可哀想誤解が拡散する
朝、侍女の善意は足音より先に走る。
そのことを、私はよく知っている。
知っているのに、防ぎきれない。悪意なら止めればいい。けれど善意は、止めた瞬間にこちらが冷たく見える。
扉の外で、囁き声がした。
まだ着替えの途中だ。窓の外は薄曇りで、庭木は夜露を抱えたまま動かない。そんな静かな朝に、扉の向こうだけが少し騒がしい。
「……本当に、そんなひどいことを」
「ええ……リナが昨夜、泣いていて……」
「お嬢様が、殿下に“無能”と……」
声を落としているつもりなのだろう。けれど、扉一枚で隠れる程度の秘密は、最初から秘密ではない。
私は髪をまとめる手を止めなかった。
鏡の中の自分は、いつも通り公爵令嬢の顔をしていた。
整っていて、冷たくて、何も言い返さない顔。
この顔に“可哀想”が貼りつくと、周囲は急に優しくなる。
優しくなったふりをする、と言い換えてもいい。
ノックのあと、リナが入ってきた。
目元が少し赤い。泣いた翌朝の目だ。たぶん昨夜もまた、一人で怒って、一人で悲しんだのだろう。この子はそうやって、他人の痛みを自分の胸に溜める。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
銀盆の上に茶器。湯気。いつも通りの朝の形。
ただ、リナの指先だけが落ち着かない。カップを置いてから手を離すまでに、ほんの一瞬だけ迷いがあった。
「何か言いたそうね」
リナの肩が跳ねた。
「……え、と」
「言わないまま顔に出される方が、私は困るのだけど」
リナは唇を結び、意を決したように顔を上げた。
その目には、怒りと悲しみと申し訳なさが全部混ざっている。混ざりすぎて、本人にもどれが一番大きいのか分かっていない顔だった。
「お嬢様、昨日……その……他の侍女たちに、少しだけ」
少しだけ。
便利な言葉だ。たいてい、その後にはもう取り返しのつかない量が続く。
「何を?」
「学園の使用人伝てに、殿下がまたお嬢様にひどいことを仰ったって聞いて……それで私、つい……」
「ええ」
「皆が、お嬢様のことを、気の毒だと……」
声が途中から細くなった。
自分がしたことが善意なのか余計なお世話なのか、ようやく分かり始めている声だった。
私は椅子に座った。茶を一口飲む。少しぬるい。リナは心が乱れていると、湯の温度までずれる。
「広がったのね」
叱るでもなく言うと、リナの目が大きくなった。
「……お怒りにならないのですか」
「怒ってほしいの?」
「い、いいえ……!」
「なら、泣きそうな顔をやめて」
リナは慌てて背筋を伸ばした。
けれど、背筋を伸ばしたところで善意は消えない。
「お嬢様は……平気なのですか」
「平気よ」
「でも」
「リナ」
名前を呼ぶと、彼女は口を閉じた。
「可哀想だと思われることは、侮辱されることより少しだけ使いやすいわ」
リナのまつ毛が震えた。意味が分からない、という顔だった。
「皆が私を悪役令嬢だと決めつけるより、可哀想な婚約者だと思う方が、少しだけ空気が緩む。それだけ」
「……お嬢様」
リナは泣きそうな顔のまま、けれど少しだけ嬉しそうでもあった。理解したのではない。ただ、自分が役に立てたと思ったのだ。
「だから、もう一つだけ覚えておきなさい」
「は、はい」
「これ以上、詳しく喋らないで。ぼかして。曖昧にして。断定で広がる噂は、あとで面倒になる」
リナは真剣に頷いた。
「曖昧に、ですね」
「そう。曖昧な噂の方が、長く残るから」
たぶん半分も分かっていない。
それでも、お嬢様のため、という方向だけは外さない。それで十分だ。今は。
カップを置いたとき、廊下の向こうでまた小さな囁きがした。
「やっぱり……」
「健気でいらっしゃるのね……」
扉越しのその声に、リナがむっと眉を寄せる。
私は寄せない。
健気。
便利な言葉だ。弱い、哀れ、放っておけない、でも本気で味方するほどではない。そういう曖昧な距離感を、一語で済ませてくれる。
「お嬢様」
リナが小さく拳を握っていた。
「絶対に、いつか皆に分からせてやりたいです」
私は笑わなかった。笑えば、この子はもっと熱くなる。
「分からせる必要はないわ」
立ち上がって、手袋を取る。
「私が生き残れば、それで十分よ」
リナはしばらく黙っていた。
それから静かに頭を下げた。
「……はい」
今の“はい”は、少しだけ重かった。
軽い善意が、ほんの少しだけ現実の重さを覚えた声だった。
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学園の食堂は、昼になると空気が甘くなる。
