第12章 - すなわち、潮目は変わる
海は、静かに距離を作る。
帆が風を受け、
船が進むだけで、
戻れない場所がひとつ増えていく。
この章は、
その「増えてしまった距離」の記録である。
何が正しく、何が間違っていたかは、
まだ誰にも分からない。
ただ、
海は待ってくれなかった。
ヴェネツィアを発って二日、
アドリア海はまだ静かだった。
貨客船は、重い積荷を抱えながらも、
思いのほか軽やかに進む。
帆が大きく膨らむ。
「追い風ですね」
エルサが、甲板の端で言う。
修道服の白が、朝日に淡く光る。
「ええ」
隣に立つメリサンドが答える。
革鎧の縫い目が、風に鳴る。
「四日は楽ができるでしょう」
船長の読みでは、
この南東風は続く。
アドリア海は細長い。
東にバルカンの山影、西にイタリアの海岸線。
帆が鳴り、
船体が水を割る音が低く続く。
テオドールは甲板に置かれた樽に手を触れた。
革を積んだ木箱の固定具を確かめる。
揺れは穏やかだ。
「速度はどれくらい出ていますか」
「潮と風が合っている」
メリサンドは海面を見たまま言う。
「今日で百海里は進む」
誇張ではない。
波頭が真後ろから押してくる。
◆◆◆
四日目。
海の色が変わった。
深い群青に、わずかな緑が混じる。
「イオニア海に入ります」
船員の声が通る。
エルサは水平線を見つめる。
「海の色が、少し冷たいですね」
「潮が違う」
メリサンドが短く言う。
「深い。風も読みづらくなる」
追い風は続いている。
だが、うねりが変わった。
船底に伝わる振動が、
わずかに不規則になる。
テオドールは帆柱を見上げる。
「この先は、海賊は」
「出る」
メリサンドは即答した。
「だが今は季節が早い。
商船の群れも多い」
言い切り方に、迷いはない。
エルサがふと問う。
「戦いになった場合、
この船は守れますか」
メリサンドは二人を見る。
「守るのは“船”ではありません」
淡々と続ける。
「積荷と、必要な人間です。
全ては守れない」
波が甲板を洗う。
テオドールは静かに言う。
「革も、同じです」
二人が視線を向ける。
「全てを最高品質にはできない。
だが、芯だけは守る」
一瞬の沈黙。
エルサが小さく頷いた。
「芯を守る、ですか」
風が帆を鳴らす。
メリサンドは遠くを見る。
「海では、
舵と風向きが“芯”です」
その言葉は、
誰に向けたものでもなかった。
夕暮れ。
西の空が赤く染まる。
アドリア海の穏やかな長い航路は終わり、
船はより広い海へ出る。
波は大きい。
だが、まだ荒れてはいない。
テオドールは甲板に立ち、
沈む太陽を見送る。
ヴェネツィアはもう見えない。
戻る場所ではなく、
背にある港になった。
「迷いはありますか」
不意に、エルサが言う。
「ある」
即答だった。
「だが、進むしかない」
メリサンドはわずかに口元を動かす。
「迷いを持てるのは、
選べる者だけです」
風が強まる。
船は南へ。
イオニアの深い青へと、
静かに、しかし確実に進んでいった。
◆◆◆
イオニア海に入って二日目の午後だった。
風はまだ背を押している。
だが、うねりが横から混じる。
見張りが叫んだ。
「帆影、左舷後方!」
テオドールは振り向く。
陽を反射する細長い船体。
低く、速い。
櫂が並ぶ。
「ガレー船です」
船長の声が低くなる。
メリサンドはすでに動いていた。
帆柱の影から外套を外し、革鎧の留め具を締め直す。
「バルバリア海賊だ」
断定だった。
黒と赤の布。
船首に彫られた猛禽の意匠。
距離が詰まる。
「避けられますか」
エルサが問う。
「無理だ」
船長が吐き捨てる。
「風向きが悪い」
相手は櫂で風を無視できる。
角度を取られた。
鈍い衝撃。
鉤爪が投げ込まれる。
縄が張る。
「接舷!」
船体が引き寄せられる。
怒号と共に、
曲刀を持つ男たちが雪崩れ込む。
最初の一人が甲板に足を置いた瞬間、
メリサンドが踏み込んだ。
右手の長剣が弧を描く。
喉元。
一人目が崩れる。
二人目の曲刀が振り下ろされる。
左手の短剣が刃を弾き、
肘を断つ。
動きに無駄がない。
「テオドール!」
エルサが叫ぶ。
