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前哨戦:小さな断罪


朝の教室に入った瞬間、空気の色が違った。


いつもなら椅子を引く音がして、誰かの笑いがあって、誰かが慌てて本を閉じる。そういう細かな雑音が教室を満たしている。今日はそれが薄い。薄くて、その代わりに視線だけが多い。


視線には重さがある。ひとつひとつは軽くても、揃うと重い。今朝の視線は揃っていた。


準備されている。


席へ向かうあいだ、何人かが私を見た。露骨ではない。露骨でないぶん、よく揃っている。リハーサル済みの視線だ。いつ、どこで、誰が合図を出したのかは分からない。けれど空気は嘘をつかない。


机に鞄を置いたとき、前方でエミリアがクレアに何か囁いた。エミリアはいつも囁くとき、左手を口元に添える。添え方が丁寧すぎる。丁寧すぎる仕草は、見せるための仕草だ。クレアは困ったような顔を作り、ジュリエットは目を伏せた。三人とも昨日の食堂と同じ顔をしていた。自分たちは悪意で動いていない、という顔だ。善意の鎧。一番硬い鎧だ。


ほどなくして教師が入ってきた。


腕に抱えているのは、布に包まれた細長い箱。教卓に置かれたそれを見た瞬間、教室の空気が少しだけ揺れた。誰も中身を見ていないのに、もう何かが起きると分かっている揺れ方だった。観客は幕が開く前から拍手の準備をしている。


教師はいつもより背筋を伸ばしていた。緊張しているときの姿勢だ。大人は平静を装うときほど姿勢がよくなる。そして姿勢がよくなった大人は、たいてい誰かを裁く直前だ。


「本日の授業の前に、一つ確認があります」


布が取られた。


中から出てきたのは、光属性実習で使う導光板だった。薄い硝子板に銀の細工が施された高価な教材。先日の授業でルミナが使っていたものだ。


その表面に、斜めのひびが入っている。


細いが深いひびだった。偶然落とした割れ方ではない。力を加えて作った線だ。壊すために壊した線。


誰かの意志が、そこに刻まれている。


教室の後ろで、誰かが息を呑んだ。呑んだ息は、もう吐けない。吐いた瞬間に「知っていた」と思われるから。


教師はその音を聞かなかったふりをして言った。


「昨日の放課後、準備室でこれが見つかりました。保管台帳によれば、最後にこの教室へ戻されたのは一昨日です」


静かだった。静かなまま、全員が次の言葉を待っている。待ち方が揃っている。揃いすぎている。


教師が視線を上げた。


「そして昨日、放課後の準備室付近で、アルヴェイン公爵令嬢を見たという証言がありました」


来た。


椅子の背にもたれなかった。もたれたら守りに入ったと見える。ただ座ったまま、教師を見返した。教師の目は泳いでいた。泳いでいるのに声は安定している。台本がある人間の目だ。自分の言葉ではない言葉を、自分の声で読んでいる。


エミリアが、ためらうふりで手を上げた。ためらいの長さが計算されていた。短すぎれば待ち構えていたと見える。長すぎれば嘘くさい。三秒。ちょうどいい間だった。


「先生……私、はっきりとは見ていません。けれど、廊下の角でエリシア様らしき方を……」


らしき方。断定しないことで責任を軽くする言い方だ。軽くしながら、空気だけはしっかり動かす。エミリアの声は少し震えていた。震えは本物かもしれない。本物の震えを便利に使えるのが、この子の才能だ。


クレアが続けた。


「私も、その……準備室の前で、赤い瞳が見えて……」


赤い瞳。便利な特徴だ。この教室に深紅の瞳は私しかいない。名前を言わなくても、それだけで十分に名前になる。クレアは目を伏せていた。伏せた目の下の睫毛が揺れている。怖がっているように見える。怖がっている人間の証言は、信じられやすい。


ジュリエットが小さく眉を寄せた。


「実習のあと、ルミナ様に向ける視線も少し怖くて……私、気のせいならいいんですけど」


気のせいならいい。これもよく出来た言い回しだ。相手を断罪しながら、自分は慎重な善人でいられる。ジュリエットの声には不安が滲んでいた。不安が本物か演技かは問題ではない。教室の空気にとっては、どちらも同じ重さだ。


空気が、ゆっくり私の方へ傾いてくる。


以前と違うのは、そこに「可哀想」が少し混ざっていることだった。悪役令嬢を断じたい空気。けれど昨日までよりは少しためらいのある空気。ためらいが消えるか残るかは、ここからの数秒で決まる。