パンの匂い。スープの湯気。果実酒の薄い香り。
そして何より、噂がいちばんよく発酵する温度がある。
私はトレーを持ったまま、いつもの壁際の席へ向かった。
途中で会話が一瞬だけ止まり、また動き出す。止まるということは、私の話をしていたということだ。動き出すということは、やめる気はないということだ。
「……見た? 今日の顔」
「平気そうだったわね……逆に、つらい」
「殿下にあんなこと言われても、何も言い返さないなんて」
「でも、だからって今までのことが消えるわけじゃないでしょ」
「そうだけど……少し可哀想かも」
“可哀想かも”。
その曖昧さが、いちばん使いやすい。
断定されない同情は、裏切られにくい。悪役令嬢という言葉の角を、少しだけ丸くしてくれる。
席に着くと、向かいのテーブルの令嬢がわざとらしく視線を逸らした。
その逸らし方が優しさのつもりであることに、私は気づいている。
以前なら、彼女たちはもっとあからさまに笑った。
今は笑わない。笑う代わりに、声を潜める。潜めた声で私を“気の毒な人”として消費する。
それでいい。
完全な味方は要らない。空気が少し割れればいい。断罪のとき、全員が一斉に石を投げる形でなければ、それでいい。
スープを口に運んだとき、前方のざわめきが変わった。
ルミナ・セレスタが食堂に入ってきたのだ。
今日のルミナは笑っていなかった。
微笑んではいる。けれど、いつもの柔らかさが少し薄い。代わりに、輪郭がはっきりしている。正しさの輪郭だ。何かを決めてから来た顔だった。
彼女は取り巻きと共に中央の席へ向かった。
向かいながら、こちらを一度だけ見た。
ほんの一瞬。
それだけで、今朝の噂をすべて聞き終えていることが分かった。
エミリアが先に口を開く。
「最近、変な空気ですよね」
声は小さい。
けれど、“聞こえてもいい小ささ”だった。
クレアが頷く。
「悪いことをした人まで、可哀想って言われるのは変です」
ジュリエットが続ける。
「同情って、時々ずるいですものね」
三人ともルミナを見ている。
結論は、彼女に言わせるつもりなのだ。
ルミナは少しだけ目を伏せた。
考えているように見える沈黙。けれど、答えはもう決まっている。
「可哀想は、悪の免罪符ではありません」
食堂の空気が、その一言で静かに引き締まった。
誰かがパンを置く音。
誰かが椅子を引く音。
すべてが小さくなって、ルミナの声だけが残る。
「辛い立場にいることと、してきたことの責任は別です」
柔らかい。
優しい。
優しいのに、逃げ道を残さない。
ルミナの目が、もう一度だけこちらを向いた。
敵意はない。敵意がないことが、一番怖い。敵意なら避けられる。正しさは避けられない。
上手いな、と思った。
私はスプーンを置いた。
ルミナは真正面から人を殴らない。正しい言葉だけで殴る。正しい言葉で殴られると、周囲は止めない。むしろ頷く。
実際、食堂のあちこちで小さな頷きが起きていた。
「そうよね……」
「可哀想と、無罪は違うもの」
「ルミナ様はやっぱりすごいわ」
空気が戻っていく。
私に傾きかけた同情が、少しずつ剥がされていく。
けれど、全部は戻らない。
一度“気の毒”を知った目は、以前ほど単純には石を投げられない。投げる前に、ほんの一瞬だけ手が止まる。その一瞬があるかないかで、逃げる時間は変わる。
ルミナもそれを分かっている。
だから潰しに来た。潰しきれないにしても、角度を修正しに来た。
――やっぱり上手い。
私は視線を上げずにスープを飲み切った。
ルミナの言葉は正しい。
正しいから強い。
強いから厄介だ。
けれど、正しさはいつも現実より遅い。
現実は、私の方にある。
席を立つとき、通りすがりの生徒が小さく言った。
「……でも、少しだけ、可哀想だった」
その“少しだけ”が残ったことに、私は満足した。
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放課後、旧実験棟の仮工房はいつもより暗く感じた。
曇り空のせいかもしれない。
あるいは、昼に浴びた正しさの眩しさが、ここへ来てようやく目から抜けたせいかもしれない。
カイルは机に肘をついて、紙片を睨んでいた。
闇市場から回ってきた注文書。数は少ないが、質が変わってきている。安く多くではなく、“本物だけを確実に”という欲しがり方へ移っている。
死人が出た市場は、むしろ本物を求める。
恐怖は需要を消さない。需要の精度を上げるだけだ。
「食堂、どうだった」
