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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
秤の都、整えられた世界「ヴェネツィア」 ——水辺の聖ミカエル修道院編
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第11話 - 大丈夫!すべての道はローマに通ず

出発の前は、

大きな出来事よりも、小さな確認の方が多い。


供給は滞っていないか。

帳簿は回るか。

残る者は残る場所を守れるか。


戦でもない。

劇的な別れでもない。


それでも、

離れる前には秤が揺れる。


この話は、

動き出す前の、静かな調整の記録だ。

サン・ミケーレ島に戻ったとき、

夕方の潮は静かだった。


小舟が船着場に寄る。

櫂の音が止み、舟底が木桟橋に触れる。


そのとき――


「……帰ってきましたか」

声がした。


桟橋の端に、立っている影。

サーミラだった。


灰色の外套をまとい、

風を正面から受け止めるように立っている。

視線は、真っ直ぐだ。


「染料の配達に伺ってたところです」

彼女は続ける。


「これから本島に帰るところでした」


テオドールは舟を降りる。

「供給は滞っていないか」


挨拶の代わりの問い。

「ええ」


短く返す。


「没食子は予定通り。

 乾燥樹脂も、前回分と同質のものを」


エルサが一歩前に出る。

「価格は変わりありませんか?」


「上がっています」

即答。


「東の輸送路が不安定です」


「質は?」


「落としていません」

一瞬だけ、目が細まる。

「そこを疑われるのは、心外です」


テオドールは小さくうなずいた。

「疑ってはいない。確認だ」


サーミラは桟橋の先を見やる。

「あなた方が島を離れている間、

 工房は安定していました」


「見ていたのか」


「取引先ですから」

それだけ言う。


沈黙。


「ローマへ?」

彼女が問う。


エルサが答える。

「三週後に発ちます」


「長くなりますか」


「未定です」


サーミラはそれ以上踏み込まない。

「なら、書簡はルドヴィコ経由で」


「承知しました」


潮が引く音がする。


サーミラは舟に足をかけ、振り返る。

「戻られますか」


テオドールは少しだけ考えた。

「戻る場所がある限りは」


サーミラはうなずき、舟を押し出す。

「なら、供給は続けます」


それだけ残して、

舟は夕暮れの潟へ溶けていった。


修道院へ戻る。


石灰槽の水面は静かで、

棚の革は均一に並んでいる。


工房の奥の小部屋には、

すでに ルドヴィコが待っていた。


「お二人とも、お帰りなさい」

今度は、形式ばった挨拶だ。


卓上には帳簿と羊皮紙。

「不在中は、修道院側で完全運営」


テオドールが言う。

「工程は削らない。

 石灰濃度も、攪拌周期も変更しない」


「軍需向けでも?」

ルドヴィコが問う。


「変えない」

即答。


「短期利益より、長期契約だ」

ルドヴィコは微笑む。


「商人としても、その方が都合が良い」


エルサが帳簿をめくる。

「サーミラとの供給は継続。

 価格変動は受け入れる代わりに、

 品質保証は明文化します」


「厳しいですね」


「当然です」

静かなやり取り。


話は細部へ移る。


・水の確保

・乾燥棚の増設

・軍港搬入の頻度

・代金回収の期日


テオドールは最後に言った。

「俺がいなくても回るようにした」


独白に近い。


エルサは、わずかに視線を向ける。

「だからこそ、離れても回ります」


「……なら、行ける」


ローマへ。


何を確かめるのか。

何を測るのか。


それはまだ、言葉にならない。


島は変わらない。


だが――

渡る前の秤は、静かに揺れていた。


◆◆◆


週末のサン・ミケーレ島は、

石灰の匂いがやわらぐ。


庭の小卓に並ぶのは、

蜂蜜と砕いたアーモンドを練り固めた菓子、

乾燥いちじくとナツメヤシ、

薄く焼いた小麦の菓子片。


交易都市らしい、ささやかな贅沢。


「わ、これ好き」

ベアトリクスがすぐに手を伸ばす。

「蜂蜜とアーモンドのやつでしょ?

 前に本島で食べたことある」


「よくご存じですね」

エルサが穏やかに言う。


「だって甘いものは覚えるもの」

にこっと笑う。


サーミラは木陰で静かに座っている。

「東からの品です」


「サーミラが持ってきたの?」


「いいえ、東方からの客づてです」


「そういうことにしておくね」

軽く笑うが、探るような目はしていない。


しばらくは他愛ない話。


港の相場。

軍港の注文。

本島の噂。


やがて、ベアトリクスがふと静かになる。

「……ほんとに行くんだよね、ローマ」


「二週後に発ちます」

エルサが答える。

「確認すべきことと、届けるものがあります」


「届けるもの?」

ベアトリクスは首をかしげる。


「書簡と資料です」

それ以上は言わない。


回廊の奥、

影の中に小さな箱が置かれている。

鉄の金具、鍵付き。


ベアトリクスは気づいていない。

サーミラは、気づいているかもしれない。


だが誰も触れない。


「テオドールはさ、ローマ行ったことあるの?」


「ない」

即答。

「ヴェネツィアも、ここへ来るまで知らなかった」


「ほんとに?」

少し笑う。

「じゃあ、わたしより知らないじゃない」


「観光じゃないぞ」


「はいはい、修行でしょ?」

軽くからかう。


テオドールは頷く。

「ゲゼレの修行だ。

 一か所に留まらない。

 土地ごとの秤と技術を見る」


エルサが静かに言う。

「長く留まると、それが基準になります」


ベアトリクスは少し考える。

「……ずっと同じ場所にいると、

 そこが“世界”になるってこと?」


「すなわち、そうだ」


「すなわち、なるほどね」

蜂蜜菓子をかじりながら、頷く。


皆が笑う。


挿絵(By みてみん)


