初接触:王太子×《グレン》
罠は、獲物を捕まえるためだけに仕掛けるものじゃない。
どうしても直接会いたい相手を、こちらへ歩かせるために仕掛けることもある。
王城の執務室で、アルベルト・ヴァルディスは机上の地図を見下ろしていた。
王都南区。旧市街。川沿い。倉庫街。闇市の搬送路。踏み込みで潰した道。まだ生きている細い道。
赤い印と黒い印が、地図の上で蜘蛛の巣のように広がっている。
ルーカスが、一歩後ろに控えていた。
「殿下。囮の手配は整いました」
「そうか」
「今夜の段取りですが、捕縛を優先なさいますか」
アルベルトはすぐには答えなかった。
指先で押さえていたのは、川沿いの小さな倉庫だった。袋小路に見えて、裏へ抜ける細い道が一本だけ残る場所。
逃げ道を一つだけ残す。
完全に塞げば、相手は来ない。少しだけ甘くすれば、賢い相手ほど乗ってくる。
「……捕まえるな」
低い声だった。
ルーカスの背筋に、冷たいものが走った。予想はしていた。だが実際に聞くと、重さが違う。
「まず、話す」
敵だ。
禁忌薬の作り手だ。
国家を蝕む毒を流している張本人だ。
そのはずの相手に、捕縛より先に「話す」を選ぶ。正義の手順ではない。
「承知いたしました」
それでもルーカスは一礼した。礼の角度が、いつもよりわずかに深い。深くすることで、顔を隠している。
扉が閉まった。
静けさが戻る。
アルベルトは一人になってから、ようやく息を吐いた。長い息だった。知らないうちに止めていた息だった。
油灯の輪の境界に立っていた影が、まだ頭から離れない。
低い声。乱れない呼吸。踏み込みの混乱すら、自分の撤収経路に変えた判断。追われる側の人間が、追う側より静かだった。
冷酷で、合理的で、完璧。
紙の余白に書いた三つの語が、時間が経つほど輪郭を増していく。
「……今夜だ」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、自分の中に芽を出しかけている何かに、名前を与えないための呟きだった。
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学園の昼は、昨日の小さな断罪の続きをまだ引きずっていた。
廊下ですれ違う視線が、以前より少しだけ柔らかい。柔らかさの中に、侮蔑と同情が混ざっている。
混ざりものの感情は扱いやすい。完全な敵意より、よほど。
教室を出たところで、半歩後ろについたカイルの気配に気づいた。
「……お嬢様」
「何」
「来た」
声が低い。怖いときの声だ。けれど今日の低さには、怖さだけじゃなく、情報を掴んだときの緊張が混じっていた。
「何が」
「買い手の噂。綺麗すぎる」
足を止めなかった。
綺麗すぎる噂は、たいてい王城が流す。裏の噂は、もう少し汚い。人の名前が混じり、金額が濁り、余計な欲がこびりつく。
綺麗な噂は、罠の匂いがする。
「場所は」
「川沿いの倉庫。南区。今夜、鐘が二つ」
「護衛は?」
「薄いらしい。薄いって時点で逆に怪しい」
頷いた。
怪しい。だから行く。
怪しい罠に乗るのは愚かだ。だが相手が王太子なら、一度は温度を測る必要がある。正義で動くのか、執念で動くのか。それとも、そのどちらでもないのか。
「……行く気か」
「ええ」
「罠だぞ」
「知ってる」
「知ってて行くのか」
「知ってるから行くのよ。知らない罠にかかるのが一番高くつく」
カイルが苦い顔をした。止めたい気持ちと、止めても無駄だという諦めが、きれいに半分ずつ混ざった顔だった。
「俺も行く」
「離れてついてきて。近いと邪魔」
「はいはい」
返事は雑だった。雑だが、従う返事だった。
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夜の川沿いは、冷たかった。
水の匂い。石の匂い。腐りかけた木箱の匂い。旧市街の夜はいつも何かが腐っている。食べ物か、木か、あるいは人の欲か。
倉庫の中に入ると、灯りは一つだけだった。
長机の上で、油灯が一つだけ静かに燃えている。
