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心酔の開始


朝の王城は、静かすぎた。


静かな場所では、紙の擦れる音がやけに大きく聞こえる。

報告書をめくる音。封蝋を割る音。ペン先が机を叩く音。

そのどれもが、いつもより硬い。


アルベルト・ヴァルディスは、机上の紙束から目を上げなかった。


昨夜の踏み込み報告。押収品一覧。逃走経路の推定。現場に残された靴跡の深さ。油灯の位置。扉の破損具合。

細かい。細かいのに、肝心なものだけが抜けている。


顔がない。


王太子の指先が、紙の端を押さえた。

押さえる力がわずかに強い。紙が微かにたわむ。本人は気づいていない。


「殿下」


側近のルーカス・ハルトが、机の前に立っていた。

侍従長らしい無駄のない立ち姿だったが、今朝はその無駄のなさが、わずかに固い。


「捜査班の一次報告です。現場にいた者の証言をまとめました」


「言え」


「倉庫の中にいた男たちは、全員“彼”を見ています」


彼。


ルーカスがその代名詞を使ったことに、アルベルトの視線が初めて動いた。

ただし顔を上げたわけではない。視線だけが紙の上を滑った。


「彼か」


「現場の認識は、そのように」


「理由は」


ルーカスは一瞬だけ間を置いた。

言葉を選んでいる。選ばなければならない話題だということが、その短い沈黙で分かる。


「背格好。声。立ち方。……それと、場の支配の仕方です」


場の支配。


昨夜、倉庫の入口で足を止めた瞬間のことが、アルベルトの脳裏に戻った。

乱れた呼吸。暴れかけた闇ギルドの手下ども。油灯の輪の中で滑った赤い瓶。

その中心にいた影は、誰よりも静かだった。


静かであることが、そのまま格になっていた。


松明の光が届く直前、あの影は一歩だけ後ろへ退いた。

逃げたのではない。退いたのだ。

退く動作に焦りがなかった。足音が聞こえなかった。呼吸が乱れなかった。

追われる側の人間が、追っている側より静かだった。


その異常さが、アルベルトの足を止めた。


命令を出そうとしていた口が、閉じた。

閉じた理由を、まだ自分に説明できていない。


「闇の連中が、彼の一言で武器を下げました」


ルーカスが続ける。

平静な声だったが、その平静を保とうとしていること自体が、この報告の異常さを示していた。


「供給停止を恐れたのでしょう。……普通は、そこまで従いません。少なくとも、あの手の男たちは」


アルベルトの喉の奥で、息がひとつだけ鳴った。


そうだった。

止まったのは闇ギルドの連中だけではない。

自分もまた、あの場で止められていた。


返事の代わりに、報告書の余白へペンを走らせる。


冷酷

合理的

供給で支配


ペン先が止まる。

そのまま数秒、動かない。


そして、もう一語。


完璧


書いた瞬間、自分でも眉がわずかに動いた。


ルーカスは、その筆跡を横目で見てしまった。

見てしまってから、視線を戻す。戻したが、遅い。


「……殿下」


「何だ」


「敵の評価としては、いささか」


言いよどんだ。

ルーカスほどの男が言葉を選び損ねるのは珍しい。


「熱があるように見えます」


アルベルトはようやく顔を上げた。


蒼い瞳はいつも通り冷たかった。

冷たいのに、その冷たさの奥に、ルーカスが見たことのない光がある。

怒りとも、焦りとも違う、名前のつかない熱だった。


「熱?」


「……失礼しました」


「構わん。続けろ」


ルーカスは一礼した。礼の角度がいつもより深い。

深くすることで、顔を隠している。


「現場の証言は一致しています。彼は逃げたのではなく、あの場を利用しました。踏み込みの混乱ごと、自分の撤収経路に変えた」


逃げたのではない。使った。


追われる側の人間が、追う側の踏み込みを道具にする。

それは度胸だけではできない。

頭がいる。段取りがいる。場の温度を読む力がいる。

そして何より、自分の判断を信じていなければできない。


アルベルトは、自分がそういう人間を知らないことに気づいた。


王城には優秀な人間がいる。有能な側近もいる。

だが彼らは皆、命令の中で動く。

命令の外側で、自分の判断だけで、あれほどの場を支配できる人間には会ったことがない。


「……冷酷で、合理的で」


呟く。

自分の声が、いつもと少し違うことに気づいている。気づいているのに、止められない。


ルーカスは黙った。

この先の言葉を、もう知っている気がしたからだ。


「完璧だ」


小さな声だった。

だが、王城の書庫の静けさの中では、刃のようによく通った。


