裏社会で格上げ
旧市街の地下は、昼でも夜みたいに暗い。
石壁の湿り気。油の匂い。古い酒の酸い匂い。そこに今日はもう一つ、焦りの匂いが混じっていた。焦りは汗に似ている。乾く前から、すぐ分かる。
闇ギルドの集会所は、元は貯蔵庫だったらしい。低い天井を太い梁が走り、壁際に樽が積まれている。その樽の影で、男たちが言い争っていた。
「上に回しすぎだ」
「上客が金を出すんだ、当然だろ」
「当然で下が死ぬかよ」
「死ぬのは偽物に手ぇ出した馬鹿だけだ」
声がぶつかる。靴が石床を擦る。誰かが卓を叩いた。乱暴な音だったが、まだ刃は抜かれていない。刃が抜かれていない喧嘩は、まだ話が通る喧嘩だ。
卓の奥に、ガルム・バルカが座っていた。
今日も茶を飲んでいる。白い磁器のカップ。揺れない手。傷の多い指。暴力の中心にいる男ほど、こういう所作だけ妙に静かだったりする。
ガルムは部下たちの怒声を止めなかった。止める必要がないからだ。限界まで煮立たせてから、蓋をする。その方がよく冷える。
「偽物が増えすぎだ」
右端の男が吐き捨てた。鼻筋に古い裂傷がある。苛立つと左頬が先に痙攣する男だった。
「死人まで出た。上の連中は“本物だけ寄越せ”って騒ぐし、下の連中は“回ってこない”って騒ぐ。どうするつもりだ、頭」
「どうするも何もねぇだろ」
別の男が肩を竦めた。笑っているが目は笑っていない。
「作り手を押さえる。レシピを吐かせる。供給ごと飲めば済む話だ」
空気が、一瞬だけ沈んだ。
それは「いい案だ」ではなく、「言ってはいけないことを言った」の沈み方だった。
沈んだ空気の真ん中で、ガルムだけがカップを置いた。
小さな音。磁器と木の卓が触れ合う、ほんの微かな音。
それだけで、何人かが口を閉じた。
「……飲めると思うか」
ガルムの声は低かった。怒鳴っていない。怒鳴っていないから、余計に静まり返る。
「今の流れを、誰が作った?」
誰も答えない。
「偽物で死体が出た。締め付けが強くなった。上は怯えた。下は飢えた。――その全部の上で、本物だけが値上がりした」
ガルムは卓の上を指先で軽く叩いた。傷だらけの指が、乾いた音を刻む。
「流れを作る側の人間を、どうやって飲む」
返事はなかった。
飲めないからだ。
部下たちも、それくらいは分かっている。分かっているのに、焦ると短い解決策に飛びつく。奪う。殴る。縛る。そういう手段に。
「来るんですか」
樽の影から、連絡役の少年が訊いた。まだ頬の肉が落ちきっていない年齢なのに、目の下だけ妙に暗い。
「来るさ」
ガルムは言った。
「呼んだ。呼んだ以上は、来る」
その言葉が終わった直後、地下へ降りる階段の方で足音がした。
一つ。
その後ろに、半歩遅れたもう一つ。
部屋の空気が変わった。
怒号の温度が、一気に冷えた。
---
フードを深く被ったまま、私は階段を降りた。
湿った空気が喉に貼りつく。血と酒と油の匂い。こういう匂いには、もう少し慣れてきた。
半歩後ろをカイルがついてくる。今日は黙っていた。こういう場では、この男は黙る方が役に立つ。
視線が集まっていた。敵意。値踏み。飢え。恐怖。全部ある。
だが一番強かったのは、渇きだった。
この部屋の連中は、もう知っている。刃や拳ではなく、供給で首を締められる感覚を。
「揉めてるみたいね」
声を変えたまま言うと、誰かの喉が鳴った。
ガルムは立たなかった。座ったまま、こちらを見る。
「景気が良すぎてな」
「死人が出たのに?」
「死人が出たから、だ」
ガルムの口元だけが僅かに動いた。笑みではなかった。苦さだった。
「偽物は人を殺す。本物は人を選ぶ。そういう噂が固まっちまった。上も下も、欲しがり方が変わった」
卓の上に、小さな帳面が置かれた。配分表だろう。書き込みが多い。何度も消して書き直した跡がある。
私は椅子に座らなかった。立ったまま、その帳面を見下ろした。
「勝手に増やしたのね」
右端の男がぴくりと反応した。さっき怒鳴っていた、左頬の痙攣する男だった。
「増やさなきゃ回らねぇだろうが。上が払うんだ、金はある」
「払えることと、流していいことは別よ」
「綺麗事抜かすな!」
怒声が上がった。男は立ち上がりかけた。椅子の脚が石床を引っ掻く。
だが隣の男が肩を掴み、引き戻した。強い力だった。掴まれた肩が軋む音がした。
男はそこでようやく、自分が怒鳴る相手を間違えたのだと気づいた顔をした。掴まれた肩から力が抜け、椅子に沈み込む。左頬の痙攣だけが、さっきより酷くなっていた。
私は表情を変えなかった。
「綺麗事じゃない。市場の話よ」
帳面を指で押さえる。
「偽物で死人が出た。締め付けが強くなった。そこに勝手な増配まで重ねたら、誰が得をすると思ってるの」
誰も答えない。
「偽物よ」
静かなまま言い切った。
「あなたたちが雑に広げたせいで、本物と偽物の見分けがつかなくなる。見分けがつかなくなった瞬間、市場は全部まとめて焼かれる」
カイルが後ろで息を止めたのが分かった。
部屋の連中も同じだった。
「じゃあどうする」
ガルムが訊いた。
試している声ではなかった。もう答えを聞く声だった。
「配分を戻す」