教師が咳払いをした。


「アルヴェイン公爵令嬢。何か弁明はありますか」


弁明。


その言葉の響きが、もう少し大きな舞台を連想させた。卒業式。婚約破棄。追放。断罪。ここはその前哨戦だ。小さな断罪。予行演習。観客たちは今のうちに石の投げ方を練習している。


導光板を見た。ひびの角度。入り方。力の向き。


私ではない。昨日、準備室には近づいていない。


けれど否定する言葉を飲み込んだ。


否定は可能だ。時間をかければいくらでも理屈は並べられる。放課後の行動。目撃証言の曖昧さ。導光板のひびの入り方。全部ひっくり返せるかもしれない。


かもしれない、で終わる。


その「かもしれない」のために失う時間と注意が惜しい。教室の中の小さな名誉を守るために、旧実験棟の安全を削る気はない。反論すれば追加の質問が来る。放課後どこにいたか問われる。答えれば答えるほど、行動の空白が浮き彫りになる。空白は、疑いの苗床だ。


ゆっくり視線を上げた。


「ありません」


教室が静まった。


静まり方が深かった。音が消えるのではなく、空気が凍るような静まり方。息を吸う音すら聞こえた。


もう一度、教師が問う。声が少し揺れていた。この答えを予想していなかったのだ。台本にはなかった返事だ。


「……否定しないのですか」


「申し開きはありません」


小さなざわめき。右側の席で、誰かが息を漏らした。やっぱり、という安堵にも似た音だった。悪役が悪役であることを認めてくれると、観客は安心する。自分たちの判断が正しかったと思えるから。


図星だと思う者がいる。黙って耐えていると思う者もいる。


どちらでもいい。


エミリアが口元を押さえ、気の毒そうな顔をした。この子は気の毒そうな顔を作るのが上手い。上手いことに、たぶん本人は気づいていない。無自覚な演技は、一番見破りにくい。


クレアは目を伏せた。自分は傷ついている側だと見せる伏せ方だった。クレアの指が、机の下で自分のスカートの裾を握っている。握る力が強い。これは演技ではない。罪悪感だ。罪悪感があるのに止められない。止められないのは、空気がもう動いているからだ。


ジュリエットは周囲を見回した。空気がちゃんと動いたかを確認する目だった。確認して、小さく頷いた。頷いた先にルミナがいた。


ルミナだけが、少しだけ沈んだ声で言った。


「先生……私は、責めたいわけではありません。ただ、授業で使う大事なものですから……」


柔らかい。柔らかいのに逃がさない。ルミナの声は食堂のときと同じ質感だった。正しさの柔らかさ。綿で包んだ刃物。


教師は導光板を見下ろしたあと、私に向き直った。


「アルヴェイン公爵令嬢。今回は始末書と、今週の実習準備当番を命じます。今後同様のことがあれば、学園として正式な処分を検討します」


正式な処分。


言葉が一段だけ重くなる。まだ軽い。まだ教室の中だけの罰だ。けれど次があるぞと空気に覚えさせるには十分だ。


そして実習準備当番。放課後の時間が削られる。旧実験棟へ行ける時間が減る。今週の出荷を一日ずらさなければならない。導光板一枚の濡れ衣が、裏の段取りに実害を出す。


立ち上がり、一礼した。


「承知いたしました」


それだけで席に座った。


背中に刺さる視線の質が、途中から変わっていくのを感じた。最初は侮蔑。次に好奇心。最後に、少しだけの戸惑い。


否定しない悪役は楽しい。けれど反撃もしない悪役は、少しだけ気味が悪い。楽しさと気味悪さのあいだに、かすかな隙間がある。その隙間に、昨日の「可哀想」が残っている。


授業が始まった。教師の声が前から流れてくる。導光板の代わりに別の教材が配られた。硝子が机に置かれる音。ページをめくる音。日常が、何事もなかったかのように再開する。


けれど何事もなくはない。教室の空気は、もう昨日と同じ形には戻れない。小さなひびが入った。導光板と同じだ。見えないほど細い。でも深い。


---


昼休み、廊下の空気はもう新しい形に固まっていた。


「……やっぱり」


「あんなにすぐ認めるなんて」


「でも、ちょっと怖かった」


「怖いっていうか、なんか……可哀想でもあったよね」


その最後の一言が残る。


全部は悪役令嬢に戻らない。昨日までより少しだけ角度が甘い。


十分だ。


階段の踊り場で、一人の下級生がすれ違いざまに頭を下げた。今までならしなかった子だ。目を合わせるのを避けていた子だ。今日は目を合わせなかったが、それでも頭だけは下がった。


