贈り物=事故プロポーズ
夜が落ちた王城の私室で、アルベルト・ヴァルディスは机の上の小箱を見ていた。
銀細工のブローチだった。
翼を模した意匠の中央に、薄い青の魔石がはめ込まれている。術式部の設計はルーカスに任せた。追跡用の魔力標識が魔石の内核に刻まれており、装着者の位置を半日ごとに王城の地図盤へ転写する。探知距離は王都全域。精度は区域単位。建物を一つずつ穿つほどではないが、所在の輪郭を掴むには十分な精度だった。
「準備は整っています、殿下」
ルーカス・ハルトが扉の前で待っていた。報告書を脇に挟み、いつも通り背筋が真っ直ぐだった。だが視線だけが、わずかに小箱を掠めた。
「……追跡用の魔道具を、直接渡すのですか」
「そうだ」
「受け取ると思いますか」
アルベルトは蓋を閉じた。銀の留め金が噛み合う小さな音が、静かな部屋に響いた。
「捨てられても構わない。持ち帰らなくてもいい。――渡すことに意味がある」
ルーカスは何も言わなかった。言わない代わりに、呼吸がわずかに深くなった。この上官の言葉に「意味がある」が混じるとき、理屈の外に出ているのだと、ルーカスは経験で知っていた。
殿下はあの夜以来、変わった。
報告書の読み方が変わった。闇市の押収品一覧を眺める時間が長くなった。赤い瓶の分析結果を自分で確認するようになった。そして、《グレン》という名を口にするとき、ほんの一瞬だけ、声の温度が変わる。怒りではなかった。ルーカスにはそれが何なのか分からなかった。分からないことが、不安だった。
「場所は」
「河岸倉庫、第三区画。前回と同じです。ただし内部の配置を変えてあります。退路を一本塞ぎ、こちら側の視界を確保しました」
「罠は張るな」
「……殿下」
「罠で捕まえたものは、罠の中でしか生きない」
ルーカスは口を閉じた。反論の言葉はあった。あったが、飲み込んだ。アルベルトの横顔に浮かんでいたのは、獲物を前にした狩人の目ではなかった。もっと厄介なものだった。
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河岸の匂いは、昨夜の雨で湿った木材と泥が混じっていた。
私は外套の襟を顎まで引き上げ、倉庫の裏口から滑り込んだ。喉元の薄い金具を指先で確かめる。冷たい。外套の下でそれを肌に馴染ませ、短く息を吐いた。
「カイル」
「……うん。やっぱり別人だな、その声」
カイルは壁に背をつけ、出入り口を見張っていた。松明の火が遠く、彼の顔は半分しか見えなかった。見えている半分が強張っていた。
「前回より警備が甘い。退路が一本減ってる」
「知ってる」
「わざとだろ。誘い込みだ」
「ええ」
「……行くのか」
「呼ばれたから行くんじゃない。呼ぶ側の配置が読みたいから行くの」
カイルは前髪を掻き上げた。指先がわずかに乱れている。言いたいことを堪えている癖だ。
「十五分で出る。出なかったら」
「分かってる。合図なしで離脱する」
頷いて、通路に足を踏み入れた。
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倉庫の奥は、前回より片付いていた。
木箱が壁際に寄せられ、中央に空間が作られている。天井の梁から吊るされたランタンが一つだけ灯り、黄色い光が床の埃を浮かび上がらせていた。
アルベルト・ヴァルディスは、その光の境目に立っていた。
従者はいなかった。剣も帯びていなかった。外套の下は簡素な黒い上衣で、王族の紋章もない。前回と違ったのは、その手に小さな箱が握られていたことだった。
「来たか」
低い声。しかし、前回の尋問じみた硬さがない。
「待たせたつもりはない」
喉元の金具が震え、声が乾いた低音に変わる。相手の目を見た。蒼い瞳。その奥に、前回にはなかったものが浮かんでいた。焦りではない。怒りでもない。もっと静かで、もっと厄介なもの。
「今日は取引の話か」
「いや」
アルベルトは一歩近づいた。距離にして四歩分。ランタンの光が彼の顔の半分を照らし、半分を影に落とした。
「取引なら部下を寄越す。今日は俺が来た」
「殿下が直接来る理由が、取引でないなら何だ」
「これを渡しに来た」
小箱が差し出された。片手ではなかった。両手だった。
アルベルト・ヴァルディスは国で最も高い地位にある若者で、剣も政治も一流だと噂される人間で、闇市を潰すために夜の倉庫に来る男だった。その人間が、両手で箱を差し出していた。
膝は折っていない。だが、視線がほんの僅かに下がっている。相手の反応を見たいくせに、まともには見られない人間の視線だった。
「……中身は」
「開けろ」
蓋を持ち上げた。
銀のブローチだった。翼の意匠。中央に淡い青の魔石。
美しかった。だが美しさの下で、魔石の内核が脈打っている。微かに、一定の間隔で。それは生きた術式の鼓動だった。追跡用か探知用か、この場で断定する必要はない。術式が仕込まれていることだけ分かれば十分だった。
