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第04話 - 悪くない、と私が言った夜

人は、極限に置かれたとき、何にすがるのか。


信仰か。

理屈か。

それとも、ただ目の前の命か。


異郷の工房で二か月。

慣れという名の適応は、確実に彼らを強くした。

だが同時に、強さは新たな重さを背負わせる。


守られる者から、守る者へ。


その境界は、ある夜、静かに越えられる。

二ヶ月が過ぎていた。

私―—シトー会の正修道女、アルマリアのエルサ―—はここではサフィアと呼ばれる。

しかも、状況がそうしたとは言えテオドール・ゲルバー―—ここではタリクと呼ばれる―—の妻だ。


時間は数えなくなったが、身体が覚えている。

石灰の匂いにも、獣脂の重さにも、朝の冷えにも、もう驚かない。


私たちの動きは、明らかに速くなっていた。


皮を槽に沈める角度。引き上げる速さ。滴を切る時間。

桶を置く位置。乾燥棚までの歩数。石床の滑りやすい箇所。


無駄が消えた。


食事も、最低限ではあるが回るようになった。

硬いパンと、塩気の強い煮込み。水も、以前よりは濁りが少ない。

顔色は戻りつつある。少なくとも、倒れるほどではない。


――だからだろう。


ハーリドは、作業量を増やした。


「動きが良くなった」

そう言って、皮束をもう一山、こちらに回す。


悪意はない。ただ、合理的なのだ。

できるなら、やらせる。それだけなのだろう。


私は頷く。

「なるほど」


タリクは何も言わない。

だが視線が一瞬、私に向く。


無理をするな、と言いたいのだろう。

私はその視線を受け流す。


無理ではない。

この程度は。


シトー派は、清貧を説く。

贅沢を断ち、労働を受け入れ、沈黙の中で祈る。


冷たい石床。粗末な食事。長い労働。

それは異常ではない。


むしろ、整っている。

そう思えば、耐えられる。


――今日までは。


事故は、些細な動きの中で起きた。


脱毛後の皮を石灰槽から引き上げる作業だった。

重く、水を含み、ぬるりと滑る。


タリクが皮の端を掴み直した瞬間、

束の一部が崩れた。


鈍い音。

皮の角が、彼の左手を強く打つ。


「……っ」

声は小さい。


だが、私は見た。

指の付け根が、白くなるほど押し潰されている。


「手を」

私は即座に言う。


「大丈夫だ」

彼はそう答えた。


そういうところだ。

私は、かよわい女だと思われている様だ。


守る側。支える側。

危険から遠ざけるべき存在。


それは信頼でもある。

だが同時に、判断から外されることでもある。


「見せてください」

私は一歩近づく。

彼は一瞬、躊躇した。

それでも手を差し出す。


指は赤く腫れ、皮膚が裂けていた。

石灰液が染み込み、白くただれている。


私は唇を結ぶ。


「すなわち、打撲と裂創の併発ですね」

彼が小さく呟く。


私は頷かない。

「まず、洗います」


桶の水を掬い、布で拭う。

石灰が皮膚に残ると、傷は深くなる。

これは彼が教えたことだ。


工程は裏切らない、と。

人の身体も、同じだ。


「……サフィア」


「黙っていてください」

少しだけ、強い声になった。


彼は目を細める。

驚きか、痛みか。


ハーリドが近づいてくる。

「どうした」


「指を挟みました」

私は答える。


彼は手を一瞥し、鼻で息を吐く。


「腫れるな。熱が出るかもしれん」

淡々とした声。


「こういうのはな、腐ると早い」

それは警告ではなく、経験だ。


私は顔を上げる。

「腐らせません」


ハーリドは一瞬、私を見る。

女が言う言葉としては強すぎるのだろう。


「……好きにしろ。ただし、明日も働けるならな」

合理的だ。


タリクは、まだ笑おうとする。

「大袈裟だ。少し腫れるだけだ」


私は彼の手を握り直す。

温かい。

いや、熱い。

嫌な予感が、静かに胸に落ちる。


この程度は、酷くない。

そう思うべきだ。


だが私は、知っている。

石灰は皮を溶かす。

傷口は、汚れている。


ここは修道院ではない。

祈りだけでは、治らない。

私は深く息を吸う。


なるほど。


――私がやるしかない。


◆◆◆


夜になって、熱ははっきりと上がった。


