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紅蓮の錬金術師


鏡の前の私は、いつも通りの公爵令嬢だった。


整った顔。深紅の瞳。冷たい表情。

それだけで悪役の記号として成立する、この国で一番便利な顔。


だから、その顔を今日は“使い方ごと”変える。


外套の内側で金具を喉元に固定し、息を吸った。

変声器が鳴る音はしない。鳴らないから怖い。鳴らないまま、声だけが別物になる。


「——テスト」


低い。乾いている。女の輪郭が消えた声。


机の上に置いた黒革の手袋をはめる。指先が消える。

皮脂も、癖も、温度も、布の向こうに隠れる。


最後に、外套のフードを深く被った。


鏡の中の私は、同じ顔のまま違う空気を纏っていた。

顔は変えられない。変えるのは、纏うものだ。声と、手と、立ち方と、沈黙の質。

それだけで、人は別人を見る。


「行くわ」


誰に言ったのでもない。自分に言った。


---


旧実験棟の裏口で、カイルが待っていた。


壁に背をつけて腕を組んでいる。顔色が悪い。けれど目は冴えている。

怖いときほど、この男はよく働く。恐怖が燃料になる体質だ。


こちらに気づいて腕を解いた。解いた手が一瞬だけ宙を泳いだ。

いつもの相手なのに、纏う空気が違うから、身体が戸惑っている。


「……お嬢様」


「今夜は、その呼び方やめなさい」


カイルの喉が動いた。飲み込むように。名前を切り替えるように。


「……分かった。——グレン」


その呼び名が、夜気の中で小さく落ちた。音が短い。口に残る。

カイルの唇が、名前を発した後もしばらく閉じなかった。音の重さを舌の上で確かめている顔だった。


「場所は?」


カイルが短い紙片を出した。指先が僅かに湿っている。緊張の汗。


「旧市街の倉庫。川沿い。鐘が二つ。合図は白い布。ガルムの連中が仕切る」


「捜査の匂いは?」


「増えてる。匂い嗅ぎが川沿いまで来てるって噂だ。……殿下が今夜、見たいらしい」


見たい。捕まえるじゃない。見たい。確かめたい。


「行くわ」


歩き出した。カイルが半歩後ろにつく。いつもの距離。

けれどその距離の中に、今夜はいつもと違う緊張がある。カイルの足音が硬い。

靴底が石畳を叩くたびに、覚悟を踏み固めているような音だった。


---


川沿いの倉庫は、外から見ると空だった。


窓は板で塞がれ、扉は錆びている。

けれど近づくほど分かる。空気が重い。人の気配がある。

中にいるのは働く人間じゃない。待つ人間だ。待つ人間は欲望を溜め込む。溜め込んだ欲望は匂いになる。


横手の扉が少しだけ開いていた。


「白い布だ」


カイルが囁く。壁に掛かった白い布が、夜風で微かに揺れている。


扉の隙間に滑り込み、暗い倉庫の中へ入った。


油灯が三つ。灯りの輪の外は闇。闇の中に、息がいくつもある。

数えなくていい。全員が買い手だ。買い手は数ではなく、渇きで量る。


「来たか」


闇ギルドの使いの声。正面には長机。その向こうに数人。机の上には何もない。

何も置かないことで、ここが取引の場だと分かる。


「——紅蓮の錬金術師、グレン」


誰かがその名を言った。声が震えていた。恐怖ではない。期待だ。

噂でしか知らなかったものが、今、目の前にいる。その震え。


呼び名が口にされた瞬間、空気が固まった。呼吸が揃った。

闇の中の目が油灯を拾って微かに光っている。


椅子に座らなかった。立ったまま、机の向こうを見る。


「条件は二つ」


声は低く、平らだった。自分の声ではないから、感情が乗らない。

感情が乗らない声は、命令より重い。


「ひとつ。勝手に“増やすな”。」

「ふたつ。今夜ここで“騒ぐな”。」


闇の中で、誰かが小さく笑いかけて、すぐ消えた。隣に肘で止められたのだ。


手袋のまま、机の上に小瓶を一本だけ置いた。