カイルが顔を上げずに聞いた。
「私が可哀想らしいわ」
「へえ」
「でも、ルミナが丁寧に剥がしてくれた」
そこで初めて、カイルが顔を上げた。
「剥がす?」
「“可哀想”と“無罪”は違うって」
カイルが鼻で笑った。
鼻で笑ったが、その笑いは少しだけ疲れていた。
「さすが聖女様。言い方が綺麗だな」
「綺麗な言葉ほど、人を逃がさないの」
机の上で、小瓶を一本だけ転がした。
ガラスの中の赤が、薄い光を吸って鈍く光る。
「でも悪くないわ」
「何が」
「空気が割れたこと。全員が一枚岩じゃなくなった」
カイルはしばらく黙っていた。
それから紙片を裏返す。
「……まあな。あんたを嫌ってる奴らでも、一回“可哀想”って思っちまったら、前みたいには笑いにくくなる」
「そういうこと」
カイルは紙片を机に戻した。
指先で机を二回叩く。考えているときの癖だ。
「ただ、楽観してる場合じゃない」
「知ってる」
「今夜、王太子が動く。いつもの匂い嗅ぎじゃない。もっと大きい」
私は顔を上げた。
「どこまで?」
「表の市場。裏の市場。搬送路。全部。情報屋が震えてた。“見せしめ”だって」
見せしめ。
正義がいちばんよく燃える方法だ。一つ潰して十に見せる。十が怯えれば、百が黙る。
「動けないわね」
「今夜はな」
カイルは苦い顔をした。
その奥に、わずかな安堵も見えた。動けないことに不満を感じながら、動かないで済むことに少しだけほっとしている。
「だから言ったろ。食堂で可哀想になってる場合じゃない。殿下はこっちの都合なんか待たない」
「知ってる。だから今夜は動かない」
頷くと、カイルが一瞬だけ驚いた顔をした。
「……珍しいな」
「珍しくないわ。動かない方が得な夜は、動かない」
それだけのことだ。
止まるべき夜に走るのは勇敢ではない。段取りが悪いだけだ。
鍋に火を入れた。
今日は仕込みだけ。出荷はしない。匂いも最小限。小さな火の上で、液体が静かに揺れる。
カイルがその揺れを見ながら、ぽつりと言った。
「昼の空気と、夜の空気って、ほんと別物だな」
「昼は正義。夜は欲望」
「どっちが楽?」
「夜」
「即答だな」
「欲しがる人間の方が、正しい人間より読みやすいもの」
カイルが肩を揺らした。
ちゃんと笑うのは久しぶりかもしれない。
火加減を見ながら、私は思う。
昼のルミナは、たぶん明日も正しい顔でこちらを見るだろう。正しさを積み上げて、断罪の舞台を作っていく。
一方で夜の市場は、死人と恐怖で本物を欲しがる。
どちらもこちらに近づいてくる。近づき方が違うだけで、どちらも危険だ。
「カイル」
「ん」
「明日以降、学園で何かが動くわ」
「ルミナ派の続きか」
「ええ。今日の空気じゃ終わらない。“可哀想”を放置しない。次は、その原因ごと断罪する方へ進む」
カイルが小さく舌打ちした。
「面倒くせぇ」
「ええ。でも今夜は動かない。売らない。噂だけを動かす」
「噂?」
「“本物は消えていない”って」
カイルが眉を寄せる。
「殿下が締める夜に?」
「締める夜だからよ。完全に消えたと思わせたら、偽物がまた膨らむ」
カイルは数秒だけ黙っていた。
それから、観念したみたいに肩を落とす。
「……分かった。広げる」
その“分かった”には、半分の諦めと半分の信頼が混じっていた。最近のカイルはそういう返事が増えた。情で先に走る代わりに、一度だけ考えるようになった。
良い傾向だ。
ただし、情が消えたわけではない。消えないから、いつかまた綻ぶ。
鍋の火を落とした。
今日はここまでだ。仕込みだけで終える夜。動かない夜。待つ夜。
待つ夜は長い。
長いから、人は余計なことを考える。
「……お嬢様」
カイルが壁にもたれたまま、少しだけ低い声で言った。
「昼に“可哀想”って言われて、嫌じゃなかったのか」
少しだけ考えてから答えた。
「嫌よ」
カイルが目を上げた。
何か言いたそうだったが、結局、窓の外へ視線を戻した。
聞かなかったのは優しさだ。
優しさは、ときどき黙る形をしている。
外では、学園の鐘が一つ鳴った。
夕方と夜の境目を告げる鐘だ。
境目。
私はそういう時間が嫌いではない。まだ、どちらにもなれる時間だから。
カイルが窓の外を見たまま言った。
「……明日、学園で糾弾が始まる」
その一言が、旧実験棟の冷たい空気に落ちた。
私は頷き、消えかけた火を完全に落とした。
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メーター:資金 大/疑念 大/執着 中/支配 中




