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第01話 - 要するに、剝がされた

港は、

人が通り過ぎる場所だ。


名が呼ばれ、

紙に書かれ、

やがて別の場所へ運ばれる。


けれど、

呼ばれた名と、

その人の重さは、

いつも同じとは限らない。


声を上げることも、

黙ることも、

同じだけの意味を持つ。


その静かな選択が、

どこへ繋がるのか。

潮の匂いは、ヴェネツィアとは違っていた。

塩の奥に、血と汗と、乾いた砂の匂いが混じる。


チュニスの港は騒がしかった。

怒号、家畜の鳴き声、荷を運ぶ掛け声。

そして、鎖の擦れる音。


テオドールは両手を前で縛られたまま、石畳を歩かされていた。

隣にはエルサ。

修道服は既に剥がれ、頭布も外されている。白い布地は灰に汚れていた。


港の一角、石壁に囲まれた建物へと連行される。

低く、窓は小さい。

入口の上には、煤で黒ずんだ半月形の印。


「捕獲奴隷用の収容所(バグニオ)だ」


誰かが呟いた。

振り向く余裕はない。


中に入ると、空気が変わった。

熱がこもり、湿り気がある。

呻き声。

かすれた祈り。

床に横たわる者。

腕を折られたまま包帯もない者。

目だけが生きている者。


諦めの顔。

恐怖の顔。

既に何も映していない顔。


役人が卓に座っていた。

細い髭、墨壺、分厚い帳簿。

淡々と名を書きつけている。


「次」


テオドールは前に押し出された。


役人が顔を上げる。

目は冷たいが、特に怒りもない。

ただ、数を処理する視線。


「名は」


通訳がいる。

港の商人らしい男が間に立つ。


「テオドール」


「出身」


「ドイツ」


「職業は」


一瞬、迷いがよぎる。


革職人。

化学技術者。

商人。


どれが生き延びる確率を上げるか。


「革職人だ」


通訳がアラビア語に直す。

役人の筆が止まる。


「なめし革か?」


「そうだ」


役人は小さく頷いた。

帳簿に印を付ける。


「価値あり」とでも書いたのだろう。


役人の視線が横へ移る。

「その女は妻か?」


一瞬、空気が固まる。

テオドールが口を開くより早く、


「はい」

エルサが答えた。

即答だった。


役人は二人を交互に見る。

疑うように。

値踏みするように。


「子はいるか」


「いません」

淡々と。


役人は肩をすくめ、帳簿に何かを書いた。


「次」


押しやられる。


廊下へ出た瞬間、エルサが小さく息を吐いた。

そして、ドイツ語で囁く。

「すみませんでした…」


謝罪の声。

「……ああ言わないと、何をされるかわかりません」


視線は前。

歩みを止めない。

「女性が単独だと、別の扱いになります」


声は震えていない。

だが速い。

「申し訳ありません。勝手に」


テオドールは首を横に振る。


「正しい判断だ」

短く答える。


実際、男女は通常、別々の牢に入れられるらしい。

廊下の奥から、女の泣き声が聞こえる。

男たちの区画とは明らかに空気が違う。


だが看守が舌打ちした。

「空きがない」


通訳が振り向く。

「部屋が足りないそうだ」


看守が顎で奥を示す。

「夫婦用に入れろ」


重い木の扉が開く。


中は狭い石室。

床に粗い藁。

小さな格子窓。