ガラスの中の赤が油灯の火を吸い込んで短く光った。


キャップには数字だけ。99.1。


笑いの残響が完全に消えた。


闇の連中は数字の意味を正確には知らない。けれど、他の赤とは違うという事実だけは皮膚で理解する。

空気の温度が変わった。欲望の熱が、畏れの冷気に変わる。


「……それが本物か」


質問の声は震えていた。渇きの震えだ。喉が干上がっている人間の声。


「本物かどうかは、飲めば分かる。ただし」


小瓶から指を離さないまま言った。


「返品はない。死んでも、あなたの判断だ」


机の向こうの男の顔が強張った。死という単語が出たのに、引かない。引けない。

渇きが恐怖を上回っている。その順番がもう狂っている。


「金は?」


「前金。帳簿は残すな。名も残すな」


闇の使いが袋を滑らせた。金属の重み。宝石の硬い音。

受け取って、開けなかった。開けて確かめる時間は、痕跡を増やす時間だ。


「——よし」


闇の使いが小瓶に手を伸ばした。


その瞬間だった。


外で、足音が揃った。


革靴が石を叩く音。金属が擦れる音。命令に慣れた背筋の音。

だが中心に、一つだけ違う歩調がある。他は規律で動いている。その一つだけは意志で動いている。


——来ている。


殿下が来ている。


倉庫の中の息が一斉に乱れた。誰かが腰の刃に手をかけた。誰かが後ろへ下がった。

闇ギルドの使いの目が泳ぐ。判断ができない目だ。戦うのか逃げるのか、身体が揺れている。


「——踏み込め」


短い命令。若い声。若いのに迷いがない。


松明の光が板の隙間から倉庫の壁を舐めた。


闇の中の全員が動こうとして、止まった。

止めたのは私だ。


「条件、二つ目」


声を落とす必要もない。もう全員が聞いている。


「今夜ここで騒ぐな。騒いだら——次はない」


供給停止。その意味が刃より深く刺さった。


闇ギルドの使いの顔から血の気が引いた。唇が白い。

震える唇が開く。


「……下げろ。全員、武器を下げろ」


部下が動く。暴れたい身体を抑えて動いた。抑えさせたのは忠誠ではない。渇きだ。

ここで赤を失うわけにはいかない。その一点だけが全員を支配している。


松明の光が近づく。扉が軋む。もう数秒で、この倉庫は正義に踏まれる。


小瓶を指先で押し、机の端から闇の使いの方へ滑らせた。


「持って行け」


闇の使いが反射で掴んだ。掴んだ瞬間、その男の目が変わった。

宝物を抱いた目。同時に、追われる者の目。掴んだ手が震えている。嬉しさと恐怖が同じ手の中で混ざっている。


空になった机の前から一歩引いた。

逃げない。逃げればただの犯罪者だ。犯罪者は追われる。けれど、消える者は追えない。


もう一歩。闇の奥へ。油灯の輪の境界に立つ。


扉が破られた。松明の光が倉庫に流れ込む。


光の中に影が立った。


細身。長身。金の髪が松明に照らされて冷たく光る。蒼い瞳が倉庫の闇を切り裂くように走る。


アルベルト・ヴァルディス。


殿下の視線が散らばる闇ギルドの男たちを一瞥し、机の上を見る。空だ。

そして視線が動く。闇の奥へ。油灯の輪の境界へ。


目が合った――気がした。


フードの影に瞳は見えない。見えないはずなのに、殿下の足が止まった。

動いていた足が止まった。命令を出そうとしていた口が閉じた。

部下たちが戸惑う。なぜ殿下が止まったのか分からない。


殿下の目が、フードの影を見つめていた。

怒りでも正義でもない。何だ、あれは。分からない。


私は一歩後ろへ下がった。油灯の輪を出た。闇が肩を覆った。


殿下の唇が動く。声は出ない。声にならない言葉はたいてい本心だ。


読めた。唇の形だけで読めた。


——待て。


私は背を向けた。


カイルが先に動いていた。白い布が揺れる。倉庫の反対側で板が外れる音。別の出口が開く。


走らない。走ると足音が残る。足音は地図になる。

早足で、影に溶けた。