同情は忠誠にならない。けれど完全な敵意を鈍らせる。鈍った敵意は、逃げる時間を一秒だけ延ばしてくれる。


その一秒が欲しい。


廊下の先に、アルベルトとルミナが立っていた。


アルベルトは私を見た。見たが、目は止まらなかった。視線がこちらを通過して、すぐにルミナへ戻る。何かを話しかけている。ルミナが小さく頷いている。二人の間にある空気は完結していて、私が入る余地はどこにもない。


通り過ぎるとき、アルベルトの声が聞こえた。


「……グレンの件、新しい情報が入った。放課後に話す」


ルミナに向けた声だった。声の温度が、廊下で私に向けるときとまるで違う。低いが柔らかい。信頼を含んだ声。相手を対等だと認めている声。


その声と、昨日の「無能は邪魔だ」が同じ喉から出ている。


——滑稽だ。


通り過ぎた。背中に何も刺さらなかった。無関心は痛くない。痛くないことが、今はありがたい。


ルミナは、すれ違う瞬間に少しだけ悲しそうな顔をした。悲しそうに見せるのが上手い。けれど今日のそれは、昨日より少しだけ本物に近かった。導光板の件で、自分の名前が使われたことが気になっているのかもしれない。あるいは、気にしている自分を見せたいだけかもしれない。


どちらでも構わない。


正義は少しずつ舞台を広げていく。今日は導光板。明日はもっと別のもの。けれどまだ私は、舞台袖で動ける。


---


放課後。旧実験棟の仮工房。


火を入れる前の石の匂い。窓の隙間から落ちる鈍い光。昼の教室で浴びた視線の熱が、ようやく冷えていく。


カイルは机に両手をついていた。指先に力が入っている。爪が机の木目に食い込んでいる。怒っているときの手だ。怒っていて、なおかつ抑えているときの手だ。


「なんで否定しなかった」


入ってすぐ、それだった。


声は低い。怒鳴らない代わりに、低さで押してくる。この男は本気で怒ると、むしろ声を落とす。落とした声の方が、怒鳴り声より重い。


手袋を外しながら答えた。


「高くつくから」


「高くつく?」


「導光板一枚のために、準備室の出入りだの放課後の行動だの証人だの、全部洗われるのは割に合わない。反論すれば追加の質問が来る。放課後どこにいたか聞かれる。答えるほど空白が浮く。空白の中にこの工房がある」


カイルが眉を寄せたまま黙る。理屈が分かっている目だった。分かっているのに、感情が追いつかない目だった。


「しかも当番を押しつけられたわ。今週の放課後が削られる。出荷を一日ずらす」


「……濡れ衣で実害出てんじゃねぇか」


「出てるわね。でも反論して旧実験棟に注意が向くよりはいい」


カイルの拳が机を叩いた。音は小さかった。小さく叩くことで、大きく叩きたい衝動を抑えている。


「濡れ衣なんだろ」


「ええ」


「昨日、準備室に行ってないんだろ」


「行ってない」


「じゃあなんで——」


「濡れ衣だと分かってて黙ったの。分かってるから黙れるのよ」


カイルの喉が詰まったように一瞬止まった。たぶん、本人の方がまだ「もしかしたら何か落ち度が」くらいは考えていたのだろう。私はその余地を残さない。


「……っ」


怒りと納得と悔しさが全部混ざった顔だった。この男は理屈が分かる。分かるから余計に腹が立つのだ。正しい判断をしている人間に怒ることの無意味さを知っていて、それでも怒りが消えない。消えない怒りの行き場がなくて、拳だけが白くなっている。