鐘の音が遠くで響いた。


「寂しいよ、正直」

あっさり言う。

「最初から、そのために来たの分かってるけどさ」


視線が少しだけ揺れる。

「でも慣れちゃうじゃん。

 一緒にいるのが普通になると」


エルサは隣に立つ。


テオドールは短く言う。

「戻る」


「戻る場所がある限りは」

エルサが重ねる。


ベアトリクスはふっと笑う。

「それ、けっこう好き」


「じゃあ、わたしも工房くるね」


「工程は触らない」

テオドールが先に言う。


「触らないよ」

すぐ返す。


「帳簿見るだけ。

 原皮の仕入れ値と、輸送費と、売値。

 ちゃんと数字で追いたい」


サーミラが静かに問う。

「価格が上がった場合は?」


「まず原因を見る。

 短期で上げるか、利益削るか、契約守るか」


迷いがない。


「家庭教師に教わったこと、

 ここで試したいの」


テオドールはうなずく。

「工程は職人の領分だ」


「分かってる」

少し笑う。


「石灰槽に手を入れるのは、あなたの仕事」


サーミラの口元がわずかに緩む。


風が回廊を抜ける。


「ローマって、どんな街なんだろ」

ベアトリクスが空を見上げる。


「分からない」

テオドールが言う。


「石と権威の街だと聞きます」

エルサが言う。

「古い秤が残る場所」


「重そうだね」

少し笑う。


それ以上は聞かない。


サーミラが立ち上がる。

「供給は続けます、まかせて」


「ありがとう」

エルサが応じる。


ベアトリクスは手を振る。

「戻ってきたらさ」


少しだけ照れた顔。

「ちゃんと驚かせるから」


「置いて行く気はない」

テオドールが言う。


「追いつくよ」

庭の甘さの下に、

それぞれの思いが沈む。


箱は、まだ開かれない。


ローマへの日取りは、

静かに近づいていた。


◆◆◆


数日後——


夕暮れの潟は、灰色に沈んでいた。


本島側の商館。

帳簿と秤が並ぶ部屋で、

テオドールは椅子に腰を下ろす。


向かいにはルドヴィコ。

彼は帳簿をぱたりと閉じるなり、両手を広げた。

「いやあ、絶望的展開! ……だったはずなんですよ、本来は」


「何がだ」


「ドイツの連中だ。ライン川沿い。

 あのあたり、値も目も厳しい。

 品質がぶれた瞬間、契約は消える」


肩をすくめる。


「ところがどうです。

 あなたが工程を削らなかったおかげで――大丈夫!」

にやりと笑う。


「ケルンもマインツも、その周辺も。

 “あの革は信用できる”って評判が立ちました」


「削れば崩れる」


「ええ、それをやらないのがあなたです」

ルドヴィコは指で机を叩く。

「短期で利を取れば、翌年は絶望的展開!

 でも今は違う。

 川は流れている」


「長期契約だ」


「そうそう、それです」

軽く笑う。

「いやあ、大丈夫!

 ラインは当面安定です」


少し間。


「ローマ、から戻ってくるんですよね?」


「戻る」

即答。


ルドヴィコは満足げにうなずく。

「なら大丈夫!」


勢いよく言ってから、少し声を落とす。

「ベアトリクス様のことは任せてください」


「帳簿を見せるつもりか」


「もちろん。

 利益率が落ちる瞬間も、

 輸送費が跳ね上がる瞬間も、

 全部見せます」


にやり。


「数字を知らずに経営はできません。

 そこを甘くすると、絶望的展開!」


「泣くぞ」


「泣いたら、それも経験。

 でも大丈夫!」


軽いが、責任は感じている。


ルドヴィコは椅子にもたれ、話題を変える。

「船の件ですが」


「何だ」


「メリサンド を同乗させます」


テオドールは特に反応を変えない。

「ああ」


「異論は?」


「ない」


「ですよね」


にやりと笑う。

「彼女がいれば、余計な揉め事は起きにくい。

 起きても、すぐ終わる」


「静かな剣だ」


「ええ。

 海はときどき絶望的展開を用意してきますからね」

肩をすくめる。


「でも大丈夫!」

即座に続ける。


「あなた方が無事に戻るのは、私の利益です。

 そこは全力で守ります」

窓の外、潟は暗くなる。


「ラインは任せてください」

ルドヴィコが言う。

「削らない。

 信を落とさない。

 川を濁さない」


「削るな」


「削りませんよ」

即答。


「目先の小銭で絶望的展開なんて、ごめんです」

立ち上がり、外を見る。

「あなたはローマで秤を見る。

 私は港で秤を守る」


振り返る。

「役割分担。

 大丈夫!」


テオドールも立つ。

「ベアトリクスを頼む」


「お任せください。

 泣いても帳簿は閉じません」

にやり。


「お帰りを待ってますよ、未来のタタールの王子殿下!」

笑う。


夜の潟に舟影が揺れる。


ローマへの航路はまだ遠い。

だが、もう決まっている。


川は流れ、

港は支え、

海には静かな剣が同乗する。


ローマへの日取りは、

確実に動き始めていた。

テオドールがローマへ行くと決めたのは、

新しいものを見るためであり、

今あるものが回るかどうかを確かめるためでもある。


エルサは「箱」を届ける役目がある。


残る者が残る場所を支え、

離れる者が離れた先で測る。


それがうまくいくかどうかは、

出発の瞬間にはまだ分からない。


けれど――

回る仕組みを信じられるなら、

少しだけ、遠くへ行ける。

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