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第02話 - 塩の時間――なるほど、止められた

潮の匂いが消えるとき、

人はどこへ運ばれるのか。


街はいつも通りに動いている。

商いは続き、子供は笑い、水は運ばれる。


だが、その流れの外に置かれる者もいる。


ここから始まるのは、

戦いでも、交渉でもない。


工程の話だ。

朝の光は白く、乾いていた。


バグニオの扉が開く。

鉄の軋みが、石壁を震わせる。


外へ出た瞬間、空気が変わる。


潮ではない。

乾いた砂と、香辛料と、獣の脂の匂い。


視界がひらける。


石壁の外には街があった。


細い路地。

白壁。

青く塗られた木戸。

空は高い。


遠くから声が重なってくる。


値を叫ぶ商人。

笑う子供。

水を運ぶ女。

山羊の鳴き声。


スークだった。


露店が連なる。

天幕が張られ、布が風に揺れる。

乾いたナツメヤシ。

積み上げられた陶器。

香辛料の山が、赤や黄に光る。


人々は歩いている。

交渉し、笑い、手を叩き、

普通に生きている。


その真ん中を、二人は歩かされる。


鎖はない。

だが両脇に男がいる。


誰も彼らを見ない。

いや、正確には、見ている。


一瞬だけ視線が触れる。


そして外れる。


荷を見る目。


エルサが小さく息を吸う。

「……なるほど」


理解ではない。

隔たりの確認。


目の前の世界は動いている。

自分たちは、その流れの外にいる。


香辛料の匂いが強くなる。

汗と獣毛の匂いが混じる。


ある店の前で、少年が足を止める。

二人を見る。

テオドールと目が合う。


少年は何も言わず、母親に腕を引かれる。


工房へ向かう路地に入ると、匂いが変わる。


甘い香りは消え、

代わりに石灰と腐皮の臭気が鼻を刺す。


路地の奥に、水が流れる溝。

白濁した水が、ゆっくりと流れている。


小さな門をくぐる。

そこから先は、別の世界だった。


石壁に囲まれた工房。

中央に大きな石灰槽。

白濁した水面。

浮いた皮。

沈みきらぬ端が、ゆらりと揺れる。


誰かが木棒でかき混ぜる。

水が跳ねる。

咳がひとつ、乾いた音を立てる。


男が振り向いた。


先導していた商人が言う。

「工房長のハリード様だ、

 しっかりと言う事を聞く様に」


四十代半ばほど。

衣は質素だが整っている。

目は冷静で、怒りも蔑みもない。


「これが新しい荷か」


通訳が訳す。


荷。


テオドールはその言葉を飲み込む。


「男は職人見習いだったらしい。

 女は書き物ができる、と」


ハーリドはエルサを見る。

視線は鋭いが、感情は薄い。

品定めの目。

「帳簿が読めるか」


「はい。整理と計算ができます」

通訳が伝える。


周囲の職人が顔を上げる。

「文字は飾りだ」

「商いは勘だ」

「イフランジーヤが市場を知るか?」


声は荒いが、敵意はない。

忙しさがすべてを支配している。


ハーリドは少し考える。


工房の奥で、皮が崩れる音がする。

誰かが急かす声。


「工房は忙しい。

 今は手が要る」


それだけで、決まる。


ハーリドは短く言う。

「女も槽だ」


通訳が訳す。


エルサのまぶたがわずかに震える。


「すなわち」

小さな声。


「帳簿は後回し、ということですね」

通訳は半分だけ伝える。


ハーリドは頷きもせず、次の指示を出す。

「着替えさせろ」


粗い麻布が投げられる。

石灰で白くなった作業着。


修道服の裾が風に揺れる。

スークの喧騒は、もう聞こえない。

石灰の匂いだけが残る。


その日の終わり、

二人はまだ自分の名を持っていた。


だがこの工房では、

それはすでに価値を失っていた。


◆◆◆


作業小屋の奥は暗かった。


天井は低く、壁は石灰で白く曇っている。

床には水と泥と、踏み固められた毛が混じっている。


外の喧騒は、もう聞こえない。

代わりにあるのは、水音と、擦る音と、咳。


テオドールは立ったまま、麻布を握っている。


粗い。

硬い。

繊維が指の割れ目に刺さる。


エルサはすでに修道服の紐に手をかけていた。

迷いは見せない。

だが指が、ほんのわずかに止まる。


その一瞬を、テオドールは見た。

見たが、何も言わない。

修道服が床に落ちる。


布が地面に触れた音は、思ったより軽い。

白はもう灰色だった。

だがそれでも、それは“エルサ”の形をしていた。


今はただの布だ。

他の女奴隷が近づく。


年齢は分からない。

目は虚ろで、表情がない。

無言で作業着を渡す。


視線は合わせない。


エルサは受け取る。

袖を通す。

麻布が肌に擦れる。


肩口からのぞく皮膚は、まだ白い。

長い髪が背に流れる。


その輝きが、この場所には異質だった。


若い職人が顔をしかめる。


「邪魔だ」

短い言葉。


石灰は髪を腐らせる。

絡まり、抜け落ちる。

臭う。


ハーリドはそれを見ている。


「切れ」

命令は静かだ。


テオドールは刃物を渡される。

鉄は鈍く、刃先に小さな欠けがある。


「……私がやります」

自分の声が、自分のものではないように聞こえる。


エルサは振り向かない。

首筋が露わになる。


「すなわち」

小さく言う。

「必要な工程ですね」


工程。

その言葉が、胸を刺す。


テオドールは刃を入れる。


ざく。


音が重い。

髪は思ったより硬い。


二度目、刃が引っかかる。

引く。


繊維が裂ける音。

髪が落ちる。

床に広がる。


石灰の粉を吸って、すぐに色を失う。

輝きが、白に飲まれる。


挿絵(By みてみん)