「お嬢様、たまにそういうところ、ほんと腹立つ」


「便利でしょう」


「便利だけど腹立つ」


カイルの声が少し掠れた。掠れたのは怒りのせいだけではない。心配が混じっている。心配は怒りの裏地だ。この男の怒りを裏返すと、いつも心配が出てくる。


火を入れた。鍋の下で小さな火が鳴る。段取りの音だ。段取りの音は落ち着く。


カイルはまだ苛立ちを飲みきれていない顔で窓の方を見た。見てから、思い出したように紙片を差し出す。


「それより、こっちだ」


受け取った。表の市場、裏の搬送路、闇市の出入口。簡単な略図と時刻が書かれている。


「今夜、殿下が闇市を締める。確定だ。匂い嗅ぎだけじゃねぇ。騎士団も入る。見せしめだ」


紙片を見下ろした。線がいくつか引かれている。閉じる場所。塞がれる路地。潰される搬送路。


正義は、こういう夜に一番よく働く。


「それともう一つ。昨夜の別件の締め付けで、依存者が一人暴れたらしい」


手が止まった。


「暴れた?」


「本物をくれ、グレンに会わせろ、って。取り押さえられたけど、殿下の部下が聞いてる」


グレンの名が、正義の現場で叫ばれた。依存者の口から。渇きの底から。


それは宣伝であると同時に、証拠だ。名前が実在の重さを持ち始めている。噂ではなく、現実として。


「動けないわね」


「今夜はな。誰も動けない」


カイルが繰り返した。声に力がこもっている。動くなという意味だけでなく、頼むから動かないでくれという意味が滲んでいた。


紙片を机に置き、鍋の火を一段だけ弱めた。


今夜は走る夜ではない。止まる夜だ。そして止まる夜ほど、次の手を決めるには都合がいい。


「カイル」


「ん」


「依存者が叫んだってことは、殿下にとってグレンはもう噂じゃなくなった。実在する人間として、正義の対象に格上げされた」


カイルが頷く。


「次に殿下が動くとき、もう闇市の末端じゃなくて、グレン本人を狙ってくる」


「……だろうな」


「だから次の接触は、こちらから仕掛ける。待つ側は不利よ。仕掛ける側だけが場所と時間を選べる」


カイルの目が大きくなった。


「こっちから? 殿下に?」


「殿下にじゃない。殿下の罠に、こちらの条件で乗る」


カイルはしばらく黙っていた。黙った後で、長い息を吐いた。腹の底から出す息だった。


「……お嬢様が言うと、罠に乗るって言葉が、罠に聞こえるな」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


「褒めてねぇよ」


カイルの声は低かったが、さっきまでの怒りはもう薄まっていた。怒りの代わりに、覚悟が入っている。この男は怒りを覚悟に変換するのが早い。変換した後の目は、いつも少しだけ澄んでいる。


鍋の火を見つめたまま、思う。


昼の教室では石を投げる練習をされた。夜の市場ではグレンの名が叫ばれた。昼と夜の両方から、網が縮まってきている。


だが網が縮まるということは、こちらの位置が中心に近づくということでもある。中心にいる者だけが、網の形を変えられる。


「今夜は仕込みだけ。出荷はしない。噂だけ動かして」


「何の噂」


「本物は消えていない。締め付けの中でも、グレンは動いている」


「……動いてねぇだろ。今夜は止まるんだろ」


「止まっていても、動いているという噂は流せる。噂は事実より速いもの」


カイルが天井を見上げた。天井の梁に蜘蛛の巣がかかっている。揺れていない。空気が動いていない証拠だ。止まった空気の中で、カイルだけが動いた。壁から背を離し、外套の襟を正す。


「……分かった。広げてくる」


「気をつけて」


「お嬢様こそ。火、消し忘れないでくれよ」


「忘れないわ」


カイルが扉に向かった。扉に手をかけて、振り返る。


「……あのさ」


「何」


「さっきの、導光板の件」


「ええ」


「俺は、お嬢様がやってないって知ってる」


声が静かだった。怒りではない。宣言でもない。ただ事実を置いただけの声だった。


俺は知っている。それだけ。それだけで十分だと言っている声だった。


——一瞬だけ、喉の奥が熱くなる。


「知ってるなら十分よ」


カイルは頷いて、出ていった。


扉が閉まる。足音が遠ざかる。


工房に一人になった。鍋の火が小さく鳴っている。


カイルの言葉が、まだ空気に残っていた。


俺は知っている。


教室の誰も信じなくても。

教師が台本を読み、ルミナが正しい言葉で空気を整えても。

一人だけ知っている人間がいる。


——それで十分。


鍋の火を少しだけ強くした。今週は出荷を一日ずらす。段取りを組み直す。導光板一枚の濡れ衣の代償を、数字で取り返す。


それが、私の反撃だ。


---


メーター:資金 大/疑念 大/執着 中/支配 中


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