背後で怒号が上がった。取り押さえる音。金属と肉がぶつかる音。悲鳴。命令。混乱。

その全部を背中で聞きながら、倉庫を出た。


---


路地に出た瞬間、夜風が肺を叩いた。


カイルが横に並ぶ。息が荒い。


「……見られた」


「ええ」


「殿下に」


「ええ」


「顔は」


「見えていない。見えていないけれど——」


言葉を切った。

あの目。あの数秒間、殿下は捜査官ではなかった。


「——覚えられた。顔じゃなく、存在を」


カイルが唇を噛んだ。噛んだ唇が白い。


「……最悪だ」


「最悪じゃない。最悪は捕まることよ」


「捕まるより怖ぇよ。あの人に覚えられる方が」


運河沿いの石橋を渡った。水面に月が落ちている。月は無関係な顔で光っていた。


「カイル」


「はい」


「今夜から、私は外ではグレンとしてしか動かない」


カイルが一瞬黙って、小さく頷いた。頷く動作が重い。首に錘がついているみたいだった。


「……分かった。お嬢様は学園では無能。夜は——紅蓮」


「そう」


「殿下、今ので余計に燃えるぞ」


「燃やせばいい。燃えた火は、偽物も焼く」


カイルが苦い顔をした。けれど足音は半歩遅れたまま離れなかった。


---


屋敷に戻り、自室の扉を閉めた。


外套を脱ぐ。手袋を外す。変声器を喉から外す。

金具が肌から離れる瞬間、声が戻る。自分の声が戻る。


鏡を見る。


公爵令嬢の顔が、そこにあった。

さっきまでグレンだった顔が、何事もなかったように令嬢に戻っている。


——二つの顔。どちらが本物かと聞かれたら、どちらも道具だと答える。


ノートを開く。今夜の記録を書く。


倉庫。取引一件。小瓶一本。前金受領。踏み込みあり。殿下、直接目撃。


ペンが止まった。

殿下の目を書こうとして、書けなかった。怒りでも正義でも軽蔑でもない。名前のない感情。


記録できないものほど危険だ。だから、書かない。


---


翌朝。


学園の廊下で、カイルが足早に寄ってきた。息が上がっている。走ってきたのだ。


「情報屋から」


「何」


「昨夜の件、殿下が報告書を受け取った後、しばらく動かなかったらしい。側近が声をかけても反応しなかったって」


「それで?」


カイルが声を落とした。落とした声が震えていた。情報屋の恐怖が、そのまま移っている声だ。


「殿下が一言だけ言ったって」


「何と」


「——会いたい、って」


足が止まりかけた。


会いたい。捕まえたいではなく。裁きたいではなく。


会いたい。


「……そう」


それだけ言って歩き出した。


その瞬間、正面から人が来た。


金の髪。蒼い瞳。学園の廊下を空気ごと支配しながら歩いてくる。アルベルト・ヴァルディス。隣にルミナ・セレスタ。その後ろに取り巻き。


殿下がこちらに気づいた。


昨夜の目ではない。冷たい目。見下す目。無能の公爵令嬢を見る目。


「——邪魔だ」


一言。それだけで通り過ぎた。


カイルが隣で拳を握ったのが分かった。握った拳が震えている。


「……あの野郎」


「いいのよ」


「よくねぇだろ。お嬢様が——」


「いいの。あの人がグレンに会いたがって、エリシアを邪魔だと言う。それが一番安全な距離よ」


カイルが口を閉じた。正しいと分かっているのに正しさが痛い、そういう顔だった。


私は教室へ向かった。無能の顔で。透明な足取りで。


背中に、殿下の風の冷たさがまだ残っていた。


冷たい。

けれど昨夜、あの蒼い瞳に灯っていた名前のない光は——冷たくなかった。


それだけが、消えない。


教室の扉に手をかける。


——あの目は、怖いのだ。


扉を開けた。公爵令嬢の顔で席に着いた。


---


メーター:資金 中→大/疑念 大/執着 小→中(心酔の芽)/支配 中


第1章 完

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