「身につけていてほしい」
その言い方だった。
持っていろ、でも、使え、でもない。身につけていてほしい。
言った本人が、自分の言葉の響きに気づいていないことは明らかだった。アルベルトの表情には戦略がある。追跡のための布石を打っている、という自覚がある。だが、声にはそれ以外のものが滲んでいた。
私はブローチを手に取り、魔石の鼓動を指先で数えた。一定。静か。術式の設計は丁寧だ。雑な追跡具ではない。
「……なるほど」
箱を閉じた。
「便利だ」
アルベルトの目が上がった。
箱から私の顔へ。その瞬間の表情を、見ないようにした。見たら、余計な情報まで拾ってしまう気がした。
「受け取るのか」
「ええ。使えるものは使う」
アルベルトは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。たぶん彼の中では、もっと別の受け取り方を想定していたのだろう。牽制か、警戒か、拒絶か。少なくとも、便利だと評されることは想定していなかったはずだ。
「次も来い」
「取引がある限り」
「取引がなくても来い」
静かに、しかし明確に。
命令ではなかった。命令であれば楽だった。命令なら拒否できた。これは頼みだった。王太子が、闇市の売人に、頼んでいた。
「……考えておく」
それだけ言って、踵を返した。
背中に視線を感じた。重かった。物理的な圧ではないのに、外套の上から触れられているような重さだった。振り返らなかった。振り返ったら、あの目を見なければならない。見たら、次の判断が鈍る。
「グレン」
背中に、その名が落ちた。
アルベルトの口が初めてその名を呼んだ。低く、静かで、思ったより丁寧な響きだった。敵を呼ぶ声ではない。失いたくないものを呼ぶ声だった。
振り返らないまま言った。
「何」
「贈り物を用意した」
背後の空気がわずかに震えた。唐突だった。唐突すぎるほどに。
だが、あの男の中ではたぶんもう必然なのだ。次がなければ終わる。終わらせたくない。繋ぎ止める理由が欲しい。正義では繋げない。だから別のものを差し出す。贈り物。それは王太子が知っている、唯一の繋ぎ止め方なのだろう。
「……君のために」
足を止めなかった。
――止めたら、何かが変わってしまう気がしたからだ。
倉庫を出た。夜風が頬を打った。肺の奥に冷気が入る。ようやく呼吸が戻る。
中では、自分でも気づかないうちに息が浅くなっていたらしい。
外の闇の中で、カイルが壁から背を離した。
顔色が悪い。けれど第16話のときみたいな、ただ青ざめた顔ではなかった。
今夜のそれは、驚きと困惑と、理解したくない理解が混ざった顔だった。
「……受け取ったのか」
第一声が、それだった。
「ええ」
「捨てなかった」
「捨てれば不審がられるもの」
カイルが額を押さえた。指の隙間からこちらを見る。
倉庫の中で交わされたやり取りを、頭の中で並べ直している顔だった。
「いや、そういう問題じゃなくて……」
言いかけて、飲み込む。
飲み込んだ言葉が大きすぎて、喉に引っかかっているのが見て取れた。
「……お嬢様」
「何」
「今の、どう見てもただの監視道具の渡し方じゃなかったぞ」
返事をしなかった。
カイルは一歩だけ近づいた。声を潜める。潜めているのに、妙に熱がある。
「追跡用の魔道具を仕込んだ贈り物なんだろ。そこまでは分かる。分かるけど、あの殿下――」
そこで言葉を切った。
切ってから、腹をくくったように吐き出す。
「渡し方が、完全に求婚だった」
夜気が、一瞬だけ止まった気がした。
「……大げさね」
「大げさじゃねぇよ」
カイルの声は低かった。低いのに、妙に必死だった。
「箱を両手で差し出して、“身につけていてほしい”って、あんなのどう聞いてもそうだろ。しかも受け取った。受け取ったぞ、あんた」
「受け取ったのは術式を読むためよ」
「分かってる」
即答だった。
「分かってるけど、あっちはそう思ってねぇ」
その言葉に、私は少しだけ目を細めた。
正しい。
正しすぎるほどに。
アルベルト・ヴァルディスは、あれを監視装置として差し出したつもりなのだろう。
けれど同時に、監視装置以上の意味を無意識に載せていた。
載せたことに、本人だけが気づいていない。
厄介だ。
「……だから利用するの」
そう言って、ブローチの入った小箱を外套の内側から取り出した。
カイルの目が箱に落ちる。闇の中でも分かるくらい、視線がそこに張りついた。
「壊さない。捨てない。身につけるかどうかは、こっちで決める」
「使うのか」
「使う。追われるなら、追わせ方を選ぶ」
カイルが長く息を吐いた。白い息が夜気に溶ける。
「……怖ぇな」
「現実的なの」
「それ、便利な言葉だよな」
少しだけ歩き出した。カイルが半歩遅れてついてくる。
足音はまだ硬い。
でも前の時みたいな、“接触そのものへの衝撃”ではなかった。
今夜の硬さは、もっと別のものだ。王太子が一線を越えかけていることを、カイルが先に悟ってしまった硬さだった。
