破滅フラグの日時
学園の廊下は、香水とインクと、昼の光でできていた。
窓際に人が寄っている。蜜に集まる蟻のように自然に、けれど誰もが「自分の意思で立っている」顔をして。
視線の中心にいるのは、ルミナ・セレスタ。
白磁みたいに整った横顔。揺れない笑み。声は聞こえないのに、彼女が何か言うたびに周囲がふわりと笑う。まるで空気そのものが彼女に味方しているような——いや、実際にそうなのだろう。ルミナが一歩動くだけで、廊下の「正しさ」が彼女の方に傾く。
その隣に、アルベルト・ヴァルディス殿下。
王太子。制服の金糸より、本人の瞳のほうが冷たい。笑わない。けれどルミナの言葉にだけ、顎がわずかに動く。それが、この人なりの「微笑み」らしかった。
——正解の並び。
誰かが囁いた。
「見て。殿下とルミナ様、今日も絵になる……」
「ほんと。あの二人が正式になれば、この国も安泰よね」
別の誰かが、声のトーンを落とさずにこちらを見た。隠す気がない。隠す必要を感じていない。
「で、あっちは悪役令嬢。今日も"顔だけ"ね」
笑い声。小さくて、でも私にだけ聞こえるように設計された笑い声。彼女たちはそういう技術に長けている。
エリシア・アルヴェイン。
公爵令嬢。殿下の婚約者。——そして、この学園で一番「邪魔」とされている存在。
私は背筋を伸ばした。伸ばすことに意味があるのではなく、曲げたら「効いている」と思われるから。礼儀は鎧だ。鎧は、殴られてから着ても遅い。
廊下の端で、アルベルト殿下がこちらに視線を投げた。
投げる、という表現が正確だ。渡すのではない。向けるのでもない。不要なものを放るように、視線をこちらに落とした。拾う気はない。返事を期待してもいない。
「……エリシア」
呼ばれたので、立ち止まる。
周囲の空気がさっと引いた。波が退くように。ルミナの取り巻きが一歩下がり、他の生徒たちは足を止めて、でも「見ていない」顔を作った。廊下全体が、小さな劇場になる。
「殿下」
私は頭を下げた。完璧な角度で。完璧に意味のない動作で。
殿下は返礼しない。返さなくても世界が回る場所にいる人だから。
「ルミナに近づくな」
短い命令だった。
理由はない。説明もない。命令というのは本来そういうもので、理由がついた瞬間にそれは「お願い」に格が落ちる。殿下は命令の作法をよく知っている人だった。
ルミナが困った顔をした。眉がハの字になり、唇が少し開いて、「そんなきつく言わなくても」という空気が滲む。声には出さない。出さないことで、自分の善良さだけが残る。
——上手いな、と思った。
「承知いたしました」
反射で答えた。答えてから、一秒だけ、余計なことをした。
「……理由を伺っても?」
殿下の眉が動いた。苛立ちではない。「虫が喋った」みたいな、意外そうな顔。
廊下が息を止めた。止めたまま、全員が聞いている。
「理由?」
一拍。
殿下の声には感情がなかった。感情がないことが、そのまま侮蔑になるような声。
「お前は関係ない。無能は黙れ」
静寂が落ちた。
一秒。二秒。
三秒目に、誰かが咳払いをした。それが合図だったみたいに、くすくすと笑いが広がった。声を上げない笑い。咳払いの形をした笑い。目を逸らしながら口元だけ歪める笑い。
全部、聞こえている。全部、見えている。
ルミナがこちらを見た。哀れみの目。「かわいそうに」という感情がそのまま顔に出ている。彼女は隠さない。隠さないことが「優しさ」として成立する世界にいるから。
——優しさは厄介だ。優しさは、正義の仮面になれる。受けた側は感謝するか泣くかしか選択肢がなくなる。
私は何も言わなかった。もう一度だけ頭を下げて、その場を離れた。
背中に刺さる視線を数えない。数えるほど、私は暇じゃない。
ただ——公爵令嬢の靴が廊下の大理石を叩く音だけが、やけに正確に響いた。まるで、残り時間を刻んでいるみたいに。
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午後の実技。
教室の中央にルミナが立った。深呼吸。銀色の髪が揺れて、掌を天井に向ける。