鎖はない。


他の房からは呻き声が続く。

誰かが咳き込み、血を吐く音。

誰かが祈りの言葉を繰り返す。

意味をなさない言葉を。


エルサは部屋の隅に立ったまま動かない。


廊下を引きずられていく男が見えた。

片足を折られ、顔は腫れ上がり、意識が朦朧としている。

まだ若い。


彼は目だけでこちらを見た。


その目は――

もう助からないことを知っている目だった。


扉が閉まる。

(かんぬき)が落ちる音。


重い。


静寂ではない。

だが、逃げ場のない空間。


テオドールは壁に背を預けた。


チュニス。

ハフス朝の港。


ここから、生きて出られる確率を計算する。


材料。

需要。

技術。


そして――


時間。


エルサが小さく言う。

「……神は、ここにもおられます」


それは祈りというより、確認の言葉だった。

テオドールは答えない。

だが、否定もしなかった。


石壁の向こうで、誰かが泣いている。

テオドールは疲労感に襲われ、目をとじた。


◆◆◆


数日が過ぎた。


日数は、正確には分からない。

窓の格子から差す光の角度と、食事の回数で数えるしかない。


水は一日二度。

粗い粥と、時折混じる豆。

呻き声は減り、代わりに静かな呼吸が増えた。


減ったのは、声だけではない。

廊下の奥の房は、三人いたはずだ。

今は二人。


誰も何も言わない。


石室の空気は重い。

だが、エルサは姿勢を崩さない。

壁際に座り、指を組み、祈るわけでもなく、ただ目を閉じている。


テオドールは藁の上に座り、壁の目地を数えていた。

石の積み方。

湿り気。

換気。

ここが長期収容用ではないことは明らかだ。


――選別場だ。


ある朝、扉が開いた。

「出ろ」


看守が命じる。


房ごとに廊下へ出される。

男女は別の列。

だが「夫婦用」とされた者は、並んで立たされた。


中庭に出る。


白い陽光が目に刺さる。

石壁に囲まれた空間。

中央に簡素な机と椅子。


そこに、一人の男が立っていた。


白い衣。

整えられた髭。

年は四十ほどか。


周囲の役人とは違う。

怒号も、鞭も持たない。


静かな声で語り始める。


通訳が続く。

「この地の主は、慈悲深い」


「アッラーは唯一の神であり、預言者ムハンマドはその使徒である」

淡々とした口調。

説教というより、説明。

「信仰を受け入れる者は、兄弟として扱われる」


ざわめきが走る。


「一定の期間、奉仕を果たせば、自由の道が開かれる可能性がある」


“可能性”。


その言葉が、場を支配する。


「改宗を望む者は、前へ」


沈黙。


風が砂を運ぶ。

やがて、一人の男が前に出た。

腕に包帯を巻いた若者。

目は虚ろだが、足は動く。


続いて、二人。

三人。


一人は十字を切りかけて、途中で手を止めた。

そして前へ出た。


教師は頷く。

怒りも軽蔑もない。

ただ記録する。


「証言せよ」


若者が震える声で、通訳の後を繰り返す。

「アッラーのほかに神はなく……」


言葉はたどたどしい。

だが、教師はそれを遮らない。


テオドールは横目でエルサを見る。

エルサは前を見ている。

表情は変わらない。

だが、指先がわずかに白い。


――自由になれる可能性。

技術者として考える。


期間は?

条件は?

本当に解放されるのか?


