い光がまた灯っていた。


ルーカス・ハルトは記録簿を開いたまま、盤面を見ている。青い光点は昼と同じく学園区画の近くで半日動いたあと、夜になってから南へ流れていた。旧市街へ向かい、川沿いでしばらく止まり、それからまた戻っている。


建物単位の精度。

まだ個人は割れない。だが十分だった。


「殿下」


アルベルト・ヴァルディスは盤面に目を落としたまま言った。


「言え」


「行動圏が偏っています。学園の近辺です」


ルーカスが記録簿の一点を指す。昼の滞留地点。旧学術院区画。王立学園の裏手に重なる範囲。


アルベルトの指が、そこに止まった。


「……学園の近くだ」


声は低い。低いのに、その奥で何かが熱を帯びていた。ルーカスはその熱を聞き取った。聞き取って、聞かなかったふりをした。


贈り物は捨てられなかった。

それだけではない。行動圏が、思っていたよりずっと近い。


「やはり」


アルベルトは小さく呟いた。


ルーカスは何も言わなかった。


言わない方がいいことが、このところ増えすぎていた。


アルベルトは盤面から目を離さなかった。


---


メーター:資金 大/疑念 大/執着 大/支配 中→大


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