ルーカスは目を伏せたまま思う。


――敵の話ですよね、殿下。


だが、その問いは口にしなかった。

口に出した瞬間、今ここにある何かが形を持ってしまう気がした。


---


学園の廊下は、昼の光で白く曇っていた。


窓際にルミナ・セレスタが立っている。

白銀の髪。揺れない微笑み。

今日も“正しい側”にいる人間の空気を纏っていた。


その隣に、アルベルトが立つ。


生徒たちは距離を取っている。遠すぎず、近すぎず。

この二人の周囲には、自然に半歩ぶんの空白が生まれる。

権力と人気は、何も言わなくても人を避けさせる。


エリシアは、その空白の外側を歩いていた。


呼ばれる前から分かる。

空気の流れが、少しだけこちらを向く。

王太子がいる廊下では、人の視線より先に、空気が人を選ぶ。


「エリシア」


足を止めた。


取り巻きたちが、目を伏せるふりをしてこちらを見ている。

ルミナは少しだけ困ったような顔をした。

困ったような、という表情そのものが、彼女にはよく似合う。


「殿下」


一礼する。

完璧な角度。完璧に無意味な礼。


アルベルトは返礼しない。


「旧市街の件は聞いているな」


「ええ」


「お前は関わるな」


短い命令。

命令は理由がついた瞬間に格が落ちる。アルベルトはその作法を知っている。


「心得ております」


そう答えるつもりだった。

だが、アルベルトの次の一言がそれを先回りした。


「無能が首を突っ込めば、邪魔になるだけだ」


廊下の空気が薄くなった。


誰かが息を止めた。

誰かが視線を逸らした。

逸らした先の誰かも、同じように逸らしていた。


ルミナが小さく眉を寄せた。


「殿下……」


柔らかい声。

たしなめるようでいて、止めるつもりのない声。

それでも“止めようとした善人”の位置だけは、きちんと取っている。


――上手い。


エリシアはそう思った。

思っただけで、顔には出さない。


「承知いたしました」


それだけ言って、再び礼をする。


怒らない。

反論しない。

傷ついた顔も見せない。


そういう沈黙は、ときどき人を苛つかせる。

実際、アルベルトの眉がほんの僅かに動いた。


「……ルミナ」


彼は視線をエリシアから切った。

切った瞬間、空気がまた元の形に戻る。正しい側へ。


「君は違う。余計なことに近づく必要はない」


ルミナは少しだけ目を伏せた。


「でも、困っている方がいるなら……」


「君は救う側だ。汚れに触れる必要はない」


その言葉に、周囲の取り巻きが小さく頬を染めた。

救う側。選ばれた側。

そう呼ばれる人間の眩しさに、廊下の空気がまた傾く。


エリシアはその光景の外側を通り過ぎた。


背中に視線が刺さる。

だが、昨日までと少しだけ違う視線も混じっている。


哀れみ。

同情。

“可哀想”という名前の、薄くて便利な感情。


リナが広げた噂が、もう効き始めているのだ。


――便利ね。


胸の中でだけ、そう呟く。

善意は使える。嘘より速く広がるから。


だが、背中に残るアルベルトの声の温度だけは、少しだけ邪魔だった。


無能。邪魔。


――昨夜、「会いたい」と言った男と、同じ口だ。


---


旧実験棟の仮工房は、夜になるとよく冷えた。


石の匂い。古い薬品の乾いた匂い。

そして、火を入れる前の静けさ。


エリシアは机の上に紙を広げ、線を引いていた。

取引先の順番。供給量。偽物が出た時の対処。ルートの切り替え。

紙の上で整理されたものだけが、恐怖から少し遠い。


カイルが窓際に立っている。

外を見ているが、見ているのは闇ではない。考えているのだ。

考えすぎて黙っている。


「……お嬢様」


「何」


「殿下、思ったより早かったな」


「何が」


「壊れるのが」


ペン先が一瞬だけ止まった。


カイルはこちらを見なかった。

見ないまま続ける。


「情報屋に聞いた。今朝の捜査会議で、殿下がグレンのことを報告書に書き殴ったらしい。冷酷、合理的、完璧って」


完璧。


その単語を、あの男が書いた。


「側近が何か言ったの?」


「熱がある、って進言したらしい。殿下の態度に熱がある、と」


「それで?」


「殿下は否定しなかった。否定しなかったことが、情報屋を震え上がらせてた」


否定しないのは、認めたのとは違う。

だが否定できなかったのだとしたら、それはもっと深い。


「追われるのは想定内」


エリシアは紙の上に、供給先を一つ消した。


「問題は、近づかれること」


「近づかれたら?」


「近づかせない」


