第08話 - 図書室は、音を立てない。だからこそ。
書物は、
中身だけで
聖なるわけではない。
触れられ、
守られ、
受け継がれてきた
時間そのものが、
価値になる。
だからこそ、
包むものは
慎重に選ばれる。
この話は、
革を選ぶ話であり、
同時に
信じる対象を選ぶ話でもある。
図書室は、音を立てない。
正確には、
音があっても、
それが音として扱われない場所だ。
羊皮紙が擦れる音。
羽根ペンが紙を撫でる音。
蝋燭が、ほんのわずかに爆ぜる音。
それらは、
“雑音”ではない。
言葉が生まれる前の、
準備の音だ。
だからこそ、
私はこの場所が好きだった。
私は、シスター・エルサ。
修道院の「図書係〈アルマリア〉」だ。
本を守る役目。
言葉を、次の時間へ渡す役目。
書き写しを終えた聖書は、
いま、机の上に積まれている。
一冊。
また一冊。
同じ言葉。
同じ順序。
同じ祈り。
それを、
何年もかけて写す。
なるほど。
忍耐は、
技術だ。
装丁は、まだない。
本は、
まだ裸だ。
私は、
その背に触れながら思う。
この言葉を、
包むものは何か。
だからこそ、
革が要る。
布ではない。
木でもない。
革。
生きていたもの。
だが、
いまは言葉を守るもの。
院長が、
ハウス・グスタフの噂を
口にしたのは、
偶然ではない。
「匂いが残らない革だそうよ」
その言い方は、
少しだけ楽しげだった。
革に、
匂いが残らない。
それは、
この図書室にとって
重要なことだ。
言葉は、
匂いを嫌う。
余計な記憶を、
連れてきてしまうから。
私は、
工房で受け取った革を
静かに広げた。
光を、
受けすぎない色。
触る。
柔らかい。
だが、
甘くはない。
なるほど。
この革は、
媚びない。
指で、
ゆっくり曲げる。
反発が、
正直だ。
戻ろうとする。
だが、
急がない。
だからこそ。
私は、
この革が
好きだと思った。
匂いを嗅ぐ。
……何も、
主張しない。
あるのは、
乾いた空気だけ。
革が、
自分の過去を
語ろうとしない。
なるほど。
それは、
忘れたのではなく、
整理されたということだ。
私は、
本の背に
革を重ねる。
言葉と、
革。
どちらも、
生きていたものだ。
だが今は、
意味を守る側にいる。
「……だからこそ」
思わず、
声に出た。
だからこそ、
丁寧でなければならない。
図書室の扉が、
静かに開く。
院長だ。
五十を越えているが、
背筋は真っ直ぐ。
「どう?」
私は、
革から目を離さずに答えた。
「……なるほど、
としか言えません」
院長は、
微笑んだ。
「噂どおり?」
「はい」
「匂いが、
ありません」
「それは、
良いこと?」
少し考える。
「……言葉の邪魔を
しません」
院長は、
頷いた。
「聖書は、
語らせるものではない」
「聞かせるものでもない」
「ただ、
そこにあるものよ」
私は、
革を撫でる。
「この革も、
同じです」
「だからこそ」
言葉が、
自然に出た。
「この革は、
装丁に向いています」
院長は、
机に近づき、
革を見る。
触る。
曲げる。
長い沈黙。
「……不思議ね」
そう言った。
「昔は、
革は“主張するもの”だった」
「傷や、
匂いや、
硬さで」
私は、
頷いた。
「でも」
院長は、
続ける。
「この革は、
沈黙している」
なるほど。
それが、
一番の評価だ。
「……あの見習い」
院長が、
ぽつりと言った。
「テオドール、だったかしら」
「はい」
「理屈の人?」
少し、
考える。
「……静かな人です」
「なるほど」
院長は、
笑った。
「静かな人が、
革を静かにした」
それは、
とても修道院らしい
理解だった。
私は、
革を畳み、
装丁の準備を始める。
針。
糸。
時間。
すべてが、
揃っている。
だからこそ。
この革は、
ここに来た。
言葉を守るために。
私は、
最後にもう一度
革に触れた。
「……なるほど」
静かに、
納得した。
図書室は、
今日も音を立てない。
だが、
確かに。
革と、
言葉が
対話していた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第八話では、
修道院案件が
具体的な形を取り始めました。
エルサが触れているのは、
ただの紙の束ではありません。
装丁されていない聖書は、
まだ「完成していない信仰」です。
祈りは、
言葉だけでは続きません。
読むための形、
守るための形があって、
初めて
次の世代に渡されます。
だからこそ、
装丁は
とても現実的で、
とても俗な仕事です。
エルサは、
その現実を
最初から理解しています。
彼女が静かなのは、
迷っていないからではありません。
軽く扱えないと
知っているからです。
テオドールの革は、
この段階では
まだ選ばれていません。
評価も、
承認も、
保留のままです。
ですが、
「候補に上がった」
という事実そのものが、
物語を
次の段階に進めています。
次の話では、
この案件に
正式な“条件”が
提示されます。
条件とは、
技術の話であると同時に、
立場の話です。
革は、
今日も
正直でした。
正直であることが、
祈りにふさわしいかどうか。
その判断を、
人はこれから
下そうとします。