灯りの輪の外は深い闇だった。だが人の気配はある。壁際。入口の脇。奥の木箱の陰。四つ。いや五つ。隠れるのが上手くない。
わざとだ。
隠していることを、こちらに気づかせるための配置。完全に隠せば対等だが、わざと見せることで「こちらが上だ」と知らせる。王城の作法だ。
油灯の向こうに、アルベルト・ヴァルディスが立っていた。
護衛を傍には置いていない。壁際の闇に下がらせている。捕まえる気なら、もっと近くに立たせるはずだ。
足を止めた。
止めた場所は、灯りの輪の外側。顔が半分だけ影に沈む位置。
カイルは倉庫の中には入っていない。さらに外の闇にいる。足音で分かる。半歩遅れて、でも離れすぎない距離。
アルベルトがこちらを見た。
蒼い瞳が油灯の光を受けて、冷たく光る。倉庫の空気ごと切り分けるような目だった。怒りは畳まれている。代わりに、集中だけが表に出ている。
「罠だと分かって来たのか」
「ええ」
変声器越しの声は、低く乾いていた。
「それでも来た」
「捕まえる気なら、あなたはもう失敗している」
アルベルトの眉が、ほんの僅かに動いた。
「失敗?」
「護衛を遠ざけた。逃げ道を一つ残した。話したい人間の罠よ、それは」
沈黙が落ちた。
壁際の気配が一つだけ強張った。王太子の本心を、敵に先に言い当てられたのだ。
アルベルトは否定しなかった。
否定しないまま、一歩だけ前に出た。
油灯の光が金の髪を冷たく照らす。一歩分しか距離は変わっていないのに、この男の存在感だけが膨らむ。権力が身体に染みついている人間の歩き方だ。
「……なぜ作る」
唐突な問いだった。
だが問いの形に、奇妙な真っ直ぐさがあった。脅しでも糾弾でもない。知りたがっている者の声だった。
一拍だけ置いた。
「需要があるから」
「それだけか」
「それだけよ」
アルベルトの視線は揺れない。
蒼い瞳が、フードの影をまっすぐ射抜いてくる。見えないはずのものを見ようとしている視線だった。
「人が死んだ」
「偽造で」
「本物でも、人は壊れる」
「ええ」
否定しない。
否定しないことでしか立てない場所がある。
「でも、それでも欲しがる人間がいる。あなたの国が育てた渇きよ。私はそこに値段をつけているだけ」
壁際で、誰かが息を呑んだ。
王太子に向かって、国の責任を返す言葉だ。普通なら、その場で切られてもおかしくない。だがアルベルトは切らない。切れない。
蒼い瞳の奥で何かが揺れていた。怒りではない。賛同でもない。ただ、自分の中にない答えを渡された人間の目だった。
「値段をつける、か」
「そう。あなたは正義の名で片づけたい。私は需要として数える。見ているものが違うだけ」
「君は、人を人として見ていないのか」
「見えているから、値段を外さないの」
その一言で、倉庫の空気がまた変わった。
壁際の護衛たちには分からないだろう。だが私には分かった。今の返答で、アルベルトの中にあった「国家の敵」という輪郭が、わずかにずれた。
敵ではある。だが、ただの敵ではなくなりかけている。
それは正義より厄介だ。正義は壁を作る。理解は壁を崩す。
「君は——」
アルベルトが言いかけて、止まった。
何を問うべきか、自分でも決めきれていない顔だった。名か。素性か。思想か。あるいは、もっと別の何かか。
問いが多すぎて、どれを先に出せばいいか分からない。
その迷いの数秒が、もう主導権の差だった。
「時間切れよ」
言った。
「今夜は顔を見せた。それで十分でしょう」
「待て」
短い声だった。
命令の形をしているのに、響きが命令ではない。命令は上から落ちる。この声は、横から伸びてきた。掴もうとする手の形をしていた。
動かなかった。動かないまま、その一語の温度を測った。
アルベルトは続けた。
「また会えるか」
壁際の気配が一斉に張り詰めた。護衛たちが息を止めているのが分かる。王太子が言うべき言葉ではないと、彼らも知っているのだ。
少しだけ首を傾けた。
「捕まえたいんじゃないの?」
「捕まえる」
即答だった。即答なのに、その後に微かな間がある。間の中に、自分でも整理できていない感情が詰まっている。