周囲の男が笑う。

「イフランジーヤは皆、髪を惜しむ」


誰も止めない。


三度目。


刃が耳の後ろをかすめる。

エルサの肩がわずかに揺れる。


テオドールの手が震える。

それでも続ける。


切る。


落ちる。


踏まれる。


髪が泥と混じる。


最後の束を切り終えたとき、

床にはかつての“彼女”が広がっていた。


首の後ろに短く残った髪は、不揃いだ。

エルサは何も言わない。

数秒、静止する。


それから、落ちた髪を一度だけ見る。


表情は変わらない。


「軽いですね」

声は平らだ。


だが、呼吸が浅い。


ハーリドが近づく。

「名は」


テオドールが答える。


「テオドール」

通訳が繰り返す。


ハーリドは首を振る。

「長い」


間もなく、決める。

「今日からタリクだ」


テオドールは瞬きをする。

拒否は許されない。


「女はサフィア」


エルサの目がわずかに揺れる。


「すなわち」

喉が乾いている。

「ここでは私ではない名ですね」


通訳が困った顔で意訳する。


ハーリドは答える。

「ここでは、それが名だ」


それ以上の説明はない。


名は剥がされる。

修道服と同じように。

髪と同じように。


エルサという音は、ここでは使われない。

周囲の奴隷たちは無反応だ。

彼らも、かつては別の名を持っていたはずだ。


誰も覚えていない。


テオドールは床を見る。

踏みつけられた髪。


泥と石灰にまみれ、

もはや輝きはない。


工程。

皮も同じだ。

毛を落とす。

削ぐ。

浸す。

形を変える。


「要するに」

心の奥で、かつての工房長の声が響く。

「削がなければ、使えない」


テオドールは目を閉じる。


目を開ける。


前に立つのは、

短い髪の女。


作業着を着た、

サフィア。


エルサという名は、呼ばれない。


その瞬間、

彼は理解する。


これは労働の開始ではない。


再加工だ。

自分たちは、

皮と同じ工程に入ったのだ。


外で石灰槽の水が揺れる。


呼ばれる。

「タリク」


反応が一瞬遅れる。


肩を押される。


「タリクだ」

彼は振り向く。


それで確定する。

名が、固定される。


もう、後戻りはない。


「タリク」

呼ばれる。


今度は遅れない。


体が先に振り向く。

振り向いたあとで、胸の奥がわずかに軋む。


石灰槽の前に立たされる。


白濁した水面。

浮いた皮。

ところどころに毛の塊。


臭いが強い。


腐りかけた脂。

濡れた獣毛。

石灰の乾いた粉。


「入れろ」

渡された皮は重い。

まだ温もりが残っているように感じる。


タリクは袖をまくる。


指を沈める。

冷たい。


次の瞬間、

針のような痛みが走る。


思わず息が漏れる。

喉の奥で押しとどめる。


石灰が皮膚を滑る。

ぬめりがある。

爪の下に白い泥が入り込む。


数秒で感覚が変わる。


焼けるような痛みが、

じわじわと鈍くなる。


それが余計に怖い。

皮膚が、自分のものではなくなる。


隣でサフィアが桶を押し込む。


短くなった髪が首に貼りつき、

すでに粉をかぶっている。


皮を沈める動きが、わずかに遅い。


