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ガサ入れ圧


朝の空気は、昨夜の鉄の匂いを薄めてくれなかった。


肉屋の裏で、松明の火が壁を舐めた。九本の赤が石の上で一瞬だけ宝石みたいに光った。あの冷気が、まだ皮膚の裏に貼りついている。


自室の鏡台の前で、私は手袋を裏返した。縫い目を指でなぞる。繊維に匂いが残っていないか確かめる癖が、もう作法になっていた。


匂いは追われる。殿下は、匂いすら情報として読む。


机の引き出しからノートを出し、昨夜の記録をもう一度眺めた。

九本。回収不能。闇ギルドが拾えば信用。捜査班が拾えば物証。どちらでも、次の圧が来る。


圧は――必ず、家にも来る。


控えめなノックが二回。侍女のリナではない。リナは三回、少し間を空ける。二回を詰めるのは、執事の癖だ。


「お嬢様。少し、よろしいでしょうか」


バーナードの声だった。


ノートを閉じた。閉じる動作に迷いを混ぜない。迷いが混ざると、紙が嘘を吐く。


「どうぞ」


扉が開き、バーナードが完璧な角度で頭を下げた。丁寧さに釘が入っている。礼儀が鋭利な人間だ。


「昨夜、旧市街で騒ぎがございました」


来た。


「捜査班が動いております。……お嬢様の外出は管理下にあるはずですが、念のため」


念のため、という言葉は便利だ。疑っていると言わずに疑える。


「私は屋敷にいました」


嘘ではない。戻ってはいた。


バーナードは頷いた。頷き方が浅い。信じたのではない。今は追及しない、と判断しただけだ。正面から崩さず、側面から時間をかけて壁を削る。そういう人間の頷き。


「それと……地下の件です」


心臓が一拍だけ跳ねた。


「地下?」


「階段付近で、扉の錠前に新しい擦れが見つかりました。鍵束も一時、所定の場所から外れていたようで」


リナ。リナが鍵を抜いた。私に渡した。戻すとき、完璧に戻せなかった。善意は速い。だが善意は完璧ではない。


「鼠でしょう」


具体的な嘘は通りやすい。


「地下の木扉は古い。湿気で歪めば、錠前も擦れます」


バーナードの瞼がゆっくり閉じて開いた。瞬きじゃない。考える動作だ。嘘の真偽ではなく、嘘の使い方を見ている。


「……左様でございますか」


頭を下げる。


「では今夜、鍵の点検をさせていただきます。お嬢様も、くれぐれも地下には近づかれませぬよう」


点検。つまり、地下は今夜見られる。


「お心遣い、感謝します」


扉が閉まった。


バーナードの足音が廊下を遠ざかる。一定の間隔。乱れない。正確な人間は、不正確を許さない。


静けさが戻った。静けさは、いつも遅れて恐怖を連れてくる。


屋敷の地下は、もう安全地帯じゃない。家は盾じゃない。鎖だ。そして鎖は――今夜締まる。


今夜の点検までに、地下を空にする。


---


夕方。学園から戻る馬車の中で、カイルが窓の外を睨んでいた。顎が強張っている。奥歯を噛んでいるのだろう。噛み癖は、緊張の癖だ。


「増えてる」


「何が」


「匂い嗅ぎ。旧市街だけじゃねぇ。学園の周りにも入ってる。昨日の肉屋の件、あいつら“点”にした。点を繋ぎ始めてる」


点を繋ぐのは時間の仕事だ。時間を与えなければいい。


「……お嬢様」


カイルが声を落とした。肩まで落ちる。身体が正直すぎる。


「ガルムの連中、九本は回収した。だから“供給が止まった”って空気にはならねぇ。けど――」


「けど?」


「置いたって事実が、誰かの頭に残る。拾ったら拾ったで守る場所が必要になる。守る場所には人が集まる。人が集まれば匂いが増える。匂いが増えれば、殿下が嗅ぐ」


そこまで言えていることに、少しだけ安堵した。カイルは情で壊れやすい。だが今は理屈で立っている。


「移すわ」


「……どこに」


揺れる馬車の中で、答えを一つだけ口にした。


「学園」


カイルが振り向いた。目が開く。驚きじゃない。正気を疑う目だ。


「は?」


「屋敷は点検される。地下は今夜見られる。なら、拠点を変える」


「学園なんか、殿下の膝元だぞ」


「だからいい」


窓の外に、学園の尖塔が見えた。


「誰も学園の中にあるとは思わない。灯台下は、いつだって暗い」


カイルが唇を噛んだ。反論じゃない。納得したくない身体の抵抗。


「……旧実験棟?」


「使える」


「鍵は?」


「あなたが用意する」


カイルが乾いた笑いを漏らした。怖さを笑いに変える癖。笑いが乾いているときは、覚悟の直前だ。


「……はいはい。盗人の役目だな」


「調達係よ」


「言い方」


「言い方は命よ」


カイルは窓に目を戻した。夕陽が尖塔を赤く染める。赤を見るたび、この男の喉が僅かに動くようになった。条件反射。赤を見て、薬を思い、危険を思う。


身体が学習している。


---


その夜。屋敷の地下、母の工房。


灯りを最小限にした。火は入れない。匂いが立つ。匂いは残る。


「持てるもんだけ持つ」


カイルが小声で言った。肩に古布を掛けている。音を吸うためだ。裏の人間は無音の価値を知っている。


必要なものだけ選んだ。ガラス器具、濾紙、小瓶。触媒は赤い封蝋の瓶から中身だけを移し替え、瓶は棚に戻す。空の瓶が棚にあれば、誰が見ても“使っていない工房”に見える。