「……だが、その前に」
その「前に」の中に、全部が入っていた。
捕まえる前に会いたい。裁く前に確かめたい。正義の手順を追い越して、個人の渇きが先に走っている。
笑わなかった。
「次は、あなたの罠じゃない場所で」
そう言って、一歩だけ後ろへ下がった。
灯りの輪から肩が外れる。闇が戻る。
アルベルトの足が動きかけて、止まった。追える。追おうと思えば追える。護衛に命じれば挟み撃ちにもできる。
だが追わない。
追わないのではない。追えないのだ。自分で「話す」を選んでしまったから。「捕まえるな」と命じてしまったから。自分の言葉が、自分の足を縛っている。
それが今夜の勝敗だった。
「グレン」
背中に、その名が落ちた。
アルベルトの口が、初めてその名を呼んだ。低く、静かで、思ったより丁寧な響きだった。敵を呼ぶ声ではなかった。割り切れない標的を呼ぶ声だった。
振り返らないまま言った。
「何」
「贈り物を用意する」
背後の空気が僅かに震えた。
唐突だった。唐突すぎるほどに。
だが、あの男の中では、たぶんもう必然なのだ。次がなければ終わる。終わらせたくない。繋ぎ止める理由が欲しい。正義では繋げない。だから別のものを差し出す。
「……君のために」
足を止めなかった。
止めたら、何かが一段進んでしまう気がしたからだ。
倉庫を出た。夜風が頬を打った。肺の奥に冷気が入る。倉庫の中では、知らないうちに呼吸が浅くなっていた。
外の闇の中で、カイルが目を剥いていた。
壁に背をつけたまま固まっている。目だけがこちらを追う。何かを見てしまった人間の目だった。
「……今の、何だよ」
「知らない」
「知らないで済むか」
囁き声なのに半分叫んでいた。顔が真っ青だった。怖さと呆れと、別の感情が全部混ざっている。
「殿下、完全におかしかったぞ」
「前から少しおかしいわ」
「そういう意味じゃねぇ」
カイルが額を押さえた。指の隙間からこちらを見ている。指が震えている。
「贈り物って何だよ。罠か。脅しか。いや、でも今の言い方……」
言いかけて、飲み込んだ。喉に引っかかったままの顔だった。
「……いや、言わない。言わねぇ」
「何を」
「言わない」
カイルは首を振った。頭の中の何かを追い出すように、強く。
歩き出した。カイルが半歩遅れてついてくる。足音が乱れている。いつもの距離なのに、心だけが追いついていない足音だった。
「お嬢様」
「何」
「いや、今夜はグレンか」
「好きにしなさい」
「じゃあ言うけど、あの王太子、あんたのこと完全に敵としてだけ見てねぇ」
返事をしなかった。
カイルは苦い顔をしたまま続けた。
「嫌な方向に、だ」
「知ってる」
「怖くねぇの?」
怖い。
正義より、執着の方がずっと読みにくい。正義には手順がある。執着には手順がない。手順のないものが、一番高くつく。
「売上に関係ないわ」
「……そういうとこだよ」
カイルが小さく吐き捨てた。吐き捨てたが、その声の底には安堵も混じっていた。少なくとも今夜、捕まってはいない。
運河沿いの石橋を渡った。水面に月が落ちている。
王城の尖塔に灯が見えた。
あの灯の下で、アルベルト・ヴァルディスは今夜の会話を反芻するのだろう。需要。国が育てた渇き。見えているから、値段を外さない。
どの言葉が残るかは分からない。
ただ一つだけ分かるのは、今夜、あの男の中で何かが起動したということだった。正義ではない。まだ恋でもない。けれど、その手前の、もっと厄介な何か。
理解したいという渇き。
それは赤の渇きと、どこか似ている。
「お嬢様」
カイルがまた呼んだ。
「何」
「次、絶対面倒なことになる」
「ええ」
橋の下で水が鳴っていた。静かな音だった。静かなのに、妙に長く耳に残る音だった。
歩き出した。
カイルの足音が、半歩遅れてついてくる。
その距離だけが、いつも通りだった。
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メーター:資金 大/疑念 大/執着 中→大/支配 中