「速さだ」

後ろから声が飛ぶ。


肩を押される。


よろける。

桶が傾き、石灰水が足にかかる。

焼ける。


反射的に足を引く。

周囲から短い笑い。

サフィアは顔を上げない。


刃を握る。

毛を削ぐ。

刃先が皮に食い込む。


力が足りない。


もう一度。


今度は深く入りすぎる。

繊維が裂ける。


「無駄にするな」

低い声。


サフィアの指が一瞬止まる。

その瞬間だけ、呼吸が乱れる。

ほんのわずか。


次の瞬間には戻る。


「なるほど」

低く言う。

「均一ではありません」


説明ではない。

自分を保つための言葉。


タリクは皮を引き上げる。


毛が浮き、

白く崩れる。


水面に油が広がる。

隣の男が咳き込む。


激しい。

止まらない。

膝をつく。

誰も助けない。


助ければ、その分遅れる。

遅れれば、殴られる。


男は自分で立ち上がる。

指が二本ない。

白くただれている。


タリクは自分の手を見る。

赤い。

ひびが入り始めている。

指先の感覚が鈍い。


このまま浸せば、

同じになる。

だが手を止めない。

止めれば、足を切ると言われた。


反抗すれば、売ると言われた。

働けば、食える。

それだけ。

日が傾く。


石灰が乾き、皮膚が白く粉を吹く。

曲げると痛い。

だが痛みは鈍い。

鈍いのが怖い。


休憩。


硬いパン。

薄い粥。

味はない。

誰も話さない。


夜。


石の床に薄布。

体が重い。

隣にサフィアがいる。


距離は近い。

だが触れない。


タリクは口を開く。

「エル……」


喉が詰まる。

言い直す。

「サフィア」


沈黙。


「はい」

即答。

その速さが、胸を締める。


しばらくして、彼女が言う。

「手の感覚が、少し変わりました」


説明ではない。

報告でもない。

事実。


タリクは自分の指を握る。

皮膚がつっぱる。


「まだ……柔らかい」

サフィアが言う。


声は小さい。

「まだ、形は残っています」


それ以上は言わない。

外で水音がする。

石灰槽が夜風に揺れる。


皮は浸される。

繊維を緩めるために。

毛を落とすために。

そのあと、削られる。


形を変えられる。

使われる。


タリクは目を閉じる。

今日、自分たちは浸された。


髪を落とされ、

名を変えられ、

石灰に手を入れた。


まだ、削られてはいない。

だが繊維は、確実に緩み始めている。


明日も同じ槽が待っている。

眠りに落ちる直前、

指先の感覚が、さらに鈍くなる。


それが夢か現実か、

分からなくなる。


二人は今、

まだ浸されている途中だった。

名は、音にすぎない。

髪は、繊維にすぎない。

手は、道具になりうる。


そう言い切ってしまえば、

世界はずいぶん単純になる。


だが、単純になることと、

軽くなることは違う。


削がれるたびに、

人は何かを失う。


それでもなお、

残るものがある。


まだ、削られてはいない。


ただ、浸されているだけだ。


明日もまた、同じ槽が待っている。

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