タリクの手は、昼よりも赤い。

腫れは第一関節を越え、指の背まで広がっている。


私は布を煮沸した。

火は弱い。薪は限られている。

湯が沸くまでの時間、私は彼の呼吸を数える。


一、二、三――規則的だが、少し早い。


「サフィア」

彼が目を開ける。

「すなわち、感染だ。急激ではない。だが放置すれば悪化する」


私は頷く。

「なるほど」


その瞬間、私は気づく。


腫脹の範囲。

皮膚の色調。

熱の上がり方。


頭の中で、自然に整理される。


赤はここまで。

中心はこの傷。

壊死ではない。膿はまだ深部。


――すなわち、排膿は不要。洗浄と清潔保持。


私は一瞬、手を止めた。

この組み立ては、私の癖ではない。


私は本来、祈る側だ。

構造を分解する側ではない。


だが今、迷いがない。


「塩水を」

彼が言う。

「濃すぎるな。浸透圧で組織を痛める」


私は塩を摘み、指先で量を測る。

正確だ。


なぜ分かるのか。

私は、数値を見ていない。

だが、感覚がある。


濃度はこれくらい。

水はこの量。

時間は短く。


まるで――


私はその思考を止める。

今は考える時ではない。


布を湯から引き上げ、冷ます。

慎重に、傷を洗う。

タリクの眉がわずかに寄る。

「痛みますか」


「問題ない」

強がりだ。


私は知っている。

彼は、私を守る対象にしたがる。


危険から遠ざける。

判断を自分で引き受ける。


私は、かよわい女ではない。

だが今は、そのことを証明する場面ではない。


私は布を当てる。

赤い滲みが広がる。

その色の濃さで、出血量が分かる。


少ない。

悪くない。


――悪くない。

私は瞬きする。


その言い回しは、誰のものだ。


外では、低い声が交わされている。


ハーリドだ。

彼は部屋の前を通り過ぎながら、何かを言った。

「حمىلا تزيد)」


熱は上がらない、という意味。

私は理解する。


習った語ではない。

だが、意味が取れた。


文脈か。音の連なりか。


それとも。

私は思い出す。


サーミラから教わったアラビア語の単語は限られている。

だが最近、聞き取れる言葉が増えている。


ハーリドが商人と行う交渉。

作業場での命令。

奴隷の愚痴。


意味が、組み立てられる。

まるで解析のように。

私は顔を上げ、室内を見渡す。


ここには、私たち以外にも三人いる。


一人は若い男。痩せているが、腕は太い。

もう一人は中年の女。手の甲に古い火傷跡。

最後は、ほとんど少年だ。


寝る位置で序列が分かる。


壁際が古株。

中央が新参。


食事の分配も、わずかに違う。

この工房は、失っても回る設計だ。

誰かが倒れれば、代わりが来る。


合理的だ。

私は視線を戻す。

この人も、その一部に過ぎない。


それを、私は許さない。


「サフィア」

彼が呼ぶ。

「腫れが広がるなら、朝に切開する」


私は彼の目を見る。

「必要なら、私がやります」


一瞬、沈黙。


彼は微かに笑う。

「君は……」


言葉を飲み込む。

かよわい、とは言わない。


私は布を巻き直す。

「工程は裏切らないのでしょう」


「……ああ」


「ならば、人の身体も同じです」


私は手を握る。

熱い。だが、まだ制御できる。


私は祈らない。

今は祈りではない。


私は、彼の工程を借りている。

そして同時に、理解している。

彼の力は、もはや彼一人のものではない。


家族とは、そういうことだ。

熱は、ゆっくりと上がり続けていた。


◆◆◆


夜半、熱は頂点に達した。


彼の呼吸は浅く、速い。

額の汗は冷え、指先はわずかに強張っている。


私は脈を取る。

速い。だが乱れてはいない。


赤みの境界を確かめる。

腫れは第一関節を越えているが、手背までは広がっていない。


――制御内。

その判断が、迷いなく浮かぶ。


私は息を止めた。

私は医師ではない。

修道女だ。


祈り、書き写し、労働する者。

それなのに、私は今、

怪我の炎症を段階で区分している。


これは学習か。

それとも、彼の力が私に触れているのか。


もしそうなら――

それは、神の秩序に背くものではないのか。


一瞬だけ、恐れが胸を刺す。