光が生まれた。
掌の上に浮かぶ白金の球体。温かくて、まぶしくて、見ているだけで胸の奥が凪ぐような光。ルミナの指先が動くと、光はゆっくり鉢植えに降りた。触れた葉の色がわずかに濃くなる。枯れかけていた蕾が、ほんの少しだけ持ち上がる。
拍手が起きた。最初は数人。それが波紋みたいに広がって、教室全体が柔らかな賞賛で満たされる。
「素晴らしい」
教師が目を細める。本気の感嘆だった。
「これぞ聖女の資質です。光属性の魔力でここまで精密な賦活ができる生徒は、この学園始まって以来でしょう」
"聖女"。
その言葉が出るたびに、教室の空気が一本の線になる。ルミナが正しい側。私は——正しくない側。この教室にいる全員が、無意識にその線の「正しい方」に寄る。誰も意地悪をしているわけではない。ただ自然に、光のある方に顔を向けるだけ。
向日葵と同じだ。太陽が悪いわけではない。影が悪いわけでもない。ただ、影の側にいる者は、誰にも見てもらえない。
教師が顔を上げた。
「アルヴェイン公爵令嬢。次はあなたです」
待ってました、と空気が言った。声ではなく、空気が。椅子がわずかに軋む。身を乗り出す気配。失敗を待っている。恥を楽しみにしている。この学園にいる限り、私の実技は彼らにとっての「余興」だった。
私は立ち上がった。
杖を握る。魔力はある。量だけなら平均以上。むしろ多い。けれど、火は出ない。光も出ない。雷も風も水も氷も、「派手」に分類されるものは何一つ形にならない。
原因は分からない。どれだけ教科書をなぞっても、どれだけ型を練習しても、魔力が属性を持たないまま霧散する。
この世界では、それを「無能」と呼ぶ。
呼吸を整えた。教科書通りに杖を構え、魔力の輪郭をなぞる。
——輪郭は薄く揺れて、ほどけた。蒸気みたいに消えた。
後ろの席で誰かが笑った。小さく、でも確実に。
その隣で誰かが肘を突いた。「ほら、やっぱり」という目。
教師がため息をついた。隠さない。隠す必要を感じていない。
「……やはり。公爵家の名を背負って、この程度ですか」
言葉の刃は、丁寧なほどよく切れる。怒鳴られた方がまだいい。失望のため息の方が、ずっと深く刺さる。
ルミナが気まずそうに目を伏せた。あの子はいつもそうだ。私が恥をかく瞬間、目を逸らす。目を逸らすことで「自分は加害者ではない」という立場を確保する。
——上手い。本当に上手い。
教室に戻りながら、私は自分の手を見た。まだ、魔力の残滓が指先にまとわりついている。薄い、色のない霧。
属性を持たない魔力。何も生まない力。「無能」の証拠。
——でも、と私は思った。
属性がないからこそ、この魔力が向いている領域がある。火でも光でもない、“反応”そのものを扱う学問。
錬金薬学。
派手な術式が要らない。必要なのは、混ぜ方と順番と、精度だけだ。
「アルヴェイン嬢。席について。次に進みます」
「失礼しました」
私は礼をして席に戻った。悔しさは、演技の邪魔になる。私は演技が下手だ。だから、悔しがらない。
ただ、椅子に座った瞬間——ほんの一瞬だけ——奥歯を噛んだ。
誰にも見えない場所で。誰にも聞こえない強さで。
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屋敷に帰ると、侍女のリナ・フェルンが玄関で待っていた。
待っていた、というより「待ち構えていた」と言う方が近い。廊下の噂はもう届いているらしい。彼女の目が少し赤い。
「お嬢様、お帰りなさいませ……!」
外套を脱ぐ私の顔を、リナが覗き込む。殴られた痕を探すような目つき。けれど、殿下は手を上げない。殿下の武器は言葉だ。言葉は痕を残さない。残さないから、証拠にもならない。
「お顔の色が……また殿下に何か……」
「何も」
外套を渡す。リナは受け取りながら、唇を噛んだ。目の縁がまた光る。この子はすぐ泣く。すぐ泣いて、すぐ怒って、すぐ誰かに話す。善意の塊だ。善意は爆弾に似ている。本人に悪気がないから、なおさら止められない。
「でも……学園でお聞きしました……"お嬢様は殿下に酷い扱いを受けている"って……」