記録は母のメモから、99.1のページだけを抜いた。


重い鍋は置いていく。台も置いていく。工房そのものは捨てない。捨てたら痕跡になる。形を残して、ただ“眠らせる”。それが一番目立たない。


拭く。乾かす。触れた場所を、触れていないふりに戻す。


バーナードの点検は深夜になる。それまでに、この工房を眠らせる。


「お嬢様、これ」


カイルが棚の奥から布を引きずり出した。古い作業布。鉄錆と薬草が染みている。


カイルの手がその布を握りしめる。関節が白い。力が入りすぎている。捨てろと言われる前の覚悟の握り方。


「捨てる」


即答した。


カイルの指が開く。一本ずつ剥がすように。最後の小指が離れたとき、喉が小さく鳴った。


「……はい」


その一語に、情の重さが全部入っていた。これは母の遺品だ。カイルにとっては他人の母なのに、この男は他人の痛みまで拾ってしまう。


拾った痛みは、足を遅くする。だから私は、捨てると言わなければならない。


「匂いを運ぶのは人じゃない。布よ」


カイルは頷いた。――頷いてから、布を外套の内側に滑り込ませた。


私は気づいた。気づいて、何も言わなかった。


甘い。分かっている。だが今夜は、言い争う時間がない。


箱に詰める。箱は学園の教材用の木箱に見えるもの。見えるようにするのが隠蔽だ。


「運ぶ。裏門から。夜警の巡回が切れる五分だけ」


「五分でいい」


鍵を閉めた。錠前の冷たさが、手袋越しに掌へ移る。


この扉はもう、私の安全じゃない。安全は場所じゃない。段取りだ。


---


学園の旧実験棟は、夜になると別の顔をする。


昼は誰も近づかない。ただの廃棟。夜も誰も近づかない。だからこそ入口になる。


窓は埃で白く曇り、廊下の床は軋む。軋みは音だ。音は人を呼ぶ。だから靴底で踏まない。梁に沿って、固い場所だけ選ぶ。


カイルが鍵を差し込んだ。


「……簡単すぎて怖ぇ」


「簡単な鍵ほど、安心して触る人が多い。触る人が多いほど、足跡が紛れる」


鍵が回った。扉が開く。中の空気は冷たい。石と埃と、古い薬品の乾いた匂い。


箱を運び入れ、机を拭く。埃が舞う。埃は跡を残す。濡らしすぎない。乾かしすぎない。“何もしていないように見える状態”が一番安全だ。


最低限の器具だけ並べた。ここは工房じゃない。工房にするつもりの場所だ。つもりのままが、一番安全。


「……お嬢様」


カイルが呟く。低い声で天井を見上げている。梁の蜘蛛の巣が僅かに揺れていた。自分たちが持ち込んだ空気で揺れている。存在の証拠。


「ここ、誰かにバレたら終わるぞ」


「終わるのはバレたらよ」


「バレない保証は?」


「保証はない。段取りがあるだけ」


カイルが長く息を吐いた。腹の底から出す、覚悟を決める息。


「……分かった。ここでやる」


最後に床を確認する。濾紙の端から、微かな赤い粉が落ちていた。拭き取って布に包み、ポケットに入れる。目地の奥まで指先で撫でる。


残滓はない。――はずだ。


だが急いだ分だけ、完璧を信じきれない隙間が残る。精度を削って速度を取った代償。見えない穴ほど、怖い。


「帰るわ。明日から、ここが拠点」


扉を閉め、鍵を戻し、夜の学園を抜けた。背中に視線が刺さる気がした。気のせいだと言い切れない類の感覚。


振り返らなかった。振り返る癖は、つけない。


---


翌朝。


登校して、旧実験棟の前を通った。通るだけだ。入らない。入る理由がない顔をして通る。


通り過ぎようとした、そのとき。


棟の角から人が出てきた。


錬金教授――エルマー・グレイヴ。


白衣の裾が朝露に濡れている。早朝からここにいたのだ。右手がポケットに入っていて、左手は何も持っていない。何も持っていない手は、何かを隠した後の手だ。


教授と目が合った。


一瞬。


教授の目は笑っていた。笑っているのに温度がない。研究者の目だ。対象を見つけた目。理解したい者の目。


「おはよう、アルヴェイン嬢」


「おはようございます、教授」


それだけ。それだけで通り過ぎた。


通り過ぎてから、足が重くなった。


教授の右手。ポケットに入れていた右手。あの指先に何がついていたか、見えなかった。見えなかったことが怖い。


教室に着くと、カイルが寄ってきた。顔色が悪い。


「お嬢様、旧実験棟——」


「知ってる。教授がいた」


カイルの顔から血の気が引いた。唇が白い。


「……中に入ったのか」


「分からない。でも、朝露で白衣の裾が濡れていた。窓から入ったかもしれない」


カイルが拳を握った。震えている。怒りじゃない。自分の仕事の不備を噛んでいる震えだ。


「俺の——」


「あなたのせいじゃない。あの人は鍵がなくても入れる。学園の古い構造を知っている」


カイルの拳がゆっくり開いた。開いた掌を見つめている。自分の手が信用できない目。


「……どうする」


「何もしない。今は」


「何もしないって——」


「教授が何を見たか分からない。何も見ていないかもしれない。動けば、動いたことが情報になる。今は、何もしない」


カイルは黙った。黙ったまま窓の外を見る。旧実験棟の屋根が見える。朝日が当たって埃が光っていた。


何もしない。今は。


でも――教授の目が笑っていたことだけは、頭の隅に刺さったまま抜けない。


あの笑みは告発の前触れじゃない。正義の笑みでもない。


理解したい者の笑みだ。


理解したい者は、正義より怖い。正義は壊す。理解は――飲み込む。


---


メーター:資金 中/疑念 大/執着 小/支配 中


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