私は目を閉じる。


祈りではなく、確認のために。


赤はここまで。

熱は横ばい。

壊死の臭いはない。


神は秩序である。

秩序を読むことは、背信ではない。

私は布を替える。


「……上がっているか」

彼がかすれた声で言う。


「横ばいです」

嘘ではない。

だが安心でもない。


傷の中心はやや硬い。

膿が溜まれば、切開が必要になる。


「朝までに腫れが強まるなら、切る」

彼が言う。


私は、布を強く握る。


「私は判断から外される存在ではありません」

声は低い。だが揺れない。


彼は目を開き、私を見る。

初めて、同じ高さで。


「……分かった」

その一言で十分だ。


◆◆◆

 

明け方近く、熱が一度だけ跳ね上がった。


呼吸が荒くなる。

私は指を再び解き、腫れを押す。


中心部がわずかに柔らかい。

排膿の兆候。


今、切るか。

刃物はある。

煮沸もできる。


だが、深く切れば作業復帰は遅れる。


迷いが走る。

その瞬間、思考が整理される。


腫脹は限定的。

波打つ熱は一時的。

圧痛は増していない。


――待てる。

私は切らない。


代わりに、温湿布で循環を促す。

彼の呼吸が徐々に落ち着く。

熱は、ゆっくりと下がる。


私はその変化を確認する。

感覚ではない。

推測でもない。

組み立てだ。


◆◆◆


朝。


ハーリドが入ってくる。

視線は鋭い。

「どうだ」


「一度上がりましたが、下がりました」

私は事実だけを言う。


彼は指を押し、匂いを確かめる。

「……腐ってはいない」


短い安堵。


「今日、どうする」


タリクは起き上がる。

まだ顔色は悪い。


私は先に言う。

「重労働は避けます。工程判断のみ」


ハーリドが私を見る。


挿絵(By みてみん)


評価の目だ。

「お前が決めるのか」


「現状の最適解です」


一瞬、空気が張る。


私は視線を逸らさない。

この工房は、失っても回る設計だ。


だが今は違う。

彼は単なる腕ではない。

工程の中枢だ。


それを理解しているのは、私だけではない。

ハーリドは鼻で息を吐く。


「……好きにしろ。ただし結果を出せ」

合理的な妥協。


作業場に戻る。

石灰槽の白濁。


湿った皮の匂い。

彼は槽を覗き込み、口で指示を出す。

「底が偏っている。攪拌は三刻を守れ」


若い男が従う。

私はその動きを観察する。

周囲の視線が変わっている。


昨日までは労働者。

今は、判断者。

構造が一段ずれた。


◆◆◆


昼、包帯を外す。

赤みは縮小している。


中心部は硬さを保ち、軟化していない。

排膿は不要。

悪くない。


私は静かに息を吐く。


「君がいなければ、切開していた」

彼が言う。


「迷いました」

私は正直に言う。

「だが、待てると判断しました」


彼はわずかに目を細める。

「組み立てたな」


私は頷く。

恐れはまだ消えていない。

彼の力が私に触れているのか。


それとも私は、ただ学んだのか。

答えは分からない。

だが一つだけ確かだ。


家族とは、祈るだけの関係ではない。


倒れたとき、工程を引き継ぐこと。


◆◆◆


夕刻。


彼は立ち、軽作業を終える。

指はまだ腫れている。

完全ではない。


だが、機能している。

完全である必要はない。

回ること。

それが、この場所での生存条件だ。


私は石床を見下ろす。

私はかよわい女ではない。

そして彼も、無敵ではない。


熱は下がった。


工程は続く。

だが今日は、少しだけ違う。

私は、祈りと解析のあいだに立っている。


そのことを、恐れながらも受け入れている。

大きな戦いはない。

剣も旗も掲げられない。


ただ一つの傷と、

それを前にした選択があるだけだ。


それでも、物語は確かに進む。


技術は力であり、

力は責任を伴う。


けれど責任は、理屈だけでは背負えない。

そこにあるのは、関係だ。


この夜、二人の間にあったものは、

主従でも、同情でもない。


同じ重さで立とうとする意志だった。


静かな場面だが、

物語の芯に触れる夜である。

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