その「お聞きしました」が、既に次の噂の種になっている。リナは聞いたことを「確認」し、確認したことを「心配」し、心配を「別の侍女」に伝え、別の侍女が「学園の知人」に伝え、気がつけば「公爵令嬢は虐げられている」という物語が独り歩きする。
善意は、嘘より速く広がる。
「リナ」
名前を呼ぶ。声を落とす。リナはびくりと背筋を伸ばした。
「噂は仕事を増やすだけよ。余計なことは言わないで」
「……はい。申し訳ございません」
リナは目を伏せた。でも、次の瞬間にはもう顔を上げて、握りこぶしを胸の前で作っている。
「でも……お嬢様は強いです。あんなにひどいことを言われても、耐えていらっしゃる。リナは……リナは、お嬢様のそういうところを——」
「リナ」
「……はい」
「お茶を淹れてちょうだい」
リナは唇をきゅっと結んで、それでも涙を一粒こぼしてから、小走りで厨房に向かった。
健気。耐えている。強い。
——全部、誤解だ。
私は耐えていない。怒ってもいない。悲しんでもいない。ただ、今の場所で生き残るための計算をしているだけだ。泣く暇があったら一つでも手を打つ。反論する暇があったら一つでも情報を集める。
感情は贅沢品だ。破滅する人間には、そんな余裕はない。
でも——リナの涙を見た瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだのは、たぶん気のせいだ。
気のせいだと、しておく。
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自室の扉を閉めた。
鍵を回す。静けさが天井から降りてくる。
鏡台の前に座り、髪留めを外した。きつく結い上げた黒髪がほどけて、肩に落ちる。鏡の中の私は、よくできた悪役令嬢の顔をしていた。整っていて、冷たくて、笑い方を忘れた人形みたいな顔。
——いつからこんな顔になったのだろう。
指先が、微かに震えている。
怒りじゃない。今日の屈辱でもない。もっと根の深い、名前のない予感。朝からずっと、背骨の裏側に冷たい針が刺さっているような感覚があった。
鏡を見つめる。
自分の目を見つめる。深紅の瞳。この瞳の色も、「悪役令嬢」の記号だと誰かが笑っていた。
——その瞬間。
こめかみの奥で、何かが弾けた。
視界が白く飛んだ。
椅子を掴んだはずの手が空を切る。鏡台が傾いて、化粧瓶が倒れる音が遠くで聞こえる。
知っている映像が流れ込んだ。知らないはずなのに、知っている。私のものではない記憶。私のものではない目で見た、この世界の——物語。
大広間。
月光のシャンデリア。花。音楽。並ぶ生徒たち。
見覚えがある。王立ヴァルディス学園の卒業舞踏会。けれど、これは記憶じゃない。まだ起きていない。なのに、なぜこんなにはっきり——
壇上にルミナが立っている。涙を浮かべている。美しい涙だ。照明がちょうど良い角度で光を拾って、頬の雫がきらめく。演出みたいに完璧な涙。
その隣にアルベルト殿下が立っている。表情はない。あるのは確信だけ。正義を執行する者の、揺るがない確信。
そして、殿下が私を指差す。
声が聞こえた。冷たくて、硬くて、廊下のあの声と同じなのに、規模だけが違う。
『エリシア・アルヴェイン。婚約を破棄し、この国から追放する』
場面が切り替わる。
馬車。荒れた国境の道。背中に投げられる石。笑い声。遠ざかる王都の塔。
もう一度切り替わる。
暗い部屋。鎖。裁きの間。——処刑の影がちらつく。
そして最後に、文字だけが焼き付いた。白い空間に、黒い文字が一行。
王暦三一二年 春の月 二十五日
卒業舞踏会
日付まで出た。
丁寧な破滅宣告だ。逃げ場がないように、時間まで指定してくる。
視界が戻った。
鏡台にしがみついていた。息が荒い。額に汗が浮いている。倒れた化粧瓶から薄紅の粉が散って、白い布巾の上に花弁みたいな模様を作っていた。
——乙女ゲーム。
——悪役令嬢。
——断罪。
言葉として理解する前に、身体が理解していた。骨の奥に、知識ではなく確信として刻まれていた。