テオドールは積荷の固定具を外し、
即席の障壁を作る。
樽が転がる。
侵入経路が狭まる。
だが、数が多い。
メリサンドは戦列の“奥”を見る。
視線が止まった。
敵船の中央、
鎖帷子に覆われた大柄な男。
首領。
命令を出している。
「……あれか」
彼女は甲板を蹴る。
敵を斬るためではない。
“抜ける”ための動き。
一人を肩で押し、
二人目の膝を断ち、
三人目の脇をすり抜ける。
血しぶきが甲板を濡らす。
首領が気づいた。
歯を見せて笑う。
曲刀は長い。
柄に銀の装飾。
「女か」
低い声。
メリサンドは構える。
右手に長剣、
左手に短剣。
間合いは広い。
首領が踏み込む。
曲刀が斜めに走る。
重い。
受けない。
彼女は半歩外し、
短剣で刃の腹を流す。
すれ違いざま、
長剣が鎖帷子を叩く。
浅い。
首領が笑う。
二撃目は速い。
横薙ぎ。
甲板を削る。
彼女は低く沈み、
短剣を相手の手首に突き立てる。
血。
曲刀がわずかに落ちる。
だが首領は力任せに蹴りを放つ。
彼女は後退。
距離が空く。
風が帆を鳴らす。
甲板の揺れ。
「終わらせます」
誰に向けた言葉でもない。
首領が吼える。
踏み込む。
その瞬間。
メリサンドは前に出た。
“退く”と見せての逆踏み。
長剣で視線を上げさせ、
短剣を鎖帷子の隙間、
脇の下へ。
深く。
息が止まる音。
首領の体が震える。
彼女は刃を抜き、
すぐに喉元へ長剣を滑らせた。
血が甲板を走る。
静寂が一瞬、落ちる。
敵の動きが止まる。
首領の体が崩れる。
メリサンドは振り返らない。
ただ低く言う。
「退け」
曲刀を持つ男たちが、
視線を交わす。
首領が崩れ落ちた瞬間、
敵の動きは確かに鈍った。
だが――
「まだだ!」
見張りの声が裂ける。
右舷、さらに沖。
二つの黒い船影。
低い船体。
並ぶ櫂。
帆は半ば畳まれ、速度優先。
「……増援」
メリサンドの声は低い。
最初の海賊船に対応している間に、
二隻が横合いから近づいていた。
衝撃。
船体が軋む。
今度は左右から。
鉤爪が同時に飛ぶ。
「両舷接舷!」
縄が張る音が、甲板を震わせる。
エルサは積荷の陰へ下がる。
だが目は逸らさない。
「数が……」
二十、三十では足りない。
次々と黒衣の男たちが跳び移る。
メリサンドは息を吐く。
「船長、舵を固定。
揺れを一定に」
「無茶だ!」
「揺れが読めれば、戦える」
返答は簡潔。
彼女は再び前に出る。
今度は“抜ける”余地がない。
囲まれる。
右から曲刀。
左から槍。
短剣で槍を払い、
長剣で喉を断つ。
血が飛ぶ。
甲板が滑る。
それでも動きは鈍らない。
「下がってください!」
エルサの声。
テオドールは樽を転がし、
通路を狭める。
「狙いは積荷だ」
だが――
違和感。
海賊の動きが妙だ。
樽を割らない。
革箱を無視する者もいる。
代わりに、
甲板を見回している。
誰かを、探している。
怒号が飛ぶ。
異国の響き。
荒い子音。
テオドールの視界が揺れる。
――解析。
半透明の層が重なる。
言語設定:対象→アラビア語
音が、分解される。
単語が浮く。
الدَّبَّاغَ حالًا
……聞き取れる。
「……探せ」
「……職人」
「……革」
断片が結びつく。
一人の海賊が叫ぶ。
声がはっきりと耳に届く。
「革職人を探せ!」
アラビア語。
はっきりと。
テオドールの背筋が冷える。
「メリサンド!」
声が届くかどうかの距離。
彼女は敵の腕を斬り落としながら、
わずかに視線を向け、叫ぶ。
「どうしました!」
「奴らは……革職人を探している!」
一瞬。
彼女の目が細くなる。
「誰を!」
「僕だ!」
短い沈黙。
その間にも、
海賊が甲板を駆ける。
一人が積荷の陰を覗き込む。
別の男が船員を蹴り倒す。
「顔を確認しろ!」
また叫び。
テオドールの鼓動が早まる。
解析が続く。
「……生け捕りだ」
言葉が刺さる。
生け捕り。
殺すのではない。
探している。
メリサンドは即座に判断する。
「エルサ!」
「はい」
「テオドールを下へ」
「だが――」
「これは略奪ではない」
彼女は敵の胸を貫く。
「指名だ」