「お嬢様」
「何」
「次から、あの殿下はもっと来るぞ」
「でしょうね」
「捕まえるためじゃない」
「それも分かってる」
「……分かってて、その顔か」
私は答えなかった。
答えないまま、運河沿いの石橋へ出た。水面に月が落ちている。王城の尖塔の灯が遠くに見えた。
あの灯の下で、今ごろ彼は何を思っているのだろう。
贈り物を受け取られたことか。
追跡が始まることか。
それとも――次にまた会えると思っていることか。
そこまで考えて、思考を切った。
余計だ。
余計なことを考えると、判断が鈍る。
「工房に戻るわ」
「……分かった」
カイルの返事は雑だった。雑だが、そこにさっきまでの取り乱しはもうなかった。
代わりに、妙な諦めが混じっていた。
諦め。
あるいは、覚悟。
「でも一つだけ言っとく」
「何」
「俺はあれ、絶対ただの贈り物だとは思わない」
私は前を向いたまま言った。
「私もよ」
その一言で、カイルの足音が一瞬だけ止まった。
止まって、すぐに追いついた。
その距離だけが、いつも通りだった。
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旧実験棟に戻ったとき、カイルは机に突っ伏していた。
私が扉を開けた音で跳ね起きた。目が赤かった。寝ていたのではなく、起きたまま目を擦り続けていたのだと分かった。
「……十七分だった」
「二分の超過よ」
「二分がどれだけ長いか分かるか。心臓が止まるかと思った」
カイルは椅子の背を掴んで立ち上がった。指の関節が白かった。ずっと握り締めていたのだろう。怒っていた。怒っていたが、怒りの下にあるものが声に出ていた。安堵だった。安堵は、心配していた人間だけが持てる感情だった。
私はブローチの箱を机に置いた。
カイルの目が箱に落ちた。蓋を開けた。銀の翼、青い魔石。ランタンの光を受けて、魔石が静かに脈打っていた。
「……何だこれ」
「追跡用の魔道具だと思う。魔石の内核に術式が刻んである」
「追跡用」
「ええ」
「追跡用を……両手で、渡したのか」
カイルの声が変わった。怒りが消え、困惑が浮かんだ。彼は箱を見つめ、それから私を見つめた。何かを言おうとして、口を開けて、閉じて、もう一度開けた。
「『身につけていてほしい』って、言われたのか」
「……なぜ分かるの」
「箱の出し方で分かる。両手で、目を伏せて、『身につけていてほしい』。それ――」
カイルは言葉を切った。頬が赤くなっていた。
「それ、プロポーズだろ」
静かな工房に、その言葉だけが残った。
ランタンの火が揺れた。魔石が脈打った。カイルの耳が赤かった。
私は箱を閉じた。
「監視装置よ」
「……そうか」
カイルの声は小さかった。納得していなかった。納得していないが、それ以上追及する言葉を持っていなかった。彼は椅子に座り直し、前髪を掻き上げた。今夜だけで三度目だった。
「受け取ったんだよな」
「捨てれば不審がられる。それに――」
「それに?」
「追跡されているなら、相手の行動範囲が分かる。転写の間隔、探知の精度、術式の設計思想。全部、向こうの手札を読む材料になる」
カイルはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「……お前は本当に、怖いな」
褒めているのか呆れているのか、本人にも分かっていない声だった。
私はブローチを布で包み、木箱の底に沈めた。魔石の脈動が布越しに伝わった。正確に、静かに、止まることなく。
明日から、この鼓動と一緒に動くことになる。追われる側が、追う者の心臓の音を聞きながら逃げる。奇妙な構図だった。
ノートを開いた。
『銀翼のブローチ。追跡術式、内核刻印、転写間隔は未検証。受領済。――廃棄は不可。利用する。』
ペンを置いた。インクが乾くまでの数秒間、ブローチを包んだ布を見ていた。
それだけだった。
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翌朝。
王城の地図盤に、青い光点が一つ灯った。
ルーカス・ハルトはそれを確認し、記録簿に位置を書き写した。光点は東区、旧学術院区画周辺。まだ動いていなかった。
「殿下。反応があります」
「……場所は」
「東区、旧学術院区画周辺です」
アルベルトは地図盤を見下ろした。青い光が、盤面の上で静かに明滅していた。
ルーカスは殿下の横顔を見た。そこにあったのは、捜査官の満足ではなかった。もっと柔らかく、もっと危ういものだった。獲物の居場所を知ったのではなく、贈り物が捨てられなかったことを知った人間の顔だった。
「……捨てはしなかったか」
その声を聞いたルーカスの背筋が、わずかに冷えた。
仕えて六年になる。殿下が人に執着するのを見たのは、これが初めてだった。
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