私は、ゲームの中の「エリシア」だ。
ルミナがヒロイン。アルベルトが攻略対象。取り巻きが味方。聖女が正義。群衆が観客。
そして私は——最後に壇上で断罪され、追放されるか、処刑の影に呑まれるか、どちらにしても「正義が勝った」という結末を飾るための踏み台。
残り時間を計算した。
春の月の二十五日。今からおよそ——
「足りない」
声に出していた。乾いた声が、静かな部屋に落ちた。
足りない。逃げるにしても、準備するにしても、「何もしない」以外の全てに時間が足りない。
鏡の中の私が、こちらを見ている。深紅の瞳。能面みたいな顔。整っていて、冷たくて、笑い方を忘れた——
——いや。
私は、怖い。
認めたくないけれど、怖い。指先が震えている。それは計算では止まらない種類の震えだった。死ぬかもしれない。追放されるかもしれない。石を投げられて、笑われて、何もかも失って、名前すら残らないかもしれない。
奥歯を噛んだ。痛みで震えを止める。
——感情は贅沢品だ。
もう一度、自分に言い聞かせる。
感情は贅沢品だ。怖がる暇があったら、手を動かせ。泣く暇があったら、数えろ。
私は鏡を伏せた。自分の顔を見ているのが、急に耐えられなくなった。
机に向かう。椅子を引く。引き出しから紙を取り出す。羽根ペンを握る。
震えは、書き始めると収まる。恐怖は曖昧なときに強い。数字にすると弱くなる。怖いものに名前をつけて、紙に閉じ込めれば、それは「課題」に変わる。
私は必要な項目だけを書き出した。
——逃亡資金
——安全な拠点(国外)
——身分の保護(法的契約)
——販路(裏)
——正体隠し(偽名、変装)
ペンが止まった。
項目は揃った。けれど、どれも「短期間で」「確実に」「一人で」は手に入らない。公爵令嬢の立場では表の商売はできない。殿下に監視されている状態では動けない。使える人脈もない。派手な魔法もない。
——つまり、正攻法では間に合わない。
胸の奥に、冷たい確信が降りてきた。水滴みたいに、ゆっくりと。
「短期間で全部を揃える方法が、一つだけある」
禁忌。違法。一度手を出したら戻れない。
この世界には、魔力を「貸す」薬がある。飲めば魔力が満ちる。疲労が消える。肌が輝く。世界が鮮明になる。——ただし、二回目から身体が求め始める。三回目には止められなくなる。
そして厄介なことに、作り手の手にも、飲み手の衣服にも、微かな鉄錆に似た香りが残る。——消えない、痕跡として。
王国法で製造・所持・売買のすべてが禁じられている。見つかれば投獄。最悪、終わりだ。
皮肉だ。何もしなくても断罪される運命なのに、何かをしても終わりの可能性がある。
なら、どちらを選ぶかは簡単だ。
座して終わるか。走って生きるか。
私は紙の下端に、ペンを走らせた。インクが赤かったらよかったのに、と場違いなことを思った。
一語だけ書く。
レッド・エリクサー
文字を見つめた。乾くのを待った。
母の工房が、屋敷の地下にあったことを覚えている。封印されているはずの、あの扉。あの匂い。鉄錆と薬草が混ざった、甘くて苦い匂い。
——作れるかどうかじゃない。作るしかない。
紙の上のインクが乾いた。黒い文字が、薄い紙の上で静かに光っている。
私は立ち上がり、窓の外を見た。
学園の方角。王都の塔。月が出始めている。残り時間が、あの月が何度満ち欠けするかで決まる。
怖い。
まだ怖い。震えは止まったけれど、恐怖は消えていない。消えたふりをしているだけだ。
でも、恐怖の隣に、もう一つ別のものが立っている。小さくて、硬くて、折れにくいもの。名前はまだつけない。名前をつけると安心して、安心すると鈍る。
だから、ただ一言だけ。
「——禁忌のレッド・エリクサー。あれなら、間に合う」
声は小さかった。
部屋の外には届かない。リナにも、殿下にも、ルミナにも。誰にも聞こえない。
でも、私の手はもう震えていなかった。
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メーター:資金0/疑念0/執着0/支配0