海賊の一人がテオドールを見つける。
視線が合う。
男の顔に、
確信の色。
「いたぞ!」
叫び。
複数が向きを変える。
その瞬間。
メリサンドが割って入る。
斬撃が閃く。
一人、二人。
だが数が多い。
両舷から、さらに乗り込む。
船が軋む。
風はまだ吹いている。
だが帆は制御を失いかけている。
テオドールの解析は止まらない。
言葉の断片が、さらに浮かぶ。
「……ラグーザ」
「……ハサン」
「……命令だ」
背後で波が砕ける。
イオニアの海は、
深い。
そして今、
狙われているのは――
革でも、金でもない。
彼自身だった。
「下へ!」
エルサがテオドールの腕を引く。
二人は甲板の下へ急ぐ。
途中、エルサのウィンプルが金具に引っ掛かり引き裂かれる。
喉の奥が焼けるようだったが、声は出さなかった。
甲板下になだれ込んだ海賊に視認される。
「あそこに居るぞ!追え!」
三人の海賊が回り込む。
テオドールの腕を取られる。
曲刀の切っ先が喉元へ。
メリサンドは斬り伏せながら進む。
だが数が壁になる。
左右、背後、前。
囲まれすぎている。
彼女の長剣が一人を貫く。
短剣が喉を裂く。
それでも、道が開かない。
――迷う余地すら、奪われる。
甲板の向こうで、
二人が取り押さえられる。
テオドールは殴られ、膝をつく。
エルサは倒れたが、声を上げない。
男が怒鳴る。
今度はイタリア語。
「急げ! あの二人だ!」
腕を縛られる。
荒縄が食い込む。
テオドールは歯を食いしばる。
「エルサ」
「……大丈夫です」
息が乱れている。
だが目は冷静だ。
海賊船の甲板へ、
半ば引きずられるように渡される。
その瞬間、
貨客船の甲板で爆ぜるような声。
「鉤爪を離せ!」
メリサンドは急ぐ。
彼女は返り血に濡れ、
なお前に出ようとする。
息が荒い。足裏がわずかに滑る。踏み直す。
背後から二人、三人。
槍が迫る。
一瞬、視線が交わる。
何も言わない。
ただ、見た。
次の瞬間、
鉤爪が外される。
縄が切られる。
「離せ! 今すぐ離せ!」
海賊の怒号。
櫂が一斉に水を打つ。
黒い船体が後退する。
貨客船から距離が開く。
メリサンドが最後の敵を蹴り飛ばし、
船縁へ走る。
跳ぶ距離ではない。
すでに、届かない。
海が間に入る。
風が帆を鳴らす。
海賊船の甲板で、
一人の男が笑う。
「チュニスへだ!」
イタリア語。
はっきりと。
「ハサンのお陰だな、良い値で売れるぞ!」
別の男が言う。
「革職人だ。
奴隷市場で競りになる」
テオドールの胸が冷える。
エルサは静かに言う。
「……生かして連れて行く理由が、分かりました」
帆が張られる。
櫂が速い。
二隻の海賊船は、
別方向へ散る。
一隻が護衛のように後ろに回る。
貨客船は追えない。
負傷者が多い。
帆も傷んでいる。
メリサンドは舷側に立つ。
拳が白くなるほど握られている。
叫ばない。
ただ、海を睨む。
イオニアの風は冷たい。
距離が広がる。
テオドールは振り返る。
小さくなる船影。
メリサンドが、
まだ立っている。
その姿が、
波間に揺れる。
やがて、見えなくなる。
黒い船は南へ。
帆が風を掴む。
男が笑う。
「チュニスだ。
働けば生きられる」
別の声。
「逃げれば、犬の餌だ」
テオドールは目を閉じる。
解析が、静かに動く。
「……チュニス」
言葉が確定する。
アフリカの港。
ハフス朝の旗が翻る地。
潮の匂いが変わる。
南の海。
貨客船は北へ残された。
そして二人は、
南へ連れ去られる。
航路は、
ここで引き裂かれた。
―— 第4章 秤の都、整えられた世界「ヴェネツィア」 ——水辺の聖ミカエル修道院編 ー
―— 完 ―—
メリサンドは、
届かなかった。
力が足りなかったわけではない。
判断を誤ったわけでもない。
それでも、
間に入ったのは海だった。
テオドールとエルサは、
守られる側から、
数えられる側へと移された。
それは敗北というより、
航路が変わったという事実に近い。
風は同じでも、
向きが違えば、着く場所は変わる。
イオニアの海は深い。
そして物語もまた、
静かに深くなっていく。




