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偽名と仮面


教授の件は、頭の隅に刺さったまま動かさない。

今は別の問題がある。もっと差し迫った、もっと根本的な問題だ。


教室に入る直前、カイルが半歩後ろについた。


「……お嬢様」


声が低い。怖いときの声だ。


「なに」


「教授の件、旧実験棟の件、捜査班の件。全部重なってる。もう顔出しで動けないじゃないですか」


「最初から動けない」


廊下の窓から中庭を見た。陽が差して、ルミナの取り巻きが笑っている。

笑い声は軽い。軽いものほど、人を踏むのが上手い。ルミナ自身は笑っていなかった。微笑んでいるだけだ。微笑みと笑いは違う。微笑みは武器で、笑いは隙。あの聖女は隙を見せない。


「私の顔は、ここでは“無能な公爵令嬢”として使う。裏で使う顔は別に要る」


カイルが一瞬だけ目を見開いた。驚きではない。ようやく来たか、という覚悟の回転だ。


「……作るのか。完全に」


「作る」


「名前も?」


「名前も」


「声も?」


「声も」


カイルが息を吐いた。短い笑いが漏れた。笑いというより、喉から出た空気だ。覚悟の前の音。


「……やっと来たな。裏の本番」


「本番じゃない。必要な道具よ」


「同じだろ」


「違う。道具は捨てられる。でも本番は捨てられない」


返事はなかった。返事をしている暇がないくらい、現実が動き始めている。


---


設計図を、頭の中で引いた。


まず、女であることを消す。

女は目立つ。女は噂の餌になる。男装は隠れ蓑じゃない。犯人像を固定する釘だ。捜査班が「男」を探している間、私は令嬢の顔で教室に座っていられる。


次に、声を消す。

声は癖だ。癖は匂いと同じで残る。残るものは追われる。


それから、手を消す。

手袋。指先。皮脂。鉄錆の残り香。匂いを読む相手がいるなら、私は匂いを運ばない身体になる。


最後に――矛盾するようだが、署名を残す。

私の赤は偽物と区別されなければならない。市場を守るのは善意じゃない。支配の骨格だ。署名は純度 99.1%。母の数字。限界で最適。誰にも越えられない精度の癖。


追われるのは承知。――だからこそ、偽物を先に燃やせる。


---


その夜。旧実験棟。


鍵はカイルが開けた。廊下を抜け、仮の工房へ入る。机の上に布と革と金具と、古い魔道具の部品を並べた。


カイルが部品を見つめて眉を寄せる。


「……何それ」


「変声器」


「え?」


「演劇部の倉庫にあった。使ってない。壊れてない」


「それ、盗んだんですか」


「借りたの」


「言い方」


「言い方は命よ」


カイルは舌打ちした。でもそれは、仕事が始まる舌打ちだった。部品を並べ直し、布の位置を揃え、灯りの角度を変える。身体が先に覚悟を決める人間だ。


変声器は喉元につける薄い金具。派手な魔法じゃない。魔法陣を刻んだ金属が、声の高さと響きをずらすだけ。ずらすだけで、人は別人になる。


外套の下で金具を固定し、息を吸った。


「――テスト」


出た声は、私の声ではなかった。低い。乾いている。喉の奥で砂が擦れるみたいな音。女の声の輪郭がきれいに消えている。


カイルの目が大きくなる。大きくなっただけじゃない。一瞬、後ずさった。足が半歩、石の床を擦る。


「……うわ。別人だ」


驚きじゃない。怖かったのだ。目の前の人間が、一瞬で別の人間になる恐怖。顔は同じでも、声が違うだけで空気が変わる。カイルの喉仏が上下した。


「……お嬢様」


「何」


「その声で俺に話しかけないでくれ。背筋が冷える」


「慣れなさい。取引先はこの声しか聞かない」


次に、手袋を出した。内側に薄い薬草の粉を仕込んだ布。匂いを吸い、別の匂いに変える布。外はただの黒革。目立たない。掴まれても切れない。


「これで、指先の匂いは減る」


「減る、って言い方が嫌だな……消えないのか」


「消えない。消えないから、減らす」


完璧は嘘だ。嘘はいつか切り取られる。減らすのが現実。


カイルが手袋を見つめたまま言った。


「……名前は?」


「まだない」


「ないと呼びづらい」


「呼ばなくていい。呼ばれないのが一番安全」


「いや、取引先が呼ぶだろ。闇ギルドも上流も。噂が先に名前を作る」


噂が先に名前を作る。――正しい。

名乗るより、付けさせた方が強い。勝手に育つから。


「じゃあ、作る。記号として」


机に紙を置いた。羽根ペンで、短く書く。