即答した。
「上客の中でも、口が固くて流通を絞れる所だけに回す。下には回さない。偽物が混ざった路地は、今月ゼロ」
左頬の男が顔色を変えた。額の血管が浮いたが、今度は怒鳴らなかった。怒鳴った先に何があるか、もう分かったのだろう。
「その代わり」
全員の視線が揃う。
「偽物を見つけたら、あなたたちが沈める」
沈黙。
「私がやるんじゃない。あなたたちがやるの。自分の取り分を守りたいなら、自分の流通を自分で掃除しなさい」
言葉は短い方が効く。長くすると情が混ざる。情が混ざると、隙だと見なされる。
「揉めるなら減らす。守るなら回す。――それだけよ」
部屋が、静まり返った。
怒声も、舌打ちもない。あるのは計算だけだ。
今、この場にいる全員が計算している。
逆らった場合の損。従った場合の得。
得より損が大きいと分かったとき、人はだいたい黙る。
ガルムがカップを持ち上げ、一口飲んだ。
それから、卓の上の帳面を閉じた。
「聞いたな」
低い声だった。
「今月からそうする。勝手に混ぜた路地は切る。偽物を流した奴は、うちの名前で沈める。上に回す量は俺が見る」
誰も異を唱えなかった。
唱えないのではない。唱えられないのだ。
首を締める手がどこにあるか、もう全員分かっているから。
ガルムはそこで初めて立ち上がった。
私より頭一つ分は高い。だが威圧は、もうさっきほど感じなかった。
闇の中で、誰かが小さく漏らした。
「……慈悲深いな」
慈悲。
そう呼びたいなら呼べばいい。
「勘違いしないで」
帳面を軽く押した。
「守ってるんじゃない。壊したくないだけよ」
ガルムの目が、僅かに細くなった。
数秒の間があった。長い数秒だった。
この男は言葉を噛む。噛んでから飲む。飲み込むまでに、その裏にあるものを舐め取る。
壊したくない。
守るのではなく、壊したくない。
その意味を、この部屋で一番正確に理解したのは、たぶんガルムだけだった。
ゆっくりと、ガルムが頭を下げた。
ほんの少し。顎が胸に触れるほどでもない。だが、この部屋の全員が見ていた。
「……仰せのままに」
息を呑む音が、そこかしこで重なった。
その一言で、空気が決まった。
もう私は「売り手」ではない。
少なくとも、この部屋の中では。
誰かが小さく呟いた。
「……王だ」
別の誰かが、すぐに肘で黙らせた。
滑稽ね、と思った。
公爵家では無能と呼ばれている令嬢が、地下では王らしい。
笑わなかった。笑うと軽くなる。
「次の配分は明日渡すわ」
それだけ告げて、踵を返した。
今夜は長居しない方がいい。支配は、短い方がよく効く。
---
地下を出たところで、カイルがようやく息を吐いた。
長かった。溜めていたのだろう。地下にいる間ずっと、この男は息を浅くしていたはずだ。
「……今の、何だよ」
「配分よ」
「そういう意味じゃねぇ」
石壁にもたれかけそうになって、踏みとどまっている。足の力が抜けているのに、もたれかかることを自分に許さない。この男のこういうところは、たまに痛い。
「ガルムが頭下げたぞ」
「少しだけね」
「少しで十分だろ。あの場にいた連中、全員見てた」
カイルの声が震えていた。興奮ではなかった。恐怖の残滓だった。怖かったのだ。私のためにではなく、私がやったことの大きさに。
旧市街の夜気が冷たい。けれど今夜は、地下よりずっと軽く感じた。
「お嬢様」
「何」
「今の、たぶんもう後戻りできないやつだぞ」
「とっくにしてるわ」
カイルは苦い顔をした。苦い顔のまま、でも少しだけ笑っていた。苦さと笑いが同時に出るのは、信じたくないものを信じている人間の顔だ。
「……ほんと、怖ぇな」
「現実的なの」
「それ、最近よく言うな」
返事の代わりに、外套の内側に指を触れた。
あの小箱がある。静かだ。だが静かなまま動いている。
「帰るわ」
「はいはい」
カイルが半歩遅れてついてくる。
その距離だけが、いつも通りだった。
---
王城の地図盤に、青い光がまた灯っていた。
ルーカス・ハルトは記録簿を開いたまま、盤面を見ている。青い光点は昼と同じく学園区画の近くで半日動いたあと、夜になってから南へ流れていた。旧市街へ向かい、川沿いでしばらく止まり、それからまた戻っている。
建物単位の精度。
まだ個人は割れない。だが十分だった。
「殿下」
アルベルト・ヴァルディスは盤面に目を落としたまま言った。
「言え」
「行動圏が偏っています。学園の近辺です」
ルーカスが記録簿の一点を指す。昼の滞留地点。旧学術院区画。王立学園の裏手に重なる範囲。
アルベルトの指が、そこに止まった。
「……学園の近くだ」
声は低い。低いのに、その奥で何かが熱を帯びていた。ルーカスはその熱を聞き取った。聞き取って、聞かなかったふりをした。
贈り物は捨てられなかった。
それだけではない。行動圏が、思っていたよりずっと近い。
「やはり」
アルベルトは小さく呟いた。
ルーカスは何も言わなかった。
言わない方がいいことが、このところ増えすぎていた。
アルベルトは盤面から目を離さなかった。
---
メーター:資金 大/疑念 大/執着 大/支配 中→大