「どうやって」


「像を育てる」


カイルが振り向いた。


「像?」


「グレンという像よ。男で、冷酷で、合理的で、天才。――あの人が追いたいのは、たぶんもう“犯人”じゃない。自分の中で育った像の方」


ペン先で、別の線を引く。

闇市場。上流。噂の経路。学園の外と内。


「像が大きくなればなるほど、私は遠くなる」


カイルの目が少しだけ細くなった。

理解したときの顔だ。理解したくない時も、この男はまず理解してしまう。


「……だから噂を止めないのか」


「ええ」


「殿下がグレンを追えば追うほど、エリシアから離れていく」


「そう」


カイルが苦い顔で笑った。


「やっぱり、お嬢様は怖ぇな」


「現実的なの」


「同じだろ」


エリシアは返事をしなかった。

返事の代わりに、紙の端に短く書き足す。


接触想定。次の手を警戒。


それを見て、カイルが眉を上げた。


「次の手?」


「会いたがっているなら、そのうち何かを仕掛けてくる。罠か、誘い出しか。あるいはもっと個人的な何か」


カイルが舌打ちした。


「めんどくせぇ男だな」


「王太子だもの」


「そこじゃない」


珍しく即答だった。

少しだけ面白くなって、エリシアの口元が動きかける。動きかけただけで、止まった。


工房の冷気の中で、火を入れる。

小さな火。小さな音。


鍋の中で液体が静かに回る。

赤はまだ生まれていない。ただ、その手前の透明な段階が、光をわずかに歪めている。


カイルがその揺らぎを見つめながら、小さく言った。


「……次に会ったら、殿下はもっと近くに来る」


「来るでしょうね」


「怖くねぇの?」


怖い。

怖いに決まっている。

だが怖いと言葉にした瞬間、その怖さは形を持つ。形を持った怖さは、手を止める。


「売上に関係ないわ」


カイルが苦笑した。

苦笑の中に、少しだけ安堵が混じっていた。

この人はまだ壊れていない――そう確認した時の顔だった。


エリシアはそれに気づかないふりをして、火加減を一段落とした。


0.1の差は、火の一段だ。


---


その夜、アルベルト・ヴァルディスは執務室の灯りを落としてからも、しばらく椅子に座っていた。


私室に戻る気になれなかった。


机の上に、昨夜の報告書が開かれたまま置かれている。

もう読み終えている。内容も覚えている。

それなのに、閉じられない。


閉じれば、紙の上の文字が見えなくなる。

見えなくなることが、なぜか惜しい。


指先が、余白をなぞる。

自分で書いた文字をなぞっている。


冷酷。合理的。完璧。


最後の一語の上で、指先が止まった。


完璧。


この言葉を書いたとき、自分が何を感じていたのか。

ルーカスは“熱”と呼んだ。そうかもしれない。

だが、ただの熱なら名前がある。怒りか、焦りか、嫉妬か。

そのどれでもない。どれでもないから、消し方が分からない。


窓の外は暗い。

暗いのに、頭の中にあるのは赤い瓶の光だけだった。


油灯の輪の境界で、一瞬だけ光った赤。

あの光を見た瞬間、足が止まった。命令が止まった。呼吸が止まった。


あれは、美しかったのではない。

ただ、異様に完成されていた。


正しいはずがない。

この国を蝕む禁忌の薬を作る犯罪者が、正しいはずがない。

それでも、あの場の全てを掌握していた静けさは、アルベルトが知るどんな人間よりも完成されていた。


ルーカスが退出してから、もう一刻が過ぎている。

城は静かだ。静かすぎる。

その静けさの中にいると、昨夜の倉庫の静けさと重なる。


「……会いたい」


声に出た。

自分で出した声に、自分が少しだけ眉を寄せる。


会ってどうする。

捕まえるのか。尋問するのか。裁くのか。


分からない。


分からないのに、油灯の輪の境界に立っていたあの影が、目を閉じても消えない。

声。立ち方。沈黙。

何一つ正体は掴めていないのに、存在だけが異様に鮮明だ。


そして明日、学園へ行けば、婚約者がいる。

無能な令嬢。何もできない女。


以前なら、そう整理できた。

だが今は違う。


あの女を見ると、グレンを思い出してしまう。

正反対の像として。


無能と天才。

同じように黙っているのに、片方は苛立ちを呼び、片方は足を止めさせる。


「次は」


小さく呟く。


「次は、必ず“直接”だ」


その言葉だけが、静かな部屋の中で妙に熱を持って残った。


---


メーター:資金 大/疑念 大/執着 中→中強/支配 中


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