紅蓮グレン


「読みだけ借りる。意味は噂に育てさせる」


カイルが覗き込み、口の中で転がした。


「グレン……」


呟いて、もう一度。


「グレン」


二度目の方が、声に重みがあった。名前が、音から意味に変わる瞬間だった。


「そう呼ばれたら、そう返す」


「……なんか、もう戻れない感じするな」


静かな声。軽口でも皮肉でもない。ただ、目の前の現実をそのまま音にした声。


私は答えなかった。答える代わりに、署名の設計に移る。


瓶の封に、数字だけ刻む。家紋は刻まない。名も刻まない。ただ――


99.1


「……これ、追跡の目印にもなるぞ」


カイルが言った。怖さに形を与えるみたいに。


「なるわね」


「いいのか」


「いい。偽物を追わせる。追わせて、偽物を焼かせる。本物は別の顔で売る」


カイルが黙った。黙ったまま、私を見た。三日前とも昨日とも違う目。畏れと、心配と、ほんの少しの寂しさ。


「お嬢様、ほんとに……冷たい商人だな」


「現実的なの」


「同じだろ」


「違う。冷たい人は切り捨てる。現実的な人は、捨てる順番を決める」


カイルは目を逸らした。逸らした先で、旧実験棟の窓が薄く光っている。夜の学園は灯台みたいに静かで暗い。


「……俺の順番は?」


小さな声だった。聞こえないふりもできた。


「自分で決めなさい」


カイルが笑った。ぎこちない笑い。安心したいのに、安心させてもらえない顔。でも壊れてはいない。この男は、壊れない程度にしなる。


---


翌日、噂は走った。


学園の廊下で。裏市場の路地で。貴族の茶会の隅で。


赤の本物がいる。名前があるらしい。男だって。冷たい天才だって。感情で動かない。


噂が勝手に像を固めていく。

男。天才。冷酷。合理的。


その像は、私から一番遠い。遠いほど、安全だ。


廊下でルミナとすれ違った。ルミナの横に取り巻きが三人。その中の一人が、声をひそめて言った。


「聞いた? グレンって。赤い薬の――」


ルミナが足を止めた。微笑みが、一瞬だけ消えた。

消えたのは感情じゃない。裁定だ。


「……そう。調べないとね」


声は柔らかかった。柔らかいのに、刃の匂いがした。


私はその横を通り過ぎた。無能な公爵令嬢として。誰にも見えない透明な女として。


無能は見えない。見えない者は、裏で刃を研げる。


---


放課後、カイルが寄ってきた。顔色が青い。走ってきたのだろう。額の汗を拭いもせず、息を切らしたまま言った。


「情報屋から。王城が動いてる」


「捜査班?」


「捜査班じゃない。もっと上。殿下が直接指示を出してる。グレンの名前が報告書に載ったらしい。情報屋の奴、声が震えてた」


殿下が動いた。名前が届いた。


「それだけ?」


「……もう一つ。殿下が罠を張るって。グレンを誘い出すって。情報屋が言ってた。殿下の声に、今までと違う熱があったって」


「熱?」


「正義じゃない熱だって。確かめたいって熱だって。あいつ怯えてた。正義で動く人間は予測できる。でも“確かめたい”で動く人間は――何をするか分からないって」


確かめたい。

捕まえたいのではなく、確かめたい。小さいようで深い差だ。捕まえたい人間は壁を作る。確かめたい人間は壁を越えてくる。


「罠の中身は?」


「分からない。でも、近いうちに何かが来る」


来る。来るなら迎える準備がいる。


「カイル。グレンの噂を、もう一段広げて」


「……え? 広げるのか? 殿下が動いてるのに?」


「殿下が動いてるからよ。噂が大きくなれば、グレンの像はもっと固まる。固まった像は私から遠ざかる。殿下が追うのは像であって、私じゃない」


カイルが口を開けたまま固まった。閉じたとき、唇が震えていた。


「……お嬢様。俺、たまにお嬢様が分からなくなる」


「分からなくていい。ついてきて」


拳を握って、見つめて、それからゆっくり開く。


「……ついてく。ついてくけど、一つだけ」


「何」


「グレンになっても、俺には“お嬢様”って呼ばせてくれ」


胸の奥で、何かが軋んだ。


「好きにしなさい」


言って背を向けた。背を向けないと、顔に出る。


カイルの足音が半歩遅れてついてくる。いつもの半歩。その距離だけが、変わらなかった。


---


メーター:資金 中/疑念 大/執着 小→中(芽)/支配 中


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