労働力の価値が高ければ、解放は先送りされる可能性がある。

逆に、技能を示せば、監督付きの職人として扱われるかもしれない。


計算は、瞬時に巡る。

だが、決断のための情報は、足りない。

教師の視線が列を流れる。


「他にいないか」


沈黙。


時間が伸びる。

エルサが小さく息を吸う。

だが、何も言わない。


テオドールも動かない。

考える余裕すらない。


今ここで選ぶことが、生存確率を上げるのか、下げるのか。

判断材料が足りない。


教師はしばらく待ち、やがて静かに頷いた。

「よい」


名乗り出た者たちを別の列へ移す。

残った者たちは、再び元の房へ戻される。


扉が閉まる。

石室の空気は、以前より重い。


エルサが低い声で言う。

「……もし、あなたが選ぶなら」


「選ばない」

即答だった。


エルサがわずかに目を伏せる。

「私は、あなたに従います」


その言葉は重い。

だが、依存ではない。


覚悟だ。

沈黙。


外で何かが運ばれる音。


夕方。

再び足音が近づく。


鍵の回る音。

扉が開く。


看守が二人を見た。

「お前たち、出ろ」


通訳もいない。

命令だけ。


「来い」


テオドールは立ち上がる。

エルサも続く。


廊下へ出ると、他の房の視線が刺さる。


恐怖。

羨望。

諦め。


どれかは分からない。


外へ―—


中庭ではなく、さらに外門の方へ連れて行かれる。


日が傾き、影が長い。

港の方から、潮の匂いが流れてくる。


看守は振り返らない。

ただ歩く。


テオドールは歩幅を合わせながら、計算する。


――選別が始まった。

そして、自分たちは今、どの分類に入れられたのか。


門が開く。

強い光が差し込む。

市場の音は、波のように押し寄せては引いた。


銀貨の触れ合う乾いた音。

競り人の張り上げる声。

香辛料と汗と、家畜の匂い。


テオドールは木の台の上に立たされる。

「北方出身、革職人!」


通訳が叫ぶ。

「なめし革、軍需革の経験あり!」


ざわめき。


数人の商人が前に出る。


腕を掴まれ、持ち上げられる。

肩を回される。

歯を見せろ、と顎を強く引かれる。


視界が一瞬、白くなる。

内臓が、冷たく沈む。


――数値になる。


怒りは後回しだ。

今は計算。


「三十ディナール」


「三十五」


「四十」


値が上がる。


高い。


高すぎると、流動資産になる。

再売却対象だ。


「四十五」


一人の男が言う。

衣は質素だが、目が鋭い。


彼はエルサの台へ視線を移す。


「その女は」

競り人が応じる。

「健康、読み書き可」


男の目が細くなる。

「修道女ではないのか」


ざわめきが広がる。


白い肌。

姿勢。

指の形。


見抜く者はいる。


テオドールの背に、汗が一筋流れる。


エルサは台の上で直立している。

だが、彼女の右手の指先が、わずかに震えている。

ほんのわずかに。


通訳が繰り返す。

「修道女ではないか、と」


沈黙。


ここで誤れば、


身代金対象になる。

価値は跳ね上がる。

所有が変わる可能性もある。


テオドールは即座に答える。

「違う」


短く。

「北方では、信心深い女は多い」


通訳が伝える。


商人は首を傾げる。

「だが、所作がそれらしい」


テオドールは続ける。

「修道女なら、誓願の証があるはずだ」


間を置く。


「それはない」

事実だ。


修道服も、象徴も、すでに剥がれている。


「帳簿が読めるのは、工房を手伝うためだ」


通訳が叫ぶ。

「夫の帳簿補助!」


商人の視線がエルサに刺さる。


「祈りは」

問われる。


エルサの喉が動く。

一瞬、ヴェネツィアで学習したアラビア語が浮かびかける。


テオドールが、ほんの僅かに視線を送る。


エルサはそれを受け取り、

ゆっくりと首を振る。


「私は、夫の女です」

ドイツ語で。


通訳が伝える。


単純な言葉。

それ以上は言わない。


沈黙。


商人はしばらく二人を見比べる。


エルサの指先が、まだ震えている。

彼女はそれを隠すように、指を強く握る。


震えが止まらない。

だが顔は崩れない。


商人が鼻で笑う。

「よかろう」


「五十」


値が上がる。


危険域。

テオドールは踏み込む。

「夫婦一体で使える」


通訳が叫ぶ。

「工房管理が一括!」


最初の男が、低く言う。

「五十五」


ざわめきが止まる。


挿絵(By みてみん)


他の商人は躊躇する。

五十五は高い。


沈黙。


競り人が杖で板を三度叩く。

「決まりだ」


銀貨袋の重い音。

縄が掛けられる。


今度は、二人を同じ縄で。

手首と手首が、短く繋がれる。


エルサの指先は、まだ冷たい。

テオドールは小さく囁く。

「よく耐えた」


エルサは息を吐く。

「……震えていましたか」


「少し」

正直に言う。

「だが、崩れなかった」


市場の喧騒が遠ざかる。

別の台では、若い男が低値で売られていく。


引きずられる足音。

誰も振り返らない。


テオドールは最後に振り返る。


値が付いた。

疑われた。


だが、抜けた。

完全には安全ではない。


しかし、まだ二人だ。

市場を離れながら、テオドールは計算する。


五十五ディナール。


高い。


だが、身代金目当ての価格ではない。

ぎりぎりの線だ。


エルサの指先の震えが、ようやく止まる。


「行くぞ」

二人を競り落とした男とその護衛らしき男が三名立っている。

男は流暢なイタリア語で続ける。

「我らのスークに連れて行く」


男は微笑んだ。

だが、その目は計算していた。

「チュニスでも伝統のある工房だ」


テオドールはその言葉を聞きながら、

もう一度だけ計算した。


――自分は、どこまで使われるか。

そして、どこまで耐えられるか。

疑いは、

目に見えない値札のようなものだ。


触れられれば、

重さが増す。


否定しすぎれば、

かえって光る。


震えは消えない。

だが、崩れなければ、

まだ形は保たれる。


値が付いたあとも、

息は続いている。

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